『それでも人生にイエスと言う』読了
フランクル著『それでも人生にイエスと言う』を読み終えました。
今日の山形県はかなり蒸し暑いのですが、私の頭はすっきりです。
人生の意味とは?、苦難の意味とは?、と、問うてばかりいたから、私にはわからなかったのです。
苦難も含めた人生が、私たちに問うている、問題を提起しているのだと、ひっくり返して考えればすっきりするのです。
私たちは、その問いに答え、責任を持って行動しなければならない、ということなのです。
次回、まさに良心に従って答え、責任を持って行動した人物として、高木仁三郎氏のことを書こうと思います。
残った課題もあります。
どんなに苦しい目にあっても、自分の人生にはイエスと言えるのかもしれません。しかし、先にも書いたとおり、他者の人生にもイエスと言えるのだろうか、という疑問は、やはり残ります。
人は日々、決断の状況にあるのでしょう。決断に対して責任がある、というのもわかります。ただ、人の状況はさまざまですから、本人の責任とは言えないことで決断できない状態になってしまったときに、それでも人生にイエスと言えるのか、という疑問も残ります。
「自殺は無意味」という話も出てきます。
一般論としては、「何があっても自殺すべきではない」というのが大原則だと私も思います。
ただし、自殺といっても、これもいろいろな状況があるでしょう。理不尽な要求を突きつけてくる人たちへの抗議の自殺とか、自分の側に落ち度がないのに追い詰められたり、精神を病んだりしての自殺もあるでしょう。だから、すべての自殺を同列に論ずることはできませんし、自殺者や遺族を責めることもできません。
人生を学校にたとえるなら、自殺は課程を終えずに中退するようなもの、ともいえますが、中退に至る事情はさまざまでしょう。
自殺というものをどう考えるべきか、これも課題として残ります。
次回も書こうと思いますが、世の中は矛盾に満ちています。私も、矛盾を承知で行動し、生きています。不完全なこの世の現実の中ではやむを得ないのかもしれません。地球環境のことを考えれば原子力はもちろん石油も使わないほうがいいのでしょう。しかし、それでは、現状では生活がなりたちません。良心に従いながら、かつ、どのあたりで折り合いをつけるのか、それも課題です。
(伊藤一滴)
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