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大震災から半年後に思ったこと

東日本大震災からちょうど半年経った9月11日の夜、私は息子たちと、月を眺めておりました。
まだ残暑が続いていたときで、夕涼みをしていました。
その夜は、月がとてもきれいでした。
この同じ月が今、震災から半年後の被災地を照らしているのかと思うと、月の美しさと地上の苦難とが対照的に感じられ、胸が詰まりました。

私たち山形県民は、私たちなりに出来ることからしてきたつもりですが、私自身は、自分の小ささ、力のなさも感じています。
震災直後はともかく、その後の私は、建物を修理したり新築したりできる人(つまり、それだけのお金のある人)の味方でしかなかったのかと、心苦しく思うこともあります。

先日、朝日新聞を見ていたら、「桃買うを迷いてポップ確認す「福島」とあり迷わずに買う」(中野由美子氏作)という歌が載っていて、嬉しくなりました。原発の被害も含め、震災の被害に遭った人たちのために少しでも役立ちたいと思う人がいます。他にもいろいろ聞こえてきますから、そういう気持ちの人たちはたくさんいるのだろうと思います。

もちろん、人間の社会ですから、中にはいろいろな人がいて、震災をビジネスチャンスと割り切って、利益本位で動いている業者もいますし、もっとひどい、被害につけ込む悪質な商法もあるようです。また、配慮を欠いた風評が聞こえてくることもあり、いやな思いをすることもあります。一部にそういったこともみられますが、それでも私は多くの善意を信じたいと思います。

個々の善意がうまく結びついて、有効な力となって、震災復興に向かっていけるよう願っています。そのためには、司令塔のようなものが必要なのでしょうが、それは個人や民間の善意の力の及ぶところではないので、国や地方行政の取り組みが求められるところです。

震災の被害、特に、津波と原発事故の被害はあまりにも大きく、失われたものが大きすぎて、復興は長い道のりになりそうです。
しかしながら、多くの善意のまなざしが被災地に注がれています。善意がすぐに復興に結びつくものではないにせよ、多くの人が見守っています。

個々人にできることには限界があっても、多くの力が集まって未来に向かって行けるよう、祈るような気持ちです。
(伊藤一滴)

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