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キリスト教信仰において、信じる内容が史実でなくてもよいのか?

キリスト教信仰において、信じる内容が史実でなくてもよいのか?

ブルトマンによれば、信ずべきは十字架につけられて復活した(と信じられた)キリスト、すなわち宣教されたキリストであって、史実のイエスではない、ということになる。
史実のイエスは我々の信仰には無関係だ、とまで言う。

ブルトマンの主張だと、「史的イエス」を信じるのではなく「ケリュグマ(宣教)のキリスト」を信じる、ということになる。

「史的イエス」と「ケリュグマのキリスト」の両者は峻別すべきであるし、もはや史的イエスの復元は不可能だ。それはわかる。
だが、信じる内容が史実でなくてもよいのか?という疑問が、当然生じる。


近代科学が発達する中で、聖書には史実と異なる記述が多数あることがわかってきた。
これを認めず「聖書の記述はみな事実です」と言う立場もあるが、これはかなり苦しい主張である。

聖書の各文書を記した人たちは、史実をそもまま記録しようといった意図はなかった。彼らが述べようとしたのは、神とはどういうお方で、人とはどういう者なのか、神と人とはどういう関係にあるのかだった。

科学が発達した時代に、それでもキリスト教を信じようとすれば、「聖書の記述が史実通りでないことを認めてよい」、「史実がどうだったのかは、信仰には関係ない」ということになるのか。


キリスト教に限らず、原理主義でない宗教一般について言えることだが、信仰の内容が史実と一致するかどうかは重要ではないようだ。
信仰は精神的な要素が大きく、証明できないことを信じる部分もかなりある。事実と確認されたことだけを信じても、それを信仰とは言わない。

信仰は、信じる人を支えるものである。それは、何かに依存するのとは違う。信仰はその人に決断を迫る。信仰的な決断は、希望であり安心であり、時に慰めとなる。たとえ後から判断を誤ったと思っても、自分で決断したことに対して、あの時点のあの状況でこう考えたのだと省みて、改めるべき点を改めてゆくことができる。

聖書の言葉で作ったマニュアル本も世にはあるが、マニュアルを作ってその通りにしようとするのは現代の律法主義である。また、罪や地獄の恐怖をやたら煽る人たちもいるが、恐れに縛られて信じるのはマインドコントロールの一種である。こうした「信仰」モドキが、自称「福音派」に多くみられる。あるべき信仰からの逸脱である。
言うまでもないが、律法主義も恐れによる支配もイエスのメッセージとは異質のものだ。そうした異質の「信仰」の人たちが「私たちは聖書に書いてあることを書いてある通りに信じています。私たちが信じている内容はすべて事実です」などと言い張って他教派を攻撃し、他者を否定することで自分たちを正当化している。自分たちは事実を信じ真理の中にいると思っているから、問題点を指摘されても改めない。「真理」だから、改める余地などないのである。指摘されると、せっかく指摘してくれた人をサタン呼ばわりし、火がついたように怒るだけである。そうやって、改善のチャンスを自分たちで排除する。どこまで行っても救われない。自分たちは救われていると思い込んで、救いのチャンスを拒絶する。
私は若い頃、自称「福音派」は地獄に向かって歩んでいると思った。

本来の信仰は、信仰者に決断を迫るものであり、その人にとっての希望、安心、慰め等となる。また、個人的な面のみならず、社会性を有するものである。決断には、社会的な行動も含まれる。それは、家庭、地域、信者共同体、そして、国家にまで広がってゆく。
私も言われたが、「福音の光に照らして判断する」ことになる。どうも、その際のその決断は、指針となる教義が史実であるかどうかには関係しないようだ。

2千年前の過去のその時点でどうだったのかではない。今の私にとってどうなのか、なのだ。今、この私が、今の人や今の社会に関わるときに、それがどういう意味を持つのか、なのだ。
イエスの十字架を自分の救いと信じるなら、十字架(正確には処刑杭)の形状はどうだったのかとか、奇跡の話はどこまで事実なのかとか、もはや、関係ない。
信じる内容の史実性は問われない。


「福音の光に照らして判断する」なら、当然、政治的、社会的な発言や行動も出てくる。
「クリスチャンは神の国と神の義を第一にすべきであって、この世の政治や社会の問題に口出しすべきではありません」などと言っている自称「福音派」は、頓珍漢な方向を見て「信仰」している。彼らは、困っている人たちのために指一本動かさない。イエスの姿勢とまるで違う。指摘されると「人は信仰によって義とされるのであって、行ないによるのではありません」などと言い、何と、イエスに逆らう自分たちを聖書の言葉で正当化してくる。


信仰は、それを信じる個人や、その個人が属する共同体、社会と関わってくる。まともな信仰ならば、それは個人にも社会にも有益なものとなる。(ひどく歪んだ国なら信仰者は迫害を受けるかもしれないが、やがてはその国を変えてゆく原動力となるわけで、長期的に見るなら、社会にとって有益だと言える。)

社会派と教会派、リベラル派と福音派といった呼び方がある。社会派とリベラル派は完全に重なるわけではないが、どちらかと言うと、社会の問題に積極的に関わろうとする信者はリベラルなことが多いようだ。聖書の言葉を文字通り信じるより、聖書の理念、その精神性に従おうとしている。文字通り信じると称する自称「福音派」の原理主義者は、文字の細部にこだわるわりには根本理念がイエスの方向とずれている。(もちろん、一般の(原理主義でない)福音派の中に社会の問題に積極的に取り組む方々がおられるし、中間的、例外的な人たちもいるから、あれかこれかとはっきりとは分けられない。)
信仰の有益性から考えた場合でも、聖書の記述を史実と信じる必要はない。


だが、ここでまた疑問が出てくる。信仰の内容が史実であるかどうかは重要でないなら、それは「歴史修正主義」とどう違うのか?

ChatGPTに聞いてみた。
ChatGPTの答えをそのまま引用する。



信仰の内容が史実であるかどうかは必ずしも重要でないなら、個人や団体や国家が都合よく歴史を書き換えてしまう「歴史修正主義」とどう違うのか?

ChatGPT
信仰の内容が史実であるかどうかが必ずしも重要でないという観点と、「歴史修正主義」は異なる概念です。以下に、その違いを詳しく説明します。

宗教信仰と歴史修正主義の違い

目的と動機の違い

宗教信仰:宗教信仰の目的は、精神的な支えや倫理的な指針、文化的な一体感を提供することです。宗教的な物語や教義は象徴的な意味を持ち、個人や共同体に対して内面的な充実や道徳的な教訓を与えることが多いです。信仰の内容が史実であるかどうかは、これらの目的を達成するための手段として二次的な問題となります。

歴史修正主義:歴史修正主義は、政治的、社会的、またはイデオロギー的な目的のために歴史の記録を意図的に変更し、特定のナラティブを強調または隠蔽する行為です。この動機はしばしば、権力の維持、特定の集団の正当化、または他者の抑圧にあります。

影響範囲の違い

宗教信仰:宗教的な教義や物語は、主にその宗教を信じる人々の内面的な世界に影響を与えます。信仰は個人やコミュニティの倫理観や精神的な健康に寄与しますが、通常は歴史的な記録や客観的な事実を変更するものではありません。

歴史修正主義:歴史修正主義は、公共の歴史認識や教育に直接影響を与えます。これにより、社会全体の歴史理解が歪められ、特定の集団や出来事に関する誤った認識が広がる可能性があります。

証拠の扱い

宗教信仰:宗教的な物語や教義は、しばしば証拠の有無にかかわらず信じられます。これらは象徴的な真実を伝えることを目的としており、科学的な検証や史実とは異なる基準で評価されます。

歴史修正主義:歴史修正主義は、歴史的な証拠を意図的に歪めたり無視したりすることで成り立ちます。これは、歴史的な事実を再解釈するのではなく、偽造や隠蔽といった手段を用いて特定のナラティブを強制する行為です。

倫理的および社会的な影響

宗教信仰:宗教は、多くの場合、信者にとって肯定的な影響を与えます。信仰が内面的な平和や共同体の結束を促進する場合、それは個人および社会にとって有益です。

歴史修正主義:歴史修正主義は、社会的な分断を引き起こし、過去の不正を隠蔽することで和解や正義の追求を妨げる可能性があります。これは、被害者やその子孫にとって深刻な影響を及ぼし、社会の公平性や透明性を損ないます。

結論
宗教信仰と歴史修正主義は、その目的、影響範囲、証拠の扱い方、および社会的な影響の点で大きく異なります。宗教信仰は象徴的な意味を重視し、精神的および倫理的な目的に奉仕する一方、歴史修正主義は歴史的事実を歪めることで特定のイデオロギーや権力構造を維持しようとする行為です。このため、宗教的な信仰の内容が史実であるかどうかが必ずしも重要でないことと、歴史修正主義がもたらす問題とは、根本的に異なる性質のものです。

引用終了


やはり、「実を見れば木はわかる」ということのようだ。
良い木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。


ChatGPTは、宗教信仰を良いもの、歴史修正主義を悪いものとして答えたが、世には信仰と称する陰謀論のような主張もある。

たとえば、
「米軍機が絶えず空に薬を撒いて、日本の天気を完全にコントロールしている」とか、
「東日本大震災は、アメリカが核兵器を使って起こした人工地震だ。その時に拡散した放射能を隠蔽するために、福島の原発をわざと壊した」とか、
「クリスチャン」たちが大真面目に言っているのを聞いたことがある。

クリスチャンの多数意見ではないだろうが、たとえ一部であれ、宗教信仰に陰謀論が入り込んでいる現実がある。
これをどう考えたらいいのか。(続く)

(伊藤一滴)


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ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

コメント

個人的に気になっていたイスラエルの
政府と軍の意見相違について、
情報がまとめてありました。

ハマスは理念であり殲滅は不可と
IDFハガリ報道官までが言及
https://mtolive.net

イスラエルによるガザ攻撃が続けば続くほど、反イスラエル感情が高まり、ハマスやハマスに似た団体の構成員を増やす結果になるでしょう。攻撃は、被害を受けた側の憎しみを増幅させ、また世界的に反イスラエル感情を高め、ハマス壊滅どころか逆の結果を招くことでしょう。

それと、これは個人的な見解ですが、クリスチャンか非クリスチャンか、そんなに2つにきれいに分けられるのでしょうか? 人間は碁石ではありません。白でなければ黒、黒でなければ白みたいな分け方はできないのではないかと思います。

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