敵を愛し、迫害する者のために祈る
「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(新約聖書「マタイによる福音書」5:44)
そんなことが出来るのか、と思っていました。
この言葉は自体は知っていました。小学校3年のときから、新約聖書を読んでいましたから。言葉としては知っていても、実際に出来るのだろうかと思っていました。学生の頃は、暴力で向かって来る相手に対しては、状況により、暴力的抵抗や反撃がやむを得ないこともあるのではないか、と考えていました。抵抗しなければ、暴漢は他の人も襲うだろう、自分が反撃して止めなかったことで他に被害者が出れば、止めなかったという怠りの罪ではないかとも思いました。正当防衛は認められる、正当防衛で、かつ、やむを得ない場合であれば、暴力や武力の行使も認められる、と考えていました。
今、私は、簡単に答えを出せません。ただ言えるのは、対立する相手を憎んではいけない、憎しみを込めて反撃してはいけないということです。
大学を卒業してからだと思いますが、法然の伝記を読みました。法然の父は、法然が子どものときに、対立する武士の襲撃を受けて瀕死の重傷を負っています。復讐を誓う幼い法然に、瀕死の父は仇討ちをするなと諭して死んでいったと知りました。
お前が敵を憎み、敵を殺すなら、敵の子がお前を殺しに来る。お前の子がその仇を討ちに行き、止まらなくなる。
親を殺されても、法然は仕返しをしませんでした。出家し、憎悪の連鎖を断ち切ったのです。もし彼が父の仇討ちをしていたなら、歴史に名を残すこともなく、浄土信仰が広く伝えられることもなかったことでしょう。
私は、上に引用した新約聖書の言葉を思いました。仏教かキリスト教かの違いを超え、ここに真実があると思いました。
「あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れ」
真実が、最後に残るのです。
(伊藤一滴)
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