« 2023年2月 | メイン | 2023年4月 »

キリスト教史の諸問題 「教会はいらない、信仰もいらない」

まず、どう聖書を読んでも、旧約と新約には主張にズレがあります。
イエスの教えとパウロの見解にもズレがあります。
福音書も、それぞれに出来事の記述の食い違いもありますし、著者の考え方の違いもあります。
「使徒行伝が描くパウロ」と「パウロの手紙」には食い違いがあります。
パウロの手紙とヤコブの手紙など、まるで考え方が違っています。
他にも、多くの食い違いがあります。

私は、そうした食い違いを認めていいと思っています。矛盾点など一切ないと頑張れば、無理な説明になってしまい、おかしな方向に走ることになります。実際、「正しい聖書信仰」と称し、変な方向に走っている人たちがいます。


キリスト教成立の初期には、指導的な女性たちがいて、かなり活躍していたようです。我々は、パウロのローマ書の末尾の挨拶などから、それを察することができます(ローマ16:1以下参照)。
ジネント山里記: ヘブル書の著者は女性? 優秀な女性使徒もいた? (ic-blog.jp)

キリスト教は、弾圧の時代を経て、4世紀にはローマ帝国から公認され、その後ローマ帝国の国教となりました。弾圧に屈せずに活動を続けた教会は、ローマ帝国の宗教となり、帝国の権力と結びつきました。天上の栄光を求めた人々は地上の力を得て、聖権と俗権が癒着したのです。

キリスト教の持つ、戦闘的性格、男性中心主義、上意下達の教会組織など、こうして形成されたのでしょう。

4世紀の末に、ローマ帝国はキリスト教以外の宗教やキリスト教の異端派を禁じ、弾圧するようになりました。弾圧されてきた側が、今度は弾圧する側になったのです。アメリカの建国や(現代の)イスラエルの建国に、似たものを感じます。これは、聖書に記された唯一のヤーウェ(ヱホバ)を信じる価値観と関係ありそうです。

新約聖書27巻が成立したのも4世紀の末です。パウロの真筆と考えられる手紙の中にも女性差別的な記述がありますが、そうした記述は男性中心主義者たちが書き加えた可能性もあるのです。ローマ書の末尾には活躍する女性たちへの高い評価と謝意が書かれています。そのパウロが、一方で女性を著しく差別していたとは考えにくいからです。

「アレクサンドリア」という映画にもなったヒュパティア(370-415)の名を聞いたことがありますか? 中高の歴史教科書などには出てこないので、知らない方も多いかと思います。彼女は哲学、数学、天文学、医学など、幅広い分野に通じた名高い学者で、遠方からも多くの人が学びに来ていました。神秘主義を排し、科学的な検討を重んじた彼女は、当時の教会から危険視される学者でした。
ギボンの『ローマ帝国衰亡史』にこうあります、「四旬節のある日、総司教キュリロスらが馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した」(※1)。

キリスト教徒の手によって、教会の建物の中で、彼女は惨殺されました。女が学問を教えるのは反聖書的だという思いも、この事件につながったのかもしれません。四旬節になるたびに、私はヒュパティアのことを思います。

その後、中世の教会は、カタリ派やワルドー派など、異端と見なした派に対し、容赦なく、残虐な弾圧を加えました。異端とされた人たちの活動は、正統教会の腐敗に対する抗議として、新約聖書に示された清貧の理念に立ち返ろうとした動きと見ることもできます。「異端」の指導者たちのほうが、ずっと清貧の中に生きていたのです。
正統教会は、最初は説得を試みたのですが、あまり効果が上がらず、「異端」に対し徹底的な武力弾圧を加えるようになりました。無抵抗な女性や子どもまで次々に殺害する殲滅作戦で、その結果、カタリ派は全滅し、ワルドー派は迫害から逃れた少数の人たちが何とか宗教改革の時代まで生き残りました。生きのびたワルドー派は福音主義信仰の一派としてプロテスタントに合流しています。

中世の十字軍派遣や、中世末期から近世にかけて激しくなった異端審問や魔女狩りも、キリスト教史の大きな汚点です。こうした暴挙によって、多数の無辜が殺されてゆきました。

十字軍の蛮行については既に多くの指摘があり、日本語で読める本やネットの記事も多数出されていますから、関心のある方はお読みになってください。
私が言うまでもないのでしょうが、知らないクリスチャンが多いので、一つだけ書いておきます。
十字軍がイスラム教徒の町に攻め入ると、女性、子ども、高齢者といった非戦闘員も含めて住民を殺害するのが常でした。旧約のエリコの戦いを思わせます。それに対し、イスラム教徒の軍がキリスト教徒の町に攻め入っても、原則として、非戦闘員は殺さない方針であったようです。例外もあったかもしれませんが、一般的には、イスラム教徒のほうが人道的でした。

キリスト教徒にとっては「イエスを信じる」ことだけが救いであり、人道的であることは救いとは関係なかったようです。カトリックの場合、善行も重んじられていましたが、この善行は一般的なヒューマニズムではなく「教会に従うことが善行である」と矮小化されていました。
この時代、教会が異教徒の殲滅を命じれば、非戦闘員も含めて殲滅するのが善行になってしまっていたのです。

今も「イエスを信じる」と称する一部の人たちに、ヒューマニズムの否定が見られます。さすがに今のカトリックではヒューマニズムの否定はないと思いますが、「福音派」を称する人たちの中に、「救いはイエス様を信じることだけで、ヒューマニズムは救いとは無縁の人間的価値観だからだまされてはいけません」といった主張があるのです。中世のカトリックの悪い面が今の自称「福音派」に受け継がれているようです。十字軍と似たもの、そして、エリコの戦いと似たものを感じます。

ジネント山里記: 善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ない? (ic-blog.jp)

魔女狩りについて言えば、これは、教会による無辜(多くは女性)の大量虐殺でした。14世紀から約400年もの間、おびただしい数の無関係な人たちが魔女の疑いをかけられ、殺されています。
魔女狩りはカトリックで下火になってからもプロテスタントによって続けられ、アメリカにまで飛び火しました。マサチューセッツ州で起きたセイラムの魔女裁判(Salem witch trials 1692-1693)が有名です。(これを知らない「正しい聖書信仰」のクリスチャンが多い! 「魔女狩りをやったのは悪いカトリック、正しいのは福音主義」という、あれかこれかの二元論! 実際は、新旧両派とも盛んに魔女狩りをやっています。そして、最後まで続けたのはプロテスタントの側です! ※2)

ユダヤ人差別、女性差別、人種差別、先住民差別、性的マイノリティー差別・・・と、キリスト教徒による差別は続きます。

「宗教改革でキリスト教は正しくなった、それ以前は間違っていた」みたいな、あれかこれかの二元論じゃないんです。

ルター(1483-1546)の宗教改革に刺激され、抑圧されていたドイツ農民が決起すると、最初同情的だったルターは農民軍を非難する側に転じました。トマス・ミュンツァー(1490?-1525)率いる農民軍は宗教改革者から弾圧され、またカトリックからも弾圧され、ミュンツァーはカトリックの軍に捕えられて拷問され、斬首されています。
一方のカルヴァン(1509-1564)も、スイスのジュネーブで、一種の恐怖政治のような強権支配をしています。当時、セルヴェトス(1511-1553)という思想家で医学者で神学者でもあった知識人がいました。ハーベイより先に血液の循環に気づいていたようです。彼は、カトリックから異端者とされて捕えられ死刑を宣告されましたが、脱出し、各地を転々とした後、ジュネーブに逃れました。ところが逃れた先のジュネーブでカルヴァン派から捕らえられ、カルヴァンの賛同のもとに異端の罪で火刑に処されています。セルヴェトスは首に幾重にも縄を巻かれた上、火刑台に鉄鎖で括りつけられ、とろ火でゆっくりと焼かれたとのことです。見ていた人は苦しみもだえる姿を見かねて、火に枯草を投じて火力を上げ、死を早めさせてやったと伝えられています。カルヴァン派は「異端者」を焼き殺すことで、正統信仰に反する者はこうなるのだという見せしめにしたのでしょう。
今も多くのプロテスタントはカルヴァンの影響を受けていますが、そのカルヴァンは「異端者」を火あぶりにする人だったのです。(これも知らない「正しい聖書信仰」のクリスチャンが多い!)

その後のキリスト教の歴史もひどいものです。
聖バーソロミューの虐殺事件や三十年戦争が有名ですが、新旧両派は戦いを続け、また新教徒同士の争いも続きました。キリスト教徒による内ゲバのような同士討ちの時代でした。

エラスムス(1466?-1536)やカステリョ(1515-1563)のように、平和や寛容を求めた人もいるにはいました。しかし、残念ながら、動乱の16世紀に寛容な主張が多数意見になることはありませんでした。

キリスト教徒は世界の各地に進出して先住民に疫病をもたらし、収奪、搾取、殺害を繰り返しています。キリスト信者以外は人間ではないと思っていたのでしょうか。さらにキリスト教徒はアフリカ人を奴隷としてアメリカに連行して働かせました。その子孫の人たちへの差別は今も残っています。

ざっと歴史を見ても、感じるのは、ものすごい不寛容です。キリスト教の歴史は不寛容の歴史であり、不寛容に基づく争いの歴史だとも言えます。


クリスチャンにとって、三位一体の神だけが、唯一の神なのです。

聖書だけが、唯一の正典です。

イエス・キリストだけが、唯一の救い主です。

みな、唯一で、自分たちだけが正しくて他は間違いなのです。


過去を省みて謝罪や反省を表明した教派もありますが、今でも、特にプロテスタントの中に、その中でも特に福音派系に(その中でも特に「福音派」と称する原理主義者らに)、「自分たちだけが正しくて他は間違い」という人たちがけっこういます。


前にも言いましたが、プロテスタント(特に福音派系)が強く主張する、
「聖書は66巻である」
「信仰の論拠は聖書のみ」
「聖書は誤りなき神の御言葉」
「聖書の権威」
「日曜は安息日」
といった言葉は、聖書のどこにも書かれていません。
どこにも書かれていないのですから、もちろん、イエスはこういったことを教えていません。

「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、聖書のどこにも出てこないことを言い張る矛盾をどう考えたらいいのでしょう。(そしてこの「信仰の論拠は聖書のみ」という言葉自体、聖書のどこにも出てきません。)


私たち現代人が、無理な解釈などしないで、どこまでも、ただイエスの教えに従おうとして進むならどうなるのでしょう。この世における不寛容と争いの教会に縛られるべきではない、となりそうです。

私は、聖書に書かれていないことでもそれが伝統的に受け継がれてきたことで、かつ、常識的に考えて悪くないことであれば、否定はしません。でも、教会の教えの中に、イエスが人々に伝えたメッセージに明らかに反する点があるなら、それに縛られるべきではないと考えています。

万人向けの考え方ではないかもしれませんが、突き詰めれば、最終的には、「教会はいらない、(教会が言う意味での)信仰もいらない」となるのかもしれません。

イエスが生きて活動した時代に、教会というものはありませんでした。教会というものがなかったのだから、「教会の教え」もありませんでした。

たぶん、どこまでも突き詰めて行けば、こうなるのでしょう。

「我もなく世もなく ただ主のみいませり」
(讃美歌529番)

黙示録のイメージです。
自分もなく、キリスト教やキリスト教会といったものを含めて世もなく、ただ主だけがおられる!

(伊藤一滴)

※1 
『ローマ帝国衰亡史』からの引用はウィキペディアの「ヒュパティア」の項からの再引用(孫引き)です。
これもウィキペディア情報ですが、「カキの貝殻」という語は「タイル」または「屋根瓦」とも訳せるそうです。昔のギリシャで、カキの貝殻が建築物の屋根などに使われていたので、窯業によって作られたタイルにも同じ語が使われたのでしょう。仮に、「カキの貝殻」ではなく「タイル(または屋根瓦)」だったとしても、「タイル(または屋根瓦)で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した」とギボンは述べているわけで、残虐な殺害であったことに変わりありません。
なお、ヒュパティアの遺体はバラバラにされて見世物にされた後、市の門外で焼かれたそうです。


※2 
「魔女狩りは,カトリック,プロテスタントを問わず,集団ヒステリーとして広がり,アメリカ新大陸にまで持ち込まれ 18世紀まで続いた(→セーレムの魔女裁判)。魔女狩りは 17世紀末から 18世紀初頭にかけて終焉に向かったが,強者が弱者を,また多数者が少数者を裁く異常な社会心理は,1950年代アメリカ合衆国のマッカーシズムにみられるように,現代にもその根を残している。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「魔女狩り」)

「14世紀以降4世紀間にわたり,おびただしい犠牲者が“魔女”として裁判で血祭りにあげられ,特に宗教改革が起こった16〜17世紀,新旧両派によって行われ最盛期となった。しかし,1692年アメリカのマサチュセッツ州の「セーラムの魔女事件」を最後に,魔女狩りは急速に衰えた。」(旺文社世界史事典 三訂版 「魔女狩り」)


魔女狩りは、中世よりも、宗教改革が起こった16~17世紀に激しくなり、カトリック、プロテスタントを問わず広く行なわれています。プロテスタントによる魔女狩りやプロテスタントによる「異端者」の処刑も知らない程度の歴史認識で、他教派を非難するようなことは言わないでほしいですね。

魔女狩り以外にも、カトリックがやめた後もプロテスタントの一部が続けたものに、進化論否定や他宗教否定があります。
今日、カトリックや主流派のプロテスタント(リベラル)で、進化論を否定する人はまずいません。私が知る限り、進化論否定論は福音派系の教派(全員ではありませんが)と異端派の中に残りました。

第二バチカン公会議以降のカトリックは他宗教の価値を認めて尊重しつつ対話するようになっていますし、プロテスタント神学においても、有名なところでは晩年のカール・バルトやモルトマンなどに、また、パネンベルク、カブ、マーコリーをはじめ、多くの神学者に、キリスト教以外の教えの中にも真実性や救いを見出そうとする方向性があります。つまり、他宗教を否定した過去を乗り越えようとしているのです。

「キリスト教だけが正しく、他には一切救いはない」という考え方は、福音派の中の特に保守的な人たちや、自称「福音派」のカルト思考原理主義者らに残っています。

ジネント山里記: 福音派の謎・反カトリックと反進化論 (ic-blog.jp)

情欲をいだいて女を見る者は?

ネストレ・アーラント校訂ギリシャ語新約聖書28版から、また引用します。

さて、以前からかなり気になっていたマタイ5:28です。

用開始

28ἐγὼ δὲ λέγω ὑμῖν ὅτι πᾶς ὁ βλέπων γυναῖκα πρὸς τὸ ἐπιθυμῆσαι αὐτὴν ἤδη ἐμοίχευσεν αὐτὴν ἐν τῇ καρδίᾳ αὐτοῦ.

引用終了

 これも私なりに忠実に訳してみます。

「でも、私はあなた方にこう言います。誰でも女を欲することのために彼女を見る者は、すでに彼の心の中で彼女に対して姦淫しているのです」 

あまりにも直訳でぎこちないので、もう少しこなれた日本語にしてみます。

「でも、私はあなた方にこう言います。誰でも情欲を起こすために女を見る者は、すでにその人の心の中でその女を犯しているのです」 

ἐπιθυμῆσαιという、「欲すること、情欲すること」みたいな単語がギリシャ語にはあるんですね。日本語だと、「情欲することのために」では不自然なんで、「情欲を起こそうとして」、あるいは「情欲を目的にして」などの訳の方が適切かもしれません。

何の解釈も加えずに聖書を読むなんて不可能なんで、解釈も入ってしまいますが、「女性を最初から情欲の対象として見ることが姦淫なんです」という意味に取れます。これは想像ですけれど、「姦淫はいけませんと言っている人たちは情欲を目的として女性を見たことがないんですか?」って、イエスは言いたかったのかもしれません。

これまでの日本語訳を見ると、「情欲を抱いて女を見る者は~」という訳が多いです。過去の訳をそのまま踏襲しているのでしょう。でもこれだと、「情欲を抱く」のと「女を見る」のと、どっちが先だかよくわからず、「女を見て情欲を抱く者は~」という意味に受け取られる恐れがあります。

ちなみに、塚本虎二訳と新共同訳は「女」という語を「人妻」と訳してますが、「じゃあ、相手が未婚女性なら情欲の対象として見ていいの?」ってつっこまれそうです。人妻と訳すのは言語的にはともかく意味的に無理があるように思います。

クリスチャン男性は、「たまたま通りかかった女性を見て情欲を感じてしまった。ああ、これは姦淫の罪だ。罪深い自分は地獄に行くかもしれない」なんて悩まなくていいと、私は思っています。

ギリシャ語からは、イエスが問題視しているのは「情欲を起こすために女を見る」ことだと読めます。最初から女性を自分の欲望の対象として見るような、人間の尊厳を踏みにじる心の思いの否定だと読めます。私の読み方が間違っていなければ、ですけれど。


結論

マタイ5:28は、

「情欲を起こそうとして女を見るのは姦淫だ」、あるいは
「情欲を目的に女を見るのは姦淫だ」といった意味であり、

「たまたま女を見た結果、情欲を感じてしまったら、それは姦淫だ」という意味ではない、

と考えられます。

(伊藤一滴)

すべての食物は潔い

ネストレ・アーラント校訂『ギリシャ語新約聖書28版』で、ちょっと気になるマルコ7:19を見てみます(福音書本文は28版も27版も同じです)。

 引用開始

19ὅτι οὐκ εἰσπορεύεται αὐτοῦ εἰς τὴν καρδίαν ἀλλ’ εἰς τὴν κοιλίαν, καὶ εἰς τὸν ἀφεδρῶνα ἐκπορεύεται, καθαρίζων πάντα τὰ βρώματα

引用終了

私なりに、忠実に直訳してみます。カッコ内は補足です。

「19 なぜなら(それは)その人の心の中に入るのではなく、その腹の中に入り、そして便槽の中に出て行くのですから、すべての食物は潔いのです。」

途中まで疑問形に訳すのも可能です。

「19 なぜなら(それは)その人の心の中に入るのではなく、その腹の中に入り、そして便槽の中に出て行くのではありませんか? すべての食物は潔いのです。」

注目すべきは ἀφεδρῶνα という単語です。コンコルダンスを見ると、この語はマルコ7:19とマタイ15:17にしか出てこないようです。(私の見落としがあったらごめんなさい。)

明治元訳、大正改訳、永井直治訳などの戦前の訳は、この語を「厠(かわや)」と訳していました。戦後の訳でも、フランシスコ会聖書研究所訳、前田護郎訳は「厠」と訳しています。

塚本虎二訳では「便所」です。田川建三訳も「便所」。何かと田川さんが非難する岩波訳も「便所」と訳してます。

新改訳(初版)は、平仮名で「かわや」。

口語訳や新共同訳はこの語を無視しています。礼拝中に「便所」といった語を口にするのはふさわしくないとでも思ったのでしょうか。

聖書協会共同訳はまだ買ってないんで紙の本では未確認ですが、たまたまネットで見たら、口語訳や新共同訳同様に無視でした。聖書にはっきり書いてある単語でも、一部の単語はこれまで通り無視するという翻訳の踏襲でしょうか。この訳、お金を出して買う価値あるの?って言いたくなります。

新約聖書のイエスの言葉に出てくる「肥料」という言葉は糞という意味ですから、排泄物は肥料に使われていたと考えられます。

便所もいろいろあるのでしょうが、イエスがイメージしていたのは当時の汲み取り便所でしょうから、アフェドローナという名詞を「便槽」とし、「便槽の中に出て行く」と訳してみました。

「心の中に」、「腹の中に」、「便槽の中に」という3つとも、「~の中に」という同じ前置詞が使われているので、これらを同じようにそろえてみました。心も、腹も、便槽も、その中に何かが入っていくイメージがあります。心の中に入るのは、いろいろな思いでしょうか。腹の中に入るのは食物で、便槽の中に入るのは大便や小便です。

イエスは庶民の一人だったんです。

食べて、便所に行って、便槽の中へと排泄する、そういう庶民。排泄物を溜めて肥料にするのは当然という、そういう普通の暮らしの中で生きていたのです。イエスの話を聞いた人の多くも、また、それを語り継いだのも、同じような暮らしの中にいた庶民だったのでしょう。

上に引用した箇所もそうですが、イエスは、律法主義の支配が一般庶民を束縛するのを激しく嫌悪していたようです。

「便槽の中に出て行く」といった言葉は下品だから口にしないといったタブーも、イエスにはなかったのでしょう。

私には、能力的、時間的に厳しいのですが、できるなら、聖書が記すイエスの言葉を忠実に訳してみたいです。

 (伊藤一滴)

付記
原始教会が異邦人(非ユダヤ人)への伝道を進める中で、異邦人がキリスト教に入信すればその人もユダヤ教の食物規定を守らなければならないのか、という問題が生じ、上記のイエスの発言が創作されたのかもしれません。
たとえそうであっても、イエス様ならこうおっしゃったに違いないという思いで創作された発言でしょうから、そこに、イエスのメッセージの反映を感じます。
イエスは、便槽(一般に厠とか便所とか訳される語)といった言葉を普段から口にしていたのでしょう。

 

 

 

「信仰の論拠は聖書のみ」という主張の限界

「信仰の論拠は聖書のみ」という主張の限界について、これまで何度か書きました。

「信仰の論拠は聖書のみ」の限界
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/08/post-a875.html

「聖書」が先か「キリスト教信仰」が先か
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/12/post-d4b2.html

プロテスタントの限界とカトリックの限界 覚え書き
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2022/01/post-22f7.html

「信仰の論拠は聖書のみ」というのは、一種の聖伝
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/09/post-64b2.html

聖書と聖伝 プロテスタントとカトリックの発想の違い
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2020/09/post-f6de.html

聖書的根拠のないことを信じるのが聖書信仰?
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/12/post-4ef3.html


前から言っているとおり、聖書が成立する前からキリスト教信仰がありました。
キリスト教信仰の成立は、聖書の成立より先です。
聖書が成立する前のクリスチャンたちは、いったい何を信仰の論拠にしていたのか、「信仰の論拠は聖書のみ」では答えられなくなります。聖書66巻なんて、まだなかったのですから。


さらに補足します。

聖書が完成した後、神の啓示、神の導きといったものは、ストップしてしまったのでしょうか?
聖書の完成後も、神様は人々に啓示を与え導いてくださったと言うのなら、聖書完成後の啓示や導きは信仰の論拠にはならないのか、という問いが出てきます。
クリスチャンは、「それらはまったく信仰の論拠になりません!」と言い切る自信がありますか?
そう言い切るなら、信仰の論拠に使えるのは聖書完成までの出来事で、かつ、聖書に書いてある話だけ、ということになります。

聖書の完成後から今日までの、神についての論考はどうなのでしょう。神学と呼ばれる論考の数々や信仰告白は、信仰の論拠にはならないのでしょうか。それらは聖書から導かれたものだと言っても、キリスト教綱要にもウェストミンスター信仰告白にも、聖書にはっきり書かれていないことが出てきます。

「聖書にはっきり書かれていなくても、聖霊の導きによって明らかだ」と言うのなら、「信仰の論拠は聖書と聖霊の導きの2つである」と言うべきでしょう。
それに、ある考え、行動、出来事などが聖霊の働きかどうか、誰も証明できません。聖霊の働きだから証明の必要などないと言うなら、どんな無茶苦茶な主張も聖霊の働きと言い張ることができて、何でも可能になってしまいます。


「聖書は66巻である」
「信仰の論拠は聖書のみ」
「聖書は誤りなき神の御言葉」
「聖書の権威」

実は、こうした言葉は聖書に出てきません。
いろいろ理屈をつけて説明しようとする人たちがいますが、どれも、はっきり聖書に書かれていません。
つまり、これらの主張には、万人に明確に示すことができる聖書的根拠がありません。

16世紀の歴史的な事情で、聖書中心主義が主張されました。カトリック教会の腐敗への対抗のため、聖書の権威を教会の上に置いたのは、当時としてはやむを得なかったのでしょう。この時代の事情により、福音主義者(プロテスタント)は最初から聖書的根拠がはっきりしない主張を掲げ、宗教改革を進めました。
カトリックの側も対抗的に自らの改革を進め、20世紀の半ばを過ぎてからは対抗よりも対話へと態度を改め、その対話路線は今に至っています。
教派によって温度差もあるようですが、基本的には、プロテスタントは16世紀の歴史的な状況のもとで掲げた主張を今も変えません。もう、歴史的事情の方が変わっているのに。

プロテスタントの一部には保守頑迷で狂信的な原理主義者やカルトもいて、なぜ「信仰の論拠は聖書のみ」という主張が生じたのかという歴史上の事実など無視して聖書の文字づらを絶対視しているようです(より正確に言うと、聖書の文字づらを使って、自分たちのイデオロギーを絶対視しているようです)。「福音派」と称する中にはカルト化も見られ、支離滅裂なことを言い、カトリックとはもちろん他のプロテスタントの教派とも対話せず、他派に的外れな非難を繰り返しています。余りにも的外れな主張なので、事実はこうですよとちょっと言うと過敏に反応し、「私たちは正しい聖書信仰に立つので、世間からだけでなく間違ったクリスチャンたちからも弾圧され、迫害されています」とか「正しい福音主義の信仰なので差別されています」とか、被害妄想的にからんできたりします。どうも、世間一般や他派のキリスト教への、複合的で根深い劣等感のようなものがあるようです。たぶん、火がついたように怒る過敏な反応は、「信仰」と称するものへの自信のなさの表れなのでしょう。

彼らが言う「権威ある聖書66巻は誤りなき神の御言葉で、信仰の論拠は聖書のみだから、リベラル派やカトリックは間違っています」といった主張は、もちろん、「聖書的根拠のない主張」です(※)。

(※「権威ある聖書66巻は誤りなき神の御言葉」とか、「信仰の論拠は聖書のみ」といった主張は、私自身は歴史的見解だと思っていますが、今もそう信じる人を非難しているのではありません。私は、「リベラル派やカトリックは間違っています」と決めつけて非難を繰り返す原理主義やカルトの主張を否定するのです。しつこいくらい言いますが、福音派の人たちは私の恩人です。たとえ考え方に違いがあっても、恩人の信仰を頭から否定したりしません。私は、まっとうな福音派と自称「福音派」は別だと考えています。)


中世の長い間、いったい誰が聖書を書き写して伝えたのでしょう。カトリック教会です。「間違ったカトリック教会が伝えてきた聖書は正しい」、ということですか?
カトリック教会を否定すれば、「カトリック教会の成立から宗教改革までの千何百年の間、この世には正しい教会はまったくなかった、16世紀になって初めて正しい教会が出現した」ということになります。だとすると、イエスや使徒から受け継がれた教会は、途中が切れてこの世から消滅し、16世紀にまた発生したということになります。
間が千年以上切れていますから、自分たちは使徒を受け継ぐ教会ではない、使徒性がない、ということでいいのですか? あるいは使徒性というものは、途中が長く切れてから、また発生するんですか?

これらが、以前書いたことへの補足で、私が感じている疑問です。


故植田真理子さんがネット上に残された文章を読んでいたら、私が長年疑問に思っていたことが、ずばり書いてありました。

引用開始

 プロテスタント教会はカトリックの歴史を否定するために「聖書のみ」を強調しました。そのことは確かに、当時腐敗していたカトリック教会への批判として有効であったと思います。しかしこれを強調しすぎると、キリスト教はキリスト教でなく「聖書教」になってしまいます。
 クリスマスを12月25日に祝うことをはじめとして、キリスト教には数多くの「聖書に基づかない」習慣があり、プロテスタントでも一部の急進的な教派を除いては、そういう習慣を受け入れているのが現状です。そして私はそのことをいいことだと思っています。
 聖書は所詮は紀元2世紀までに成立した古代の文書にすぎません。ですから「聖書のみ」を強調することは、現代人を一足飛びに2世紀の世界へとタイムスリップさせて、それ以後の教会の歴史、知的営為の歴史をまるきり否定することになります。
 当教会(※引用者注1)では、聖書以後に発展した教会の歴史やさまざまな考え方を柔軟に取り入れていきます。
 そして、その一環として、聖書に基づかない諸聖人への信仰を取り入れます。その象徴がマリア信仰であり、それを「真理」にひっかけているのです(※引用者注2)。

引用終了

出典 https://www.babelbible.net/mariko/opi.cgi?doc=truthlib&course=church


真理子さんはおっしゃっています。
「聖書は所詮は紀元2世紀までに成立した古代の文書にすぎません。ですから「聖書のみ」を強調することは、現代人を一足飛びに2世紀の世界へとタイムスリップさせて、それ以後の教会の歴史、知的営為の歴史をまるきり否定することになります。」


「まるきり否定(ママ)」は言い過ぎかもしれませんが、「聖書のみ」を強調すれば、聖書に書かれていない2世紀以後の教会の歴史、知的営為はみな、信仰上の導きには使えないということになります。

エラスムスが言ったという「ルターは曲がった関節を真っすぐに戻そうとして、反対側に脱臼させてしまった」という言葉を思います。

(伊藤一滴)


引用者注

※1:真理子さんがネット上でつくったキリスト真理自由教会のこと。

※2:カトリック教会、正教会、プロテスタントの聖公会、ルーテル教会などには、聖人という考え方があり、聖人は信仰の範として敬愛されています。実は、世界のキリスト教全体では、聖人を認めない方が少数意見です。

聖公会の聖人に、私が心から尊敬する聖エディス・キャベル(イーディス・キャヴェル)がいます。第一次大戦下、敵味方の区別なく大勢の命を救った看護師です。聖公会の信者であったキャベルは信仰上の信念を貫いて行動し、敵兵を助けたという「罪」でドイツ軍に銃殺されました。
聖キャベルは、今も戦乱の続くこの世界をどうご覧になっているのでしょう? この世界の現実に対して、何とおっしゃるのでしょう?

「聖キャベル、世界の平和のために私たちと共にお祈りください」と願うことが、どうして偶像崇拝だとか間違った信仰だとか言われるのでしょうか?

「異端派」や自称「福音派」の偶像崇拝

偶像崇拝について思うことを書きます。

若い頃の一時期ですが、私は、寺や神社で偶像崇拝が行なわれているように思えて、寄るのをためらった時期がありました。でも、その後、いろいろと学び、お寺や神社の方のお話をうかがったりしながら、だんだんに考えが変わっていきました。
仏教や神道の歴史的価値や文化的価値の尊重といった思いが強くなったのです。

私の場合、子どもの時に聖書に出会い、強く心をひかれ、そのため欧米にばかり目が行って、日本の伝統文化やキリスト教以外の考え方の価値に気づくのが遅れました。
キリスト教にだってかなりの多様性がありますが、いつの間にか自分が聞いたキリスト教、つまり、欧米から入ってきた(特にアメリカ人宣教師が伝えた)教派の見解を標準のようにとらえてしまっていて、キリスト教が持つ多様性に気づくのも遅れました。
また、娯楽や、常識の範囲内での飲酒や、性的描写を含む作品、性的マイノリティーの立場などに、無関心どころか否定的でした。そうしたものも含めて人間の存在なのに・・・。
これらは、若かった自分にとっての損失でした。
特に、性的マイノリティーの方々を、聖書の教えに反する存在のように考えていたことを、申し訳なく思います。

その後、私は気づきました。
人も、文化的なものも、それが「聖書的」か「非聖書的」かなんて、簡単に2つに分けることはできないのです。だのに、クリスチャンの中には、何でも2つに分けて、「聖書的」なものだけに価値があり「非聖書的」なものは無価値と決めてかかる人たちがいます。それが原理主義的な二元論の発想なんです。
彼らが「聖書的に」とか「人間の価値観ではなく神様の価値観で」などと言うときの「聖書的」や「神様の価値観」とは、特定の教派や特定の牧師の考えであることが多いようです。ですから、違う教派の別の牧師に聞くと、まるで違う答えだったりします。聖書の記述には幅があって、読みようでさまざまな解釈ができてしまうのです。聖書の同じ箇所を引用し、まったく逆の主張になることもあります。
何が「正しい聖書解釈」なのか、何が「聖書的」で何が「神様の価値観」なのか、教会や牧師によって言うことがバラバラで、一貫性がありません。結局、最後に残るのは、自分の判断なのでしょう。

イエスの主張はパウロの見解に沿うように解釈され、それが教会の指針となり、宗教改革を経てプロテスタント独自の教義も形成され、ヨーロッパで展開され、アメリカでさらにリニューアルされています。

19世紀末~20世紀にアメリカからリニューアル版のキリスト教が日本に入ってきて、それを純粋で正しい聖書信仰だと思い込んでいる人たちがけっこういるのです。

そういう、アメリカ由来の「聖書信仰」の人たちの中に、福音派と名乗る人たちもいます。
福音派には温和で誠実で善良なクリスチャンが多数おられ、各地で良き働きをなさっています。私もお世話になってきました。私は福音派には敬意を持っており、福音派はみな駄目だなんて思ってません。
でも、「福音派」を名乗る人たちの中に、イエスの教えにない主張を重視している人たちもいるのです。

たとえば、
日曜礼拝参加義務、
牧師の権威主義、
絶対禁酒、
娯楽禁止、
逐語霊感論、
聖書無誤論(※)、
他教派との交流禁止、
性のタブー視、
性的少数者の排除、等々。

(※信仰と生活の規範としての無謬論ではなく、歴史的・科学的な面での無誤論です。)

彼らは、福音派というより自称「福音派」の原理主義者です。教えにないことを重視しながら、イエスの教えを軽んじています。悪い意味での、現代のファリサイ派です。
柔和のカケラもなくて、いつも怒っていて、いつも人の悪口を言っています。
「リベラル派の教会は間違っています。カトリックは間違っています。未信者は間違っています!」と、いつも悪口です。人を悪く言うことで自分たちを正当化しています。そして、その悪口の大部分は誤解や嘘や誇張です。

イエスの教えの頂点は何か、じっくり考えてみればいいのに・・・。
聖書の言葉で人を脅して自分たちのグループに引っ張り込むことではありません。
引っ張り込んだ人をさらに脅して「教会」から抜けられないようにして、金銭や労力を搾取することではありません。
自分たちの教派だけが正しく、他の教派や他の宗教などは誤りだと言い張ることではありません。
浅く表面的な知識で、自分の数百倍も勉強した人が熟慮の末に出した見解を簡単に否定することではありません。
困っている人がいても助けようとせず、指一本動かさずにうまく逃げて、そうした自分の態度を聖書の言葉を使って正当化することではありません。
社会問題に取り組んでいる人たちを馬鹿にし、「もうすぐ世の終わりが来るのですから、社会の問題に関わっても無意味です」などと言って、社会との関わりを拒絶することではありません。
子どもを地獄の恐怖で脅し、いつも神様から監視されていると思わせ、宗教二世にすることではありません。
聖書の中からあちこちつまみ食いのように背景や文脈を無視して引用し、自分たちのイデオロギーを正当化しつつ、都合の悪い箇所は無視することではありません。

事実を指摘されると火がついたように怒り出し、「私たちは正しい信仰に立つから弾圧されています!」などと言い張ることではありません。
(上記はみな、「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会」とか「正統的なプロテスタント教会」とか名乗る人たちに接して実際に私が見聞きした話や、信頼できる方々から得た情報によるものです。)


私は、

イエスの教えの中心にあるのは、

心から神を愛すること、

自分自身を愛するように隣人を愛すること、

互いに愛し合うこと、

最も小さい人たちに手をさしのべること、

平和を求めること、

謙虚であること、

いつ神の国が到来しても受け入れる覚悟を持って日々を誠実に生きること・・・、
等々、

そして、肝心なときに、イエスの求めに従うこと、

だと思います。

私が出会ってきた、教えの中心をしっかり踏まえたクリスチャンたちは、その人がリベラルであれ福音派であれカトリックであれ、イエスに従う人たちでしたから、当然、排他的になりません。他教派や他宗教との交流も対話も拒まない人たちでした。


自称「福音派」がお寺や神社の行事や儀式を「偶像崇拝」だと言っても、「そんなの偶像崇拝じゃないよ」って言いたくなるんです。

今の私はお寺にも神社にも行きますし、仏式・神式の葬儀にも出ます。焼香もするし手も合わせます。そういったことを偶像崇拝だとは思わなくなりました。伝統文化の尊重や故人への敬意は偶像崇拝とは違う、と考えています。

偶像崇拝とは「神でないものを神とすること」です。自分たちで神を作ることです。人間に過ぎない自分たちの考えで、「聖書的にはこうです」とか「神様の価値観に立てばこうです」とか断定し神を規定するのは、まさに神はこうだという創作です。このタイプの偶像崇拝は、頭の中で自分たちなりの神様を作ってしまう偶像崇拝ですから、目に見えず、危険です。
こうした偶像崇拝が、自称「福音派」、エホバの証人、統一協会などに見られます。(これらがキリスト教系三大カルトです。実際、この三者の思考や行動は似ています。宗教二世の悲劇まで共通しています。)

現代のプロテスタント主流派、一般の福音派(原理主義でない人たち)、カトリック教会などは、独自に自分たちの神様を作ったりしていません。つまり、偶像崇拝をしていません。

今日、キリスト教系の宗教で堂々と偶像崇拝が行なわれているのは、自称「福音派」と「異端派」くらいです。

(伊藤一滴)

宗教二世問題から考える

安倍晋三射殺事件が起きて、安倍元総理と深い関係にあった統一協会(統一教会)の問題がマスコミを賑わしました。宗教二世らが声を上げるようになり、エホバの証人(ものみの塔の信者)の問題も語られるようになりました。

今のところ一般のマスコミはあまり取り上げていませんが、正統とされるキリスト教(特に「福音派」と名乗る教会の一部)で、統一協会やエホバの証人とよく似た問題が起きています。

統一協会、エホバの証人、「福音派」の一部(「聖霊派」の一部を含む)などには、強烈な原理主義信仰やカルト性があります。
自分たちは一貫した正しい教えを信じている、この教えだけが正しく、この教えを信じる者だけが救われ、他はすべて滅ぶ、といった考えです。自分たち以外に正しい信仰はなく、他のキリスト教の教派は本当のキリスト教ではない、と考えます。

こうした、原理主義者、カルト信者の一世も気の毒ですが、そうした家に生まれた二世には最初から選択の余地さえなく、とても気の毒です。二世は小さいときから、独自の宗教的価値観で育てられてしまうのです。

宗教を強制する親は、毒親の一種です。
過干渉、教育虐待、スポーツ強要の虐待、音楽強要の虐待などと似た「あなたのため」という虐待です。悪意があっての虐待ではありません。
親は子どものため、子どもの救いのためと信じて、子どもの人格や人生を破壊してゆくのです。


原理主義者やカルト信者の宗教一世の多くは、生活の中で何らかの困難をかかえ、救いを求めて入信したのでしょう。原理主義やカルトには、心の苦しみを麻痺させる鎮痛効果があるようです。ありもしないことをとことん信じ込む現実逃避で、現実の苦しみから逃げるのです。でも、それは一時の鎮痛であり、根本の治療ではありません。心の傷みを治すのではなく麻痺させるのです。麻痺して痛みを感じなくなって患部は悪化するという話はよく聞きます。統一協会、エホバの証人、「福音派」などの場合、嘘を信じることによる心の鎮痛効果がまさに「宗教は民衆のアヘン」として働いています。その「効果」を求めて入信する人が後を絶たないので、カルト宗教が続きます。長く続くのは、その教えが正しいことの証明にはなりません。

宗教一世たちには、信者でなかった時期があります。その時期に身につけた世の価値観と、信者になってからの価値観を、うまくつないで、どこかで妥協しながら自分を保っているようです。そうでもしないと、「聖書に書いてあることを書いてある通りに信じる」なんて不可能でしょう。
書いてある通り信じると言いながら、自分が信じているはずの教えを忠実に実践してはいません。文字通り実践するなら、世の富も地位もすべて捨てて聖書に従うべきだろうと思うのですが、捨ててませんね。この世の会社や団体等で働いて、そこでうまく妥協し、自分の身を守り、給料を貰い、自分の暮らしを守っています。口では「ユダヤ人も異邦人もありません、みな、ひとつです」なんて言いながら、何の疑問も持たずに、児童労働や人権上の問題のある労働で生産された疑いのある安価な外国製品を購入し、結果、搾取する側に加わっています。肝心なときにするりと逃げて、人のために指一本動かそうとしません。それを問うと、「みんなそうですから」と開き直ったり、屁理屈でごまかしたり、怒り出したりします。私は、そういうクリスチャンを何人も見てきました。
みんなそうだから自分もそうなら、何もクリスチャンである必要もないでしょう。
神の審きが怖いから、地獄に行きたくないから、表面的には、クリスチャンであり続ける。うまく世に妥協してますが、これくらいの妥協なら地獄の火の中に落とされずに済むだろうって、神様を相手に世渡り上手に振舞うクリスチャンたちです。

宗教二世はそうした妥協を知りません。幼児期から独自の宗教的価値観を刷り込まれるんで、うまくごまかしたりできないんです。親は、幼い子どもに、たぶん無意識に、自分もできない独自の理想を教え込み、子どもは純粋にその通りにしようとするんです。でも、そもそもが成り立たない教えですから、やろうとしてもできません。逃げ場がありません。

イエスの教えとは異質の、ある種の人たちが聖書から導き出した現代の律法主義が強要されています。
そうした律法主義を説く側は、自分はうまくごまかして、忠実に守っていません。

宗教二世の苦しみは数々あるのでしょうが、この、幼児期から独自の宗教的価値観を刷り込まれた、というのは、大きな苦しみでしょう。
成長し、気づいて、その宗教から脱出しても、何かの折に、過去のことがフラッシュバックのようによみがえることもあると聞いています。心の傷は深く、長引くようです。


このブログに、聖書のことや一部の教会の問題点を書くのは、読んだ人が考え、できれば目を覚ましてほしいと思うからです。

特定教派の立場から他の教派を攻撃しているのではありません。私は、先入観を持たずに聖書を読めばこう読める、という話はしますが、特定教派の教義を守る立場から語ったりはしません。

非常に狭い世界にいて、自分たちは「正しい聖書信仰」だと思い込んでいる人たちがいます。他と対話せず、他を知ろうともせず、誤解し、他者を非難している人たちです。その非常に狭い世界で二世問題も起きています。そうした人たちに、目を覚ましてほしいと思っているだけです。


「カルト思考原理主義者たちに救いはあるのだろうか? 彼らだけは絶対に救われないのではないか」と思った時期もありました。でも、中世の腐敗した教会にさえ自浄作用が働いたのですから、絶対無理だなんて言えません。

立場を異にする人たちが、何が正しいのかを求めながら、相互理解に向かっていける世界を願っています。

(レイチェル・ヘルド・エヴァンズ著『解明された信仰:すべての解答を知っていた少女が質問することを学んだ方法』はとても参考になりました。Rachel Held Evans 'Faith Unraveled: How a Girl Who Knew All the Answers Learned to Ask Questions' 残念ですが、日本語訳はないようです。)


誤解されるといけないので書いておきますが、福音派にはいいい人がたくさんいます。私もお世話になり、感謝しています。ただ、「福音派」と称する人たちの中に原理主義者やカルトも存在しています。彼らは、善良で穏健な福音派の人たちと違い、独善的・排他的・不寛容・攻撃的な人たちです。
同じ教会に、良識ある福音派の人とコチコチの原理主義者が混在していることもありますから、教派名や教会名だけで決めつけることもできません。

キリスト教系3大カルトについては、以下もご覧ください。
「私たちは正しい信仰に立つから非難される」
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2022/07/post-87b8.html

(伊藤一滴)

「聖書はすべて神の霊感によるもの」であっても、聖書無誤論は否定される

そもそも、聖書は無誤無謬だなんて、聖書のどこにも書かれていません。つまり、「聖書66巻は無誤無謬です」といった主張には、最初から聖書的根拠がないのです。

「聖書はすべて神の霊感によるもの」だと、新約聖書に書いてあります。テモテへの第二の手紙(以下、2テモテ書と略記)3:16です。これを聖書無誤論の根拠にする人たちがいますが、無理な主張です。
テモテへの第一の手紙(1テモテ書)もそうですが、2テモテ書も、パウロがテモテに宛てて書いた手紙という形式で書かれた著者不明の文書です。
(今日では少数意見ですが、パウロの作であると言う人もいます。仮にそうであっても以下の主張は成り立ちます。)

著者はこう書きました。
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」

「神の霊感によるもの」で「有益です」と言っていますが、「無誤無謬である」とは言っていません。
著者は、聖書とは何かという厳密な定義を語っていません。おそらく、自分が普段読んでいる七十人訳ギリシャ語聖書を思い浮かべて「聖書はすべて~」と書いたのでしょう。あるいは、当時ユダヤ教の会堂で朗読されていた聖書が念頭にあったのかもしれません。
どちらにしても、こんにちの旧約聖書39巻と同じ物ではありません。
2テモテ書の著者に、ヘブライ聖書(旧約聖書)は39巻という意識があったとは思えません。ヘブライ聖書39巻の確定は西暦90年代になってからです。

「2テモテ書に「神の霊感による」とあるは「無誤無謬である」という意味です」、と言う人もいますが、それだとアポクリファ(旧約聖書続編)も含めて無誤無謬ということになります。

また、2テモテ書が書かれた時代、まだ新約聖書は成立していませんでした。パウロの名でこの文書を書いた人物は、27巻の新約聖書というものを知らなかったのです。仮に(私は賛成しませんが)、この書の著者がパウロだとしても、パウロは27巻の新約聖書を知らなかったのです。

「聖書はすべて神の霊感によるもの」というときの「聖書」という言葉には、新約聖書は含まれていません。ある文書が書かれたときにまだ成立していないものについて言及することはできません。
考えてみてください。たとえば、明治時代に内村鑑三が書いた文書の中に、遠藤周作『沈黙』とか三浦綾子『氷点』とかの感想が書いてあるなんてことがあり得るかどうか。

「パウロは神の霊感によって、やがて新約聖書27巻が成立するのを知っていました」などと言うのはまったく聖書的根拠のない主張です。聖書のどこにもそんなことは書かれていません。

つまり、「聖書はすべて神の霊感によるもので」云々という言葉は、「聖書は無誤無謬である」という意味にはならず、聖書無誤論の根拠には使えない、ということです。


ただし、もし2テモテ書の著者の言う「聖書」が「七十人訳ギリシャ語聖書」なら、翻訳された聖書も「神の霊感によるもの」だと理屈をつけることはできます。その理屈だと、翻訳のもとになった聖書の写本も「神の霊感によるもの」ということになります。

実際は、七十人訳はヘブライ聖書と多くの相違点がありますし、その後の写本も翻訳も数多くの相違点が見つかっていますから、この点からも、「聖書はすべて神の霊感によるもので」云々という言葉は、「聖書は無誤無謬である」という意味にはならない、ということになります。

また、数多くのミスがある写本や翻訳も「神の霊感によるもの」なら、なにも苦労して原典を追求しなくてもよい、ということになりそうです。

写本により、翻訳により、意味が正反対になっている箇所もあります。写し間違いがあっても、誤訳があっても、まるで正反対でも、みな「神の霊感によるもの」のなのでしょうか。

やはり、「聖書はすべて神の霊感によるもので」云々という言葉は、「聖書は無誤無謬である」という意味にはならないのです。


「写本も翻訳も無誤無謬ではなく、無誤無謬なのは原典だけです。「聖書はすべて神の霊感によるもので」というときの「聖書」とは、原典のことです。これが無誤無謬なのです」といった主張もあるでしょう。そうした主張に対しては、「使徒パウロはテモテに対し聖書の原典を読むように勧めたのですか?」と聞きたいです。
テモテは、聖書原典なんて持ってないし閲覧もできません。パウロを名乗る著者だって、当然聖書原典なんて持ってないし、読んでもいません。
誰も持っておらず、誰も閲覧できないものを人に勧めるのは、ありえない話です。勧めたのは、七十人訳か、会堂で朗読される聖書か、あるいは両方でしょう。ここでいう「聖書」とは原典のことですというのも、成り立たない主張です。

(伊藤一滴)