「聖書に書いてあるから」というクリスチャン
ワイン氏の「metanoiaxの日記」から引用します
引用開始
2017-04-23
「聖書に書いてあるから」というクリスチャン
「どうして❓」
・・・と、聞くと、
「聖書に書いてあるから」と、くる。
全然、説得力が無い。
せめて、
「私が勉強した範囲の聖書知識において、それが今の自分は納得がいって、正しいと思うから」
・・・・と、いって貰えないだろうかと思う。
贅沢なお願いだろうか❓
面倒でも、せめてそう言って貰えれば、会話をつなげる事が出来る。
「どういう風に❓どういう理由でその翻訳に納得いってるの❓」と・・・。
聖書といっても、色々な翻訳がある。
メジャーなものから、個人訳迄、沢山ある。
訳によっては正反対の意味になったりする。
貴方が何故、その聖書の翻訳に納得がいったのか、そこから聞かせて貰わなければ納得なんて出来る筈もない。
ましてや、貴方が、貴方の持っている聖書しか読んでいないのであったなら、「聖書に書いてあるから」は、何の意味も持たない。
「こちらの聖書には、こう書いてあるけれど・・」
という会話さえ出来ない。
定本と呼ばれる原典も、写本学者の研究により更新が続き、改定されるなら、「今」わかっている研究においての翻訳において・・・という条件付きの納得しか出来ないのは、誰が考えたってわかる。
今、現在の翻訳に納得していても、10年後、100年後には、写本学者の研究によって、全く正反対の、又は違う意味の訳になっているかも知れないのである。
ユニコーンが良い例である。(引用者注:聖書の中でかつて「一角獣」と訳され箇所が現在は「野牛」と訳されている。)
切り捨て御免の如く、「聖書に書いてあるから」
と、言われたって、私には、「私、考えるの面倒だから、そういう事でいいでしょう」
・・・・・と、言っているようにしか聞こえない。
だって、話の接穂がないんですもの・・・
「聖書に書いてあるから」という言葉は、聖書に対して、とても不誠実な向き合い方だと私は思う。
「聖書」は、水戸黄門の印籠じゃない。
引用終了
出典:http://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/04/23/021812
この「metanoiaxの日記」のように、気づいておられる方は、ちゃんと気づいておられます。そういう人は、「聖書に書いてあるから~です」とか「聖書的には~です」なんて、簡単には言いません。ある聖書の訳の一部から安易に断定したりできないことを知っているからです。
「聖書に書いてあるから~」なんて言ったら、それこそ「聖書にはユニコーンが出てきますから、昔は本当にいたのです。今いないのは、ノアの箱舟の洪水のときに全滅したからでしょう」みたいな話になってゆくんです。
「聖書は聖霊の働きによって正しく読めます」なんて簡単に言わないでくださいよ。そんなことを言ったら、それこそ、学者たちの血のにじむような本文(ほんもん)校訂の歴史が、意味を失ってしまいます。(保守的な福音派の訳だって学者の最新の校訂本を使っているのです。)
「聖霊の働きによって正しく読める」人たちは、その「聖霊の働き」で、聖書写本の万単位の食い違いの正誤を判定し、正しく読めばよろしい。(私は若い頃、聖書写本によって百箇所くらいは違うのだろうかと何となく思っていたのですが、食い違いは万単位でした。)
キリスト教原理主義者、あるいはカルトのような人たちが、ネットに盛んに書き込みをしていて、その、あまりにも排他的で攻撃的な言葉の数々に嫌な気持ちになることがありますが、「metanoiaxの日記」は、そんなときの私の清涼剤のようです。
「metanoiaxの日記」の執筆者はワインさんという方で、葡萄の美酒のようにきらめく言葉の数々を残し、ネットから去って行かれました。健康上の理由でしょうか、ずっと書き込みがありません。ワインさん、どうしておられるのか。可能であれば復帰していただいて、また、あの心に響く言葉を聞かせていただきたいものです。あなた様の言葉の数々は、私にとって、慰めであり励みです。
metanoiaxとは何かの説明がなくて(私が探せないのかもしれませんが)、メタノイアクスという造語かと思いました。でも、もしかすると、metanoia x なのでしょうか。だとすると、「回心・エックス」です。
十分に回心(悔い改め)をしていると思える人が回心しようとし、回心が必要な人がそのことに気づいていないように思えます。
それがキリスト教界なのでしょうか?
私は「metanoiaxの日記」の大ファンです。
敬愛するワインさん、是非また、あなた様の言葉を聞かせていただきたいのです。
(伊藤一滴)
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