破綻を超えて
もう10年以上前、作家の野坂昭如さんが日本人は餓死に向かっていると指摘しておられるのを読んだことがあります。その頃はまだ、バブル景気の残照が鮮やかで、いったいどれほどの人が氏の言葉に耳を傾けたことでしょう。世の中、食料も物もあり余るほど豊富で、あちこちで無駄使いされていました。まあ、今もその延長線上ですが。
20世紀も終ろうとしていた頃、バブル崩壊直後よりも景気が悪化する中、私は、世の中がこれまでのように進まなくなってきたのを感じていました。最悪の場合、野坂さんがおっしゃるように、日本は食料難に向かっていくのではないか思えてきて、危機感が出てきました。その理由をお話しします。
学生の頃から、伝統的な日本の民家に関心がありました。文化的な価値だけでなく、落ち着ける、やすらげる空間ですから、できるだけ、伝統民家を使える状態で残したいと思っていました。それで、そうした集まりに出たり、民家の見学会に行ったりしていました。
そしたら、見えてきたのは、高度成長期以降の急激な産業化と地域社会の崩壊です。
単に、民家を建物として残せばよいといった話ではなかったのです。民家を守ってきた地域社会が崩れてきていたし、産業化と共に、職人が危機的状態になっていたのです。。
大工さん、左官屋さん、建具屋さん、畳屋さん等々、高齢化して、後継者も少ない。共同のカヤ場などもうなくて、カヤぶきのカヤが手に入らない。大工さんたち以上に、カヤぶき職人など激減で、遠くから呼んでこないといけない。職人不足だけでなく、職人が使う道具も、道具を作る鍛冶職などがいなくなり、いいものが手に入りにくい。
気がつけば、四方八方すべて、近代産業に取って代わられていたのです。
物は多いけれど、量産品に押され、魅力を感じる物が遠くなる一方でした。別に高級品でなくとも、一般の人が住むふつうの住宅や、ふだん使う道具を地元の職人が作ってくれていたのに、数十年の間にすっかり変わってしまっていたのでした。
それと平行し、農村の崩壊です。農家の後継者たちは産業に従事するため街に流れ、農村は年寄りばかりになっていました。今後は、減反政策などしなくとも、やる人がいなくなり、ひとりでに減反が加速することでしょう。それでいて、海外から大量の食料を買っているのです。
以前は、一般家庭もまた、生産の場でした。家庭菜園から野菜やイモや豆を得たり、味噌を手作りしたり、服を縫ったり、みんな当たり前にやっていたのです。伝統民家は、そうした小規模の自給的生産作業にも適した住居でした。それが急速に、すべては買ってくるものに変わってしまっていたのです。だから、伝統民家はもういりません。
すべて買ってくるのだから、お金が一番偉いのです。物を大切にしたり工夫して使ったりするより、お金が偉いのです。お金を稼げる人が偉いのです。お金を稼げる職場に人材を送り出す学校が偉いのです。
産業に従事してお金を稼ぎ、そのお金で食料や物品を買う生活が標準になりました。もしこのシステムがぐらついたら、たちまち食料にも物にも困ることになります。
「これが豊かさなのか、これが幸せなのか」と、私は思ったのです。
西暦2000に仙台市で開かれた「民家フォーラム2000」(日本民家再生リサイクル協会主催)とそのあとのツアーに参加して、会員たちといろいろ話をし、単に民家を建物として残せばよいわけではないことがはっきりわかりました。それまでも薄々感じてはいましたが、あのときはっきりわかりました。自宅に帰る途中、運転中に、「民家の問題だけではない。日本はこのまま続かない。おそらく今後数10年の間に社会の崩壊も進むだろうし食料危機が来るだろう」と、自覚したのでした。それまでの漠然とした不安感が、具体的な危機感になったのでした。
大量生産システムが出来上がると、供給過剰になってゆきます。
1965年頃前後が、その後の供給過剰へ向かう境目だったのかもしれません。
1970年代末頃から90年代にかけて、先進国では生活に必要なものはほぼ普及しました。
消費は行き詰るべくして、必然的に行き詰ったのです。
評論家たちは、今後も資本主義が順調に続くと本気で思っているのでしょうか。なぜ現実を直視しないで内需拡大の必要性を主張するのでしょう。これ以上何を作り、誰に、どう売るつもりですか?
今後の順調な内需拡大の可能性はきわめて低いと思われますが、仮にできたとしても、生産に必要な資源やエネルギー、また廃棄物の処理を、長期的未来に向かってどう持続させるつもりですか?
行き詰ってゆく中で、企業は必死になって売り込もうとするでしょう。今後予想されるのは、低価格競争です。売れないから、低価格路線です。そのためには、さらなる「合理」化、さらなるリストラで、コスト削減です。失業者や低所得者が増え、そうした人たちにも売ろうとして、ますますの低価格競争となり、業者同士のつぶし合いが進むことでしょう。内需の拡大による景気回復どころか、恐るべきデフレの泥沼状態です。
それが、何かのきっかけで、インフレに転じる日が来るのでしょう。
何かが引き金になり、オイルショックのときのデマやパニックがもっと極端になったような混乱状態になって、国債や株が大暴落。あとはもう、返済できないほどの借金をかかえたわが国は、将棋倒しのように種々のシステムがダウンして、超インフレです。
最悪のシナリオとしては、貿易や流通のシステムもダウンして、もう、海外から食料を買うことも出来なければ、国内の食料の在庫を供給することも出来なくなり、店に行っても食料品は何もなく、餓死者が多発する状況です。それが冬なら、凍死や、寒さに耐えられず高気密住宅内で火を焚いての酸欠死、火災による死も相次ぐのでしょう。
今の日本を支えるシステムはあまりにも脆弱です。オセロゲームがひっくり返るみたいに、たちまち今日の飽食・物余りが反転して、飢餓と物不足になるかもしれない日本です。田舎に住む我々にできることは、食料や日用品の自給と、電気・ガス・石油が使えなくなっても煮炊きし、暖をとれる状態をつくっておくことだろうと思います。都会から地方に避難する人も相次ぐでしょう。そのときは、避難してきた人を人道的に受け入れるのは、人として当然のことです。
「どうやって破綻をふせぐか」ではなくて「どうやって破綻を超えるか」を考えないといけないときに来たのではないかと思います。日本のみならず、世界の資本主義の破綻さえ、もはや、空想話ではありません。
伊藤一家の山里暮らしは、上記したような事態もふまえた上での暮らしなのです。
でも、そんなに深刻に考えなくても、山里の暮らしは楽しいです。
世の経済状態にかかわらず春は来ます。雪の間から、ふきのとうや福寿草も顔を出しています。アサツキの芽も出ています。梅のつぼみもふくらんできました。近所の農家も動き出しています。私も近所の人たちと同じようにタネモミを塩選し浸種し、田植えの用意です。今年も同じように春が来ます。
毎年同じことを繰り返し、つつましく生きていけばそれでよいと思います。ひたすら進歩や発展を追及し続けるのは、もう、限界に思えます。
私の予想など当たらない方がいいのは当然です。こんなことを書いている私自身、はずれて欲しいと願っています。
私の場合、上記に近いことが現実に起きたら山里で生き残りをはかるし、たとえ予想など大はずれでも、広々とした山里の自然の中でのびのび暮らす生き方を選んだことに、何の悔いもありません。(伊藤)
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