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原理主義者やカルトの思考・主張

新学期になりました。
この春、地方から、都市部の大学や専門学校などに進まれた方も多くいらっしゃるでしょう。
地方では見かけなかったカルト団体に会うかもしれません。勧誘されるかもしれません。
私は、カルト全般に詳しいわけではありませんが、聖書を学ぶ機会があり、各派のクリスチャンと会って話をする機会もありました。そうした自分の体験をふまえ、これまでもキリスト教原理主義や聖書カルトの問題点を書きました。

20代初めの頃の私は、実際に、原理主義者やカルトに取り囲まれて一方的に議論を吹っかけられ、戸惑いました。いや、正確に言えばそれは議論ではありませんでした。自分の考えを述べて、相手の考えを聞いて、それに対してまた自分の考えを述べて対話するという議論ではなく、彼らは一方的に自分たちの主張をまくしたてるだけでした。こっちが何を言ってもまるで聞く耳を持ちませんでした。自分たちの主張を絶対に正しいとし、一切妥協しない強い思いがあったようで、相手の言うことを聞いたら負けだ、みたいな感じでした。それは信仰というより、他の宗教カルトや左翼セクトと似た、強い思い込みの信念のように思えました。狂信的、病的な感じさえしました。

あれから30年経っても、同じようなことを言う原理主義者・聖書カルトたちがいます。ネットでも見受けられます。ネット上で非難を浴びても「私は正しいことを言っているから非難される」という認識なのかもしれません。
福音派の出版社から『「信仰」という名の虐待』といった冊子も出て、だいぶ時が経っているのに。

彼らは、当時もそうでしたが、今もほぼ例外なく自分たちを「福音派」、「福音的な教会」、「正統プロテスタント」、「正しい聖書信仰」などと称します。中には、「何々派と言うのは分派した団体であって、私たちは派ではありません。聖書に書いてあることをすべて文字どおり正しく信じるキリスト教ですから、教派ではなく純粋なキリスト教です」なんて言う人もいましたが、話す内容は自称「福音派」の原理主義者やカルトとそっくりでした。

それは、自分たちの絶対的な正しさを振りかざす、独善的、排他的、不寛容、攻撃的な人たちでした。人を殴ったりこそしませんが、異論を一切認めず、容赦も妥協もしない人たちでした。(注)

高校を卒業して仙台で浪人していた頃、福音派の教会で親切にしていただきました。牧師先生も信者さん方も良識があり温和な人たちでした。

20代の私は、福音派の中に本当にいい人たちがいるのになぜ同じ福音派と名乗ってこんなに違うのか、わけがわからず、混乱していました。

あれから時間をかけて、考えました。

どうも、福音派と名乗る人たちに、良識と愛の心を持って人に接する誠実なクリスチャンと、かたくなな原理主義の信奉者がいる、そして原理主義者の一部がカルト化してやたら人に噛みついてくる、そう見えてきました。(原理主義とカルトは似ていて、境目がはっきりしません。自分や人の人格を破壊するような活動や、きわめて反社会的な活動をする人たちを、カルトと言っていいのかもしれません。)

それで私は、福音派と原理主義者とを分けて考えるようになりました。
同じ教会に両方の人がいたりしますから、〇〇教会は安全な福音派で××教会は原理主義だ、みたいに、単純に2つに分けられません。それに、中間的な人たちもいます。考え方を色にたとえれば、かなり白っぽい部分と黒っぽい部分があって、間に無限の灰色があり、色むらもある、そんなイメージです。福音派と名乗る人たちは、決して一枚岩ではありません。
ただ、中には、教会全体の原理主義化、カルト化もあるようです。

私は、考えに違いはあっても、福音派的な信仰が悪いとは思っていません。私自身、福音派の方々から親切にしていただいたし、いろいろ学びました。楽しかった思い出もあります。お世話になり、感謝しています。
でも、薬も使い方を誤れば、かえって健康を害するように、「福音派的な信仰」は、まさに薬と似ていると思います。これに出会って良い影響を受け、心が回復する人がいる一方、原理主義的な解釈・指導による悪影響を受け、傷つき、苦しむ人もいるのです。

はたから見ても、使い方を誤った薬の使用に見える「信仰」があります。

自称「福音派」の原理主義者やカルトは、たぶん、頭の中がこんなふうになっているのでしょう。その主張はこんな感じです。(福音派と原理主義者の主張は重なる部分もありますが、原理主義やカルトではない一般の福音派は対話が成り立つ人たちで、他者を一方的に攻撃したりしません。)
前に書いたこと重複もありますが、まとめてみます。


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他の教会をことは知らないが、知る必要はない。偽札を見たことがなくとも本物のお札だけ見ていれば偽札を見抜くことができるように、私たちの教会は正しいキリスト教を信じる本物の教会だから、他の教会の見解を学んだり交流したりする必要はない。神様は私たち共におられる。本物の教会にいれば偽物はすぐわかる。

私たちは正しい聖書信仰に立つ福音的な教会であるが、世の中にはそうでない教会もある。
カトリック教会は聖書に書かれていないことを信じ、マリア像を拝んでいるから、間違った教会だ。偶像崇拝だ。カトリックの司祭や信者と話をしたことは一度もないが、間違った信仰を持つ偶像崇拝者たちから話を聞く必要はない。(別の人「私は一人のカトリック信者と話をしたことがあるが、聖書をあまり読んでいないようだし、マリア様に祈るとか、死者のために祈るとか、お祈りの本に印刷されている通りに祈るとか、やはり間違った信仰の人だった。一人の人と少し話をしただけで、カトリック教会全体の察しがつくのは、私たちが正しい教会で学んでいるからだ。本物のお札だけ見ていれば偽物はすぐわかる。」)

リベラル派の教会はこの世の価値観に毒されて、高等批評だの自由主義神学だのを信奉し、これも間違った道に進んでいる。様式史がどうだとか編集史がどうだといった説はみな間違いだ。聖書の成立に口伝の伝承があったとか、共同体による編集の過程があったとか、正しい聖書信仰を持つ者が言うことではない。最近はカトリックまで、こうした間違った考えの影響を受け、リベラル派の仲間になっている。

私たちが非難されるのは、正しい聖書信仰、正しい福音主義に固く立っているからだ。イエス様も正しいことをおっしゃったから非難されたのだ。私たちを非難する人たちはサタンの側にいる。やがて滅ぶべきサタンの側の人たちが何を言おうが、真理の側にいる私たちが彼らから学ぶことなどなにもない。対話の余地もない。

世の中には、「真理を探究するのが学問だ」とか「真実を求める」とか言う人たちがいるが、聖書が真理であり、聖書にすべての真実がある。聖書以外の真実など存在しない。

この世の全体がサタンの影響下にある。
リベラル派やカトリック教会はこの世に属する教会であり、サタンの影響下にある教会だ。私たちはサタンの影響下にあるものをすべて嫌悪する。
この世(=この地上)の伝統、文化、慣習、エキュメニズム、聖書批評学、他宗教、この世の社会的な活動、進化論を教える教育など、みな嫌悪し、排除する。そうしたものはみな、聖書を唯一の信仰の論拠とせず、まことの神を認めない価値観に立つもので、間違っている。無意味どころか有害である。

私たちは神によって選ばれ、伝道の使命を与えられ、世の悪から守られている。この世に勝利し、霊の戦いを全うする。

他宗教の信者や無神論者や同性愛者にも寛容なクリスチャンがいるが、間違っている。そのような、聖書を正しく信じないクリスチャンに騙されてはいけない。正しい聖書信仰を持つ人だけが救われて、他はみなゲヘナ(地獄)の火で永遠に焼かれるのだ。間違ったクリスチャンたちも、異教徒や同性愛者らと共に審かれ、滅ぼされる。

リベラル派やカトリックの間違ったクリスチャンたちは聖書を正しく読んでいないから、救われていない。正しく読めば、聖書には全く矛盾はない。書いてあることはすべて、書いてある通りの事実だ。

聖書はすべて神の霊感によって書かれた誤りのない神の言葉である。一字一句に至るまで無誤である。聖書の正しさは聖書によって証明される。写本間の食い違いは聖書を書き写した人間の誤りであり、聖書の誤りではない。

聖書66巻こそが唯一の信仰の論拠である。私たちは正しい聖書信仰に立ち、聖書66巻だけを信じている。旧約続編付きの聖書を使ったり、聖伝を主張したりする人たちは間違っている。そもそも聖書は66巻であって、聖書に続編など存在しない。続編と称する外典偽典を聖書にくっつけて使っている人たちも出している出版社も間違っている。

他の説もあるが、聖書の年数を計算すれば、紀元前4004年頃、神は6日間ですべてをお造りになっている。聖書に書いてあるとおり、太陽より先に光があり、地球があり、太陽より先に地上には植物があった。それから神は太陽や月をお造りになり、人間や動物をお造りになったのだ。
最初の人は地のちりから造られたアダムであり、そのアダムの肋骨からエバが造られている。人類はみな、神に創造されたアダムとエバの子孫である。それは神話だとか、何万年も何十万年も前にも人はいたとか、生物は長い年月のうちに進化したとか、みな嘘だ。何億年も前に恐竜がいて人類の発生より前に滅んだといった主張は無神論の進化論の考えであり聖書的でない。聖書を信じるなら何億年も前の時代などない。死は、アダムとエバが禁断の実を食べたことによってもたらされた。この二人が実を食べる前に死んだ生き物はいない。それ以前にも死があったという考えは、人間の罪によって死がもたらされたという教義に反する異端思想だ。すべては紀元前4004年頃の創造に始まるのであり、それ以前の世界はないのだから、生き物もいなかった。当然、死もない。人類発生以前の化石とされるものはすべて誤りだ。死がなかったのだから化石になるはずがない。最古の化石も紀元前4004年頃のものであり、それ以前のものはありえない。人と恐竜の化石が同じ地層から出ないのは、単に住んでいた場所が違っていたからで、時代が違うからではない。ある生物が絶滅することはあっても、天地創造のときいなかった生物が、あとから進化によって発生するなどありえない。三葉虫、アンモナイト、恐竜などの絶滅した生物は、ノアの方舟の洪水の時に滅んだと考えるのが聖書的だ。このときに地球全体が水没したのだ。全世界を水没させるだけの水は地球上にないと言う人がいるが、嘘だ、神は何でもおできになるのだ。

聖書に書いてある奇跡も、みな、書いてあるとおりの事実だ。これを合理的に解釈して、科学と矛盾しないように説明するのは地上の価値観であり、間違っている。自由主義神学の影響を受けた人たちが、そうした間違った聖書解釈をしているが、彼らは自分たちをキリスト者と称しながら、サタンの側にいる。

イエス様は聖書に書いてあるとおり、処女マリヤから生まれ、水をぶどう酒に変えたり、病人や障害者を治したり、悪霊を追放したり、湖の上を歩いたり、嵐を静めたり、五千人に食事を与えたりなさったのだ。十字架で死んだ後に復活され、人々の前に現れて語られ、共に食事までなさり、大勢の目の前で天に昇っていかれたのだ。

聖書にはっきり書いてあるこれらの事実を、古代人の神話的な世界観による表現だとか、創作だとか、復活というのは人の心の中に復活したという精神的な現象だとか、合理化して説明しようとするのは間違った異端の考えだ。リベラル派もカトリックも、異端の考えに毒されている。

聖書に矛盾があるとか、歴史的事実と違うとか、一点であれ誤りを認めるなら、それは聖書の霊感を否定することになり、霊感をお与えになった神を否定することになる。聖書は真理である。聖書は、歴史的事実としても科学的事実としても、一切誤りはない。リベラル派やカトリックは現代の価値観に迎合している。それは、神を否定するに等しい。

残念なことに福音派の中にさえ、リベラル派やカトリックと接触し、影響を受けてしまった人物や教会がある。彼らはサタンのわなに落ちてしまったのだ。正しい牧師先生の正しい指導がないままに他教派と交流すべきではない。たとえ相手が福音派の教会でも、交流によってサタンのパン種が入り込むことがある。

私たちのことを原理主義者(ファンダメンタリスト)と呼ぶ人がいるが、これは私たちが信じる真のキリスト教に対する悪意に満ちた侮辱の言葉だ。たしかに、20世紀初頭のアメリカでファンダメンタリズムの勃興があったが、訳せば根本主義である。当時の日本ではそう訳していたし、今も、日本のキリスト教界内では一般に根本主義と訳される。これを原理主義などと訳したのでは、統一協会の原理講論やイスラム原理主義を連想してしまい、何か、間違った原理にとりつかれているようなイメージになる。私たちを原理主義者と呼ぶのは、イメージダウンを意図した侮辱の言葉だ。私たちは、正しい聖書信仰、正しい福音主義の伝統に立っている。正統プロテスタントであり、真に福音的な教会だ。
20世紀初頭の根本主義から学ぶべき点もあるが、私たちは根本主義に属する教派ではなく真のキリスト教だ。

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とまあ、こんな感じです。
もっとありますが、延々と書いても仕方ないので、思い出した言葉の中からまとめてみました。

上記のような見解を私が創作できるはずもなく、みな、実際に聞いたことです。
彼らが言っていないことを私が創作して書いた箇所は一行もありません。ただし、違うグループの違う人から聞いた話をまとめた箇所はあります。みな、似たような発想です。

多くの場合、上に書いたような話し方ではなく、たとえば感動的な本を紹介したり、歴史的に活躍したクリスチャンの話をしたりしながら、上記のような見解を少しずつうまく混ぜるんです。話術が巧みな人もいて、心を打つような話の中に混ぜてゆきますから、すぐにおかしいと気づかないことがあるのです。

普通に考えれば説明がつかないことを先入観で信じ込み、そうでない人を非難し、断罪し、少しでも反論されると逆上して「あなたはサタンの支配下にいる、救いの中にいない」と、にらみつけてくる。
規則や禁止事項で自分もがんじがらめにされていて、人をもがんじがらめにしようとして、その状態を「救われている」と言う。
罵詈雑言に満ちた説教を毎週聞かされたり、法外な献金を要求されたりする。
それが、イエス様が人々に求めたことですか?

(伊藤一滴)

(注)原理主義的な考えの人がみな攻撃的というわけではありません。言葉の暴力も含めて、非暴力的な人もいます。「進化論を否定する人はみな暴力的だ」なんて思わないでください。

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