状況の変化に合わせた対応が必要?
このところ藤巻健史さんを批判するような話ばかりで申し訳ないのですが、私が正面から否定する剥き出しの資本主義、弱肉強食の資本主義、小泉・竹中「改革」路線、アメリカ合州国を頂点としたグローバリズム等々を擁護する主張に思えますので、もう少し書きます。
氏の著書『日本破綻』に、変化への対応が必要であるとして、こんな例がありました。
携帯電話が普及していく時代に固定電話にこだわり、社員に携帯を使わせない会社があったら、その会社は非能率で競争に負けていく、という例です。
これはたとえの一つでしょうが、最近の急激な状況の変化は携帯電話のたとえどころではないですし、たとえにしてもこんな例を挙げるところに藤巻さんの価値観があるようだから、少し、思うことを書きます。
私は建築の分野で働いてきたので、ここ20年くらいの建築の変化を見てきました。
住宅建築に関して言えば、技術の進歩どころか、恐ろしいくらいの技術の低下を感じています。
もちろん、20年前だって粗悪な建築はありましたが、それは一部の不心得な業者のすることでした。今は、ていねいに造らないのが標準みたいになりました。
工賃の安さもあります。
卵が先かニワトリが先かみたいな話ですが、プレカットや新建材の普及で、職人が判断しながら手作業でやる仕事が減りました。判断できる職人が減ったから、判断しなくともいい素材が広まった、とも言えます。そうした中、職人の経験や技術を発揮できる場が減りました。つまり、建築の作業に従事する人は誰でもかまわない時代になったのです。経験のない派遣社員でも学生のアルバイトでも誰でもいいのです。低賃金でいいのです。経験がなくても出来る仕事が多いから、経験豊富な職人も同じように低賃金で使われるのです。
どこに、経験を積んで技術を身につける喜びがあるのでしょう。
仮に努力して技術を身につけても、発揮できる場がほとんどありません。
円高対策をすれば、輸出が伸びて国内の雇用の場は増えるかもしれませんが、人の技術を不要とする状況の改善にはなりません。ベルトコンベアーの前で、輸出用の製品をただ黙々と組み立てる。人がロボットの助手をしながら黙々と組み立てる。次々にモデルチェンジされるので、コツを覚えた頃にはまた次の製品がくる。今度はそれを言われた通りに組み立てる。次々に変化するので経験が役に立たない。
そうやって経済が成長して楽しいですか?
今はいろんな分野で、技術を身につけて発揮する喜びもなければ働く喜びもないような状況です。人は幾重にも管理され、がんじがらめにされて生きています。生きづらい世の中です。これが、進歩発展がもたらした結果でしょうか。
それでも、状況の変化に合わせた対応が必要なのでしょうか?
今はこういう状況だから、合わせていかないといけない。
状況の変化に合わせた対応ができなければ負ける。
携帯電話を否定する企業が負けるように、
新建材を否定する工務店は負ける、
オール電化を否定する工務店も負ける、
近代化を否定する企業は負ける、
状況の変化で「消費は美徳」とされる世の中ならそれに対応し、エコロジーが主張される世の中ならエコであるふりをし、人の生き甲斐や長期的未来には目をつぶり、カメレオンのように身を変えながら生きていかないといけない。
技術を身につけるのが無意味とされる世の中なら、それに合わせないといけない。
人を奴隷のようにする世の中なら、それを認めないといけない。
そうやって、産業をますます発展させ、資本主義を発展させ、経済をどこまでも成長させ続けないといけない。そうしないと、働く場もなくなる。
そういうことですか?
そこまでは言っていないと言われそうですが、藤巻氏の資本主義の理論をつきつめれば、そういうことになりませんか。
あるべき体制は純粋な資本主義で、働く人は企業などの一員になって給料をもらい、そのお金で生活する。生活に必要なものは食料も含めて全てお金で買う、というのが前提の考えです。
私はそういう前提から離れました。(伊藤)
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