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キリスト教の側から見た非クリスチャンの救い

考え方がいくつかあります。(※)

私なりに「キリスト教の側から見た非クリスチャンの救い」についての考え方を分類してみます。
ただし、下記以外の見解もあるでしょうし、見解が交じり合ったりもするので、私の大雑把な分類だと思ってください。


1.救われるのはクリスチャンだけであり、非クリスチャンにはいかなる救いもない。(保守的な福音派や原理主義者等)

2.クリスチャンが救われるのが原則だが、キリストの福音を知らず、あるいは理解せずに、黄泉(ハデス)に下った霊たちにもイエス・キリストは宣教してくださる(根拠はペテロ第一の手紙3:18~19や4:6など)。その宣教を聞いて信じた霊たちは救われる。(東方教会の伝統的考え、バークレーの注解書、日本の無教会(たとえば黒崎幸吉や前田護郎)の見解、プロテスタント主流派の牧師の中にみられる見解(全員ではないけれど)、保守的なプロテスタントの一部にみられる「セカンドチャンス論」など)

3.真実を求めて誠実に生きるなら、どの宗教でも思想でも、救いに至る。(日本の伝統的な考えと同様の見解、またジョン・ヒックなど)


上記の1の立場を「排他主義」と言います。キリスト教だけが絶対であり、他に救いはないのです。
非クリスチャンのことを「未信者」と呼ぶのも、すべての人はクリスチャンになるべきで、まだなってない未信者は早く信者になるべきだという思いからでしょう。

2は、他の宗教や思想の人にキリスト教の救いを当てはめる「包括主義」です。つまり、キリストによる救済で他の立場を包み込むのです。仏教徒やイスラム教徒にも救われる人がいるのは、仏教やイスラム教の教えが正しいからではなく、キリストの救いは非キリスト信者にも及ぶからだ、という考えです。生涯キリスト教を信じなくとも、死後に救いのチャンスがあるという考えです。

3は、大きくは2つに分けられるのではないかと思います。

3-1.包括主義の一種
3-2.宗教多元論


現代のカトリックは3-1に近いように思えます。

「第二バチカン公会議公文書」を素直に読めば、良心に従って生きようとする他の宗教や思想の人は、神の救いから除外されない、と読めます。
唯一の、三位一体の神や、唯一のキリストの十字架の救いといった絶対性は譲らず、異なる立場を包み込む形での救済を論じるのです。

カール・ラーナーの「知られざるキリスト者」論は、控えめな表現ですが、救いを「はっきりクリスチャンだと分かる人」や「クリスチャンである自覚を持つ人」に限定していません。なんとなく神を感じている人も、異教徒も、無神論者も、当人がキリスト教についての自覚などまったくなくても、良心に従って生きようとする人はみな神の御心にかなうのであり、広い意味では「知られざるキリスト者」とでも言うべき「クリスチャン」であるから、神はこうした人たち救うという考えが成り立つ、と読めます。

3-2の宗教多元論だと、ゴッドもアラーも他の神もみな同じ神の別な呼び方であり、どれかが正しく他は間違いというわけではない、真実を求めるいろいろな道の中の一つとしてキリスト教もある、ということになります。この見解だと、キリスト教も正しさを求める諸宗教の中の一つとなり、キリスト教の絶対性は溶けてなくなるように見えます。そして、「それはもうキリスト教ではない」と言われてしまうのです。ジョン・ヒックが有名です。


私は、どうしても、排他主義が好きになれません。科学的な見解も神学的な見解もていねいに検討することなく「人は死んだらこうなります」なんて簡単に断定できるのでしょうか。我々に言えるのは「人が死んだらどうなるのか詳しくはわからないが、キリスト教には救いの希望がある」ということくらいでしょう。

包括主義的な考え方は、よく聞きます。無教会の信者、カトリックの信者などから直接聞きました。
「福音派」を自称する原理主義者がそれを聞いて怒ってましたね。「キリスト教の信仰がなくても救われるなら、万人救済論になってしまう。それではキリスト教を信じる意味がない。そんなのは、キリスト教じゃない!」って。
いや、万人救済とは言っていません。神のみこころの実践者に救いがあるのです。
原理主義の思考や言行は、果たして、神のみこころにかなうのでしょうか?
「 7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 」(マタイの福音書 新改訳初版)
(まあ、聖書を引用すれば、まったく正反対のことも言えるし、なんとでも言えますけどね。)

宗教多元論については、それが正解かどうかはともかく、心をひかれるものを感じています。

(伊藤一滴)


※福音派の見解、主流派の見解、カトリックの「第二バチカン公会議公文書」(特に「現代世界憲章」、「教会憲章」、「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」)、カール・ラーナーの「知られざるキリスト者」論(『日常と超越』所収)、ジョン・ヒックの『神は多くの名前を持つ』や『キリスト教の絶対性を超えて』など、いろいろ読みながら考えました。あとは、小説ですが、遠藤周作『深い河』なども。この小説はかなりジョン・ヒックを意識していますね。
考えれば考えるほど、素直に素朴に信仰の道に入るのが難しくなるようです。

教皇か、法王か、そして敬称は?

Photo

私に「教皇フランシスコの十字架」をプレゼントしてくれたのはA君という人で、A君は代々続くカトリック信者の家の出身でカトリックのことに詳しいので、お礼の電話のついでにいくつか聞いてみました。


私:世間では「ローマ法王」と言ったり「ローマ教皇」と言ったりしてるけど、カトリック教会ではどうなの?

A:日本のカトリック教会は今は「教皇」で統一しているけど、以前は「教皇」と「法王」が混在していたみたいだね。ヨハネ・パウロ二世が来日されたときから「教皇」で統一するようになったって聞いてる。最近になって日本政府も一般のマスコミも「教皇」で統一するようになったね。

私:そうか。ちょっと前まで外務省が「法王」って書くのに、文部省検定済の世界史教科書が「教皇」になってたりして、公的な記述が食い違って、どっちなのかと思ってたよ。ところで、教皇を呼ぶときの敬称は、聖下? 台下? 猊下? 何がいいの?

A:そんなの、今の教会では、どれも使ってないよ。

私:でも、教皇聖下とか教皇台下とか、書いてあるのを見たことがあるんだけど。

A:そんな書き方をするのはカトリックの人じゃないんじゃないの。それとも戦前の教育を受けた人かな。

私:じゃあ、どうお呼びしたらいいんだろう?

A:教会では「教皇様」とか「パパ様」とか言うのが普通だよ。それと、マスコミは「フランシスコ教皇」なんて言ってるけど、名前で呼ぶときは「教皇フランシスコ」って、教皇を前につけるのが普通。

私:そうなんだ。どうもありがとう。


(伊藤一滴)

「教皇フランシスコの十字架」

教皇ミサに参加した方からお土産に「教皇フランシスコの十字架」のレプリカをもらいました。
フランシスコ様がいつも首にかけておられる十字架を模したもので、実物より小さめに作ってあります。(写真の百円玉は大きさの参考)

20191127


実に素敵なプレゼントで、私はとても喜びました。
迷い出た羊を見つけた羊飼いと、聖霊を表わす鳩が刻まれた十字架です。

18:12あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。 18:13そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。 18:14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(マタイの福音書 新改訳聖書初版)

教皇様の、「小さい者たち」の側に立つ実践者であり続けたいという願いを感じます。

もう一つ、別の意味があります。
実物は殉教者の遺品だというのです。この十字架には、信仰を貫いて死んでいった人を忘れないという思いも込められているのでしょう。

ネットで探したのですが、日本語の記事で見つけたものはこれだけでした。


引用開始

法王「胸の十字架は殉教司祭の遺品」
2015.9.19 12:10 

ローマ法王フランシスコ=2015年9月9日、バチカン(ロイター)

 ローマ法王フランシスコ(78)は17日、首から掛けている十字架が、信仰を守り殺害されたイラク人司祭の遺品であることを明かした。AFP通信が伝えた。

 法王は、修道士との集会で、「この十字架は、イエス・キリスト(の信仰)を捨て去ることを拒否したために喉を切られ殺された司祭が握りしめていたものです。現代はイエスの時代より多くの殉教者がいます」と語った。1987年に140万人いたとされるイラクのキリスト教徒は現在、約40万人まで減少したという。(SANKEI EXPRESS)

引用終了

出典:https://www.sankeibiz.jp/express/news/150919/exd1509191210002-n1.htm

(伊藤一滴)

ローマ教皇様、訪日ありがとうございました

訪日されたローマ教皇フランシスコ様が語られたメッセージは、みな心に響くものがありました。

聖書なんて解釈次第で何とでも言えると、私はいつも言うのですが、フランシスコ様のメッセージは、少なくとも私には、本来あるべき理念そのものに思えました。

平和の大切さ。
核兵器のない世界の実現。大量破壊兵器の保有は平和と安定への答えではないこと。これは、外国の核兵器に守られることも含めて、防衛のための核兵器も否定ということでしょう。
さらに、「日本の司教団は原子力発電の廃止を求めた」として、引用の形ではありますが、原子力発電批判の見解を表明されました。
人間の尊厳。命を大切さ・・・・。
教皇は日本滞在中に死刑廃止に言及しなかったという人もいますが、バチカンがあらゆる死刑を認めないことを公式に表明していること、東京ドームでのミサに袴田巌さんを招待したことなどから、教皇様が死刑制度に反対なのは当然で、言うまでもないことだったのでしょう。


ありがとうございました。フランシスコ様。

私たちもまた、共に、よりよき世界、よりよき未来を願っております。

教皇フランシスコ様はじめ、今回の訪日を実現してくださった関係者の皆様方の御健勝とローマカトリック教会の益々の御発展をお祈り申し上げる次第です。

(伊藤一滴)

唯一絶対は、実は相対的

唯一の神だの、唯一の救いに至る信仰だのと、唯一を信じれば、「自分たちは正しく、他は間違い」になります。
唯一ですから、他に神はなく、他に救われる信仰はないのです。
ここに、エキュメニストと呼ばれる他者に寛容なキリスト教信者が抱える矛盾があります。
たとえば晩年のカール・バルトやカトリックの第二バチカン公会議は、キリスト教以外の思想信条の中にも価値あるもの、真実なものを見出す方向に動き、共生を模索しました。
しかし、唯一を信じるキリスト教にとって、唯一絶対は譲れません。唯一の正しいものを信じる以上、「他は間違い」になりますから、間違いを指摘して改めさせるのではなく、間違っている他者との共生をめざすという矛盾が生じるのです。

一方、「自分たちは正しく、他は間違い」だから、キリスト教以外の思想信条を否定し、他者に寛容な教派も批判する反エキュメニズムの立場であれば、こうした矛盾は生じません。
福音派の中の特に保守的なグループや原理主義者がそうです。(※1)

ただし、信じる側は人間ですから、唯一を信じるといっても、人間の思考の及ぶ範囲のことしか認識できません。

(それ以前に、そもそも客観的に存在を証明できない「神」のようなものを認識の対象にできるのか、という問題があります。そして、どんなに認識しようと努力しても、それは人間の思考が及ぶ範囲に限られます。)

人間に分かるのは「人間の思考の及ぶ範囲」の神です。

神を、「人間の思考の及ぶ範囲」に閉じ込めることはできません。

神が人間を超越したものなら、人間は神に関し、わかったようなことを言えないはずです。

わかったようなことを言う人もいますが、それはその人の思考の範囲の中における神であり、その人の主観的な思いかその人が属する団体から教えられた神についての見解か、どちらかでしょう。

人の思いはさまざまです。
聖書が根拠だと言っても、その解釈はさまざまで、聖書の言葉を引用してまるで正反対の結論を導くこともできます。(※2)

「神とはこうだ、これが正しい信仰だ」なんて、簡単には言えません。
言えるのは、せいぜい、
「私は神とはこうだと思う、これが正しい信仰だと思う」
とか、
「この教派では、神とはこうだと信じ、これが正しい信仰だと信じてきた」
くらいです。

唯一を信じているはずなのに、キリスト教の中には無数の解釈、無数の教派が生じています。
唯一の神、唯一の救いに至る信仰について、微妙に違うことを言う人もいれば、まるで違うことを言う人たちもいます。

人間の思考の及ぶ範囲内で考えているわけだから、唯一絶対は、実は相対的なんです。
人間の思考の中の神を真の神、それを信じるのを真の信仰だと思っているのです。
そうやって、特に、反エキュメニズムの人たちは異なる主張を厳しく非難します。

何が正しいキリスト教なのでしょう。

過去の歴史を見てください。

正しいキリスト教とされるのはつまり、多数を占めた側です。

よく言われます。
「異端派が多数を占めることはない。なぜなら誰も多数を占めた側を異端派とは言わないから」
と。

(伊藤一滴)

(※1)私は、福音派の中の特に保守的なグループの主張に、原理主義の精神性のようなものを感じます。「ここまでは福音派、ここからは原理主義」と、線を引くのは難しいです。
なお、ここで言うのは「福音派の中の特に保守的なグループ」のことであり、福音派はみんなそうだなんて思っていません。

(※2)前から言っているとおり、戦争、奴隷制、死刑、同性愛、女性の指導者等々について、聖書を引用してまったく反対の主張ができるのです。
最近だと、非クリスチャンにとっての救い、死後に悔い改めて救われるチャンスの有無など、それぞれに聖書を引用してまったく逆の主張をぶつけ合っている人たちもいます。そんな、古代の世界観の中で生きていた古代人の表現を引っ張ってきて、「こう書いてありますから、人は死んだらこうなります」なんて言ってもしょうがないと私は思いますけどね。むしろ、「死後」についての引用箇所から感じるのは、天界・地上・下界という三層の世界を信じていた古代人の世界観です。

エヴァンズ『解き明かされた信仰』読書中

Faith

レイチェル・ヘルド・エヴァンズ著『解き明かされた信仰:すべての解答を知っていた少女が質問をすることを学んだ方法』(Faith Unraveled: How a Girl Who Knew All the Answers Learned to Ask Questions (English Edition)  Rachel Held Evans 2014 )を読んでます。

彼女はコラムニスト、作家、ブロガーと呼ばれたりしていますが、私は、すぐれたキリスト教思想家の一人だと思います。

エヴァンズ氏はアメリカではベストセラー作家とのことですが、残念ながら著書の日本語訳がありません。
私の語学力で『解き明かされた信仰』を原著で読むのはちょっと大変なんですが、内容がすこぶる興味深いので、辞書を片手に、時々翻訳ソフトも使い、なんとか読んでます。

エヴァンズ氏は、今年、37歳で病死されたそうです。感染症の治療薬に激しい副作用の反応を起こして亡くなったと聞いています。早すぎる死が惜しまれます。


彼女は、アメリカ南部のバーミンガムに生まれ、14歳のときに進化論裁判で有名なキリスト教原理主義の町デイトン(Dayton)に移り住みました。家族も含めてまわりはみな保守的なキリスト教徒で、幼い時から何も疑わずに原理主義的な教えを信じていました。
副題にある「すべての解答を知っていた」というのは、原理主義者はどう聞かれたらどう答えるか、その模範解答をすべて知っていたという意味のようです。

どんな問いにも自分が学んだ模範解答に沿って答えていた彼女でしたが、聡明な彼女は、だんだんに思索を深め、原理主義の矛盾点・問題点に自分で問いを立てるようになってゆくのです。
その過程を著書やブログで発信しており、私にはとても興味深い分野です。(英語がスラスラ読める人がうらやましい。)

彼女は、自分の考えの変化を「進化」と呼びました。原理主義的な考え方を克服してもキリスト教信仰からは離れませんでした。つまり、進化する信仰になっていったのです(※)。

かつて、進化論を教えた高校教師スコープス氏を、聖書に反する嘘を教えたとして裁判にかけたデイトン。近年でも、同性愛を禁じる規定を制定しようとしたデイトン。
その町を、彼女はこう言います。

When it comes to different breeds of Christianity, Dayton is a Galapagos Island of sorts, a terrific destination for anyone wishing to study the evolution of fundamentalism in America.
(異なる種類のキリスト教に関して、デイトンはガラパゴスの一つの島のようであり、アメリカの原理主義の進化を研究したい人にとって素晴らしい行き先です。)
Evans, Rachel Held. Faith Unraveled (p.39)

デイトンは人口7千人と少しの町だそうです。
その町全体が原理主義。
アメリカにはそういう町があるんですね・・・・。

人類文明の「進化」からも、キリスト教の「進化」からも取り残されたように、まるで中世か近世初頭のような世界観・価値観を今も保ち続ける町。
本当に、ガラパゴスの島のよう。

アーミッシュのように、絶対平和主義で、つつましく、他者を攻撃したりしないのなら、取り残された町でもいいと思います。むしろ、世界がそうなってくれたほうが人類は平和に生きていけるのかもしれません。

ところが原理主義者たちは、やたら攻撃的なのです。
進化論を攻撃し、同性愛を攻撃し、自分たちの価値観に反するものをことごとく攻撃します。彼らにとって、自分たちの価値観が聖書の教えであり、真理なのです。

そういう町があるんですね。アメリカに。

やっと今日、39頁まで読みました。

(伊藤一滴)

2019.11.21追記
私の記憶違いで不正確な記述がありました。エヴァンズ氏はデイトンの生まれではなくバーミンガム生まれです。お詫びして訂正します。
なお、訂正のときに全体を見直して書き直しました。

ご参考
エヴァンズ氏が死の直前まで書いておられたブログはこちら
https://rachelheldevans.com/
(英文)

※ちなみに、この『解き明かされた信仰』(2014)は、最初『モンキータウンでの進化』( Evolving in Monkey Town: How a Girl Who Knew All the Answers Learned to Ask the Questions (2010))という題で出されました。モンキータウンとはデイトンのことです。

人を縛る現代の律法主義

私が最初に行った「教会」は、極端な原理主義者(あるいはカルト)の集まりでした。40年以上前の話です。私は10代のはじめでした。
他の教会のことをまったく知らないので、そこが特異な「教会」だとすぐには気づかず、たびたび行って話を聞いていました。
おかしいと気づくまで、時間がかかりました。

だいぶあとになって、日本基督教団の信者さんにその話をしたら、
「それはあなたの責任ではありませんよ。教会を外から見たって、それが健全な教会か極端な教会かなんて、見分けられません。それに、極端な人たちは、すぐにはそういう色を出しませんから、何回か行って話をしたくらいでは分からないんですよ」と言われました。
そのとおりです。

大学生のとき、いろいろな教派の教会を訪問し、あまりの違いに驚きました。
「キリスト教を信じることが大事なのであって、教派なんてどこでもいい」みたいなことを言う人もいますが、教派によってやり方も言うこともかなり違います。別の宗教ではないかと思うくらい違います。
しかも、同じ教派なのに、教会によって、牧師によって、ずいぶん見解が違うこともあります。

一つの教会しか知らない人にとってはそこがキリスト教の標準かもしれませんが、他の教会に行ったり、他の牧師や司祭の話を聞いたりすると、まるで別な世界なんです。
キリスト教は実に多様です。

福音派と称する人たちにしても、決して一枚岩ではなくて、いろいろなタイプがあるようです。とてもいい人たちもいます。ただ、中には困った人たちもいます。
「福音派」と称する人たちの中に、明らかな原理主義者やカルトがいます。

原理主義者やカルトは地域が違っても教派が違っても、発想が非常によく似ています。

自分たちは正しいキリスト教を信じているから救われている。自分たちの外の「世」はサタンの支配下にある。「世」に価値はない。「世」はやがて滅ぶべきもの、くだらないものだ。リベラルなプロテスタントやカトリックの教会は「世」の影響を受けた教会であり、純粋なキリスト教ではない。彼らは聖書の権威を正しく認めない間違った価値観を持っている。
我々こそが、正しく聖書を理解し、正しく信じる教会だ。我々こそが、正統プロテスタントであり福音的な教会だ。

あれかこれかの二元論です。

このような、自称「正統プロテスタントの福音的な教会」は、人を責め、人を縛るのです。
自分を縛り、自分の家族や関わりのある人たちを縛ろうとします。

だって、この「正しい」教えを信じないと、永遠の地獄で永遠に焼かれるんだから。一人でも多くの人を救わないといけない。信じてもらわないと。

そうやって、人はみな罪びとだという罪悪感や地獄に落ちるのではないかという恐怖心で人を縛り、縛られた状態を「救われている」と言うのです。

福音のため、救いのため、永遠の命のためと、牧師は信者を脅し、縛ります。信者に子どもがいれば子どもを脅し、縛ります。
恐怖心を植え付けられ、「この教えを信じる者だけが救われ、他は永遠の地獄で永遠に焼かれる」と教え込まれ、逃げられなくなります。

10代はじめの私は、そういう「教会」で話を聞いていました。

それが正しい聖書信仰??
恫喝的に人を恐怖に陥れ、縛り、支配し、信じ込ませることがイエスの教え??

それは、人間が人間を支配しているのです。
支配するのに聖書を都合よく利用しているだけです。


『信仰という名の虐待』(いのちのことば社)という冊子が出てだいぶ経つのに、まるで変わらない「教会」もあると聞き、暗澹たる思いです。

支配する側の常でしょうが、人を縛る「教会」では、金銭欲や色欲に堕してゆく牧師も少なくないようです。あとは、認められたいという思いや、名誉欲でしょうか。
たとえそうならなくても、カルト的な信念で自分を縛り、生涯その信念を持って、他者を攻撃し続ける牧師や信者もいるようです。

ニーチェが言った「弱者のルサンチマン」(弱者の憎悪)、マルクスが言った「宗教は民衆のアヘン」といった言葉は、自称「正統プロテスタントの福音的な教会」にぴたりと当てはまるようです。


「~と言われてきたのをあなた方は聞いています。しかし私はあなた方に言います。・・・・」(マタイ5章)

支配からの解放が、福音書に描かれたイエスの教えです。
福音書を素直に読めば、イエスは律法を破壊したり否定したりせずにうまく乗り越えています。そうやって、律法主義の縛りから、人々を解放したのです。

それを、人を縛る律法主義に逆戻りさせてどうするのでしょう。

福音書に出てくるファリサイ派や律法学者への非難は、現代の律法主義(原理主義者やカルト)への非難そのものに思えます。

(伊藤一滴)

聖書の言葉を引用して、まるで正反対のことを言うこともできます

聖書の言葉を引用して、まるで正反対のことを言うこともできます。

以前書いたことと重複しますが、聖書を読めば、矛盾するように思える箇所や現代の科学や人権意識に反するように思える箇所が多数あり、理屈のつけようで正反対の結論を導くこともできます。

たとえば、
戦争を否定するか肯定するか、
奴隷制を否定するか肯定するか、
死刑制度を否定するか肯定するか、
女性の牧師を認めないか認めるか、
同性愛者を拒絶するのか受け入れるのか…。
さらに、
女性は教会でベールをかぶるべきか否か、
女性は教会で沈黙しているべきか否か、

もっともっとありますが、聖書を引用してまったく正反対の答えを出すことも可能なのです。

矛盾するように思える箇所や現代人の認識に反するような箇所は、当時の誤った認識なのか、それとも、その時代のその場の状況での正しさなのか、あるいは、時代や場所に関わりなく普遍的な聖書の教えとして受け入れるべきことなのか。

それらは理屈のつけようでどうにでもなるのです。

だから、三層からなる世界観だけでなく(注)、こうした点からも、「何の解釈も加えずに、聖書に書いてあることを書いてあるとおり、文字どおりに信じる」というのは不可能なのです。

万人が認める「聖書的にはこうです」とか「聖書に忠実に従えばこうです」なんて、ありません。
それは「この教派(またはこの私)の聖書解釈ではこうです」とか「この教派(またはこの私)の教えに忠実に従えばこうです」というのを、「聖書」と言い換えているだけなのです。

聖書を引用し、まったく正反対のことを言えるのですから!


「聖書は誤りなき神のことばである」と信じる立場があることを承知しています。そしてそういう立場の中に尊敬すべき方々も多数おられるのを承知しています。ですから、そう信じること自体を非難したりしません。しかし、仮にそうだとしても、ある教派やある牧師の聖書解釈もまた誤りなき解釈だということにはなりません。

聖書の本文校訂の精度や翻訳の正確さの問題もありますが、それ以前の話で、そもそも、聖書解釈をするのは人間なんです。聖書によれば、人はみな罪人(つみびと)であるという、そういう人間なんです。当然人間としての限界があります。先入観に左右されることもあるでしょうし、自分が先入観に左右されているかもしれないという自覚がないことだってあるでしょう。人間の限界や先入観の恐れについての自覚があるのなら、かなり慎重になって、断定的な言い回しは避けるでしょうし、異なる立場を一方的に非難したりはしないでしょうに。

断定的な言い方は、自身のなさの表れなのかもしれません。
どうも、聖書の学びの水準が低く、そのことに劣等感を持つ人たちに断定的な言い方が多いような気がします。

いくら聖書の権威を主張したって、聖書は文字で書かれたものでありそれを解釈するのは人間です。
「聖書的にはこうです」とか「聖書に忠実に従えばこうです」なんていうのは、人間の聖書解釈に過ぎないのです。

聖書はどうにでも解釈できます。中にはひどく主観的な解釈もあります。やたら神の審きや地獄の恐怖を煽る人たちもいますが、おびえることはありません。それは、「その教派、その「教会」、またはその人の解釈」に過ぎません。
別の教派、別の教会、別の牧師から、違う話を聞けるでしょう。

主観的な言葉に支配され、多額の献金を脅し取られたり、人格や生活を破壊されたり、性犯罪などの犯罪に巻き込まれたりしてはいけません。

(伊藤一滴)

(注)ブルトマン『新約聖書と神話論』参照

言葉の意味の改変とレッテル貼り

歴史的事実にあまり興味がなく、事実に反することを平気で言ったり、特定の言葉が持つ意味を無視して勝手な意味で使い始め、独自の意味で使う人たちがいます。
例えば、「左翼」という言葉は、反体制派(特にマルクス主義者)を意味していましたが、ネット右翼(ネトウヨ)は「我々が気に入らないヤツ」という意味で使いだし、仲間内で定着させました。だから、仏教徒もキリスト教徒も、反マルクス主義者も、気に入らないヤツはみな「左翼」のレッテルを貼られてしまいます。


私は、こうした体質を、「福音派」と称する人たちの中に感じるときがあります。排他的なキリスト教原理主義を思わせる精神性、かもしれません。(すべての福音派ではありません。福音派の中には穏健で、良識があり、人の話をよく聞き、愛の心で他者に接する誠実な人たちが多数います。)


「私たちは、自由主義に対する福音主義の信仰に立ちます」

ある種の「福音派」の人たちはそう言います。でも、「自由主義」と「福音主義」は対立する概念なのでしょうか。

ルターは当時の教皇主義に対して福音主義を主張したのです。ですから、「教皇主義に対する福音主義」なのです。福音主義は聖書中心主義を意味し、プロテスタント主義とほぼ同義です。
この福音主義の中から、かつての自由主義神学やその後の様式史・非神話化論、新正統主義といったプロテスタント神学が展開していったのです。

福音主義というのは「教皇主義に対する福音主義」であって、自由主義神学なども含めた聖書中心主義を意味する言葉です。
私は、自由主義に対立する言葉として福音主義という言葉を用いるのは、言葉の使い方として不適切ではないかと思います。
ネット右翼らが「特定の言葉が持つ意味を無視して勝手な意味で使い始め、仲間内で、そもそもそんな意味ではなかった独自の意味で使う」のと似ているように思います。

「自由主義に対する福音主義の信仰」というのは仲間内でしか通じない独自の表現です。
本来の意味で言葉を使えば、
「プロテスタント主流派(リベラル)に対する福音派の信仰」
となるのではありませんか。

どうしても自由主義という言葉を使いたいなら、
「キリスト教の自由主義に対するキリスト教の原理主義」(原理主義=根本主義)
としないと、言葉が対になりません。(福音主義という言葉は原理主義という意味なのでしょうか?)

まあ、言葉は時代と共に変わりますから、本来、聖書中心主義を意味する「福音主義」という言葉が、今日では「福音派」という意味で使われることもある、ということなのでしょうけれど・・・・。でもそれは、自分たちが独自にそういう意味で使っているのであって、外部の人はあまり使わない表現です。

ある種の用語を言う側がどっちの意味で言っているのか、気をつけないと、話が通じなくなります。

(注:なお、日本語版ウィキペディアの「福音派」の項全体、および「福音主義」の項の中の「教派による福音主義の用語の違い」の箇所などは、「福音派」と称する立場の中の保守的な方が執筆されたようで、そういう視点から書かれていて、客観的な記述ではありません。2019年10月現在)


もう一つ私が気になっているのは、「自由主義神学」という言葉です。

自由主義神学という言葉の一般的な意味はこうです。

「こんにち自由主義神学と呼ばれるものは,主として19世紀のリッチュルとその学派をさす。そこにはハルナックのような教義史の大立者がおり,聖書研究ではH.グンケルやJ.ワイスのような宗教史学派に属する学者がおり,ブルトマンもその流れを汲んでいる。」
(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

(注:これも、日本語版ウィキペディアの「自由主義神学」の項は、「福音派」と称する立場の中の保守的な方が執筆されたようで、そういう視点から書かれていて、客観的な記述ではありません。一般的な意味ではなく福音派内で使われる独自の意味での「自由主義神学」の説明で、そういう視点から、「自由主義神学は間違っている、正しいキリスト教ではない」という価値観で書かれています。2019年10月現在)

ブルトマンを自由主義神学と呼ぶかどうかですが、私は、ブルトマンは自由主義神学の時代に学び、やがて、自由主義神学を批判的に克服した人だと思っています。

今日、かつての自由主義神学をそのまま信じている人はまずいないでしょう。
その後の神学は、自由主義神学の遺産をふまえ、批判的に克服する形で展開したのです。
自由主義神学を批判した人たちや批判者の流れをくむ人たちも、みなひっくるめて自由主義神学と呼ぶのはどういうことでしょう。

それこそ、ネトウヨのように、自分たちの神学以外の現代神学を総称して「我々が気に入らない神学」という意味で「自由主義神学」とレッテルを貼って言うのでしょうか。それはまさに、「特定の言葉が持つ意味を無視して勝手な意味で使い始め、仲間内で、そもそもそんな意味ではなかった独自の意味で使う」ことではありませんか。

わざと、ある言葉を違う意味で使い、インターネットも使ってどんどん広めれば、言葉はそういう意味を持つようになる、ということですか。

誠実さを感じません。

私自身、「あなたは自由主義神学の立場だからそんなことが言えるのです」と何度か言われました。
私は19世紀のリッチュル学派でもチュービンゲン学派でも宗教史学派でもないので、「私は自由主義神学の立場ではありません」と言ったのですが、「いいえ、自由主義神学です」と言われ、まったく対話になりませんでした。

でも、そういうレッテル貼りをする人と同じ福音派の教派に属する別の人から、私は親切にしていただき、有益な助言や心のこもった励ましをいただいたこともあります。感謝しています。所属教派だけでその人を判断できません。

福音派の中にはとてもいい人たちもいるのですが、福音派と称する人の中には、気をつけないといけない人もいます。
(彼らが「超教派」と言うのは、エキュメニズムとは違います。沿革の違う教会に属する似た考えの人たちの集まりを超教派と呼んでいるだけです。)


共通するものが見えてきました。
「福音派」の中の特に保守的な人たち(右派のプロテスタント神学者や、シカゴ声明などの信奉者)、明らかなキリスト教原理主義、狂信的な聖書カルトらの考え方は、ネット右翼とも共通するのですが、「我々は正しい、我々の外部は間違っている」という、あれかこれかの二元論的な価値観なのです。

「正しい」自分たちは、「正しくない」外部とは対話せず、時に、用語も独自の意味で使いだして意味を変えてゆくのです。

自分たちの正しさを信じてカルト化してゆく教会のほとんどが、福音派または聖霊派と称する教会であることと、無関係ではないでしょう。

絶対的なものを信じる信仰は、一歩間違えば、閉ざされた中で独善的に暴走し、それが独善的であることにも、暴走していることにも気づかなくなるのです。

(伊藤一滴)