人を幸せにしない産業文明
産業文明は人を幸せにしないという話を、ことあるごとにしていますが、その理由をご説明します。
産業文明の限界の一つは、いつまでたっても、商品が一時的にしか完成せず、最終的に完成した形態にならないことです。
ある製品を実用化したなら、多少の改良はあっても、最終的な完成形にして、あとは基本的に同じ製品をつくり続ければよさそうなものですが、そうなりません。
自動車、カメラ、腕時計、その他いろいろありますが、もう改良の余地がないくらい完成された製品が販売されたのに、その後、新製品が出てきて、頂点だったはずの製品が生産中止になるという例をいくつも見ました。しかも、どう考えても新製品のほうが使いにくい、一見オート化されて使いやすいようですがそうでもなく、余計な機能がついた多機能で、複雑で、ややこしくて、かえってわかりにくいという例は少なくありません。
なぜそんなことが起きるのかというと、会社は次々に新製品を売り続けないといけないからです。そうしないと会社が続かないのです。これで最終的な完成だといって同じ製品ばかり出していたのでは売り上げが鈍ってくるので、新製品を出さないわけにはいかなくなるのです。
改良と呼べるのか疑わしいモデルチェンジが行なわれ、新型として売り出されます。しばらくすると、次の改良型(?)が出てきます。そうやって、いつまでたっても最終的完成形に到達しないまま、ゴミの山が増えてゆきます。
この、新製品を売り続けないと続かないシステムには、もっと大きな問題があります。
いくら目新しさを演出して、無駄に使わせたり、使えるものを捨てさせたりして、うまく売り続けてみたところで、いずれ国内需要は飽和に達します。それでも売り続けないと続かないのですから、どこで売るのかというと、海外です。
海外の資源や安い労働力をうまく利用しながら、海外を市場にします。経済的な一種の植民地主義ですが、かつて左翼の識者たちはこれを「帝国主義」と呼びました。ローマ帝国のような古代の帝国にたとえたのです。
私は左翼ではないし、日本の文化・伝統を深く愛する者ですが、こうした、帝国主義、植民地主義みたいなやり方をどこまでも続けていけば、いつの日か地球人類全体が行き詰ることでしょう。
だからといって、マルクスの主張のように、生産手段を共有化すればどうなるのでしょうか。共有化といっても実際は国家が管理することになり、生産手段を持つ者が力を持ちますから、党中央に権力が集中し、スターリン国家が出現します。国家が人民を管理し抑圧し搾取する「社会主義国家」の誕生となるわけです。
(念のため言いますが、私は現代を生きているからこういうことが言えるわけで、かつて、みんなの幸せを願って活動した人たちを責めるつもりはありません。)
では、先進資本主義国の「豊かさ」の側にいる人間はどうなのでしょう。こっちの側の人間は、産業の発達で労働が軽減され、幸せになったのでしょうか。
どうも、ある種の労働の軽減は、別な労働の過多を招いているようです。ある種の楽チンが別の面倒をもたらすのです。
資本主義国内のことだけ考えても、例えば、機械を買って便利になったが、その機械を買うために、そして維持するためにお金がいるから、働かないといけない。仕事が忙しくなってご飯を作る時間もないから、スーパーで買って来るか外食するかしよう(それも産業)。そうすると食費がかかるから、もっと働かないといけない。さらに時間がない。時間短縮のために、もっと機械を導入しよう。
単純に書いたので笑い話のようですが、これに近いことが起きてくると、もう、産業の奴隷です。
機械化が進んで便利になり、時間が短縮されているはずなのに、逆に前より忙しくなった、余裕がなくなったという経験を持つ方は多いのではないでしょうか。
前にも書きましたが、機械の進歩による高速化・細分化・大量処理などに人間の側が合わせていかないといけなくなってしまったのです。機械の進歩に人間が従うという、本末転倒です。
さらに、便利さの追求が、人と人とを切り離し、相互扶助的な伝統を崩しています。かつては日常生活に不便な面があっても、家族同士、近所同士が助け合っていました。ところが、産業が発達して便利になると、人の手を借りなくともいろいろ出来るようになりますから、人と人とが助け合わなくなります。「日本は厳しい競争社会だ」などと言われ、殺伐とした中で生きる苦労は、かつての不便どころではありません。特に、小さな子どもや高齢者が家にいたりすると大変です。こんなにも他者に不寛容で殺伐とした中に暮らし、産業の力で楽をするくらいなら、不便な中でみんなで苦楽を共にし、お天道様の下で笑っていた頃のほうが良かった、ということになります。
どうも、産業文明の発達は、発展途上国とされる貧国はもちろん、先進資本主義国の人たちも、幸せにしないようです。
逆に言えば、拡大する産業文明に距離を置くほど、幸せに近づける、と言えるでしょう。
この話は、また後日に続きます。(伊藤)
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