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核兵器の原料保持のための原発?

もともと私は原子力発電に批判的でしたが、心のどこかに、原子力は必要悪みたいなもので、電力の安定供給のための過渡的なエネルギーとしてはやむを得ないのかも知れない、という思いもありました。

しかし、福島第一原発の事故と、その後、次々に明らかになってきた広範囲の放射能汚染や、産・学・官の癒着・隠蔽・やらせ体質の報道に接し、また、高木仁三郎氏の遺言とも言える『原子力神話からの解放』や『原発事故はなぜくりかえすのか』などをじっくり読み直し、考えを改めました。
過渡的にはやむを得ないなどと言っている場合ではなく、原子力発電は全廃すべきです。

「原発を止めたら暮らしが成り立たなくなる」と言う人がいましたが、原発の大半が止まっても、みんな、暮らしています。そもそも、原子力発電など始める前からみんな暮らしていたのです。

世界中の全ての人が今の日本人と同じような暮らしをすると、地球は2.5~3個必要になるそうです。1個の地球から得られる資源やエネルギーや食糧では、世界中が日本のようになった場合の生活をまかなえないのです。今の日本で、ちょっとまわりを見渡しただけでも、無駄が多すぎます。無駄を作り出すことがシステム化されていて、個人の努力など焼け石に水のようです。
どう理屈をつけようが、今の日本の生活には無理があります。経済問題はひとまず置いて生活のあり方だけ考えても、長期的には持続不可能な暮らしをしています。
このような生活のあり方を、持続する暮らしに変えていくことが求められているのです。

原子力への依存は国家と国民生活の破綻を加速させ、破綻後も、放射能の悪影響が後々まで続くことになるのでしょう。
今の私たちの、無駄を作り出すことがシステム化された産業、快適で便利とされる暮らしのツケは、子や孫やその先の子孫への負の遺産となるのでしょう。

原子力発電には多くの弊害があり、弊害を上回る「利点」は、私が思うに、1つしか見当たりません。しかもその唯一の「利点」は、好ましいことではありません。

「原子力発電のメリット」とされてきたことの多くは虚構です(高木仁三郎著『原子力神話からの解放』、他参照)。
中1の長男が小学校6年のときに「原子力発電のメリット」として地球温暖化防止等の効果があると習っていましたが、このような話は国策に沿った虚構の神話に近いです。公立小学校までグルになって国策遂行ですか。戦争中じゃあるまいし。
「原子力発電のメリット」を教えるよう指示を出した担当者(文部科学省?)は、大事故の発生後、何の責任もとらないのでしょうか?
今の状況で、今後とも、学校で「原子力発電のメリット」を教え続けるのでしょうか? 

もしかすると、これまで原子力発電を推進してきた政治家や官僚の中に、国際条約に反しない形でウランやプルトニウムを持ちたがっていた人が相当数いたのではないか、日本はいつでも核武装に踏み切ることができるのだ、と、海外に示すことで安全保障になると思っていたのではないか、という思いが頭をよぎりました。
しかし、いくら何でも深読みし過ぎかと思いましたし、証拠もないので口にせずにきました。

ところが、どうも最近の報道を読んでいると、私のこうした思いも頭から否定できなくなってきたのです。
報道によると、発電に再利用するという名目で使用済み核燃料のプルトニウムを保持することを「潜在的核開発能力」と言うのだそうです。

日本には、すでに46トンのプルトニウムがあり(2009年末)、これは何千発もの核兵器の製造が可能な量だそうです。
原子力発電に、その弊害を上回る「利点」があるとすれば、「潜在的核開発能力」で他国を威嚇することくらいしか思い当たらなくなりました。
もし、原発の本当の目的が「潜在的核開発能力」保持だとしたら、今の状況は、国防のための火薬庫が爆発して自国民が被害にあっているようなものです。原発事故は放射能汚染を伴い、通常の火薬や爆薬の事故より始末が悪いです。そこまでして、「潜在的核開発能力」を保持しないといけないのでしょうか?

一部の企業・一部の住民は、原発利権の甘い汁を吸えるのでしょうが、大多数の国民には益より害のほうが大きいです。それにこの利権の甘い汁をひとたび吸えば麻薬のように抜け出せなくなって、関連企業や自治体や住民を麻薬漬けのような原発漬けにしてしまいます。長期的に考えれば、この利権は、誰にとっても益になりません。

「原子力発電は核の平和利用であり多くのメリットがある」と言いたい方は、『原子力神話からの解放』の指摘に一つ一つきちんと答えてから言ってほしいです。自国民に大きな被害を与え、国土を汚し、なお今後も原子力発電を続けることに、「潜在的核開発能力」以外のどのようなメリットがあると言うのでしょうか。
(伊藤一滴)

コメント

精力的な発信をありがとうございます。
楽しみに読ませていただいてますが、この頃、考えなければならない問題が重すぎて、なんだか思考が止まってしまいます。

被災地の現状は厳しいです。知れば知るほど、自分にできることの小さいことにいら立ちさえ覚えます。そして、なんとなく、被災地が忘れ去られようとしているような危機感があります。これからが、本当にたいへんな道程。現実がつきつけられ、打ちのめされている人たちを、どうやって支えていけばいいのでしょうか。

ぱくさん、かなり頑張っておられるようで、あまりご無理をなさらぬよう、ご自愛の程お祈りいたします。

私は今、震災で建物を失った方からの依頼で、設計・施工の仕事に関わっています。広い意味ではこれも復興への協力でしょうが、私自身は、新築する資金がある人だけへの協力者なのかと、悩みもあります。
生身の人間に出来ることの限界も感じます。
鎌田實氏の本の題名にもありますが、「がんばらない」けど「あきらめない」、そんな気持ちでいたいと思っています。
(一滴)

ふ〜む…

しかし、正味の話、核兵器は必要でしょ?

平和憲法により、永く平和を得てきたなどという説もありますが、実質は、アメリカの核兵器を含む軍事力によって平和を甘受してきたに過ぎません。

あなた…

銃器を持つ強盗に対し、「我が家は平和主義だ!だから出ていけ!」…
そんなんで、大事な主権を守れますか?

強盗は苦笑いし、あなたの家族を犯し、殺してしまうでしょう…

国民の合意のもとで決まったことであれば、それを我が国の方針とするのは分かりますが、「潜在的核開発能力」の保持に、国民の合意があったとは思えないのです。
選挙で選ばれた国会議員が国民に説明した上で決めたことでもありません。
原子力発電の本当の目的が「潜在的核開発能力」の保持で、発電はおまけだとすれば、国民の合意を得ていない「国策」で国民が被害にあって、それでよいのだろうかと思うのです。
現行憲法そのものの是非や核兵器保有それ自体の是非とは違う話です。(一滴)

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