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「コヘレトの言葉」

10日以上、暑い日が続いています。
田んぼ土用干しの最中で、青々と、順調に育っています。
もうしばらくすると出穂です。

山里は朝晩は涼しいのですが、昼間はけっこう暑いです。
外はあんまり暑くて、田んぼや畑の作業が進まず、昔のことを思い出していました。

高校を卒業してから「旧約聖書」を読みました。
私は浪人生で、仙台市内の予備校の寮にいました。
寮は食事付きでテレビなし、受験勉強さえしていれば他の雑務もなく、勉強の合間に「旧約聖書」を最初から最後まで読みました。

旧約の中で特に印象に残っているのが「コヘレトの言葉」(当時の翻訳では「伝道の書」)です。

 空の空、空の空、いっさいは空である。
 日の下で人が労するすべての労苦は、
 その身になんの益があるか。

これは何だろう。一切皆空? 仏典みたいだと思いました。
「空の空」を「そらのそら」と読んだという笑い話がありますが、空はもちろん「くう」と読みます。「虚無」と訳している翻訳もあるので、仏教の空とはちょっと違うのでしょうけれど。

 ・・・・知恵が多ければ悩みが多く、
 知識を増す者は憂いを増す・・・・

といった言葉には、ズキン、ときました。
私などよりずっと知恵が多い人は、私が悩みもしないことで悩んでいるのだろう。知恵がなければ考えもしないから悩みようもない。知識が増せば憂いも増すのだろう。そもそも知識がなければ判断のしようもないから憂いようもない。

私は19歳でした。福祉系の大学を目ざして勉強中でした。
「勉強して知恵や知識が増せば、悩みや憂いも増す」
なるほどな、と思いながら受験勉強をしていました。

当時、「伝道の書」(=「コヘレトの言葉」)を読みながら頭に浮かんだのが、鴨長明の「方丈記」です。どちらにも、この世の栄華の空しさを説くニヒリズムを感じたのです。

最近、両方を読み直してみたのですが、同じようにこの世の富や権力の空しさを説きながら、鴨長明はあらゆるものは無常だと言い、コヘレトはあらゆるものは変わらないと言います。

正反対に思える主張がなぜ同じような考えになるのか。

あらゆるものは無常だと言うのも、あらゆるものは変わらないと言うのも、どっちも正解だと思います。

たとえば、河の流れを見ていたとします。さっき見ていた河もいま見ている河も、何も変わりません。去年も今も変わりません。天気や季節による変化などはあるでしょうが、大局的に見れば何も変わりません。
しかし、厳密なことを言えば、1分前に見た河と今の河は違う河です。1分前の水は下流に行っており、目の前に違う水が流れているのですから。
状況は1秒だって留まってはいません。
だから、見方を変えればどっちも正解なのです。

地上の富や権力の追求はいつの時代もあり、何も変わらないと言えます。でも、同じ人や同じ一族がずっと富者・権力者でもありません。強者が滅ぶこともあれば、無名の者が這い上がってくることもあります。仮に同じ人がずっと強者であったとしても、その人だっていつかは老いて死にます。老いれば弱者になり、死ねばいない人です。常に強者なんて存在しません。一族もそうで、跡継ぎがいなかったり適性がなかったりすれば、滅んだり別な道に進んだりします。
ゆく河の流れや、よどみに浮かぶ泡(うたかた)と似ています。

危険な都の中で地位の高い人も低い人も家の高さを競い合うむなしさはじめ、人の営みは、昔も今も変わりません。変わらないのだから、これが「常」だとも言えます。
矛盾するようですが、「無常はすなわち常である」、ということになります。

「コヘレトの言葉」も含めて私は「無常」と受け取っていたので、そう言ったり書いたりもしましたが、私の言い方が下手でした。
「方丈記」や「平家物語」は一つ一つの現象を「無常」ととらえ、コヘレトは大局的な目で、個々の無常の総体を「常」と見ている、と言うべきでした。

どちらにせよ、この世の富や権力の空しさに変わりはありません。そうしたものを追求することの空しさも変わりません。

コヘレトは言います。

 空の空、空の空、いっさいは空である。
 日の下で人が労するすべての労苦は、
 その身になんの益があるか。

 先になされた事は、また後にもなされる。
 日の下には新しいものはない。
 「見よ、これは新しいものだ」と
 言われるものがあるか、
 それはわれわれの前にあった世々に、
 すでにあったものである。

違う、時代は進歩している、と言う人もいるでしょう。しかし、神話にすがって自分たちの繁栄や安全を信じ込む愚かさは、「神々への信仰」が「科学への信仰」や「金銭崇拝」に取って代わっただけで、昔も今も同じです。自らの社会を滅ぼしてしまうかもしれない選択を自らする愚かさも変わりません。大局的に見れば、昔も今も変わらないと言えるのかも知れません。違うのは、グローバル化が進んだ今、破綻は局地的なものでは済まず、文明を支えてきたシステムが崩壊してゆく影響が世界に及ぶという点です。
(伊藤一滴)

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