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「聖書」が先か「キリスト教信仰」が先か

卵が先かニワトリが先かという話がありますが、聖書とキリスト教信仰と、どっちが先なのでしょう?

キリスト教信仰が先です。

以前書いたことを繰り返します。

「信仰の論拠は聖書のみ」というプロテスタント信仰(聖書中心主義、本来の意味での福音主義の信仰)の限界の一つは、新約聖書の成立より先にキリスト教信仰があったという事実です。
何もないところにいきなり聖書が与えられ、それを読んだ人たちに信仰が生じたのではありません。信仰が先です。イエスの教えやわざがあり、イエスは復活した、彼はキリストだと信じられ、信仰が受け継がれて、信じる人たちの共同体の中で新約聖書が成立したのです。

キリスト教信仰の成立は、新約聖書の成立より先です。

新約聖書があってのキリスト教の成立ではなく、キリスト教が信じられる中で新約聖書が成立したのです。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/08/post-a875.html


たとえて言えばこうなります。

人間の言語は、先に文法書があって、文法書に基づいて出来るのではありません。
人造言語は別として、普通は言語が先で、その言語を明らかにするのが文法です。

同様に、聖書が先か信仰が先かを問えば、信仰が先です。

古代ユダヤ教の信仰が先にあって、信仰を証しした文書がヘブライ聖書(旧約聖書)です。
旧約を受け継ぎつつ、キリスト教の信仰が成立した後、キリスト教の信仰を証しした文書が新約聖書です。

信仰が先です。

キリスト教が始まった時代、まだ新約聖書はありませんでした。また、旧約聖書も確定していませんでした。つまりイエスが生きて活動した時代はもちろん弟子たちやパウロらが伝道した時代も「聖書66巻」なんてなかったのです。

ユダヤ教がヘブライ聖書(キリスト教から見れば旧約聖書)39巻を確定したのは西暦90年代ですし、新約聖書の27巻の確定はずっと遅く、4世紀の末です。

イエスや弟子たちが活動していた時代、「旧約聖書39巻」の正典化はまだで、「律法と預言者」(つまりモーセ五書と預言の書)は重んじられていましたが、どこまでを正典とするのか厳密な定めはなかったのです。正典とアポクリファの区別もありませんでした。「39巻」が正典と定められたのは西暦90年代ですから、イエスの死(西暦30年頃)からだいぶ経ってからですし、しかもキリスト教徒が定めたのではなく、ユダヤ教のファリサイ派(パリサイ派)の学者が中心となって決めたのです。キリスト教徒はこのヘブライ語の39巻ではなく、その後も主に七十人訳を使い、やがてヒエロニムスのラテン語訳が出て、ラテン語訳が主流となったのです。

七十人訳には39巻にない文書も含まれており、キリスト教にとっての旧約の範囲は不明確なままでした。今も旧約の範囲は教派によって違います。

新約も、一貫した「新約聖書27巻」ではありませんでした。初期の教会ではどの文書を新約聖書と認めるのか、揺れていました。私たちはエイレナイオス(イレネーウス)の証言やムラトリ正典目録から、新約の揺れを知ることができます。教会は4世紀の末になってようやく「27巻」を公認しましたが、それから千年以上経ったルターの時代になってさえ、どこまでを新約正典とすべきか揺れていました。ルターは、ヘブル書、ヤコブ書、ユダ書、黙示録の四書には正典性はないと考えていたようですが、読者の判断に委ねようとしたのか自分が訳したドイツ語訳聖書から外しませんでした。もしルターが妥協せずにどこまでも自分の考えを通したなら、ルター派の聖書にこれらの四書はなかったかもしれません。

さらに近代の歴史的批判的な聖書研究(高等批評学)は、これまで伝えられてきた新約文書の著者と実際の著者がほとんど一致しないことを明らかにしました。
正典の中にはテモテ前書(テモテへの手紙一)のような、パウロの名で書かれた差別的文書まで入っています。疑似パウロ書簡(偽パウロ書簡)であっても、内容がよいのならともかく、テモテ前書のような女性を著しく差別する不快な文書まで、パウロの作と誤解されて正典に入ってしまいました。
もし、疑似パウロ書簡が正典に入らず、マリア福音書(マグダラのマリアによる福音書)が正典な入っていたとしたら、その後の教会の女性に対する対応はずいぶん違っていたことでしょう。マリア福音書はグノーシス文書だから排除されて当然だと言うのなら、ヨハネ福音書だって広義ではグノーシス文書ではありませんか。実際、グノーシス派の教会は好んでヨハネ福音書を使っていました(バート・D・アーマンによる)。古代の「正統派」の教会はグノーシス派を異端として排除しながら、彼らが使っていたヨハネ福音書は自分たちの正典に採用したのです。

4世紀末の教会が新約正典を選んだ基準は、十二使徒の一人が書いたと考えられたもの、パウロが書いたと考えられたもの、使徒の身近にいた人が書いたと考えられたもの、イエスの兄弟が書いたと考えられたものでした。正典文書の選定にあたり、使徒やイエスの兄弟と関連付づけて権威を持たせようとしたのでしょう。しかし、当時著者とみなされていた人物の多くは実際の著者ではないことが今日わかっています。著者が確実視されているのはパウロ書簡の一部だけです。

キリスト教信仰の根拠として聖書という正典を制定したのでしょうが、正典の制定とはその程度のものなのです。
その程度のものに、やれ、内的権威だの、無誤だの、唯一の論拠だの、聖霊の働きによる内証だのと言うのは、聖霊に対して失礼ではありませんか。
「キリスト教綱要にこうあります」とか「ウエストミンスター信仰告白にこうあります」とか言う人たちがいますが、キリスト教綱要やウエストミンスター信仰告白といった人間が書いた文書で、神を上から規定し、縛るのですか? 人間が書いた文書は神より上位なのですか?

人間が土の器であるように、人間によって人間の言語で書かれた聖書もまた、神を証しする器のようなものではないのですか。器のようなものを神聖不可侵の不磨の聖典のように見なす方がおかしいのです。正典成立史を考えたって、そういう神聖視はおかしいのです。器を神聖視する人ほど、中のイエスの教えを大事にせず、イエスの教えより自分たちのイデオロギーを優先しているように思えます。

パウロが言ったように、私たちは今ぼんやりと鏡に映ったようなものを見ているのでしょう。
聖書という正典もまた、ぼんやりしたものなのでしょう。

どうして、無誤の文法書が先にあってその文法書に基づいて正しい言語がある、みたいな発想になるんでしょう。言語が先なのに。
聖書66巻が先にあってその聖書に基づいて正しいキリスト教がある、みたいな発想は、考え方がひっくり返っています。そして、キリスト教成立の歴史的事実にも反しています。


なお、新約聖書に出てくる旧約からの引用は、ヘブライ語を正確に訳したものではなく、多くは七十人訳からの引用や、七十人訳を一部変えたものです。
ヘブライ聖書と七十人訳は違う点がかなりあり、新約の執筆者らはヘブライ聖書を見ながらではなく七十人訳をもとに論考し、執筆し、引用しました。

ヘブライ聖書と七十人訳と、両方とも日本語訳が出ており、日本語訳を比べるだけでもかなり違うのがわかります。

もし、「無誤の旧約原典はヘブライ語の聖書であり、訳文は無誤ではありません」と言うのであれば、新約の執筆者が七十人訳というギリシャ語の訳文から引用しているのをどう考えればいいのでしょう。
「新約聖書に引用された部分だけは七十人訳も無誤で、たとえヘブライ語とかなり意味が違う訳であっても無誤」なのでしょうか。だとすると、無誤の原典が2種類あることになります。また、新約執筆者の記憶違いと思われる引用の誤りもありますが、「たとえ引用が誤っていても、新約に書いてある以上無誤」なのでしょうか。そういう理屈だと、「誤っていても無誤だ」という、わけのわからない話になります。


「文字としての聖書がなかった時代も神様のお考えの中に聖書66巻があったのです」といった主張もありますが、そのような主張は証明も確認もできません。いわゆる「聖書的根拠」すらありません。聖書のどこにも聖書の目録はありませんし、「聖書は66巻である」という記述もありません。
「聖書の正しさは聖書それ自体が証ししている」と循環論法を持ち出す人もいますが、たとえそのような循環論法を用いても、聖書それ自体「聖書の範囲はどこまでか」を証ししていません。
「私が持っている聖書にはちゃんと66巻の目次があります」なんて言わないでくださいよ。それはあとから付けられた目次ですから。私は聖書66巻+旧約聖書続編を全部じっくり読みましたけど、どこにも「聖書は66巻である」とは書かれていませんでした。

となると、「聖書は66巻である」という根拠は何ですか?
伝承ですか?
カトリックの伝承は否定しながら、自分たちは伝承を持ち出すのですか?
それともウエストミンスター信仰告白のような、あとから書かれた人間の言葉が根拠ですか?

「神様のお考えの中に最初から聖書66巻があったのです」というのは、その人の想像に過ぎません。人間の想像で学問的な聖書正典化の歴史を否定するのはナンセンスです。どうしてその人には聖書のどこにも書かれていない「神様のお考え」がわかるのでしょう。「聖書66巻は神様のお考えの中にあった」とどこまでも言い張るのなら、その人は自分を神の座に置くことになります。「私は神である」と言っているのと同じです。

どの文書を聖書と認めるのか、どこまでが聖書なのか、時代の中で揺れていました。
旧約聖書は今も教派によって違いますし、新約も、歴史的研究をふまえて正典を再検討した方がいいという見解もあるのです(蛭沼寿雄『新約正典のプロセス』)。

歴史を貫いて万人が認める「聖書66巻」なんて、ありません!


「そんなことが聖書のどこに書いてあるのですか」とか「〇〇派は聖書に書かれていない主張をしているので間違っています」とか、ことあるごとに言う人たちがいますが、聖書に書いてあっても書いてなくても、正は正、誤は誤です。
聖書に書いてあるかどうかが正誤の基準ではありません。

それでも地球は回っています。
地球が回っているなんて聖書のどこにも書いてありませんが、それでも地球は回っています。

だいたい、どこまでが聖書なのか、その範囲もはっきりしていません。

(伊藤一滴)

善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ない?

「福音派」と名乗る人の中に、「信仰の論拠は聖書だけです。人は信仰によって救われるのです。善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ありません」と言う人がいた。

そうだろうか?

前回も書いた通り、「信仰の論拠は聖書のみ」とは、聖書のどこにも書かれていない。
旧新約全体の、どこにもない。
つまり、聖書的根拠がない。

よく、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張の聖書的根拠としてローマ書の次の箇所を挙げる人たちがいるが、ここから導くのは無理があると私は思う。

「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(ローマ3:28 新改訳初版 以下同)

ここで言われているのは「義と認められる」(義とされる)ことについてであって、「信仰の論拠」について論じた箇所ではない。また、「義と認められる」のは「信仰による」とあるが、「信仰のみによる」と限定もしていない。ここは、パウロが「私たちの考え」を述べた箇所で、イエスはこう言っているというのでもない。

ローマ書3:28を根拠にして「信仰の論拠は聖書のみ」と言い切るのは、幾重にも無理があると思う。

聖書には食い違いが多いが、このローマ書3:28のパウロの言葉と見解を異にする箇所がヤコブ書にある。

「人は行ないによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。」(ヤコブ2:24)

「人は行ないによって義と認められる」「信仰だけによるのではない」という。

ルターにとって、ヤコブ書は都合の悪い書だった。だからルターはヤコブ書の正典性を認めず、使徒性のないものとし、わらの書簡とまで言って価値のないものとした。

私の手元に日本語版のチェーンバイブルがある。正式には「聖書新改訳 注解・索引 チェーン式引照付」で、1980年代にいのちのことば社から出たものだ。やたら値段が高かったが便利なものだ。注解は、当然福音派の立場から書かれているが、ヤコブ 2:24の注解にはこう書いてある。

「行ないのない信仰は人を救うことができない。そのような信仰は本当の信仰ではないからである。」

この注解を書いたのは日本人の福音派の先生だろうが、その先生ははっきり「行ないのない信仰は人を救うことができない」「本当の信仰ではない」と言っている。

「善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ありません」という主張は、こうした福音派の注解に示された見解にも反している。
カルト思考原理主義の自称「福音派」を、福音派の一派とみなしていいのかどうか疑問だし、そもそもキリスト教なのかどうかさえ疑問に思う。


あなた方。
自称「福音派」の原理主義者やカルトをやめて、普通の福音派になったらどうですか? 一般の福音派はいい人たちですよ。一般の福音派は世界の平和や人々の幸福を願い、愛の心で他者に接しています。
あるいは、プロテスタントの主流派でも、カトリックでも、他宗教でも無宗教でもいいですよ。(他宗教の場合はカルトでない宗教にしてください。)
絶えず張りつめていた気持ちがかなり楽になることでしょう。

ファリサイ派(パリサイ派)を思わせる教条主義に縛られて生きることが、イエス・キリストに従うことになるのでしょうか? それが救われた生き方でしょうか?

本当に神様がおられるのなら、神様は良心に従って生きようとする人を地獄に突き落としたりなさらないと、私は思いますけれど。

(伊藤一滴)

聖書的根拠のないことを信じるのが聖書信仰?

聖書的根拠があるとか、ないとか、私は軽々しくは言わない。
聖書の学びが浅い人たちや、特殊な考えに凝り固まった人たちが、聖書的にどうだとかこうだとか、ここにこう書いてあるとか、文脈を無視して言いたがる。罪、悪魔、裁き、地獄といった言葉がしょっちゅう口から出て、それらが信仰の中心にあるような人たちだ。そうした人たちの中に、身勝手で、無礼で、社会の諸問題にまるで無関心で、困っている人のために指一本動かさない人が多いような気がする。それに対し、どの教派であれ、神を愛し隣人を愛するという教えを何より大切にする人たちは、枝葉にこだわらず、人に優しく、特に困っている人たちに優しいと思う。

聖書的根拠がどうこうなんて、軽々しくは言わないつもりだが、私も、聖書のどこにも書かれていない主張や、聖書の言葉から導き出すのが困難な主張の場合、「それは聖書的根拠がない」とか「聖書的根拠が薄い」とか、言うときはある。それは、聖書にまったく書かれていない、またははっきりとは書かれていないという客観的な事実があるからだ。

例えば、
「マタイ福音書の著者は十二使徒の一人マタイであるという聖書的根拠はない」(聖書に書かれていない。)

「日曜日は安息日であるという聖書的根拠はない」(「土曜の安息日が日曜に変更された」とは、聖書のどこにも書かれていない。もちろん、日曜礼拝への参加義務も書かれていない。)

「飲酒を禁ずる聖書的根拠はない」(聖書に泥酔を戒める箇所はあるが、飲酒禁止とは書かれていない。)

あんまりこんなことを言うと、「イエスの頭には髪の毛があったという聖書的根拠はない」とか、「薔薇の名前」みたいに「イエスは笑ったという聖書的根拠はない」とか(涙を流した箇所はあるが)、そんな話になってしまうけれど…。


実は、「信仰の論拠は聖書のみ」を掲げるプロテスタントは、そのスタート時点から、聖書的根拠のないこと基本に据え、その、聖書的根拠のない基本の上に理論を構築している!

私はそれを非難しようとは思わない。
カトリックが腐敗していた時代、ローマ教会やローマ教皇の権威に立ち向かうためには、さらに上の権威が必要だった。聖書を最高の権威としたのは、ローマカトリックを超えた権威が必要だったからだ。それは、当時の時代の状況の中で、やむを得なかったと思う。
しかし、その後、歴史が進んでも、プロテスタントは16世紀の状況での聖書中心主義の主張を変えなかった。


プロテスタントの、そのスタート時点からの「聖書的根拠のない主張」は主に次の通りである。(私のような素人でさえ、これらに聖書的根拠がないことに気づいた。)

「信仰の論拠は聖書のみ」とは、実は、聖書のどこにも書かれていない。
ルターが主張した基本中の基本のこの言葉に、そもそも聖書的根拠がない。
「信仰の論拠は聖書のみなのに、カトリックは聖書のどこにも書かれていない主張をしているので間違っています」みたいなことを言う人たちがいるが、「信仰の論拠は聖書のみ」と、聖書のどこにも書かれていないのだ。だから、そう言う人は、自分自身が聖書のどこにも書かれていない主張をしている。だのに、その矛盾に気づいていない。

「聖書は66巻である」。これも聖書のどこにも書かれていない。旧約聖書続編をどこまで聖書と認めるのかは教派によって異なる。教派によっては、続編から導かれた見解もある。

「聖書は誤りなき神の御言葉である」。福音派が好んで言いそうだが、これも聖書のどこにも書かれていない。聖書のどこにも書かれていないのに、カルヴァンはこれを聖霊の内的な確証によって自明であるとし、当然の前提とした。彼は、カトリックは聖書のどこにも書かれていないことを言っていると非難しながら、自分も聖書のどこにも書かれていない主張をした。(だから私は、カルヴァンは「福音派」の元祖かと思った。)


やがて18世紀のドイツ敬虔主義の勃興があり、その影響もあって主にアメリカで信仰復興運動(リバイバル)が盛んになり、種々の新興キリスト教が生じていった。ここに詳しくは論じないが、新興キリスト教の見解の中にも、聖書のどこにも書かれていない主張や聖書的根拠が希薄な主張が見られる。聖書にないどころか、ルターやカルヴァンも言っていない主張も見られる。だから新興キリスト教なのだ。

福音主義は、最初から、聖書のどこにも書かれていない主張を掲げ、宗教改革から敬虔主義や信仰復興、自由主義神学とこれに対抗する原理主義(=根本主義、ファンダメンタリズム)の台頭、原理主義の極端化と、より穏健な新福音主義(福音派)の広がり、福音派の一部の再原理主義化、と進んできた。一方、19世紀以降、高等批評学(歴史的批判的な聖書学)や進化論を基本的には受け入れた自由主義的な陣営は、プロテスタントの主流派(メインライン、リベラル)となって今に至っている。
今日、福音派と主流派は、どちらもプロテスタント教会を名乗りながら別の宗教のようになってしまった。

福音派(自称「福音派」も含めて)は、近年、聖書信仰という言葉を好んで用いるが、聖書信仰と言いながら、宗教改革のスタート時点から「聖書的根拠のない主張」基本に据えた教義を受け継いでいる。

信じるのは自由だ。ただ、プロテスタントの出発点に明確な聖書的根拠はないと知った上で信じているのだろうか。

聖書信仰を称する側は、スタート時点に聖書的根拠がないことを追及されると、「聖霊の働きによって正しい信仰であると確信できます」と言う。
「聖霊の働き」は便利な言葉だ。自分たちの主義主張を正当化するのに使える。聖書にないことも、理論的に説明できないことも、聖霊の働きとして主張できる。要するに、何でもありの、理屈のいらない超理論だ。
「聖霊の働き」だから正しいとわかりますと言うのなら、聖書信仰を標榜するA派と、やはり聖書信仰を標榜するB派とが意見を異にし、激しく対立している場合はどうなのか。聖霊はA派とB派に異なる啓示を与え、別々に導いているとでも言うのだろうか。


種々の面があるとはいえ、16世紀の宗教改革によるキリスト教の健全化を思えば、その業績を正当に評価するのは吝かではない。しかし、改革者らは、最初から聖書的根拠のない主張を掲げていたのである。それは、教皇の権威が、紙の教皇(聖書および聖書解釈の文書)の権威に代わっただけだったとも言えるのである。

(伊藤一滴)

聖書の食い違い、それぞれ

1.聖書に出てくる出来事や発言が食い違う(微妙に、あるいはかなり)

2.聖書の各文書の著者の考え方が食い違う(主張の違いは、教義にかかわるものもある)

3.聖書の記述が歴史的・科学的な事実と食い違う

4.新約聖書に出てくる旧約からのの引用が、旧約のその箇所と食い違う(微妙に、あるいはかなり)

私が思うこの4通り以外にも、食い違いがあるかもしれません。
また、食い違いではありませんが、文法的な誤りもあります。


食い違いがある場合、その1つが正しいなら他は間違いですし、みな間違いかもしれません。みな正しいというのはありえません。明らかに食い違っていますから。

「同じ事実も見方によって表現が違うときがある」と言う人もいますが、それは「一字一句に至るまで神の霊感によって書かれた無誤の聖書」という主張と両立しません。「個人的な感想」や「記憶違い」なら、表現が違うこともあるでしょう。でも、「十全霊感によって書かれた無誤の聖書」は「個人的な感想」と同程度のものでしょうか? 「記憶違い」もあるのでしょうか? しかも、無誤なのになぜ文法上の誤りがあるのですか?

これまでも様々なつじつま合わせがなされてきましたが、「イエスが十字架につけられたのは過ぎ越しの食事の前か後か」といった、つじつま合わせのしようのない矛盾もあります。それでも強引につじつま合わせをしようとする人たちがいますが、どれも聞くに堪えない、むちゃな話です。

出来事なら、まだ、いろいろ言いようもあるのでしょうが、各文書の著者の考え方まで食い違っています。主張が違うのです。パウロの手紙とヤコブの手紙は矛盾しないと言うのはかなり強引な解釈ですし、マタイ福音書は律法を重んじ良い行ないを重視しているのに、パウロは律法の行ないではなく信仰によって救われると言い、考えが違います。しかもマタイは十字架の贖いについてまったく言及していません。マタイには、イエスの十字架の死は私たちの罪の身代わりだったとか、その贖いを信じる者は救われるといった考えはなかったのでしょう。著者の考え方がかなり違うのです。

歴史的、科学的な事実との違いはすでに多く語られていますので、そちらに譲ります。

新約聖書に出てくる旧約からの引用と旧約聖書のその箇所との違いは、引照付きの聖書をご覧になれば、誰でも確認できます。これから買うのなら引照付きをおすすめします。
私は、引用の食い違いについて、「聖書は無誤」と主張する人たちから納得のいく説明を聞いたことがありません。リベラルな立場の人だと、「新約聖書の著者たちはふだん使っている七十人訳から引用したのです。記憶で引用したのか、不正確な引用もあります」と説明してくれますけど。

無誤の聖書に不正確な点があるはずがないという先入観は、事実を見る目を曲げてしまいます。

そして、「十全霊感によって書かれた聖書は無誤である」といった考え方自体、聖書的ではありません。聖書のどこにもそんなことは書かれていないからです。つまりそれは、人間が作った人間の考えの1つに過ぎません。「聖書はすべて神の霊感によるものであって~」と書いてあっても、「無誤である」というのは別の話です。(※)

(伊藤一滴)


※「聖書はすべて神の霊感によるものであって~」(2テモテ3:16)と書かれた時代、新約聖書はまだなかったので、ここでいう「聖書」は新約を含みません。著者が使っていた聖書は七十人訳でしょうから、旧約聖書続編も含めて「聖書」となります。続編の部分は聖書ではないと、著者は一言も言っていません。また著者は、「聖書とはヘブライ語で書かれたものだけ」とも言っていません。仮に、聖書とはヘブライ語で書かれたものだけなら、後の新約聖書は聖書ではないということになります。
(ちなみに、1テモテ書も2テモテ書もパウロの名で書かれた疑似パウロ書簡です。パウロが自分で書いたものでも口述筆記させたものでもありません。後にパウロの手紙という形で別人が書いた文書です。今日、まともな聖書学者で、テモテ書の著者はパウロだと言う人はまずいません。)

聖書信仰?

アメリカでトランプ氏が大統領になった頃から、日本でも、福音派が話題になることが増えた。
そして、福音派という言葉が、否定的な意味で使われることが多くなった。それを気にしてなのか、福音派が自分たちのことをを聖書信仰と呼ぶことが多くなったように思う。

「福音派の多くがトランプ支持」、「Qアノンを信じる福音派がいる」、「トランプ氏は福音派の支持を得たいからイスラエル寄り」、「福音派は超保守派、原理主義、狂信的」・・・・、といった報道がなされてきた。一般のマスコミにおいて、負のイメージで語られることが多かった。

日本においても、福音派全体がそうだというのではないが、福音派と名乗る一部の人たちの不祥事や問題行動、ネット上での問題のある発言等々が、福音派全体のイメージを悪くしている。
(ネット上で、自分を福音派のクリスチャンと名乗り、問題のある発言を繰り返す人たちがいるが、彼らは本当に福音派なのか? それとも、福音派が大嫌いで、福音派のイメージを低下させることが目的で、福音派の信者になりすまして盛んに発言しているのか? どっちなのか、私には分からない。)

長男(大学生)が言っていた。
「福音派の中にとんでもない人たちがいるから、福音と聞いただけでも悪い感じがする。福音書まで、福音派の書みたいに聞こえて、悪い書みたいな感じがする」
長男が通う大学内やその周辺にも、とんでもない「福音派」たちがいるようだ。

福音派という言葉のイメージの悪化で、なるべく自分たちを福音派と言わず、聖書信仰と言い換えても、福音派は福音派だし、自称「福音派」は自称「福音派」だ。


聖書信仰?

聖書信仰という言葉は、戦前から使われているようだが、私は、かなり、違和感がある。

「私たちは正しい聖書信仰に立つ正統的プロテスタントです。福音主義のクリスチャンです」

えっ? 聖書信仰って?

聖書を信仰するの?
神を信仰するのではなく、聖書を信仰?
信仰の対象は聖書?
中身ではなく器(うつわ)を信仰しているような印象を受ける。そして、実際、そういう人たちがいる。

二言目には「聖書に書いてあるから」。

聖書に書いてあるかどうかではなく、イエスが何を伝えようとしたのかが大事なのではないか。
「聖書に書いてある」って? そんなの、解釈次第でどうとでも言える。
書いてあっても書いてなくても、是は是であり非は非だ。
聖書に書いてある、書いてあるって、あなた方はファリサイ(パリサイ)の徒か?

聖書信仰と称し、聖書という本を信仰する。紙に刷られた文字を信仰する。
神に対する信仰というより、紙で出来たものへの信仰。しかも特定の翻訳や注解しか使わない。
それは偶像崇拝の一種だろう。

福音派の中には尊敬すべきクリスチャンも多数おられ、私もお世話になってきた。
だから、福音派全体がそうだなんて言わないが、自称「福音派」が、自称「聖書信仰」と言葉を替えても中身は変わらない。

(伊藤一滴)

ギリシャ文字の覚え方と書き方

加筆修正しましたので、こちらをご覧ください。(2024.2.6)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2024/02/post-9d56.html

1.ギリシャ文字の覚え方

ギリシャ文字の覚え方はいろいろあるのでしょうが、お馴染みのラテン文字(英語などで使われるアルファベット)との対応で覚えると、覚えやすいと思います。
(こちらを参照して並べました https://palladi.blogspot.com/2015/04/blog-post_22.html)


ギリシャ文字(ギと略記)
ラテン文字(ラと略記)

ギリシャ文字の小文字とラテン文字の大文字を並べると


ギ αβγδε・(Fなし)
ラ ABCDEF

ギ ζηθ(~タ系)
ラ GH・

ギ ι・κλμν(Jなし)
ラ IJKLMN

ギ ξ
ラ ・

ギ οπ・ρστυ(Qなし)
ラ OPQRSTU

ギ φ・χψω(Wなし)
ラ VWXYZ


(単に文字を覚えるための暗記法です。厳密な言語学の話ではありません。こじつけもあるので、そのつもりでお読みください。)

ラテン文字の F J Q W が、ギリシャ文字では欠番で、
ギリシャ文字の θとξ がラテン文字では欠番です。

θは角度の記号などで見ますが、ξはくせ者です。くせ者だから、くせー。こじつけですが。
ζηθと、~タ系が並ぶので、θは忘れないと思いますが、ξを飛ばさないよう要注意です。
ξはくせ者!

ギリシャ文字のγは英語のGに当たりますが、英語のCとGは無声音か有声音かの違いで、口の形はほぼ同じということで、γにCを対応させます。文字の歴史としてはGはCを少し変えて作った字だそうです。

ラテン文字のFが欠番になりますが、言語によってはFとVが同様の音になるので2つはいらないと考えます。

ギリシャ文字のζとラテン文字のGは違うのですが、どちらも濁る音ということで、ここに置いて対応させます。順番を崩さない方が覚えやすいので、順番を優先します。

ラテン文字のJは昔はなくて、Iの下が曲がって出来た文字だそうです。

ラテン文字のQも、CやKと同様の音になるのでいくつもいらないと考えます。

Wも、Vを2つ重ねて出来た文字だそうです。

ギリシャ文字のφは英語のFに当たりますが、言語によってはFとVが同様の音になるのでφとVが対応。

ギリシャ文字のψとラテン文字のYはまったく違うと言われそうですが、なんとなく形が似ているのでこじつけて対応。

ギリシャ文字のωとラテン文字のZも全然違いますが、最後の文字ということで対応。「AからZまで」も「アルファからオメガまで」も、意味は同じということで、対応させます。そのへんは、まあ、ご愛敬で。

2.ギリシャ文字の書き方

大文字 ΑΒΓΔΕΖΗΘΙΚΛΜΝΞΟΠΡΣΤΥΦΧΨΩ
小文字 αβγδεζηθικλμνξοπρστυφχψω

ギリシャ文字に筆順の決まりはないそうです。
「ギリシャ文字の筆順」というものが本に書いてあったり、ネット上にあったりしますが、たぶん、非ギリシャ人が書いたのでしょう。ギリシャ語を母語とする人たちは筆順を気にしていないとのことです。

筆順の例は、真理子さんのホームページをご覧ください。これは、ギリシャ国内でも統一されていないという筆順の中のほんの一例です。

https://www.babelbible.net/lang/lang.cgi?doc=gr_scrpt&lang=gr


私が特に書きにくいと思ったのはζとξです。
日本語の文字もそうですが、文字は読めれば活字の通りでなくてもいいのです。
ζは「ろ」をつぶしたようにも書けます。漢字の「了」の手書き字とも似てます。
ξは、本当にくせ者です。活字をまねると書きにくいです。「3」を左右逆に書き、下を曲げても読める字になりますし、「っ」の下にくっつけて「了」と書いてもそれっぽくなります。
詳しくは、真理子さんのホームページで。(なお、真理子さんは現代語の発音をもとに書いておられるようです。多くの入門書に載っている古典式の発音と少し違います。)

(伊藤一滴)

キリスト教の本質は弱者のルサンチマン?(再掲)

学生時代にニーチェに触れ、キリスト教の本質を「弱者のルサンチマン(弱者の憎悪)」とする見解にぎくりとしました。

キリスト教徒の中には、本当に、「ルサンチマン」としての「信仰」を持つ人が一定数いるんじゃないかと思いました。

「私は聖書を信じ、イエス様を信じている。イエス様が十字架で罪を贖ってくださったのだと信じている。だから私は天国に行く。私を侮辱し、ひどい扱いをしている人たちがいるが、彼らは、今はこの世で栄えていても死後にさばかれて地獄に落ちる。そこで永遠に焼かれる。そうならないよう、彼らが私の話に耳を傾け、悔い改めるよう祈る」

一見「正統信仰」のようだけれど、それって、イエスが人々に伝えようとした教えなんだろうか?

それは、弱者の側の強者への憎悪、虚栄、仮想的な優越感や有能感・・・・ではないんだろうか。

ルサンチマン(憎悪)がキリスト教と不可分なものであるなら、キリスト教は愛の宗教ではなく憎悪の宗教ではないのか。

この世において勝ち目のない弱者が、自分を「正しい信仰を持つ者」とし、この世の強者に対して憎悪や虚栄のこもった仮想的な優越感や有能感をいだく。実際は、その弱者は本当に弱いのであり、劣っているのであって、優越でも有能でもないのだけれど、優越・有能の仮想を信じて自分を保とうとする。この世の強者に対して、上から目線になって、見下して、本当は自分の方が上なんだ、自分はイエス様を信じているのだから、こっちには神様がついている、永遠の命があるんだと信じ込む。
それが、キリスト教の本質?

もしキリスト教がその程度の宗教なら、キリスト教が説く神は死んだ。もうすでに死んでいる。
学生の頃、そんなことを考えていました。

このルサンチマン説は、すべてのキリスト信者に当てはまるわけではないけれど、「正統信仰」を自称する原理主義やカルトには当てはまるのではないかと思えてきました。

(一滴)

2019-10-02掲載分、ここに再掲

ニーチェ著『善悪の彼岸』、同『反キリスト者』(アンチクリスト)参照

「20点の自分を80点と言い、80点のノンクリスチャンを20点と言うクリスチャン」


敬愛するワインさんのmetanoiaxの日記から、また引用します。

出典 https://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/05/21/012853


引用開始

20点の自分を80点と言い、80点のノンクリスチャンを20点と言うクリスチャン
2017-05-21


一部のクリスチャンの人と話をしていて感じる事は、ノンクリスチャン対しての悪口が、兎に角多いと言う事である。

学校の先生の悪口から始まり、ご近所の人の悪口、職場の人の悪口、人のお子様の悪口・・・。

聞いていたら、殆ど悪口しか話さない。

嬉々として話す姿は本当に異様である。

そして次にくる話は、自分達クリスチャンは、どれ程、世の中の人と違って素晴らしいか・・・という話である。


現実は違う。

学校の先生も、ご近所さんも、職場の人も、人のお子様も、実にわきまえがあり、礼儀正しく、善良である。


クリスチャンの貴方の方が、わきまえがなく、厚かましく、お行儀が悪く、悪意に満ちている。


現実には目を向けず、ノンクリスチャンというだけで点数を低くし、クリスチャンというだけで点数を高くするクリスチャンが結構多いのである。

そういうクリスチャンの所属されている牧師の先生の説教を聞くと、説教の中にノンクリスチャンの人に対する悪口が必ず入っている。


私なら、こんな説教をする牧師のいる教会など2度と行かない。

こういう教会に嬉々として通う人は、もともと好戦的で攻撃的な悪口大好きな人か、そういう教会に小さい頃から親に連れられて、マインドコントロールされてしまった二世さんかのどちらかだろうと
思う。


二世さんは兎も角、結局は類は友を呼ぶのだと感じてしまう。


しかし・・・
そういう人達は本当にもともと、悪口大好きであったのであろうか?とも思うのである。


そういう教会の牧師の先生や、信者の方々を見ていて、ひとつ感じる事がある。

これは全く私の個人的な感性であるが・・・

「強烈なコンプレックス」である。


何か分からないが「強烈なコンプレックス」を感じるのである。

その「強烈なコンプレックス」が自分達を80点とし、ノンクリスチャンを20点として、現実から目を背けさせている様に感じるのである。


そして思うのである。

ひょっとして・・・・
貴方は、本来感じる必要の無いコンプレックスをコンプレックスとして抱えているのではないのか・・・と。

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♦20点の自分を80点にして80点のノンクリスチャンを20点にしてしまう貴方へ♦


誰が、そのコンプレックスを感じさせたのだ?

そんなコンプレックス捨ててしまえ!
貴方のせいなんかじゃない!
本来持たなくても良いコンプレックスを、誰かの都合で持たされているだけじゃないか!
そんなコンプレックス捨ててしまえ!


20点でもいいじゃないか。
そこから始めれば良いじゃないか。
みんな、20点のところも80点のところもあるのだから、いいじゃないか。


貴方の持つ必要の無い、強烈なコンプレックスが、20点の自分と向き合う事を邪魔してるのではないかと感じる。


もう一度言いたい。

そのコンプレックスは誰かに植え付けられたのだ。
決して、貴方のせいじゃない。
誰かの都合で持たされたコンプレックスなんだから、さっさと捨ててしまおうよ。

そうしたら・・・

20点の自分を80点にして、80点のノンクリスチャンを20点にする様な、架空のお伽噺の世界から抜け出す事がきっと出来る。


貴方の世界が広がる。

貴方が批判ばかりしていた、貴方の言う世の中の人の温かさに出逢う事が出来る。


それは、貴方が知らなかった温かさである。


温かいよ。


引用終了


私もまったく同感です。
「架空のお伽噺の世界から抜け出す」ならば、自分がいた世界がフィルターをかけられた世界だったと気づくはず。
外には素晴らしいものがたくさんあり、温かさを感じるはずです。外にはイエス様の教えにかなうものがたくさんあるのです。
そして、自分がいた「正しい教会」が、実は、イエス様が説いた教えと逆方向の、ゆがんだ狭い世界だったと気づくはずです。
そんな悪意に満ちた「教会」から、もう出ましょう。
目を覚ましてください。

(伊藤一滴)

「十字架の贖いを信じるかどうか」が最も大事?

若い頃、イエスの言葉よりパウロやカルヴァンの見解を上に置く人たちを、「パウロ教」「カルヴァン教」と皮肉っていました。
「福音派」とか「教派ではなく真のキリスト教」とか称する人たちで、しつこく絡んできて、私も腹を立てたんです。

前回書いた、罪や悪魔や地獄の恐怖で人を脅す人たちです。困っている人がいても指一本動かさず、社会の諸問題にもまるで無関心で、「もうすぐ世の終わりが来るのですから、世に関わっても意味がありません」みたいな人たちでした。仏教団体の福祉活動を「救いとは無縁で無意味です」と言って馬鹿にし、クリスチャンの社会活動を「あの人たちは社会派で、正しい信仰ではありません」と言って見下すような人たちでした。
そういう人たちから何度も絡まれ、私はかなり腹を立てました。

怒りのあまり、
「仏教徒もイスラム教徒も無神論者も簡単には地獄には行けませんが、あなた方なら行けます」
と言ったら怒ってましたね。真っ赤になって怒ってました。青くなって怒る人もいました。
でも、私にきちんと反論できる人は誰もいませんでした。
体を震わせて私をにらみ「あなたは救いの中にいません!」などと言うのですが、どうしてそう言えるのか、誰も筋を通して説明できないんです。まあ、単なるカルト信仰の思い込みで、ちゃんとした理論なんて、最初からなかったんでしょうけど。

今思うと、当時の私は彼らへの愛の心を欠いていたと反省しています。
人を見下すような彼らの言葉や態度に腹を立て、それを指摘したらしつこく絡まれて、さらに頭に来て、正面から喧嘩腰で反論していました。
相手のことを思えば、もっと言いようもあったのでしょう。
私はまだ若く、未熟でした。
その後会っていませんが、彼らがどこかで気づき、目を覚ましてくれていたらいいと思います。


イエスは「十字架の贖いを信じない人はみな地獄に行く」「贖いを知らない人もみな地獄に行く」と教えましたか?
読みようによってそう感じてしまうのは、植え付けられた先入観があるからではないのですか?

聖書の中に出てくる「信仰」とは、すべて「十字架の贖いを信じること」ですか?


まず、旧約には「十字架の贖いを信じること」は出てきません。だから、旧約に出てくる人で十字架の贖いを信じていた人はいません。

新約を見ても、
マリアの夫ヨセフは十字架の贖いを信じていましたか?
星に導かれてエルサレムに来た東の博士たちは十字架の贖いを信じていましたか? この博士たちって、異教の占星術の学者でしょ。
まぶねに眠る御子を訪ねてきた羊飼いたちは十字架の贖いを信じていましたか?
バプテスマのヨハネは十字架の贖いを信じていましたか?
長血の病を癒された女は十字架の贖いを信じていましたか? イエスはこの女に「あなたの信仰があなたを救った」と言ってますけど。

「十字架の贖いを信じない人はみな地獄に行く」「贖いを知らない人もみな地獄に行く」というのなら、こうした人たちも地獄に行くことになるのですか?


キリスト教において最も大切なのは、イエスを信頼し、イエスが人々に伝えようとしたメッセージを受け入れ、従うことではないのですか。
イエスは、心から神を愛することと、自分自身を愛するように隣人を愛することの大切さを説きました。これら最も小さい者の一人にしたのはすなわち私にしたのであり、しなかったのは私にしなかったのだと教えました。(※)

愛と、愛に基づく行動を、一般にヒューマニズムといっています。
福音書を素直に読めば、イエスはヒューマニズムを重視していた、と読めます。
イエス自身、「十字架の贖いを信じるかどうか」を最も重視していたとは思えません。

「善い行ないも人道主義も救いとは一切無関係です。イエス・キリストの十字架の贖いを信じる以外、いかなる救いもありません」などと言っている自称「福音派」や「教派ではない」人たちの主張は、イエスの教えと方向が逆です。

だから私は、「仏教徒もイスラム教徒も無神論者も簡単には地獄には行けませんが、あなた方なら行けます」と言ったのです。
(今もそう思っているわけではありませんが、その頃は本気でした。)
そして、にらみつけられて、「あなたは救いの中にいません!」と怒られました。
当時の私は、その言葉をそっくり彼らにお返ししました。
「救いの中にいないのはあなた方のほうです。仏教徒もイスラム教徒も無神論者も神様の御そばに上げられてアブラハムのふところにいだかれる日に、あなた方ははるか下の灼熱の炎の中で泣いて歯ぎしりすることでしょう」

(伊藤一滴)


※「人の子」がイエスのことかどうか議論がありますが、たとえ別の存在でも、その「人の子」に対して良いことをしたかどうかが問われるというのです。
「人が救われるのはその人の良い行ないによるのであって、十字架の贖いを信じるかどうかによるのではない」という主張も可能でしょう。パウロの見解に反するとか、ルターの見解に反するとか言われるでしょうが、「パウロの見解は聖書に出てくるさまざまな見解の中の一意見」「ルターの主張はキリスト教の歴史の中のさまざまな見解の中の一意見」と言い返すこともできるでしょう。