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今から10年以上前ですが、ロケットストーブを作り、薪ストーブと合体させて使っていました。(上は当時の写真)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2012/11/post-38fd.html
手前の薪ストーブの上部はいらないと考え、鉄工所に頼んで作ってもらったのがこれ。やかんを置く部分が減りましたが、暖房効果はぐんと高まりました。ロケットストーブの部分はそのまま10年以上使っています。びくともしません。焚口を改良してこの冬で3年目になりますが、以前よりさらに少ない薪でよく暖まります。内部のヒートライザー(煙突効果の縦の管)が熱せられると煙はおさまりますし、おき(炭が燃えるような状態)になった薪を手前に移し、この部分を大火鉢(囲炉裏?)のように使えば暖房効果抜群です。
電気暖房・石油暖房等、ほとんど使わなくなりました。
山の中の古民家に住んでるんで、こんな暮らしができます。
(伊藤一滴)
私市元宏(きさいち もとひろ)著『聖霊に導かれて聖書を読む』(新教出版社1997)という本を読みました。それほど厚い本ではありませんが、内容が濃くて、なかなか読みごたえのある本です。※1
この本に書いてある「第二の聖書」という箇所を引用します。(23頁)
「第二の聖書」と言っても、特殊な考えの人が書いた聖書以外の正典とかの話ではないです。
引用開始
第二の聖書
ところで「第二の聖書」という言葉を読者はご存知でしょうか。この言葉は、神がご自身を啓示されたのは、聖書を通じてであって、これ以外に神を知る方法は与えられていないと考える人たち向かって言われた言葉です。神は、言葉としての聖書以外にも自然を通じて人の心に語り、神を人に啓示しておられる。いわば、自然は、神が人間にお与えになった「第二の聖書」(the Second Bible)であるという意味です。この言葉は、私たちが聖書を読む場合の心構えをとてもよく言い表わしていると思います。なぜなら、第二の聖書を読むためには、人は、活字になった聖書だけではなく、自分の身の周りに広がる豊かな自然にも注意を向けなければならないからです。人はいわば聖書と共に自然を「読ま」なければなりません。神をよりよく知ろうと思うならば、聖書から目を離して、自分の目と耳と心と知恵を働かせて自然からも神を学ぶことが必要なのです。この場合、自然は、活字になっている聖書のテキストと同じくらいに重要な意味を持ってきます。すなわち、自然という「テキスト」を読むのです。このように、聖書を通じて自然を読み自然を通じて聖書を読む、ということが行なわれて、初めて神の言葉がその人の内で生きて働く力を帯びるようになるというのが「第二の聖書」の意味なのです。
引用終了
私、一滴も思うのですが、「神が天地を創造なさったのであり、自然界の万物は神の被造物である」というなら、自然の中に神様からのメッセージを感じるというのは自然な感覚でしょう。
「信仰の論拠は文字で書かれた聖書66巻だけです。自然の中に神様からのメッセージを感じるといった考えはアニミズム的な発想であり、正しいキリスト教ではありません」みたいなことを言う人がいました。有名な大学の文学部の学生でしたね。
私は、アシジのフランチェスコや井上洋治神父の言葉を引用したりしながら、自然の中に感じられる神の働きの話をしたんですが、その人には全く通じませんでした。どう言っても、ことごとく、そういう考えは正しいキリスト教に反すると否定されただけでした。まるで、鋼鉄の甲冑で身を固めているかのようでした。そういう人、いるんです。
あとから、「読むべきものは聖書である、学ぶべきものは天然である、為すべき事は労働である」という内村鑑三の言葉を知りました。※2
「学ぶべきものは天然である」って、内村鑑三は、すでに明治時代に言ってたんです。もっと早くそれを知っていたら、あの大学生に紹介したかったですね。
そう言えば、ターミナルケアの先駆者であるエリザベス・キューブラー・ロスも、大自然こそ神について教えてくれる偉大な教師であるという意味のことを書いてましたね。視野の狭い牧師たちは正しく神を伝えないが、大自然は正しく伝えてくれるって。
(伊藤一滴)
※1 私市元宏『聖霊に導かれて聖書を読む』は現在絶版のようですが、ネットで無料で読めます。
http://koinonia-jesus.sakura.ne.jp/kowaindex.htm
まずここを開くと、「現代および未来へ向けて」というのがあって、そこに「聖霊に導かれて聖書を読む」があります。
※2 内村鑑三「聖書之研究」(明治41年)にこうあります。
引用開始
読むべきものは聖書である、小説ではない、政論ではない、然り、神学ではない、聖書其物(そのもの)である、神の言(ことば)にして我が霊魂の声なる聖書である、聖書は最も興味深き最も解(げ)し易(やす)き書である、世々の磐(いわ)より流れ出づる玉の如き清水である、之を哲学的に解釈せんとせず、之を教会の書として読まず、神が直接に霊魂に告げ給ふ言として読んで、聖書は其(その)最も明瞭なる意味を我等(われら)に供給する、我等はすべての物を読むのを止めても、然り、時々すべての物を読むを止めて、一意専心聖書を読んで之をして我等の霊魂を活き復(かえ)らしむべきである。
学ぶべきものは天然である、人の編みし法律ではない、其(その)作りし制度ではない、社会の習慣ではない、教会の教条(ドグマ)ではない、有りの儘(まま)の天然である、山である、河である、樹である、草である、虫である、魚である、禽(とり)である、獣である、是(こ)れ皆な直接に神より出で来りしものである、天然は唯(ただ)天然ではない、神の意志である、其(その)意匠である、其中に最も深い真理は含まれてある、天然を知らずして何事をも知ることはできない、天然は智識の「いろは」である、道徳の原理である、政治の基礎である、天然を学ぶは道楽ではない、義務である、天然教育の欠乏は教育上最大の欠乏である。
為すべき事は労働である、口を以てする伝道ではない、筆を以てする著述ではない、策略を以てする政治ではない、手と足とを以てする労働である、労働に由(よ)らずして智識以上の智識なる常識は得られない、労働は労働としてのみ尊いのではない、信仰獲得井(ならび)に維持の途(みち)として、常識養成の方法として、愛心喚起の手段として又最も尊いのである、キリストに於ける信仰は文に頼(たより)て維持することは出来ない、語るを知て働くを知らざる者は大抵は遠からずしてキリストを棄る者である、福音は神学ではない労働である、聖書の最も尊き注解は神学校より来る者にあらずして、田圃(たんぼ)より、又は工場より、又は台所より来る者である、労働なくして身は飢え、智識は衰へ、霊魂は腐る、労働を賤む者は生命を棄る者である、労働是れ生命と云ふも決して過言ではない。
引用終了
今の私は、山形県の山間部に住む兼業農家です。
自分自身が天然自然の中に身を置いて、聖書を読み、農作業をし、思考する日々ですから、「第二の聖書」も「学ぶべきものは天然である」も、とても心に響きます。
(伊藤一滴)
2023-09-20 掲載、一部を改め再掲
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ルカ福音書のイエスはシモン・ペトロに「人間を捕る漁師にしよう」とは言っていない。
ルカ5:10の後半にこうある。
καὶ εἶπεν πρὸς τὸν Σίμωνα ὁ Ἰησοῦς,
Μὴ φοβοῦ· ἀπὸ τοῦ νῦν ἀνθρώπους ἔσῃ ζωγρῶν。
訳せばこうなる。
そして、イエスは、シモンに言った。「恐れてはなりません。今からあなたは人を生け捕るようになるでしょう。」(私訳)
どこにも「漁師」という単語は出てこない。
「人間を捕る漁師」という言い方は、マルコの文や、マルコを写したマタイの文に出てくる。ルカの福音書を訳すとき、なぜ、マルコやマタイの文を組み込んで「漁師」と訳すのか。(口語訳、新共同訳、聖書協会共同訳他)
こうした訳者らは、マルコやマタイの記述につられて原文にない言葉を「訳」してしまったのだろう。
写本はいろいろあるのだろうが、かなり高い確率で、ルカ自身のオリジナルには「漁師」とは書かれていなかったと考えられる。写本記者が他の福音書と合致する箇所をわざわざ別の表現に書き換えるとは考えにくいからである。
天下の「口語訳聖書」、「新共同訳聖書」、「聖書協会共同訳聖書」といえど、原文にない「漁師」という言葉を「訳」してしまう、その程度の訳なのだ。
ここは新改訳が正しく訳している。新改訳は、ときに、はっとするくらい的確に訳していることがある。なお、文語訳も、またRSVなどの英訳も「漁師」という訳語は使っていない。戦後、日本の口語訳聖書の訳者がうっかり「人間をとる漁師」と誤訳し、1980年代の新共同訳聖書の訳者も、最近の聖書協会共同訳の訳者まで、同じように誤訳し、チェックした人たちも見落としたのだろう。まだネストレ校訂本がなかった明治13年版だって「懼るる勿れなんぢ今より人を獲べし」と、ちゃんと訳しているのに、より正確な底本を使った後の人たちが誤訳とは。戦後間もない頃の口語訳はともかく、新共同訳や聖書協会共同訳まで同じように誤訳とは。)
これは想像だが、ルカは、「漁師が魚をとったら魚は死んでしまう」と思ったのかもしれない。自分でそう思ったのか、誰かがルカにそう言ったのか、ルカが属していた信者のグループの中でそういう話があったのか。
マタイもそうだが、ルカも間違いなくマルコ福音書を手元において福音書を書いているので、ルカ自身がマルコ福音書の記述を書き換えたと考えられる。
ブルトマンなどは、イエスが実際に「人間を捕る漁師」という発言をしたことに否定的でこの言葉を後の伝承と考えているが、ガリラヤ育ちの庶民イエスの口からそうした発言が出た可能性を完全には否定はできないと思う。イエスは「人間を捕る漁師」と言ったと伝えられていて(本当に言ったかどうかはともかく、そう伝えられていて)、最初の福音書マルコはそれを記し、マタイも同様に記したのだ。
それを、ルカは、漁師が魚を捕ったら魚は死んでしまうと思ったのか、マルコ福音書の記述を書き換えた可能性が高い。
ここは、伝えられたイエスの言葉がどのように変わっていったのか、イエスの言葉の伝承の変遷に関わる重要な箇所ではないか。
福音書は、それこそ、「原典において」すでに書き換えられていたと考えられる。それを他の福音書に合うよう「訳」していいんですかね? 日本聖書協会さん。
「聖書は原典において無誤である」と主張する人たちがいるが、原典において、原著者の手で、すでに書き換えられていたようだ。
無誤の原典て、いったい何?
(伊藤一滴)
ご参考:ルカ5:10後半のこれまでの訳
イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」(新改訳)
「そして」(あるいは「すると」καὶ )が省略されているが、基本的に正しく訳されている。
すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。(口語訳)
原文にない「漁師」という語が使われている。
すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(新共同訳)
原文にない「漁師」という語が使われている。
聖書協会共同訳も同様
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聖書には、書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度の反映がみられるが、それらが「正しいから」聖書に書かれたのだろうか?
聖書は、ある種の世界観や宇宙論を信じることや、ある種の文化や制度を普遍的なものとして守り抜くようにと教えているのだろうか?
聖書を執筆したのは古代人である。執筆者は古代の世界観・宇宙論を素朴に信じていた。彼らは、天界、地上、下界という三層からなる世界を信じていて、地球は丸いとか、地球は太陽の周りを回っているとか思っていなかった。もちろん、星の遠心力と引力とのつり合いなど知らなかったし、万有引力も知らなかった。
聖書を文字通り信じるなら、三層からなる世界を信じないといけなくなる。地球は丸いとか太陽の周りを回っているとか、聖書のどこにも書かれていないし、聖書から導くこともできない。(聖書から太陽系はこうなっているといった話を導く人もいるが、それは屁理屈による強引な解釈だ。無理な屁理屈を使えば何とでも言える。正反対のことも言える。)
むしろ、聖書の記述を素直に読むなら、地球が丸いことや太陽の周りを回っていることを否定するのが自然な解釈ではないか。科学的な見方と聖書の記述はそれぞれ違うものであり両立はしない。
創世記の天地創造の記述によれば、太陽より先に地球があり、太陽がなかったのに光があった。そして、まだ太陽がなかったときの地球に植物が生えたいた、ということになる。そう書いてある通り、その通りに信じなければ「聖書を文字通り信じています」とは言えないのではないか。
パウロは上に立つ権威に従うべきだと説いて、ローマ帝国による支配を認めている。また、奴隷制を否定していない。女は髪を切るなとか、被り物を被れとか、男に教えるなとか、教会では黙っていろとか、いろいろ言っている。
ローマ帝国のような帝国が権威として君臨し、強力な軍隊を持ち、各地を植民地のように支配する、そういう世の中が聖書的な価値観なのだろうか。さらに、奴隷制を認めてよい。女は男の下にあると考えるべきだ。女は教会の中で発言してはいけないのだから、女性牧師を認める教会は反聖書的な異端の教会だ。女は男に教えてはいけないのだから、女性教員のいる学校に男の子を行かせるべきではない。「聖書を文字通り信じる」ならそうなるのではないか。
(パウロの名誉のために言うが、バート・D・アーマンによると、パウロ書簡の中の女性差別的な記述は後に別人によって書き加えられた可能性があるという。もし、後からいろいろ書き加えられたとすれば、「聖書の権威」って何だ?)
現代のプロテスタント主流派やカトリックはリベラルになっており、上述したようなことが問題になることは、まずない。彼らは、基本的に、現代の科学的・歴史的な研究の成果を受け入れている。だから、原理主義者から「リベラル派は聖書を文字通り信じていないので、まちがったキリスト教です」などと言われる。えっ、「聖書を文字通り信じる」って、聖書が書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度を正しいと信じることなの?(カトリックの場合だと、司祭は男性に限るといった制度がまだあって、問題視されることもあるが。)
上述の問題は、福音派内の問題と言える。
福音派も一枚岩ではないから、内部には、「聖書には科学的事実に反することも書かれている」と認める人たちもいる。彼らの考え方だとこうなる。たとえば、親が幼い子どもに、「クリスマスにはサンタさんが良い子にプレゼントを持ってきてくれるよ」と言ったとする。こうした発言はアメリカをはじめキリスト教の文化圏では珍しくないと思うが、そう言う親は、噓をついて子どもをだましているのだろうか。そうではなく、幼い子どものレベルに合わせてそう言ったと言えるのではないか。
同じように、神様は、古代人の知識・認識のレベルに合わせて大切なことを教えてくださったと考えることができる。だから、聖書に書いてあるからといって、書かれた当時の世界観や宇宙論、また文化や制度まで、現代の人が受け入れなければならないということではない。
こうした考え方だと進化論を否定する必要もなくなる。
それを聞いて自称「福音派」の原理主義者らが怒り出す。
「聖書は一字一句に至るまで、神の霊感によって書かれた誤りのない神の御言葉で、すべて文字通りの事実です。福音派の内部にまで、聖書には科学的事実に反することも書かれているなどと言う人がいるのは、自由主義神学の悪影響を受けたリベラル化です。これはサタンの仕業です!」
はぁ。目覚めない人たちはどこまでも目覚めない。
何が真実なのか真剣に道を求めていけば、プロテスタント主流派も、福音派も、カトリックも、かなり近い所に行くのではないかと思う。だからエキュメニズム(教会再一致運動)の動きもあるのだ。
広い視野に立って真剣に道を求めることに背を向け、狭い世界に閉じこもり、自分たちの先入観を上にして現代科学を否定し、エキュメニズムを否定するのは、たとえ「福音派」を名乗っていてもカルト思考の原理主義であり、現代の律法主義、現代のファリサイ派ではないか。
(伊藤一滴)
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アメリカの大統領選挙でトランプ氏の当選が確実になったという。
アメリカの国民が選んだことではあるが、誰が大統領になるのかによって、その影響は日本を含む世界に及ぶ。
トランプ氏が率いるアメリカがどういう方面にどう動くのか、専門家でも予測が難しいようだ。
今後どのような状況になっても、我々はその中で生きていくしかない。
そして我々にやれることをやるしかない。
・・・・・・・・・・
10月上旬に稲刈りをし、自家用分は天日干しにしました。
天日干しの米は乾燥状態をみて脱穀し、籾(もみ)袋に入れて保管しています。籾のままだと翌年の秋になってもおいしい状態が保たれます。
家の周りには猫軍団がいます。我が家の飼い猫は現在2匹(これまで最大10匹)。集落の猫はかなりの数で、人より猫が多いです。この猫軍団のおかげで、ネズミの被害を受けずに済んでいます。
・・・・・・・・・・
私の母(88歳)が、老健からグループホームに移りました。グループホームは老健や特養よりは費用がかかりますが、自由度が高くていいようです。
母は、軽度の認知症があるのですが、あいかわらず新約聖書(新共同訳)を読んでいます。
面会に行ったら、
「何か、聖書の解説ない?」
って聞かれたんですが、これは難しいですね。
特定教派の立場のなら聖書の入門書も注解書もいろいろありますけど・・・。
教派を超えたもので、かつ初心者向きとなると・・・。
私が思いつくところでは、
田川建三著『イエスという男』とか、
富田正樹著『信じる気持ち はじめてのキリスト教』とか、
聖書やキリスト教の初心者にはおすすめですけれど、ある程度一般教養を学んだ人ならともかく、教育を受けていない高齢者向きではないですね。
私の母は、戦中戦後の時代、貧しい母子家庭で育ちました。成績は悪くなかったのに、家が貧しくて進学をあきらめ、中卒でずっと働いてきました。
母には、三浦綾子著『道ありき』あたりかな。これは聖書の解説書ではありませんが、聖書を信じる人の生き方を示した名著です。同著『塩狩峠』も。
うちの息子に、
「おばあちゃんが読めるような聖書の解説書って、何かないかな?」
って、聞いたら、
「日本聖書協会の『スタディバイブル』あたりがいいんじゃない」
って言ってました。
それもありかな。
・・・・・・・・・・
(伊藤一滴)
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この夏、荒井献先生が逝去された。
今度は佐竹明先生が召され、
そして、グスタボ・グティエレス先生も。
1980年代~90年代、こうした方々の著書を読みふけっていた私は、時代が変わってゆくのを感じている。
荒井献先生や佐竹明先生の新約学は手ごわかった。
グティエレス先生の『解放の神学』は、山田経三先生(当時、上智大学教授)の訳で読んだ。山田経三先生にお会いしてお話を伺う機会もあり、幸いだった。
フィリピンにいたときにグティエレス著『ヨブ記』の英訳を見かけ、関心があったのだが英語で読み通す自信がなく、買わなかった。帰国してから銀座の教文館に寄ったら、山田経三訳の日本語版が出ていた。手に取って値段を見たら、ずいぶん高い。
フィリピンと日本の物価の違いを思い知った。高いな~と思ったが、読みたかったから買った。
荒井献先生や佐竹明先生らの新約学研究に、キリスト教界はきちんと応えてきたのだろうか?
グスタボ・グティエレス先生らの「解放の神学」に対しては、どうなのか。
私の妻(クリスチャン4世)が、「ベネディクト16世の生前退位は解放の神学に対する敗北の表明」と言っていた。妻によると、頭脳明晰なベネディクト16世(ラッツィンガー)は、グスタボ・グティエレスやレオナルド・ボフらの見解に勝てないと判断し、退位し、革新派に道を譲ったのだろうという。なるほど。
グティエレス著『解放の神学』(山田経三訳)はかなり難解なので、関心のある方には、まず、ホアン・マシア著『解放の神学』をお勧めしたい。
(伊藤一滴)
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