「高木仁三郎が生きていたら」
「高木仁三郎が生きていたら」というコラムが朝日新聞に載りました。
筆者は高重治香記者で、6月22日の文化面です(日付は山形県内で配達された版)。
引用開始
生きていたら何と言ったか--。原発事故の後、故高木仁三郎を思い出した人は多いだろう。
企業や大学での地位を捨て、反原発の立場から、市民のための調査機関や運動を率いた在野の核科学者。2000年、がんのため62歳で亡くなった。
「生きていたら」の答えを求めるかのように、著作が売れている。
(略)現在も通用する解説、「原子力村」にくみせず命を守る側に立った生き様が、読者をひきつけるのだろう。
引用終了
高重氏は、、
『原発事故はなぜくりかえすのか』[岩波新書]
『食卓にあがった放射能』[七つ森書館]
『市民科学者として生きる』[岩波新書]
といった高木仁三郎の著書を挙げています。
震災の日の夜、停電した家の中で、福島第一原発の事故のニュースをラジオで聞きながら、私は、
「やはり原発事故が起きてしまったのか。もし高木仁三郎先生が生きておられたら、何ておっしゃったろう?」
と思いました。
私も、「原発事故の後、故高木仁三郎を思い出した人」の一人です。
高木仁三郎は20世紀の日本の良心だと思います。
没後10年以上経っても、著書はちっとも色あせた感じがしません。今も、指摘が一つ一つ当たっているからでしょう。(前掲書のほか、『原子力神話からの解放』[光文社、のち講談社+α文庫]など)
高木仁三郎は1938年、群馬県前橋市に生まれました。
東京大学理学部化学科出身です。
理学博士(東京大学)で、専門は核化学でした。
日本における原子力事業実用化の黎明期であった1961年から、日本原子力事業(三井系の企業、のちに東芝に吸収)に勤務し、原子炉内で生成される放射性物質の研究に従事しました。
1965年に東京大学原子核研究所助手となり、核化学の研究で成果をあげました。
1969年、若くして東京都立大学助教授に就任しました。
1972年にドイツに渡り、マックスプランク核物理研究所でさらに研究に従事しました。
要するに、原子力研究のエリートでした。
企業で働いても、大学で働いても、どちらを選んでも将来を約束された人でした。
ところが氏は、1973年、止める声を振り切って都立大学を辞し、在野の人になりました。
専門の研究者でしたから、原子力が如何なるものかよくわかっていたのでしょう。氏は、安定した収入や社会的地位より、自らの良心を優先し、原子力利用には多くの限界があり、重大な危険性があることを社会に訴えることで、研究に携わって事実を知り得た科学者としての良心を貫き、責任を果たそうとしたのでしょう。
その後、氏は一貫して、亡くなるまで反原発を訴え続けました。
高重治香記者は、氏の生前の言葉を引用しながら、「高木仁三郎が生きていたら」をこう結んでいます。
引用開始
亡くなる前年、1度だけ話を聞いた。(略)
「今の世の中は矛盾の固まりのようなところで生きるしかなく、きれいに生きるなどまずできない。大切なのは、矛盾の中で生きていると意識すること。だからといって諦めるのではなく、逆バネにするのです」
「生きていたら」の答えは、矛盾を引き受けて私たちが作るしかない。
引用終了
(伊藤一滴)
矛盾を甘んじて受け入れ、そのうえで善に向かうことを諦めない生き方とは、「中途半端であることを自覚しつつ生きること」なのだと思います。
白黒つける、中途半端は大嫌い、という一見すると潔い生き方は、実は比較的たやすいのだということに、気付かされます。
物事をペンディングしておく、という中途半端な選択ができるのは、そのことに耐えうる力をつけた成熟した人間だけなのかもしれません。
不安の強い人ほど、中途半端に耐えられません。明確な答えを求めます。ですが、世の中に中途半端でないことなど、そもそもあるでしょうか。
そして、私たちが物事を先送りしたり、棚上げしたりできるのは「明日もこの続きから始められる」という安心と保証を無意識のうちに感じているからだと思います。
「明日もまた今日と同じ一日が来る」という保証は、本当はどこにもないのに、そのように思える人は、実はそのように育ててもらった人・・・・
過酷な生育環境や、災害などで「明日がどうなるかわからない不安」と向き合う人々には、「矛盾を内包しながら甘んじて生きる」という高度な生き方は、高すぎるハードルなのかもしれません。
世の中が、一つの思想に極端に振れるようなことがないように、エネルギー政策ひとつとっても、祈るような思いでおります。
投稿: ぱく | 2011-07-15 10:46
世の中は矛盾だらけだと思います。
高木仁三郎氏のように、ハラをくくった人ならば、諦めることなく「中途半端であることを自覚しつつ」「矛盾を内包しながら甘んじて生きる」のが可能でも、日常の「当たり前の暮し」に何の疑問も持たずに生きてきた人たちには、確かに、厳しいことなのだろうと思います。
現代の「当たり前の暮し」は、実は、ガラス細工のような脆弱で高度な現代文明のシステムの上に構築されたもので、しかも、社会の矛盾が弱者や海外にしわ寄せになっていたり、環境全体に拡散していたりしていて見えにくく、いつ、文明崩壊の日が来るのかわからないのに、これまであまり意識されずにきました。大多数の人が「明日もまた今日と同じ一日が来る」と何となく思い、それが今後もずっと続いてゆくかのように思っていたのは、日々の「当たり前の暮し」の中で、それなりに恵まれて育った人が、この日本では多数を占めていたからなのでしょう。
私は以前から、産業の発展によるバラ色の未来の到来には疑いを持っていましたが、大震災の被害とその後の混乱を目の当たりにし、はっきり分かりました。住む家があって当たり前、電力や石油があって当たり前、十分な食糧があって当たり前といった「当たり前の暮し」が、実は当たり前でなくて、状況によっては突然遮断されてしまうのが、はっきり見えてきました。しかも、産業の発展が進んでいる地域、高度に産業化された住宅ほど、遮断された影響は大きいです。
明治維新や第二次大戦が日本の大変動の時であったように、そう遠くない未来に、産業文明が崩壊してゆく大変動が来るのではないかと思えます。不安を抱えた世の中が、ファシズムのような極端な方向に流されないよう、私も、願っています。
人は日々、決断の状況にあり、私を含めたごく一般の市井の人にも(子どもは子どもなりに)、矛盾の中での決断が求められるのでしょう。それは時に、かなり厳しい決断となるのでしょうけれど。
ありがとうございました。
(一滴)
投稿: 一滴 | 2011-07-20 15:58