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わくわくしないもの、するもの

産業文明を批判する私ですが、実はカメラが好きです。最近、急速にデジタルに移行する中、老舗のコニカ・ミノルタまでがフィルムやカメラから撤退し、店頭の在庫も消えていくのはちょっと寂しいです。
フィルムを使うカメラ、特に電子制御化される以前のカメラは長く使えました。私は1970年代~80年代の機械式一眼レフを使っていますが(オリンパスOM-1とニコンFM2)、もっと古いカメラを大事に使っている人もいます。カメラは長持ちする道具で、このカメラを持ってあの場所に行き、これで撮影したという思い出もあるし、愛着もあります。
一方、デジタルカメラは、パソコンや携帯電話と同じでどんどん変化する消耗品です。買って数年で古びていくのは目に見えています。メーカーにとって売れ続けるので都合よく、ユーザーにとっても電子画像で扱えて便利なのでしょうが、カメラまで電子制御の消耗品になるのは残念です。

もう、新技術にわくわくしない時代になりました。内山節氏もDVDレコーダーや薄型テレビを例にあげ、「大多数の人がこの新しい電気製品に心躍るものを感じていない」ことを指摘し、「私たちは発展という言葉に疲れを感じるようにもなった」とおっしゃるのに同感です。(『戦争という仕事』285頁~)

「わくわく体験」だの「感動の~」だの、業者のチラシに書いてあるだけで、ほとんどの人はさめており、新製品に「心躍るものを感じていない」のです。
私はどんな新製品を見ても、わくわく感がおきません。「まためんどうが増えるなあ」、「どうせまたすぐ次の新型が出て変わるんだろう」、といったところが正直な気持です。
素材も、金属からプラスチックを多用する方向に変わりました。金属的なんていうと冷たい感じがしますが、金属も使い込めば手になじみ、味が出てきます。プラスチックにはそういう味わいがありません。でも、それだけではないようです。

ある日、カメラ屋のショーウィンドウで、中古のニコンF2を見かけました。1970年代に活躍したカメラで、当時の日本光学の最高機種です。本体は黒色で、ペンタの尖ったアイレベル。手ずれし、撮影時に手の触れる部分の黒塗装が剥げ、真鍮(しんちゅう)の地金が見えていました。ニコンF2は一切電化されていない魅力的なカメラですが、それはずいぶん使い込んでいる感じで、真新しく見えるデッドストックより一層魅力的に見えました。本体だけで6万円もするので買いませんけれど(もしかすると、安い?)、あんなので撮影してみたいなあ、と想像するだけでわくわくし、店の前を通るたび見てしまいます。

そういう感動というか、心躍るようなわくわく感が、今の新製品には感じられません。
内山氏がいくつか理由をあげておられますが、私も付け加えると、一つは素材の違い、そしてもっと大きい理由は、機械を制御するのが人間であった時代の製品と、電子制御に人間の側が合わせるようになった今の製品との違いではないかと思います。

かつて人間が機械を使いこなすには技術が要求されたし、技術を持つことに誇りもありました。技術の習得や技術の伝承は文化の延長でした。手ずれして剥げた機械式カメラに魅力を感じるのは、技術を持つ人が使いこなした証しを感じるからでしょう。
機械そのものもまた、長く使うことを前提に作られていたし、修理してくれる熟練の職人がいました。これもまた、技術が要求され、受け継がれる文化でした。

今、身のまわりの機械の多くは電子制御化され、消耗品となり、かつてのような技術も要求されません。技術がいらなくなれば文化も切れてゆきます。受け継がれないし、受け継ぐ必要もありません。みながみなではないにしても、技術不要がはびこってきた時代を私たちは生きています。
メンテナンスや修理の依頼でお店に行き、お店の人からいろいろ教えてもらうことも少なくなりました。今の時代、前面に出て来たのは一方的消費です。
それがたとえ工業的な機械であっても、人がものを大事にし、直しながら長く使っていた時代はまだましだったのではないかと思えてきます。

カメラ関係で具体的に名前を出しますが、こういう時代でもフィルムを作り続ける富士フイルム、レンズの互換性を守り続けるニコン、古いカメラの修理も取りついでくれるカメラのキタムラなど、大手にもそういう会社が、あるにはあるんです。(伊藤)

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