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「潜在的核開発能力」についての補足

東日本大震災から半年以上過ぎました。今、私がこの震災について思っていることを、次回まとめて書きたいと思います。

今年も稲刈りをしました。山形県内の米はすべて放射能不検出ですが、自分の所が不検出だからといって喜んでもいられません。
農家は、農地あっての農家です。漁師だって、漁場や漁港あっての漁師です。知り尽くした場所があり、働く仲間がいて、共同体があって、仕事が成り立っているのです。被災したから、放射能で汚染されたからといって、簡単に違う場所に移るわけにはいかないのです。そう思うと、自分が恵まれているのが申し訳ないような気持ちになります。

前回の「潜在的核開発能力」について補足します。
まず、2011年9月19日の「朝日新聞」から引用します。
「読売新聞は9月7日付の社説で、日本が核兵器の材料になるプルトニウムの利用を認められている状況を指摘し、「こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」とした(下に引用者の注)。
自民党の石破茂政調会長(元防衛相)も雑誌「サピオ」10月5日号で、原発を維持することは「核の潜在的抑止力」になっており、原発をなくすことは「その潜在的抑止力をも放棄することになる」と語った。
主に水面下で語られてきた“潜在的な核武装の可能性”を明示したものと受け取られており、原発推進派内でも意見が割れそうだ。」

京都大学助教の小出裕章氏は、こうした新聞報道がなされる以前から次のようにおっしゃっていました。
「原子力の平和利用だと標榜しながらも核兵器を開発する能力という技術的能力を保有し続けたいという思惑が私は国にはずっとあったと思います」

使用済み核燃料のプルトニウムを発電に再利用するという名目で保持することで、日本には潜在的核開発能力(=潜在的な核武装の可能性、潜在的抑止力)があると思ってもらいたい、というのが歴代政権の本音だったのではないか、と思えてならないのです。

原子力発電というのは、一般にイメージされているほど合理的なものではありません。人間の制御能力の限界を越えているのではないかと思えるほど危険なものを各メーカーの継ぎはぎの技術で運転しています。非常に大きなリスクを見えにくくするさまざまな仕組みもあります。トラブル隠しや、データの改竄、隠蔽の常習化は、そうでもしなければ続けられないものだから、と思えてきます。仮に何もトラブルがなくても必ず放射性廃棄物が発生するし、放射性廃棄物を無害化する方法もありません。原子力発電所の建設から廃炉後の先までトータルで考えれば、安くもないし、地球温暖化防止に有効とも思えません。本気で地球温暖化防止をはかるなら省エネに徹するべきでしょう。さまざまな不利な条件があるにもかかわらず、あえて原子力発電を続けるのは、潜在的核開発能力が第一の目的ではないのか、と、私は疑うのです。

読売新聞社説は、日本のプルトニウム利用が「潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ」と言い切っていますが、「事実」と公言するなら、どのような理由をつけようが、日本にプルトニウムが存在すること自体、非核三原則の理念に反するし、憲法が禁ずる「武力」や「戦力」に当たる可能性さえあります。
この問題が大きな議論にならないのが不思議です。

引用者注:2011年9月7日の「読売新聞」社説にこうあります。
「日本は原子力の平和利用を通じて核拡散防止条約(NPT)体制の強化に努め、核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。」
これだけ読んでもわかりにくいので、少し省略したり補足したりして、読みやすくするとこうなります。

日本は(略)、(原子力発電に使うという理由で)核兵器の材料になり得るプルトニウムの利用が認められている。こうした現状が、外交的には、(いざというときには核兵器の開発能力があると見なされ)潜在的な核抑止力として機能していることも事実だ。
(伊藤一滴)

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