『春と修羅』序の私的理解
明けましておめでとうございます。
子どもたちの「解説」のあとに、パパ(私)の「解説」です。
宮沢賢治著『春と修羅』は難しい作品で、特に「序」は難解です。
下に載せたのは、『春と修羅』序の「私的理解」です。まったく私の勝手な解釈であり、かなり敷衍もあります。もしかすると、だいぶずれているかもしれませんが、宮沢賢治自身が「序」の詳しい解説を残していない以上、読む人によって様々な受取り方があるのはある程度やむを得ない、と言えるかもしれません。(原文は前回引用)
わたくしというものが確かな実体として存在しているのかどうか、実は、疑わしい。
多くの人は、自分自身の存在を疑ってもみないのだろうが、突き詰めて考えてみれば、「自分という実体が存在する」と何をもって断定できるのだろうか。
かつてデカルトは「我思う故に我あり」と言ったが、自分が思うということが、自分の存在の根拠になりうるのだろうか。
わたくしというものは、実体というより、むしろ現象と考えたほうがよいのではないか。それすら、仮定なのだけれど。
そもそも、人間とは何だろう。人生全体を考えれば、春のような穏やかな日々もあれば、苦しい修羅の日々もある。人間とは、「春と修羅」の繰り返しを生きている現象とも言える。この一瞬の中にだって春と修羅がある。今、幸せだという人も、百パーセント幸せなのだろうか。恐れや悩みや苦しみなどか一パーセントもないのだろうか。そんなことはあるまい。逆に、今苦しんでいても、百パーセント苦しみだけで希望はゼロというわけでもないだろう。また、わたくしたちには良心もあるが、心の中の隅々を見渡せば、どうしようもない邪悪な面や欲もある。人間の一瞬を切り取ってみれば、必ずと言っていいくらい春と修羅とがある。
そうした個人レベルのことだけでなくて、わたくしたちが生きるこの地球上には、さまざまな喜びも苦しみもある。自分は幸せだと感じていても、飢えや貧困や病や紛争などに苦しむ人たちも少なからずいる。そうした現実を知りながら、自分は完全に幸福だなんて言えるんだろうか。明日のご飯もない人がいるのを知りながら、自分は満腹に食べている、蓄えもたっぷりある、だから幸せだなんていう話になるんだろうか。
理想を言うなら、世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえないと言える。それは究極の理想であって実現不可能だと言われそうだが、わたくしたちが日々、世界がぜんたい幸福になることを願って生きる中に、個人の幸福も広がってゆくのであり、個人が、まったくの完全な幸福になれるのは、世界がぜんだい幸福になったときであろう。
交流電流は一瞬の中でプラスとマイナスが入れ替わりながら流れるというが、わたくしはまさに、春と修羅が流れる交流電燈のように生きている。わたくしは、自分自身を実体ではなく現象だと思っているが、この地上においてわたくしたち人間は生命体とされ、身体の主成分は有機物と呼ばれるから、わたくしは自分のことを、有機交流電燈と呼ぼうと思う。因果の中の現象だから、因果交流電燈と言ってもいい。実際は、あらゆる透明な幽霊の複合体程度のものかも知れないが。
そのようなわたくしは、ひとつの青い照明となって、風景やみんなといっしょに、せわしくせわしく明減しながら、それでも、いかにもたしかにともりつづけたいと思う。
電燈であるわたくし自身が失われる日が来ても、ひかりがたもたれることを願う。
わたくしというものが確かな実体ではなく現象に過ぎないように、時間や空間も、確かなものではない。かつて、時間や空間はゆらぎのないものと信じられていた。しかし、こんにちの科学が明らかにしたとおり、時間や空間さえ、絶対的なものでないことがわかってきている。
過去と言っても確かなものではなく、ひとつの方角に過ぎないのかも知れない。過去というのは、過ぎてしまって終わったことではなくて、わたくしが感ずる方角だと考えることもできる。その、過去と感ずる方角から、二十二ヶ月の間、紙と鉱物性インクを使って書きつらねてきた心象スケッチを、ここに公開したいと思う。
みんなが春と修羅を生きている。わたくしと同じように明減し、同時に感じている。
今、わたくしがペンを手にしているこの瞬間まで、ここまでたもちつづけられた、かげとひかりのひとくさりづつ、そのとおりの心象スケッチを公開したいと思う。
人や銀河やウニについて論じるなら、対応するものとして、空気や宇宙塵や塩水がある、となるが、そのような対応を考えるのは、それらが確かな実体として存在すると思っているからだ。世に存在するとされているもの(そこに修羅も混じっているのだが)に、実は、確かさなどない。どのような本体論を考えようが、確かな実体などどこにもない。すべては空(くう)である。
わたくしの心象スケッチは、記録されたそのとおりのものであり、それが虚無ならば、虚無それ自体が、ある程度までみんなに共通のものなのだ。
わたくしの中にみんながあるとも言えるし、みんなおのおのの中に世界のすべてがあるとも言える。春と修羅の中に生きる人類が、ある程度まで心象を共有するが故に、わたくしがあり、みんながあると言えるのだ(もっとも、「ある」と言っても、それは確かな実体ではなくて、現象と呼んだほうがよいのだが)。
みんながカムパネルラになれるし、みんながカムパネルラだとも言えるのだ。
めいめい自分が信じる神様を本当の神様だと主張しても、違う神様を信じる人がしたことでも涙がこぼれるのはこのためだ。
時間も空間も絶対的なものではない以上、わたくしたちは新世代洪積世を生きているとも言えるし、白亜紀を生きているとも言える。時代や場所の区分は、終わってしまった過去や遠い彼方ではなく、方角の違いなのかも知れない。
わたくしが今いるこの地点は、史上類を見ないほど、巨大に明るい時間の集積の中だと感じられる。その中で、わたくしのことばは正しくうつされたものだと思われる。でもそれも、人間の感覚として感じ、思うだけであり、実は絶対性などない。
わたくしが今いるこの地点の中の、わずかその一点にも均しい明暗のうちにさえ、ことばの組立や質は変わってしまうかもしれないし、わたくしも印刷者もそれを変わらないとして感ずることは傾向としてはあり得ることである。時間も空間も絶対的なものでない以上、わずか一点にも均しい明暗さえ、あるいは修羅の十億年なのかも知れない。
感じるということも、絶対的なものではない。身体の器官も、風景や人物などを感ずるわたくしたちの認識も、絶対的なものではない。客観的で、絶対のものであるかのように語られていること、例えば、記録や歴史、あるいは地史、それのいろいろな論料といったものも、因果の時空的制約のもとに、われわれが感じているのに過ぎないのである。
存在も、時間も、空間も、認識も、絶対的なものでない以上、今後、第四次元やその延長のさらなる高次元などが明らかにされる日が来るのかも知れない。
だとすれば、おそらくこれから二千年もたったころは、それ相当のちがった地質学が流用され、相当した証拠もまた次々過去から現出し、みんなは二千年ぐらい前には、青ぞらいっぱいの無色な孔雀が居たとおもい、新進の大学士たちは気圈のいちばんの上層、きらびやかな氷窒素のあたりから、すてきな化石を発掘したり、 あるいは白堊紀砂岩の層面に、透明な人類の巨大な足跡を、発見するかもしれない。
すべてこれらの命題は、心象や時間それ自身の性質として、この三次元世界を超えた第四次延長のなかで主張されるのである。
※原文は前回引用した宮沢賢治の文章です。
(伊藤)
最近私も『春と修羅』序を独創的に読み下しました。「カントで読み解く『春と修羅』序の世界」http://blogs.yahoo.co.jp/waisima67/11504383.html
です。この難解さは、これだけは解読した人でなければ理解できない。
投稿: 石川 朗 | 2011-10-13 16:36
以前にもメールしたことがあったろうか。詩文の解釈は各聯の長短に応じた拡張のある解釈文が望ましい。私の解釈は上記のとおりだ。よく読んで欲しい。まず第一に「時間や空間も、確かなものではない。」のではなく時間、空間はアプリオリな感性的直感なのだ。一通りカントを読んでみよう・・・。
投稿: isikawa rou | 2013-07-22 16:14
ミスがあった。拡張→格調
投稿: isikawa rou | 2013-07-22 16:21
コメントありがとうございます。
書いた時点での「私的理解」なもので・・・。
もう少し勉強してみます。
(一滴)
投稿: 伊藤一滴 | 2013-08-08 16:43
六つの心内語による『春と修羅』序の世界を投稿。これ文字どうり『春と修羅』序の解読版。
https://ameblo.jp/kaisizu2019/
https://blog.goo.ne.jp/admin/entri
投稿: 石川 朗 | 2023-10-19 07:19