やっぱりフジマキに聞きたい
5月15日、田植えをしました。
毎日様子を見ていますが、低温続きでちょっと心配です。今後、気温が上がってくれるといいのですが。
前回の話の続きをもう少し書きます。
資本主義は長期的には持続しないシステムである、そして今、その限界が近づいてきた、というのが私の考えです。
これも、前にも言ったことがありますが、資本主義社会は製品が完成しない社会でもあります。
製品を開発し、完成形をつくり、同じものを作り続けることができないのです。
もし、改良の余地がないくらいいいものを作り、しかもなかなか壊れないものを作ったらどうなるか。
もう売れなくなって会社が続かないのです。
製造業者はそのことに気づいているので、製品の多くを電子化しました。電子化された製品はすぐに古びていきます。技術を小出しにして少しずつ「改良」し、何度も新製品を出すという手もありますが、製品自体ある程度使えば壊れるようにしてあるようです。すぐ壊れたら苦情がくるでしょうから、苦情が来ない程度に壊れるようにわざと作る、それがテクニックになのでしょう。ある程度使えば飽きがくるような製品をわざとデザインするデザイナーもいるのでしょう。
「各種製品は新しいものから先に使えなくなる」のです。当然、そのあとはゴミの山です。私企業が壊れるもの、使えなくなるものを作り、自治体が公金でゴミを処分するのもどうかと思いますが、そういうことに労力をかけて仕事をする、その仕事の意義ってなに?って、問いたくなります。
意義を感じられない仕事の中で、当然、精神を病む人も出てきます。
こういう点から見ても、資本主義社会は長期持続型の社会ではないのです。
藤巻健史さんは最初から勘違いされているようですが、「資本主義の行き詰まり」の指摘にしても「経済の成長など目ざさなくてもよいのではないか」という問いにしても、すでに持っている人の自己満足などではありません。
戦後の日本はひたすら経済の成長を目ざし、たしかに経済は伸びましたが、地域の文化やそれを支えてきた地方の集落がずたずたになりました。経済の発展である面が楽になっても別な面がうんと大変になって、トータルすれば幸せの実感の向上などないのです。特に育児の大変さなど、少子化という現実となって表われています。今の日本の平均的な育児環境は戦前以下でしょう。経済は発展し人は滅ぶ、といったところでしょうか。その経済も怪しくなってきたのです。経済も行き詰まり、人も滅ぶみたいな感じです。
何より、私もそうですが、たいしてお金を持っていない人たちが、なぜ農山村を目ざすのか、なぜ利益より、できるだけ環境に負担をかけずに自然の恵みの中で生きる生き方を求めるのか、藤巻健史さんの見解では説明がつかないじゃないですか。
少数の変わり者の道楽や奇行ではありません。
本能的に(あるいは理論的に)、このままでは危ない、と気づいているのです。
気づいた人が、より人間的な生き方を求め、また今後の時代に生き残ることを求め、農山村に移住してくるのです。それが今や、「農山村ブームの再来」と言われるくらいになっているというのです。
以前、あるアンケートの結果を見たら、サラリーマンの約4分の1が「勤めをやめて農業をやりたいと思ったことがある」と回答しているのに驚きました。本当に勤めをやめて就農するかどうかはともかく、そんなに高い比率で「農業をやりたいと思ったことがある」というのです。
本当に就農し、「収入が5分の1(あるいはそれ以下)になったけれど、今の方がどれだけ幸せかわからない」と言う人たちがいます。
精神論では食べていけないと言われそうですが、就農して収入がうんと低くなっても、自分の生活に満足し幸せを感じる精神はおかしいのでしょうか。
もう1年以上前になりますが、2009年4月24日に「老いた資本主義、人間の悲鳴、そして」という題で私見を述べました。私の考えは今も何も変わりません。下の方にスクロールしていただければまだ読めます。(伊藤)
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