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検討すべき聖書解釈(肯定的に、または否定的に)

日本のようなクリスチャン人口が1%弱くらいの国にも、百を越える教派がある。中には原理主義教会やカルト教会もある。キリスト教原理主義や聖書カルトの多くは「福音派」を自称している。困ったことだ。

原理主義教会やカルト教会の「牧師」の珍説の数々まで「そういう聖書解釈もある」として検討してゆくべきなのだろうか。原理主義やカルトでなくとも、一牧師の個人的見解や、一面的な見解や、明らかに誤解していると思われる見解まで、ネット上には多数出回っているのが現状だ。

昔であれば、見解を発するためには雑誌に書くとか、書籍を出すとか、ラジオで語るとか、謄写版を使って紙に刷って渡すとか、できる手段が限られていたけれど、今はネットで簡単に自分の見解を広く公表できるようになった。それでいい面もあるのだが、くだらない見解も多数出回るようになってしまった。聖書に関してもそうだ。そうした一つ一つを「そういう聖書解釈もある」と検討したら、きりがないし、意味もない。だいたい、一生かけても終わらないだろう。


検討すべきなのは、まず、主要な見解だ。

また、少数派の見解であっても、筋の通った主張で、未来につながる可能性を感じるなら、読んだり聞いたりすることに意味があるだろう。

それに、たとえ成り立たない見解でも、その見解が世の中に一定の影響(多くは悪い影響)を与えている場合であれば、批判的に検討する必要があろう。

古代や中世の話ではなく、20世紀になってからさえ、ナチスを支持する聖書解釈やアパルトヘイトを支持する聖書解釈などが本当にあった。正しいかもしれないからその説を検討するのではなく、世に悪影響を与えるから、批判的に検討すべきなのだ。


今だって、イスラエル支持の「牧師」たちがいる。無辜のパレスチナの民を不当な管理下に置いて殺傷してやまないイスラエルを支持するというその頭の中はどうなっているのかと思う。イエスの教えをどう「解釈」するとイスラエル支持になるのだろう?

今イスラエルがやっているのはイエスの愛と平和と赦しの教えと正反対だ。彼らがしているのは果てしない破壊と殺戮だ。イエスの教えと正反対のイスラエルを支持するわけだから、それはキリスト教ではなく反キリスト教だろう。反キリスト教の「牧師」や「信者」は、キリスト教会とかキリスト者と名乗らずに、反キリスト教会・反キリスト者と名乗ってもらいたい。

イスラエルを支持する聖書解釈は、正しいかもしれないから検討すべきなのではなく、徹底的に否定するためにこそ検討すべきなのだ。


1993年、私はイスラエル国内のパレスチナ人の露店で買い物をした。「遠い日本からようこそ」と歓迎してくれた露店の人たちの笑顔を今も思い出す。

高橋美香氏の写真と文による『パレスチナに生きるふたり ママとマハ』(かもがわ出版)という本を買った。

読むのがつらい。

パレスチナの今を思うと涙が止まらない。

(伊藤一滴)


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聖書解釈について

前から言っている通り、聖書の解釈は無数にある。まったく正反対の解釈もある。

世のすべての聖書解釈に目を通すのは、一生かけても不可能だし、取り組む意味もない。


我々が知ることができるのは「主要な聖書解釈」くらいだ。この「主要な聖書解釈」というのは「正しい聖書解釈」という意味ではなく、キリスト教界で一定の支持を得ている解釈という意味である。


私がこれまでこのブログに聖書やキリスト教のことを書いてきたのは、こういう解釈もある、ああいう解釈もあると、いろいろな解釈を紹介することが目的ではない。


ある人たちが言う「正しい聖書信仰」や「正統的プロテスタントの信仰」「福音主義の信仰」の中に、成り立たない理屈が見られる、ということを言いたい。

そしてこの、成り立たない理屈の人たちが、自分たちの「信仰」を絶対だとしていろいろな問題を起こしている、ということを言いたい。

マインドコントロールの手法、かなりの金銭や労力の搾取、不透明な経理、パワハラの横行、差別や排除といったことが実際に起きている。信者の中には悩んで心を病んだり、家庭や人間関係がおかしくなったりした人もいる。だのに「この世の人間的な価値観に惑わされてはいけません。聖書的な価値観、神様の価値観に従うべきです」などと言われる。

「聖書的な価値観、神様の価値観」と言っても、広く認められているわけではない。それはその教派の独自の価値観、その牧師の価値観ではないのか、と言いたい。


どうでもいい聖書解釈の例を一つ挙げておこう。

アダムとエバにはヘソがあったのか?

ヘソは母親の胎内にいたときに胎盤とつながっていた跡である。だから、母親の胎から生まれた者にはヘソがある。
アダムとエバは母親の胎から生まれた者ではない。ということは、彼らにはヘソがなかったと考えるのが正しい聖書解釈なのか?

いや、この2人は最初の人類であるのだから、後に続く人類の祖として最初から完全な形態であったと考えるべきだろう。完全な形態なら、当然ヘソがあったはずだ。実際、西洋の名画に描かれたアダムとエバにはちゃんとヘソも描いてある。

云々、云々・・・

こんな議論を延々と続けても仕方がない。
こういう解釈もある、ああいう解釈もあると、いろいろな解釈を調べる意味も感じない。

そんなことよりイエスのメッセージの根本理念に従うことの方が大事だろう。

私は、いろいろな聖書解釈を調べたり紹介したりすることにあまり意味を感じていないのだが、人や社会に害を与える「悪い聖書解釈」が確かにあるから、これは指摘しておいた方がいいだろう。正統か非正統かではなく、悪い結果をもたらす聖書解釈である。
中世の末には魔女狩りの根拠となる聖書解釈があったし、20世紀になってからも、ナチスを正当化する聖書解釈もあった。今でも、差別につながる聖書解釈、特定の人たちを苦しめる聖書解釈がある。

それを指摘するのは、健全な行為と言えるだろう。

「悪い聖書解釈」を主要な聖書解釈の一つにしてはいけない。

(伊藤一滴)


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「我が民族第一」の果て

かつて、ある国に次のような政党がありました。


名前は革新政党のようでありながら、反共の党だった。

我が民族第一で、排外主義的だった。

不安や不満を抱えた国民が飛びつくような政策を述べた。話術は巧みで、演説がうまかった。話の全部が嘘ではないにしても、盛った話や歪めた話も多かった。

健康や環境を重視する主張をした。中に陰謀論のような話も混じっていた。

民族主義や愛国心を強調して大衆を鼓舞した。

支持者には連帯感があって、熱狂的な支持を得た。

この党は、民主的な憲法下の選挙で急速に党勢を拡大し、やがて政権を掌握した。

だが、彼らのやり方は持続可能ではなかったし、掲げたその「理想」は民族エゴでしかなかった。


日本の某政党じゃないですよ。

かつてのナチスドイツの話です。

ナチス党は、正式には「国民社会主義ドイツ労働者党」という名で、革新政党を思わせる名前です。(「国家社会主義ドイツ労働者党」「民族社会主義ドイツ労働者党」といった訳もあります)

第一次大戦と世界恐慌で疲弊したドイツで、ナチスは大衆を味方にして急速に党勢を拡大し、やがて政権を掌握しました。

物価は上がる、生活は苦しい、未来に希望が持てない、これまでの政治家は信用できない、そんな中で、排外主義・全体主義・専制政治が台頭していったのです。我が民族第一のような主張をする人が、国民の目からかっこよく見えたのでしょう。期待できると感じられたのでしょう。
ヒトラーのナチス党は国民から選挙で選ばれました。これはおかしいと気づいても、もう戻れなくなっていました。おかしいと思って声を上げようとしたときには、言論統制が進んでいたという歴史を思い起こしてください。

そして、ドイツはどうなっていったのか。歴史が示すとおりです。

ナチスがやったのは、おびただしい殺戮と破壊でした。

(我が民族を第一とする指導者の下で国民が幸せになったという話は聞いたことがありません。)

(伊藤一滴)

聖書は、ある種の世界観や宇宙論を信じることや、ある種の文化や制度を普遍的なものとして守り抜くようにと教えているのだろうか?(改訂版)


聖書を執筆したのは古代人である。執筆者は古代の世界観・宇宙論を素朴に信じていた。彼らは、天界、地上、下界という三層からなる世界を信じていて、地球は丸いとか、地球は太陽の周りを回っているとか思っていなかった。もちろん、星の遠心力と引力とのつり合いなど知らなかったし、万有引力も知らなかった。

聖書を文字通り信じるなら、三層からなる世界を信じないといけなくなる。地球は丸いとか太陽の周りを回っているとか、聖書のどこにも書かれていないし、聖書から導くこともできない。(聖書から太陽系はこうなっているといった話を導く人もいるが、それは屁理屈による強引な解釈だ。無理な屁理屈を使えば何とでも言える。正反対のことも言える。)
聖書の記述を素直に読むなら、地球が丸いことや太陽の周りを回っていることを否定するのが自然な解釈ではないか。実際、ルターもカルヴァンも「地球は太陽の周りを回っている」とする見解に「聖書的に」反対している。ルターやカルヴァンに従い「聖書的に」考えるなら「地球は宇宙の中心にあって動かない」とすべきだろう。
科学的な見方と聖書の記述はそれぞれ違うものであり両立はしない。

創世記の天地創造の記述を素直に読むなら、太陽より先に地球があり、太陽がなかったのに光があった、となる。そして、まだ太陽がなかったときの地球に植物が生えていた、となる。そう書いてある通り、その通りに信じなければ「聖書を文字通り信じています」とは言えないのではないか。


新約聖書においても、パウロは上に立つ権威に従うべきだと説いて、ローマ帝国による支配を認め服従するように言っている。また、奴隷制を否定していない。さらにパウロは、女は髪を切るなとか、被り物を被れとか、男に教えるなとか、教会では黙っていろとか、いろいろ言っている。

ローマ帝国のような帝国が権威として君臨し、強力な軍隊を持ち、軍事力で各地を植民地のように支配する社会、支配下の人民はそれに服する社会、そういう社会が聖書的であり理想的な世の中だ、ということか。さらに、奴隷制を認める、女は男の下にあると考える、それが聖書的な価値観か。女は教会の中で発言してはいけないのだから、女性牧師を認める教会は反聖書的な異端の教会となるのではないか。女は男に教えてはいけないとあるのだから、クリスチャン家庭では女性教員のいる学校に男の子を行かせるべきではない、となるのではないか。聖書を文字通り信じるならそうだろう。
一方で「聖書を文字通り信じています」と言い、一方で聖書にはっきり書いてあることに従わず現代社会に妥協するのは言行不一致ではないか。

(パウロの名誉のために言うが、バート・D・アーマンによると、パウロの作と考えられる書簡の中の女性差別的な記述は後に別人によって書き加えられた可能性があるという。もし、後からいろいろ書き加えられたとすれば、「聖書の権威」って何だ?)


現代のプロテスタント主流派やカトリックはリベラルになっており、上述したようなことが問題になることは、まずない。彼らは、基本的に、現代の科学的・歴史的な研究の成果を受け入れている。だから、原理主義者から「リベラル派は聖書を文字通り信じていないので、まちがったキリスト教です」などと言われる。

えっ、「聖書を文字通り信じる」って、聖書が書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度を正しいと信じることなの?(カトリックの場合だと、司祭は男性に限るといった制度がまだあって、問題視されることもあるが。)

上述の問題は、福音派内の問題と言える。
福音派も一枚岩ではないから、内部には、「聖書には歴史的・科学的事実に反することも書かれている」と認める人たちもいる。彼らの考え方だとこうなる。たとえば、親が幼い子どもに、「クリスマスにはサンタさんが良い子にプレゼントを持ってきてくれるよ」と言ったとする。こうした発言はアメリカをはじめキリスト教の文化圏では珍しくないと思うが、そう言う親は、噓をついて子どもをだましているのだろうか。そうではなく、幼い子どものレベルに合わせてそう言ったと言えるのではないか。
同じように、神様は、古代人の知識・認識のレベルに合わせて大切なことを教えてくださったと考えることができる。だから、聖書に書いてあるからといって、書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度まで、現代の人が受け入れなければならないということではない。
こうした考え方だと進化論を否定する必要もなくなる。

それを聞いて自称「福音派」の原理主義者らが怒り出す。
「聖書は一字一句に至るまで、神の霊感によって書かれた誤りのない神の御言葉で、すべて文字通りの事実です。福音派の内部にまで、聖書には歴史的・科学的事実に反することも書かれているなどと言う人がいるのは、自由主義神学の悪影響を受けたリベラル化です。これはサタンの仕業です!」
はぁ? 目覚めない人たちはどこまでも目覚めない。

何が真実なのか真剣に道を求めていけば、プロテスタント主流派も、福音派も、カトリックも、かなり近い所に行くのではないかと思う。だからエキュメニズム(教会再一致運動)の動きもあるのだ。

自称「福音派」には一貫性がない。「聖書を文字通り信じています」などと言いながら、文字通りに従っていない。彼らは聖書に示された理念より自分たちの先入観を上に置いている。だから、聖書の理念に反する発言や行動が多い。

広い視野に立って真剣に道を求めることに背を向け、狭い世界に閉じこもり、自分たちの先入観を上にして現代の史学や科学を否定している(それも全否定ではなく中途半端な否定)。そうした思考だから当然かもしれないが、エキュメニズムまで否定している。彼らは、たとえ「福音派」を名乗っていてもカルト思考の原理主義であり、現代の律法主義、現代のファリサイ派ではないか。

(伊藤一滴)


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2024-11-13 掲載分を一部改稿

聖書の史実性(再掲)

 

聖書の記述のどこまでを史実と考えるのか、クリスチャンの間でも意見が分かれている。
保守的な信者だと「聖書に書いてあるのですからすべて事実です」と言う人もいるが、聖書には文字通りの事実ではないことも書いてあると認めた上で信仰している人もいる。今は、後者の方がはるかに多い。


以前私がお世話になった先生の1人は、真面目で熱心なプロテスタントの信者で、長年、教育や福祉に尽くしてこられた方だったが、
「旧約聖書のアブラハム以前の話はすべて神話です」
と、はっきりおっしゃっていた。
その先生は、
「神話だから意味がないというのではなくて、神様は、神話や比喩や象徴的表現など、さまざまな手段を用いて人間に大切なことを伝えてくださっているのでしょう」
と言っておられた。

その話を聞いて、なるほど、と思った。


アブラハム以前の話が神話なら、聖書の記述から地球が出来た年代を求めようとする試みなど、まったく無意味になる。
同様に反進化論も、無意味になる。

そう。無意味なのだ。
聖書の史実性を真剣に信じている人たちは不快に思うかもしれないが、そもそも史実性を持たない物語から史実を読み取ろうとすること自体無理で、無意味なのだ。

聖書に記された天地創造の記述は、現代の宇宙論や古生物学とは相容れない。
聖書と科学を調和させようとする試みもあるが、アブラハム以前の物語に史実性がないなら、そうした試み自体が無意味だ。


そもそも聖書は歴史的事実や科学的事実を述べることを目的に書かれた書ではない。
聖書は神を信じた人たちの信仰の証しであると共に、神と人との契約を人間の言語で記した書だ。著者たちは歴史的事実や科学的事実を伝えようとしたのではなく、神はどういうお方で人とどういう関係にあるのかを伝えようとした。また、当然だが、古代人には現代のような科学的認識もなかった。聖書の記述は、神話的な世界観の中に生きていた古代人の、その時代の表現だ。


「アブラハム以前の話はすべて神話です」というのは、当然そうだと私も思う。
では、アブラハム以降はどうなのだろう。
今の私は、アブラハムという人物の存在も含めて、旧約聖書の話の多くは神話や比喩や象徴的表現であり、創作されたものだと考えている。

「モーセ五書はモーセの作です」と頑張る人たちがいるが、モーセという人物自身がかなり高い確率で架空の人なのだから(何らかのモデルがいた可能性はあるにしても)、架空の人が執筆できるはずがない。
出エジプトに関しても、エジプト側の記録はまったくないし、奴隷にされていた民族が大移動したという考古学的な証拠もない。これもまた架空の話か、何らかの物語がかなり誇張されて伝わった話と考えるべきだ。

近年は、ダビデ王やソロモン王といった著名な王さえも、架空の人物であるとする説が有力になっている。彼らが著名なのは旧約聖書に書いてあるからであり、旧約聖書以外、こうした王が本当にいた証拠がまったく見つかっていない。(※)


聖書に書いてあるから事実なのではない。
また、聖書に書いてあることをすべて文字通りの事実と信じることが、キリスト教信仰の条件でもない。もしそれが条件なら、プロテスタント主流派や現代のカトリックは成り立たないことになるが、実際はちゃんと成り立っている。そして、多くの方々が、教育、福祉、医療、その他の多くの分野で、地の塩・世の光となって活躍しておられる。
むしろ、「聖書に書いてあることをすべて文字通り事実と信じます」と言う人の中に、身勝手で、排他的で、攻撃的な、かなり問題のある人が多いように思う。(トランプ支持派など、まさにそうだ。)


聖書に書いてあっても書いてなくても、事実は事実だし、事実でないことは事実でない。

「聖書には一切矛盾はありません」と言い張って延々とつじつま合わせに明け暮れることをイエスは求めるのだろうか?
「すべての真理は聖書にあります」と言い張って学術的な研究に感情的に噛みつくことをイエスは求めるのだろうか?

大切なのは、「イエスは人々に何を伝え、何を求めたのか」ではないか。

これまで何度も書いたことを繰り返すが、
イエスが人々に求めたのは、

心から神を愛すること、

自分自身を愛するように隣人を愛すること、

互いに愛し合うこと、

最も小さい人たちに手をさしのべること、

平和を求めること、

謙虚であること、

いつ神の国が到来しても受け入れる覚悟を持って日々を誠実に生きること・・・、
等々であろう。

そして、肝心なときに、イエスの求めに合致する人こそが、真のクリスチャンだろう。

イエスは人々に決断を求めたのだ。
神の国が近い今、どうすべきなのか、自分で考え、判断し、決断し、行動することを求めたのだ。

イエスは「旧新約聖書66巻には一切矛盾はありません」とか「聖書に書いてあることをすべて文字通りに信じ、文字に縛られて生きなさい」などと言っていない。

(伊藤一滴)


※ ダビデ王も架空の人物とする説の方が今では有力なのかもしれないが、私は、架空と言い切るのにためらいを感じている。
民族の英雄として架空の王様を創作するのなら、その不祥事を書くだろうか?
部下の妻を横取りし、その部下を死に追いやったと書くだろうか?
私は、ダビデ王のモデルになった人物は本当にいて、本当に部下の妻を横取りしたのではないかと想像している。


付記
リベラルなプロテスタント信者に、とてもいい人たちがいる。
一般の(原理主義でない)福音派にも、とてもいい人たちがいる。
カトリック信者にも、とてもいい人たちがいる。

しかし、「福音派」を自称する原理主義者の教会の牧師や信仰歴の長い信者で、いい人に会ったためしがない。

彼らには共通の特徴がある。「聖書に書いてあることをみな文字通り信じています」とか「私たちは正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャンです」などと言いながら、ひじょうに独善的、排他的、不寛容、攻撃的なのだ。聖書を信じると言いながら、肝心なときにするりと逃げる、責任を負おうとしない、社会の諸問題にまるで無関心、非キリスト信者に協力しない、困っている人のため指一本動かそうとしない、嘘や誇張を混ぜた話で他教派を非難する、といった点も共通している。
自分たちは正しく、自分たちの外の世界は(他教派も含めて)サタンの支配下にあると考えているようだ。

実を見れば木が分かるように、どういう人たちが集まっているのか見れば、その教会や信者を判別できる。

2023-8-23掲載、そのまま再掲

 

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信仰の論拠は聖書のみ?

プロテスタントは「信仰の論拠は聖書のみ」と主張するが、実は、聖書(Scripture)以外に、伝統(Tradition 聖伝)、理性(Reason)、経験(Experience)などを用いて教えを説いている。だのに「聖書のみ」と言い続けることに、私は違和感を覚える。
しかも、この「信仰の論拠は聖書のみ」という記述自体、聖書にない。もし本当に「信仰の論拠は聖書のみ」なら、聖書にどこかにそう書いてありそうだが、どこにも書かれていない。

特に福音派は以下を強調するが、これらの言葉も、聖書にそのままの形では書かれていない。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」「聖書には権威がある」「日曜は安息日である」「日曜の礼拝に信者は出席すること」「信者は禁酒せよ」
これらは聖書解釈によって導かれた見解であり、聖書にはっきり書かれた箇所がない。「聖書の教え」(=「神の教え」)は、理屈のつけようでどうにでもなる。
だから、「福音派は聖書のどこにも書かれていないことを言っているので反聖書的であり、間違った信仰です」といった主張も可能になってしまう。(理屈でそういう主張もできてしまうという話であり、私がそう思っているわけではないが。)
それに、新約聖書がまだ存在しなかった時代にもキリスト教信仰はあったのだから、「信仰の論拠は聖書のみ」とは言えないという主張も可能になる。
私はいろいろな人に「新約聖書がまだ存在しなかった時代のキリスト教信仰の論拠」について聞いたが、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張と整合性のある説明を聞いたことがない。
新約聖書が成立する前の原始キリスト教の時代には、「旧約聖書」の記述と「口頭の伝承」(=口伝、口承)と「共同体の信仰」が信仰の論拠だったと考えられる。当時は「信仰の論拠は聖書のみ」ではなかったのだ。
どこまでも「信仰の論拠は聖書のみ」とするなら、新約聖書が成立する前は正しいキリスト教はどこにもなかったという話になる。
「新約聖書が成立する前は、パウロやイエス様の弟子たちが正しい教えを伝えていたのです」といった主張があるが、今日のような形の新約聖書が確立したのは4世紀の末である。紀元1世紀の時代を生きたパウロやイエスの弟子たちは4世紀の末まで生きて教えを説いていたのだろうか。「パウロや弟子たちの没後も正しい教えを受け継いで伝えた人たちがいました」と言うのなら、それはつまり聖伝(Tradition)だ。4世紀の末までは聖伝が有効で、新約聖書が確立した途端に「信仰の論拠は聖書のみ」に変化したのだろうか。
「信仰の論拠は聖書のみ」というのは宗教改革を進めるのに使われたスローガンであって、歴史的価値のある言葉であっても、今では成り立たない主張ではないのか。
(伊藤一滴)

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誤りなき神の御言葉である聖書の権威?

私は福音派の牧師先生や信者さん方からお世話になってきた。
恩人の信仰を悪くなど言いたくない。

今の私は、〈福音派〉と〈「福音派」を称する原理主義者〉を分けて考えているが、中間的な人たちもいるから、両者をはっきり線引きすることはできない。

以下の文章は、福音派を非難していると受け取られるかもしれない。よく読んでいただければ分かると思うが、以下は非難ではなく、事実と、それに対する私の考えである。実は、こんなことを書くのは心苦しいのだが、自分の思いを偽りたくはない。


「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか「聖書には権威がある」とか、福音派の人たちはよく言うが、実はどちらも聖書にはっきり書かれた箇所がない。事実だから、疑問なら、コンコルダンスやパソコンの検索機能などで確かめていただきたい。

福音派は「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、聖書のどこにも書かれていないことを言っている。そして、この、「信仰の論拠は聖書のみ」という言葉自体、聖書にない。これも、事実である。

信じるのは自由だが、これらを知った上で信仰しているのだろうか? 牧師なら知っているだろうが、一般信徒はどうなのか?


福音派に限らず、プロテスタントは聖書中心主義を標榜するが、聖書に明確に書かれていないことを信じている。
信じるのなら、そう信じるだけの根拠が必要になる。信仰は科学的な証明が求められるわけではないが、こういう理由でこう信じるという理論的な説明は必要だ。
それができないなら、迷信・妄信・狂信と変わらない。

「聖書は誤りなき神の御言葉である」
「聖書には権威がある」
「信仰の論拠は聖書のみ」

こうした主張は、どれも、はっきりと聖書に書かれてはいない。これらは聖書の解釈によって導かれた見解であり、広義の「聖伝」ではないかと思う。

「信仰の論拠は聖書のみです。聖伝は一切認めません」などと言いながら、解釈を一種の聖伝として受け継ぎ、信じているのではないか。

よく「根拠」とされるのは新約聖書の2テモテ3:16の「聖書はすべて神の霊感によるものであって、教え、戒め、矯正、義の訓練のために有益です」という箇所だが、この著者にしても「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか「聖書には権威がある」とか「信仰の論拠は聖書のみ」とか、明確に言ってはいない。
それにこの著者は、この箇所の「聖書」とは何を指すのかも明らかにしていない。著者の念頭にあったのは七十人訳かシナゴーグで朗読されていた聖書だろうが、どちらにしても「新約聖書」は含まれていない。

「聖書に明確に書かれていなくとも、聖書それ自体から、聖書は誤りなき神の御言葉であり、聖書には権威があるとわかります」といった主張もあるが、それは循環論法だ。かつて左翼学生らが「マルクス主義の正しさはマルクス・エンゲルスの著作からわかります」と言っていたのと変わらない。


歴史的には、「聖書には権威がある」という主張は古くからあった。聖書の内容や聖書に記されたイエスや使徒たちの姿勢から、総合的判断としてそう信じたのだろう。ただし、これが教義として明確に定められたのは16世紀の宗教改革の時代である。対抗したカトリック教会もトリエント公会議において聖書の権威について明文化した。
また、宗教改革において教皇主義への対抗として「信仰の論拠は聖書のみ」と主張され、受け継がれた。

キリスト教2千年の歴史において、旧新両派が「聖書には権威がある」と明確に定め、また新教徒が「信仰の論拠は聖書のみ」と主張して5百年だ。
聖書から導いた見解だとしても、聖書にはっきり書かれていないこうした主張を聖書の言葉と同じように扱ってよいのだろうか?

「聖書は誤りなき神の御言葉である」と教義として明確に定められたのは比較的新しい。これは、私が知る限り、古代・中世の公式な教義にはない。宗教改革の時代でさえ、ルターはヤコブ書などの聖書の一部の正典性を疑問視していたわけで、聖書のすべてを誤りなき神の御言葉とは考えてはいなかった。
ルターの見解は「部分的霊感説」になるのだろうか? 「だからルターは間違っていました」となるのだろうか。
「聖書は誤りなき神の御言葉である」という主張はカルヴァンの流れだろうが、そのカルヴァンだって聖書に明記されていない幼児洗礼などを認めている。「だからカルヴァンも間違っていました」となるのだろうか。
ルターは間違っていてカルヴァンも間違っていたなら、「私たちは正しい聖書信仰に立つ教会です」って何?

19世紀末~20世紀初頭、自由主義神学の台頭を危惧した原理主義者(根本主義者)らが「聖書は誤りなき神の御言葉である」と強調し、これが原理主義教会や福音派教会に受け継がれたようだ。「保守」的な人たちによって「聖書は誤りなき神の御言葉である」と強く主張されるようになったのは、キリスト教2千年の歴史の中でここ百年間ほどだ。それでも、まあ、百年の歴史はあるが。

聖書に明確に記されていないこれらの主張は、広義の「聖伝」だと言えるだろう。
どんなに否定しようが、福音派は「福音派の聖伝」を信じている。

リベラル派にも、リベラル派なりの聖伝のようなものがあるのだろう。「福音派の聖伝」と重なる部分もあるだろうし、かつての自由主義神学の流れにあるリベラルな伝統とか、カール・バルトの見解とか、ルドルフ・ブルトマンの見解とか、それぞれに違うが、リベラル派の諸派の聖伝のようなものになっているのかもしれない。
「知性・理性を使い科学を重視して思考せよ」と聖書に書いてあるわけではないが、これもリベラル派の聖伝か。

カトリック教会の場合、信仰の論拠は「聖書と聖伝」だから、当然、聖伝を受け継いで信じる立場である。
ちなみに現代のカトリック教会は、「聖書全体は神の言葉である」とはっきり教えている。

「聖書の著者たちは、聖霊の霊感のもとに神が望まれることを書き記したのであり、その意味で聖書全体は神の言葉である。」(「第二バチカン公会議公文書」啓示憲章(Dei Verbum)第2章「聖書と啓示」第11項)

「聖書には権威がある」という主張もそうだが、これも福音派の見解と合致する。両者共通の「聖伝」である。

どうもカトリック教会は、プロテスタントが先に言っていたことを、あとから聖伝として公認することがあるようだ。それって、パクリだと言われそうだ。カトリック側からすれば、検討の結果正しいとわかったということなのだろうけれど。

聖伝を信じてはいけないとは言わない。
ただ、自分たちも一種の聖伝を信じながら、「信仰の論拠は聖書のみであり、聖伝を信じるのは間違いです」などと言わないでもらいたい。

一般の(原理主義でない)福音派は、今日、対話路線になっている。他派と交流するし、他者の立場に配慮してくれるから、対話が成り立つ。

エキュメニズムの時代である。
福音派は、

「聖書は誤りなき神の御言葉である」
「聖書には権威がある」

といった聖書にはっきり書かれていない主張について、自分たちは何故そう信じるのか、エキュメニカル派(エキュメニズム派)に、また非キリスト教の人たちに対しても、ていねいに説明する必要があるだろう。


福音派を名乗る人たちは一枚岩ではない。寛容で親切な人も多数おられるが、まるで違う人もいる。福音派を名乗る中に、原理主義寄りの人たちや、明らかな原理主義者・カルトまで混じっている。原理主義者・カルトらは「信仰の論拠は聖書のみなのに、カトリックは聖伝を信じているから間違っている、異端だ」と盛んに攻撃するが、そういう自分たちも一種の聖伝を信じている。

原理主義者・カルトらは自分たちのことを純粋なキリスト教だと思っているのだろうが、その主張は矛盾だらけだ。それを指摘されても、「私たちは正しい聖書信仰に立つので弾圧されています」などと言って、大騒ぎして怒るだけで、自らを省みることなく改めることもない。彼らは「キリスト教とは別の宗教」なのか、「キリスト教の中の腐敗部分」なのか。どちらであれ、早く目を覚ましてもらいたい。

(伊藤一滴)


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