『それでも人生にイエスと言う』読書中3
晴耕雨読と言いますが、本当に雨続きで農作業が進まず、週末は家で読書にふけっていました。
『それでも人生にイエスと言う』をゆっくりと読んでいて、3つの講演のうちの第2の講演「病いを超えて」まで、ようやく読み終えました。
妻はもう『夜と霧・新版』を全部読み終えていて、『それでも人生にイエスと言う』を早く読みたがっているのですが、「もうちょっと待ってよー」と言って借りてます。
「死は生きる意味の一部」だという思いは、ますます深まっています。こんなことを言うと誤解される場合もあるかも知れませんが、病苦や病死も含めて、「苦難と死こそが人生を意味のあるものにする」というフランクルの指摘は、たぶん、正しいのでしょう。
私は、アシジの聖者フランシスコを思いました。
フランシスコが「太陽と月」を兄弟姉妹と呼んだのは有名ですが、彼は「病と死」も兄弟姉妹と呼んで受け入れています。
「苦難の意味」について思うことをこれまでこのブログにも何度か書きました。「苦難の意味」は、私がまだ20歳そこそこの福祉学生だった頃からの疑問でした。
「なぜ、耐え難い苦難がこの世にあるのか」
この問いは、解法の糸口さえつかめない課題として、私の前にありました。
今、フランクルの『それでも人生にイエスと言う』を読みながら思ったのです。
「生きる意味は、問うものではなく、人生から問われるもの」とありますが、これは「苦難の意味」にも当てはまるのでないかと。
つまり、「苦難の意味は、問うものではなく、人生から問われるものではないか」と。
苦難の状況で、あなたはどう答えるのか、他者の苦難を目の当たりにして、あなたはどう答え、どのような行動で応えてゆくのか、と。
私たちは、そのように、常に問われているのではないかと思えてきたのです。
やはり、「生きるとは、問われていること、答えること--自分自身の人生に責任をもつこと」なのでしょう。
「人生の道は、「唯一の」目的地に着く「一度きりの」道」であり、最期の最期までチャンスはあるのです。
そのように考えれば、ほぼ、納得がいくのです。
(伊藤一滴)
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