煉獄(れんごく)について
腰痛が続いています。あまり痛みが長く続くようならまた病院に行こうと思いますが、強い薬はいやだし、受診まで長時間待たされることを思うと、行くのがおっくうです。
工事現場に行くのは無理でもデスクワークならできるかと思ったのですが、書類や資料の持ち運びも楽じゃないし、なにより気持ちが集中できません。無理して田植えをしたのも悪かったみたいです。
仕方がないから、仕事を休み、腰を休めています。
休んでいる間、煉獄(れんごく)について考えていました。
私は、10代後半から20代はじめの多感な時期に、福祉や宗教やマルクス主義に触れました。賛成するかどうかはともかく、それらが自分のどこかに刻印されているようで、今でも時々頭に浮かんでくることがあります。
一般のプロテスタント教会は煉獄を認めません。これは煉獄の教義がカトリック教会の金もうけに悪用された歴史的事情によるものだと思います。
これは私の個人的な考えですが、煉獄をはじめ、死者のための祈りや旧約聖書の続編など、宗教改革で否定されたもの中には、神学的な理由というより、カトリック教会の堕落への抗議と今後の堕落防止を目的としたものがかなりあったのではないかと思われます。こんなことを言うとプロテスタントの人から叱られそうですが、あとから神学的な理屈をつけてつじつまを合わせたのではないか、と思うのです。
免罪符を買っておけば死後に苦しまずに済むというのは信仰の堕落ですが、こうした堕落を正そうとして、煉獄も、死者のための祈りも否定され、旧約聖書続編の「第二マカバイ記」に死者のための祈りが出てくるのでこれも否定されたのではないかと思います。「第二マカバイ記」だけを削除するわけにもいかず、「旧約聖書の聖典はヘブライ語で書かれたものだけ」と、あとから理屈をつけて旧約聖書続編をみな削除したのでしょう。今もカトリックとプロテスタントの旧約聖書の一部が違うのはこのためです。
これも私見ですが、死者のために祈るのは人間の自然な感情であり、この点に関してはカトリックの主張のほうに理があるように思えます。
煉獄は「死後の清めの場」と解されます。天国の一部という位置づけです。
「神の国(=天国)はここにある、あそこにあるというものではなく、実にあなたがたの内にある」という福音の言葉が示すように、この地上と天国とははっきり線引きされたものではなく、連続的なものとして解することができます。それは、浄土信仰における極楽浄土に似ています。
煉獄が天国の一部であるとすれば、この世と煉獄も連続的なものである、と言うこともできます。
私自身、若い時にはずいぶんむちゃをやりました。そのために、人を悲しませたり苦しませたり、さんざん迷惑をかけたりもして、若気の至りとはいえ、思い出すと本当に申し訳ない気持ちになります。
自分がやったことを申し訳なく思い、苦しくなる、そこに煉獄の予感のようなものを感じます。
煉獄は、刑罰や拷問の場ではありません。閻魔大王の法廷でもありません。清めの場です。人は清められ、天国の住人としてふさわしい全き者となる、そのような、天国の一部です。全き者となるのは、仏教で言う仏になるのと似ています。
煉獄は希望の場です。煉獄は存在するのか、しないのかに関しても、カトリックの主張のほうが人間の自然な感情に近いのではないか、理屈が通っているのではないか、と思えてきます。
余談ですが、煉獄は天国の一部、希望の場なのに、かなり誤解されています。識者とされる人の中にも、刑務所や閻魔大王の裁きと混同している人がいます。(伊藤)
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