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山里の暮らし

毎年のことですが、私が住む山形県村山地方の山里の1月は、寒いし、かなり雪が降ります。
今年も家の1階が雪に埋まり、出入口のところだけ掘って、そこから出入りしています。1階は地下室みたいです。

なにかと近所の高齢者たちから助けられることが多いので、申し訳なく思っていたら、こんな話を聞きました。
「伊藤さんとこは、小さい子どもがいるんだから、子どもを大事にしてやってな。昔、オレたちが若くて子どもが小さかったとき、亡くなったお年寄りたちがまだ元気で、『あんた方は小さい子どもがいるんだから、子どものことが第一だ』って言ってくれて、いろいろやってもらったんだ」
というのです。ありがたいです。
みなさんありがとうございます。私がお会いしたことのない亡くなった方々も、どうもありがとうございます。

配慮は世代を越えて受け継がれていきます。
雪国の農村は、たしかに、冬の自然環境は厳しいですが、地域で助け合って生きているので住みやすいです。

ふもとの小学校は1クラス十数名。保護者たちもみな、顔の見える関係で、話はすぐに通じます。
冬は、子どもたちはソリ遊びをしたり、大きな雪だるまを作ったりして、大声をあげて外で元気に遊んでいます。
生きにくい時代だと言われる中、日本にはまだこんな場所があります。
私たち家族だって現代の世の中を生きていて、昔の日本にいるわけではないのに、なんだか、なつかしい所にいるような気がしてきます。
「現代の桃源郷みたいね」と妻は言います。

山里の人たちは昔から、お互いに助け合って暮らしてきたのでしょう。別に規則でなくても、助け合うという基本精神が、日常のいろいろな場に現れるのでしょう。
利潤追求で動く資本主義の産業文明と、相容れないものを感じます。

近隣の人たちが助け合いながら、自給的な農業を営み、つつましく生るのは、劣った暮らしなのでしょうか。遅れているのでしょうか。
近所の人たちは豆を育て、味噌を作っています。山菜を干して保存したり、さまざまな漬物を漬けたりもします。妻も、近所のおばあちゃんから漬物を習っています。私は味噌作りを覚えたいです。
そんなことより「買って来たほうが安い」のでしょうか、「手間を考えたら割に合わない」のでしょうか。

なぜ経済や産業を発展させ続けないとないといけないのか、なぜどこまでも競争し、勝ち抜いていかないといけないのか、私にはわかりません。

「あなたは草食系なのよ。時代の最先端なのよ」と妻は言います。
自然の恵みを大切にしながら自然環境との調和の中で生きる、今やそれが最先端。
ひたすら合理化だの開発競争だのを繰り広げ、生産の大規模化を目ざすのは時代遅れの旧文明。持続せず、やがては破綻に向かう道。たぶん。

山里の人だって、かすみを食べて生きるわけにはいかず、産業文明はじわじわ浸透しつつあります。
それでも、アメリカ合州国を頂点にしたグローバリズムとやらに呑まれることなく、人の意識も含めた地域の文化を守ってこそ、未来につながってゆくのではないかと思います。

私はこの山里で育ったわけではなく、よそから来た人間です。
もとからいる人には、山里の暮らしは空気のように当たり前で、あまり良さを意識しないのかもしれませんが、私には良さがよく見えます。

こんな恵まれた中で育った子どもたちが大きくなって都会で暮らすようになったら、都会暮らしは、さぞ大変だろう思います。まあ、そのときは、農村部に移り住んで暮らせばいいだけの話ですが。

今後の世界がどうなるのか、不透明ではありますが、産業文明の行きづまりや、食料や生活物資の不足、そしておそらく、農村の自給的な暮らしの再評価、といったことくらいは予想できます。(伊藤)

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