春を待つ(待つことの良さ)
今年は暖冬で雪の少ない冬でした。
春めいてくるのも早く、2月中に3月のような感じでしたから、1ヵ月くらい早い感じがします。
この春小学校に入る次男の入学準備をしています。田舎の学校はうるさいことを言いません。教材、図書袋、体操着袋、ズック袋など、「おさがりでもいいですよ。寸法など、多少違ってもいいです」といった感じです。保育園もそうでしたが、田舎の施設や学校はおおらかです。
長男が入学した2005年春、ふもとの小学校には100人以上の児童がいました。それが翌2006年には90人台になり、今年の4月からは80人台だそうです。こんな調子で減っていくと、しまいにどうなるのかちょっと心配です。今は1学年10数名ですが、これではサッカーもソフトボールもできません。
田舎は、自然環境もよく、近隣との人間的なつきあいもあります。数値化すれば、一般的に収入が低いとか、積雪量が多いとか、良くないように思えるのですが、数値化できない良さがたくさんあります。その数値化できない良さに気づく人がもっと増えてくれたらいいのに、と思います。
これも例の内山節氏の著書からの受け売りですが、田舎の住み心地のよさの一つは、「待つ」ということかな、と思います。
今は、春を待ってます。雪がとければ山菜も出るし、畑作業にもかかれます。
この「待つ」は、楽しみに待つとか、期待して待つとか、相手のことを思って待つといったことで、都会の銀行のATM機に長蛇の列をつくって待つのとはわけが違います。
自然も相手です。相手にその時が来るのを待つのです。期待して、準備して、その時を待つのです。ふだんそういう暮らしをしていると、人間に対しても、相手のことを思い、相手を待つという態度になっていくようです。これも田舎の住みやすさのひとつだと思います。
山里の人たちの譲り合う心には気づいていましたが、自然な感じで相手を思い、相手を待つという姿勢も感じます。内山氏のご指摘の通りです。
私たちはつい、待つことを無駄と見なし、待たないことが合理的であるかのように思ってしまいがちですが、そうした追求の結果、特に都市部は、人と人とがぎくしゃくしてきました。
自然に対しても人に対しても、待つときは待つ。期待して待ち、そこに至る過程も大切にする。これはファーストフード的な発想の対極です。
こうした良さに気づく人がもっと増えてくれたらいいのに、と、やっぱり私は思います。(伊藤)
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