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稲作を始めて思ったこと

最近、田んぼの話ばかりですが、稲作というのは感動体験の連続です。
励ましのメールやコメント、ありがとうございます。

これまでずっと、毎日お米のご飯を食べてきたし、田舎では田んぼの風景は珍しくないので、お米は特に意識しないくらい身近な存在でした。だのに、身近なわりには稲の生育について知らないことばかりです。
今回、生まれて初めての稲作をしながら、学ぶことが多いです。

代掻きのために田んぼに水を入れるとき、地主の真壁(まかべ)さんは、
「じゃあ、水を使わせてもらって始めよう。伊藤さん、水路の水をもらってきて」
と言いました。水利権があるのだから、水は使って当然なのでしょうが、水は使わせてもらうもの、もらってくるもの、という感覚なのです。
もともとは、田んぼの水は天の恵みです。それを地域の人たちが共同で管理しています。「水を使わせてもらう」という感覚に、農家の精神を感じました。
考えてみれば水道の水だって同じでしょうが、蛇口をひねれば水が出るのが当然の暮らしの中で、水のありがたさを特に意識しなくなり、私も、水道料金を払っているんだから使って当然のような感覚でした。水道水だってもともとは天の恵みであり、水道局や水道工事会社の人たちの働きに支えられているのに・・・・・。
どうも、便利になると、その便利さがあたりまえになってしまい、自然の恵みのありがたさや、システムを支えている人たちの労苦を思わなくなってしまうようです。

集落の区長さんが通りかかりました。区長さんも真壁さんという方です。
「よお、伊藤さん。田んぼ、がんばってるなあ」
「はい、皆さんに教えてもらいながらやってます」
「そうだなあ、みんなから聞いて覚えるのも大事だけどなあ、田んぼがなにより田んぼの先生だからな。田んぼのことは田んぼから学ぶのが一番の勉強だ」
田んぼのことは田んぼから学ぶ、なるほど、と思いました。日頃田んぼをよく見て、田んぼに触れて、田んぼのことを知るべきだ、ということなのでしょう。

自家用に小型の田植え機を買った話を書きましたが、それは次のような事情です。
最初は地主の真壁さんの大型の田植え機をお借りするつもりでした。そしたら、いろいろ故障が見つかり、機械屋さんに見てもらったら修理にはそうとうの費用がかかるというのです。真壁さんは、「修理費は私が出すから心配しなくていいよ」とおっしゃるのですが、もう真壁さんが使うつもりのない機械を、単に私に貸すためだけに高額の修理費をかけて直してもらうのも申し訳なく、中古の小さな田植え機を探したのです。田植え機は使う時期が重なるので、他の農家から借りるわけにもいきません。
小型のものは、なかなか中古市場に出ないそうで、もう田植えの直前でしたが、つき合いのある機械屋さんに特にお願いして、なんとか探してきてもらい、大至急整備してもらって間に合わせました。
小型なので、小回りがきいて、快調です。

話は変わりますが、
世界では、さまざまな天災・人災が続いています。特にビルマ(ミャンマー)のサイクロン被害や中国の地震被害は、報道を聞くたびに胸が痛みます。救援が遅れれば助かるはずの命まで助からなくなってしまいます。人や建物だけでなく田畑の被害も深刻で、食糧が不足する恐れもあります。両国とも、問題の多い政権ですが、国民に罪はありません。今、国際的な支援の環が広がりつつありますが、これがさらに広がることを願っています。(伊藤)

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