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「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」との食い違い

ある人たちが言うように聖書66巻は無誤無謬と仮定してみます。そうすると、「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」が食い違うとき、どちらが無誤無謬なのか、という問題が生じます。

高校に入ってから、旧約と新約が1冊になった聖書を買いました。1970年代の末でした。買ったのは新改訳聖書(初版)で、欄外に引照箇所が示してある便利な聖書でした。私は、新約聖書を読みながら、旧約からの引用があれば、旧約のその箇所と読み比べていました。
「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」は、少し違ったり、かなり違ったりしました。
(「聖書に矛盾はない」と言い張る人たちは、ご自分で、「新改訳聖書」の引照箇所を一つ一つ参照していただきたい。)

当時の私はなぜ食い違うのか分かりませんでしたが、後から理由を知りました。

新約聖書の中の旧約からの引用の多くは、マソラ本文をそのまま訳したものではなく、「七十人訳ギリシア語聖書」や、それを一部変えたものなのです。

七十人訳と、旧約のヘブライ語(マソラ本文)とでは、かなり異なる箇所もあります。
イエスの時代も、その後も、七十人訳が使われていました。そして七十人訳は新約聖書にも引用されました。引用されているのですから、新約聖書の執筆者たちも七十人訳を使っていたのです。
新約聖書が無誤無謬なら、引用された七十人訳も無誤無謬なのでしょうか?

「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」との食い違いをどう考えたらいいのでしょう。
どちらが無誤無謬なのですか?
両方ですか?
誤りなき神の言葉が2通りあるのですか?

納得のいく答えを聞いたことがありません。


七十人訳と旧約のヘブライ語との食い違いだけでなく、新約聖書に引用された七十人訳は、七十人訳そのものと少し違っていたり、かなり違っていたりすることもあります。
神の霊感によって書かれた無誤無謬の聖書で、どうしてそんなことが起こるのでしょう。
今は失われた七十人訳の別の写本からの引用なのか、記憶で引用して間違えたか、わざと一部を変えたのか?

本がどこにでもあるような時代ではなかったし、今のような製本ではなく巻物だった時代、特定の箇所をすぐ開いて参照するのは大変だったことでしょう。失われた写本から引用された可能性も否定はできませんが、新約聖書の文書の執筆者たちが記憶で引用して不正確な引用になった可能性があります。あるいは、何か意図があってわざと書き換えた箇所もあるのかもしれません。

不正確な引用やわざと書き換えたのかもしれない箇所も、神の言葉であり、無誤無謬なのですか?

聖書は原典において無誤って?
無誤の原典て?

?????????????

「聖書は原典において無誤である」という主張は、「新約聖書の中の旧約からの引用」と「旧約のその箇所」とに食い違いがみられるという点からも、最初から破綻しています。

(伊藤一滴)

「信仰という名の虐待」で検索してみると

以前、グーグルを使って「信仰という名の虐待」で検索し、
仁保裕介氏のブログ「真実なクリスチャンライフを求めて~自由な祈りのために」に出会いました。
どこを読んでも参考になりますが、たとえば、2014年02月19日の「「信仰という名の虐待」によって植えつけられた信仰の子の「三つ子の魂」の執着に、誰が責任を取るのか」など、なるほど!そうなんだ!と思って読みました。
http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52128974.html

同じく「信仰という名の虐待」で検索して、
ワイン氏のブログ「metanoiaxの日記」にも出会いました。最初に読んだのが、2018-02-26の「信仰という名の虐待」でした。
http://metanoiax.hatenablog.com/entry/2018/02/26/183800
「metanoiaxの日記」も、どこを読んでも参考になります。全体から感じるのは筆者の誠実なお人柄です。

「このカルト化している教会は、まだまだ無くならないのだろうと感じています。
なぜなら・・・
「カルト化した教会を必要とする人々」が多くいらっしゃると思うからです(二世さんは除きます)」

「カルト化した教会を必要とされる方々は、カルト化していない教会では満足出来ません。
いずれ、カルト化した教会に移籍されるのだと思います。」

と書いてあり、カルト教会がなくならない理由が、やっとわかりました。「カルト化した教会を必要とする人々」が多くいるのです!
(「二世さん」というのは、最初意味が解らなかったのですが、よく読むとカルト信者の家に生まれた宗教二世のことです。誰も生まれる家を自分で選べないのに、幼少期からカルト信仰の中で育ち、学校生活や社会生活にも大変な影響が出たことでしょう。カルト独自の世界観・価値観から抜け出すのも大変でしょう。気の毒です。)

最近、同じ検索で、
遠山公子氏の「“神さま”を利用した支配。〜わたしが生まれた教会の話〜」
https://charitsumo.com/column/13127
を読みました。
この方、教会の牧師の家に生まれ、ずいぶんひどい目にあったんです。
これも是非お読みいただきたいと思います。


キリスト教に関心を持ち、話を聞こうと思ったら、教派や教会はよく選ばないといけないと思います。そして、可能なら、牧師(または司祭)も選ばないと。

福音派と名乗る教会は玉石混淆です。とてもいい人たちもいますから、うまくそういう人に当たればよいのですが、中にはかなり原理主義寄りの人もいますし、一部にカルト化も見られます。
信頼できる人に紹介してもらうか、信頼できる人と一緒に行ったほうがいいと思います。

カルト思考原理主義者たちは、エキュメニズム派(特にカトリック)を敵視しています。でもそのおかげで「エキュメニズム(教会再一致運動)をどう思うか」「カトリックをどう思うか」で、教会や信者を判別できます。
中世や近世のカトリックならともかく現在のカトリックを敵視して罵詈雑言を浴びせる人たちや、諸教派の相互理解や他宗教との対話路線のエキュメニズムを非難する人たちには近寄らない方がいいでしょう。そうした人たちは独自のイデオロギーの中にいます。話を聞いても聖書やキリスト教の常識的な学びにはなりません。自称「福音派」の原理主義者やカルトの発想や思考はエホバの証人とよく似ています。実際、「エホバの証人は福音派の一派」と考えている人もいます(鈴木崇巨著『福音派とは何か?』おすすめできる内容ではありませんが、データは参考になります)。

キリスト教の話を聞こうと思ったら、無難なところでは、エキュメニズム派、つまりプロテスタントの主流派(メインライン)かカトリックの教会をお勧めします。理性的な人が多く、しつこい勧誘や狂信的な主張などはありません。

一部例外もありますが、両者は使っている聖書で、だいたい見分けがつきます。

(伊藤一滴)

聖書協会共同訳を買わなかった理由

聖書協会共同訳の聖書が出たばかりの頃(2018年12月)、山形市内の本屋に行って、手に取って、何箇所か開いてみて、買わずに店を出ました。

聖書協会共同訳をなぜ買わなかったのかと言うと、

理由は、まず、イエスの言葉づかいです。
「~である」はないでしょう。
論文じゃあるまいし、一般の人との会話でそんな言葉づかいをするんでしょうか。イエスが、そんな尊大な、居丈高な話し方をしたんでしょうか。
口語訳、新共同訳、カトリックの訳でも気になっていたのですが、「~である」調の言葉づかいは会話にふさわしくないですね。会話として一番まともなのは、新改訳かな。新改訳(初版)は律法学者やピラトまで丁寧な言葉を使ってますけど。


誤訳の踏襲も続いています。
新約を何箇所か開いてみたら、相変わらずの誤訳の踏襲でした。

マタイ福音書のしょっぱなからビブロス(本、書物)を無視し、ゲネシスを系図と訳して「イエス・キリストの系図」です(マタイ1:1)。さんざん指摘されているのに。
欄外に、別訳「創成の書」なんて書いてあります。田川建三さんの苦心の訳が「創成の書」ですが、田川さんの許可をもらったのかな?

「ゲネシス(発生、生成、成り立ち)の書」を、どう訳すかは難しいのです。

ボウフラじゃあるまいし「発生」ではあまりにも変な感じなのですが、すみません、他に適当な日本語が思いつきません。

この箇所は、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの発生の書」なのか、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストによる(新しい世界の)発生の書」なのか、
どちらもなのか。

ゲネシスを、創生と訳せば、イエスの発生になるし、創世と訳せば新しい世界の発生になります。「創成の書」と訳せばどちらにも取れるので、これは名訳かもしれません。
おそらく「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのゲネシスの書」というのが、マタイ福音書のもともとの題名だったのでしょう。書き写される中で題名が本文の最初の節に入ってしまい、あとから「マタイ伝」(マタイによる)と呼ばれるようになったのでしょう。マタイ福音書の全体が「系図の書」ではありません。最初に系図があるからと「書」を無視してつじつまを合わせをするような訳し方は感心しません。

マタイ5章の山上の垂訓、これも、相変わらず「心の貧しい人たち」?
さんざん誤訳だって言われているのに。
直訳すれば、
「幸い。霊において貧しい人たち。なぜなら天の国はその人たちのもの」
のようになりますが、なんでこれが「心の貧しい人たち」になっちゃうんでしょう?
ここは霊(プネウマ)です。霊において貧しい人たちなのです。

「霊において貧しい」って、どういうことでしょう? 神の前にへりくだることかもしれないし、自分の霊的な貧しさを自覚すること、謙虚になることかもしれません。いろいろな意味に取れるのですから、訳文もいろいろな意味に取れるよう、そのまま訳すべきでしょう。訳で解釈を一つに固定すべきではありません。
「霊的に貧しい」と訳すならまだともかく「心の貧しい」では意味がだいぶ違います。
欄外に、直訳「霊において貧しい」って書いてあります。訳者たちはわかっているのに、なんでその通り訳さないんでしょう。やはり誤訳の踏襲ですか。


極めつけはルカ福音書のペトロの召命の箇所です(ルカ5:10)。またも「漁師」です。だから、漁師なんて単語はこの箇所にないんだってば。これも欄外にかなり正確な訳が書いてあります。わかっているのにここも先輩たちの誤訳の踏襲ですか。
「「人間を捕る漁師」は誤訳ではなく意訳です」って言いたいのでしょうか? 「以前の訳も誤訳ではなく意訳でした」って。そうやって、口語訳や新共同訳を訳した先輩たちの誤訳までごまかす?
そんな、隠蔽工作みたいな訳が、聖書にふさわしい訳ですか? 新改訳はちゃんと訳しているのに。

ここは、イエスの言葉の伝承の変遷に関わる重要な箇所でしょう。
イエスは実際に「人間を捕る漁師」みたいな発言をして、それが伝えられていたのかもしれません。だのにルカは、漁師が魚を捕ったら魚は死んでしまうと思い(あるいは人からそう言われ)、マルコ福音書の記述を書き換えた可能性が高いのです。伝えられたイエスの言葉がどのように変わっていったのかを示す重要な箇所ではありませんか。福音書は、それこそ「原典において」すでに書き換えられていたと考えられるのです。それを他の福音書に合うよう「意訳」しちゃっていいの?

聖書協会共同訳を閉じて本棚に戻し、買わずに店を出ました。

あれから、まだ、買っていません。
今後も買わないというのではありません。また考えます。
欄外の「直訳」や「別訳」、参照箇所などは役に立ちそうです。
むしろ、欄外の「直訳」や「別訳」を本文に使ってほしかったと思います。

後になって、アマゾンのレビューや他のネットの記事を見たら、聖書協会共同訳の初版は誤植がやたら多いとわかりました。買わなくてよかった。重版の際に訂正されるでしょうから、本屋に並ぶ聖書協会共同訳がみな訂正版になった頃にまた考えます。

それにしても、初版の誤植はひどい。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/27195/20190906/japan-bible-society-interconfessional-version-corrections.htm

モルデカイの名がモデルデカイになっているとは・・・・。おそらく植字担当者(入力担当者)はクリスチャンではなく、モルデカイの名を知らなかったのでしょう。コストダウンを優先し、聖書に何が書いてあるのか知らない人に植字(入力)させ、AIに振り仮名を振らせたのではないのですか。そして、クリスマスに間に合わせようと(つまりクリスマスプレゼント用に買ってもらおうと)、十分な校正を経ないまま発行を急いだのではないのですか。
日本聖書協会さん、恥ずかしいですよ。

大型の辞書の新発売もそうですが、新しい聖書も「販売記念特価」で初版が安い理由がわかりました。「安くしたんだから誤植があっても文句を言うな」ということなんですね。


これから聖書協会共同訳をお買いになる方へ。
古書店やネットで初版第1刷が安く売られていたとしても、おすすめしません。誤植だらけです。
「引照・注付き」をおすすめします。訳文は誤訳の踏襲が続いていますが、引照と注は、ちょっと立ち読みしただけでも見事だと思いました。欄外の「直訳」や「別訳」を本文に使っていたら、きっと名訳となっていたことでしょう。今後30年はこの訳を使おうなんて頑張らないで、欄外の「直訳」や「別訳」を本文の訳と差し替えた改訂版を早めに出した方がいいんじゃないですか? そして、改訂版はイエスの発言をもっと丁寧な言葉づかいに直した方がいいでしょう。引照や注の組み方は新改訳聖書をまねてるんだから、イエスの言葉づかいもまねればよかったのに。
なお、どうせ買うなら「旧約聖書続編付き」をおすすめします。新改訳に続編付きはありません(ありえません)。クリスチャンの方の場合は、所属教会が続編付きを許せばですが。


30年以上前の話ですが、新共同訳聖書が出たときは、私はすぐに初版第1刷を買い、後から誤植だらけと知りました。けっこう読みましたが、自分で読んでも誤植に気づきませんでした。膨大な旧新約聖書全体に、百箇所、2百箇所くらいの誤植があっても気づかないものですね。

(伊藤一滴)

最近の報道で思ったこと 2021年8月

1.小田急電車内の切りつけ事件

8月6日の夜、東京都世田谷区内を走行中の小田急線の電車内で、30代の男が包丁で乗客に切りつけるなどして10人が重軽傷を負う事件が発生しました。身体の負傷だけでなく、その場にいた人たちはかなりショックを受けたことでしょう。
被害に遭われた方々の1日も早いご回復をお祈りいたします。

新宿~登戸間は私の若い頃の思い出のある場所ですし、息子もよく利用する電車なので、山形県の山の中にいても、感覚的には近くの町で起きた事件のように感じられました。

この事件についてのネット上のコメントも読みました。

もっと警備員の巡回を増やすべきだとか、防犯カメラを増やすべきだといった意見も多数あります。走行中の電車内での無差別の事件ですから、そう思う気持ちはわかります。警備員の増員や防犯カメラの増設を否定するわけではありません。でも、どんなにセキュリティーを強化しても、人と人との関係が希薄になり人が孤立していく世の中が続く限り、類似の犯罪が発生するかもしれないと思いました。

どうすれば、人を孤立させない世の中に向かっていけるのか。
私も、妙案はありません。

私の住む山里の集落は、戦前から今日まで1件も犯罪がないそうです。
そもそも人が少なく、人と人との関係も濃く、昔から「お互い様だから」と暮らしてきたのでしょう。よそから来た私の一家も、そうした中に加えてもらいました。
そういう山里なので、普段はセキュリティーを気にせずに生活しています。
危険なのはマムシ、スズメバチ、クマ、最近はイノシシ等です。この山里にいる限り、人間に対して危険を感じることはありません。

都市はあまりにも巨大化してしまいました。

「犯人は精神疾患ではないか」として、「精神障害や精神病の人は犯罪を犯しやすい」といった、統計を無視したデマをまき散らしている人たちがいます。そうしたデマは、心に障害や病を持ちながらつつましく生活している人たちへの偏見や差別を助長してしまいます。
マスコミは、「精神障害や精神病の人は犯罪を犯す率が低い」という事実をしっかり報道してほしいと思います。

公表された犯行直後の車内の音声を聞くと、まだ犯人が近くにいるかもしれない中で、居合わせた看護師さんでしょうか、負傷者を救護しながらてきぱき対応しておられたようです。ご立派です。


2.福岡県の私立保育園の送迎バス内で園児が死亡した事故(事件?)

7月29日の夕方、福岡県の私立保育園の送迎バス内で園児が死亡しているのが見つかりました。
5歳の男児が熱中症で亡くなっていたのですが、不可解な点が多い事故(事件?)です。
バスと呼ばれていますが実際はハイエースです。40代の女性園長が1人で運行していたといいます。
幼ない子らを乗せて、1人で運行とは。
大きなバスならともかく、ハイエースで、5歳の子を見逃すのでしょうか? たとえ大きなバスだって、忘れ物のチェックなどで全席を見回るだろうに。
園長は朝、その子をハイエースに乗せています。なぜ、車から降りないことに気づかず、保育園にいないことにも気づかなかったのでしょう。?だらけです。

妻と私は、かつて3人の子を保育園にあずけました。今、一番下の子も高校生になりました。
子どもを保育園バスに送った日々を思い出しながら、この事故(事件?)に、胸が締め付けられる思いです。


3.名古屋入管で死亡したスリランカ人女性と家族の無念を思う

名古屋出入国在留管理局(名古屋入管)に収容されていたスリランカ人女性が今年3月に死亡した問題で、入管のひどい扱いが少しづつ明らかになってきました。

入管は法務省の管轄下ですが、人権を言う法務省にそもそも人権意識があるのですか?
日本国籍を有する人と合法的に日本にいる人の人権だけが大事で、それ以外は人間ではないとでも言うのですか? 人間ではないのだからどんな扱いをしてもいいし、たとえ死んでも殺人にならないとでも?
職員たちは、だんだん感覚が麻痺してゆくのでしょう。現代版の「エルサレムのアイヒマン」のようです。
北朝鮮や中国の人権問題もひどいけれど、日本の入管の人権感覚の欠如もひどい。ひどすぎます。
死者が出てるのに、死に追いやった担当職員の名前も出てこないし、やったことにふさわしい処分もないのですね。
ここは北朝鮮じゃないですよね、中国じゃないですよね、日本ですよね。

亡くなられた女性とご家族の無念を思います。


4.めだるじかにかじるだめ(回文)

これも名古屋です。
SNS上で、文字の入れ替えが話題になっています。

かわむらたかし と書いて文字の順番を替えると、
かしたらかむわ(貸したら噛むわ)
わたしかむから(私 噛むから)
たからかむわし(宝噛む わし)

名は体を表す?

愛知県知事へのインチキのリコール署名といい、何をやってるんですか、名古屋市民は。


5.さらに

香港は、どうなるのでしょう。
新疆ウイグル地区は。
ミャンマーは。
アフガニスタンは。

(伊藤一滴)

神は無力 アーマン著『破綻した神 キリスト』読了 

アーマン著『破綻した神 キリスト』を読み終えました。
著者の問いがあまりにも重く、考えながら、ゆっくりゆっくり読んだので時間がかかってしまいました。


この世にはなぜ過酷な苦しみがあるのか?
「その人を向上させるための試練」では説明のつかない大変な苦しみがあるのに、神はなぜ沈黙しておられるのか?

聖書の著者たちは、苦しみの意味に答えようとしているのですが、その見解は聖書の各書によってまちまちで、聖書全体を貫く統一の見解などありません。アーマン氏は、旧約聖書の古典的見解、預言書に示された見解、黙示思想の見解など、ていねいに検討した上で、それぞれは一貫性もなく、また現代人が納得できるような答えになっていないと論破するのです。

博識のライプニッツの「神義論」でも説明がつきません(微積分学で知られるライプニッツです)。何百年議論を重ねても、この世にはなぜ過酷な苦しみがあるのか、みんなが納得できるような答えは見つかりません。

私、一滴は、「神は無力だ」としか言いようがないのではないか、と思っています。


8月になり、敗戦の日が近づき、戦争体験者の証言が放送されています。ここ数日、被爆者の話、満洲から生還した人の話など、ラジオで聞いていました。そして、やはり「神は無力だ」と思いました。

結局のところ我々は、「コヘレトの言葉」(=伝道の書)にあるように、空(くう)の空、空なるかな、一切は空なり、という思いで、自分の人生を楽しむしかないのでしょう。ただし、この世界の各地に今も苦しむ人たちが多数いることを忘れずに。そして究極の理想としては、世界がぜんたい幸福になることを願いながら。だって、世界がぜんたい幸福になることを願ったほうが、自分自身も幸せに向かって歩めるのですから。

ユニセフや赤十字や、難民支援団体、海外援助団体等に寄付したところで、個人の寄付など焼け石に水なのはわかっています。わかっていますが、やもめのレプタのように貧者の一灯を捧げることに意味があると思うのです。ただの自己満足だろうと言う人もいますが、どうでしょう。わずかでも捧げれば、それが一滴一滴の集まりとなるわけですし、意識がそちらに向かうのです。


アーマン氏の姿勢はまさに、自分の人生を楽しみながらも「自分自身を愛するように隣人を愛する」というものです。そういう考えの人を「背教者」って言うんでしょうか?

私も、「自分自身を愛するように隣人を愛する」生き方が理想です。少しでもその理想に近づくためには、祈りがあったほうがよいと思っています。祈りは、感謝や願いなどの自分の思いを口にする行為です。口にすることで、自分の思いを客観化するのです。口にした言葉に向かい、一歩、一歩と、進んで行けたらと思います。

「存在しないかもしれない神に祈ったって意味がないだろう」とか「無力な神に祈ったって意味がないだろう」と言われそうですが、違います。大いに意味があります。自分の気持ちと行動をそちらに向けるのですから。

(伊藤一滴)

ご参考
神は全能である 神は愛である この世には苦しみがある
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/07/post-7f7d.html

「プロテスタントの福音派とリベラル派の違い」

「プロテスタントの福音派とリベラル派の違い」というのを、たまたま「Yahoo!知恵袋」で見つけたので引用します。


引用開始

rey********さん

2015/1/28 9:26

プロテスタントの福音派とリベラル派の違いを教えて下さい。


dol********さん

2015/1/28 13:38

・・・・・・・・さん、・・・・・・・・・・・さん、
全然関係ない、というか我田引水な「オレオレ定義」では困ります。自分の考えに反するもの全てに「リベラル」というレッテル貼りをするだけでは、カルトの異名として「福音派」を連呼する輩と同じではないですか。

そもそも自由主義は、聖書主義から派生しているのですよ。自由主義は、聖書の記述と理性との間に、何らかの接点を見出そうとする信念から生まれています。なので、進化論がどうこう言う時点で、それは自由主義なのです。

それに対し、19 世紀に生じた福音派は、実はある意味で伝統主義です。伝統的なキリスト教神学と聖書解釈を守る。その中には三位一体論、救済論、処女懐胎をはじめとする奇跡も含まれています。

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19 世紀までの自由主義神学は、新約聖書の中に「イエスの自己理解」があると考えました。すなわち、イエスは自分を神だとは言ってないし、後のドグマ化した教理など語ってもいないと。

新約聖書から読み取れるイエスの信念や態度を辿ることによって、イエスの優れた人格と自己犠牲の愛を再構成する……つまりイエスに「理想的な人格」を帰し、それをもって新たなキリスト論を打ち立てようとしたわけです。

しかし 19 世紀も終わりになると、そういう「理想的なイエス」を描くことは難しいことが明らかとなり、イエスは以前にも増して「未知なる存在」になってしまいました。実のところ、イエスは自分自身を神だと言ってますからね。

それは何故だったのか。その理由を体系的に論じたのがブルトマンという学者でした。俗にブルトマンは自由主義だと言われますが、そうではなく、自由主義を乗り越えようとした人です。

新約聖書は「教会の目を通して見たイエス」を描いたものです。十字架の苦難を受けて死んだイエスを、復活後の弟子たちの視点から見直したもの。ゆえに、福音書はイエス自身の経験というより、初代教会における個人・共同体の経験を記したものに他なりません。

それゆえ、新約聖書をいくら分析したところで、イエス自身の自己理解など出てこない。歴史的イエスについては「何も分からない」というのが、ブルトマンの根底にあるものです。

しかし、だからこそ、ブルトマンはイエスの言葉と「対峙」しようとします。今や、イエスの言葉は「我らとともにいる」のではない。闇の向こうにいる得体の知れない何かが、我々に真正面から対峙し、語りかけてきます。それをどう理解するかは、読者の経験、意識、自覚に委ねられています。

福音派ならこのことを「御子の霊を通して」と呼ぶでしょう。ブルトマンの弟子たちもまた、実際のイエスと、教会の伝えるイエスとの間には何らかの連続性があるはずだ、という立場にシフトしてきました(そうでないと研究のしようがないですからね)。なので、自由主義神学も徐々に福音派に近づいてきているし、福音派も自由主義との接点があるわけです。

ただ、そういう流れを理解せずに、「オレオレ定義」でレッテル貼りに終始するだけの人々が多いのも、これまた残念ながら事実です。

引用終了(・・・・は引用者が伏字にした箇所 )

出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10141229090


今日偶然にこれを読み、紹介したい見解なので引用しました。
お書きになったdol********さん(原文のまま)もおっしゃるとおり、ネット上では、「「オレオレ定義」でレッテル貼りに終始するだけの人々が多いのも、これまた残念ながら事実です。」


以下は、前に自分が書いた文章からの引用で、私の考えです。

「私は、キリスト教というものは幅のあるものだと思っていますから、明らかに福音に示された義に反する考えや極端な原理主義でない限り、特定の教派を非難したり排除したりするつもりはありません。」

「自分自身の福音の理解としては、聖書批評学と言われる様式史的研究やその後の編集史的研究の方向、近代聖書学の方向を否定することはできないと考えています。」

「私は、イエスが語った言葉どおりではなくても、伝承された言葉の中にイエス自身の思想、イエスが人々に伝えようとしたメッセージは残っていると思っています(※)。※たとえば、八木誠一著「イエス」参照。」

「信仰というのは、証明のしようのないことを信じる部分がかなりあると思います。その度合いの大きさはさまざまだと思います。福音派の信者も、リベラル派の信者も、程度の差こそあれ、科学的判断では証明のしようのない神の存在、十字架の贖い、といったことを信じているわけで、信じるという信仰自体はあまり変わらないのかもしれないと思うようになりました。だから「リベラル派は科学的で正しく、福音派は非科学的で間違いだ」といったレッテルを貼りたくないのです。私自身は実証性を重んじるほうですが、私が思っていることの中にも、証明のしようのないこともたくさんあります。」

出典:http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/10/post-3000.html


結局のところ我々は、鏡に映して見るようにおぼろげなものを見ることしかできないのでしょう。それも現代のガラス製の鮮明な鏡ではなく、金属板を磨いた古代鏡です。鏡面仕上げも古代の技術での研磨です。

「わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。」(1コリ13:12)

クリスチャンは、この「おぼろげに見ている」ものに、さらに近づきたい、よりはっきり見たいと願う。そこで、「御子の霊を通して」、 あるいは「父なる神の恵みによって」、あるいは「聖霊の働きによって」、それを願う。
(ちなみに、この3つはどう違うんでしょうね。三位は一体というのがキリスト教の主張なのですから。)

神の導きを願い、真実なものへ接近しようとするなら、主流派(メインライン、リベラル)も福音派も、もちろんカトリックも正教会も、違う登山道を通りながら同じ山の頂を目ざしているのかもしれないのです。そして、上へ登れば登るほど、互いに接近してくるのかもしれないのです。

「オレオレ定義」でレッテル貼りに終始するだけの人たちには、言いたいように言わせておけばいいでしょう。彼らが言っていることは、イエスのメッセージとは関係のない話ですから。

(伊藤一滴)


付記1
福音書のイエスは自分自身を神だと言ってます?
言ったかな?
ヨハネ福音書だと、読みようによってはそうも読めるのか。「私と父とはひとつです」(ヨハネ10:30)など。
また、パウロも、キリストは神だって、言ったかな?
もしパウロが「キリストは神である」と伝えたかったなら、もっとはっきりと書いたと思いますよ。有名なローマ9:5です。神を讃えているのですが、その神は、父なる神ともキリストとも、ギリシア語の読みようでどっちにも読めるんです。まあ、天下の田川建三さんでさえ「キリストは神」という意味に訳してますけど。
戦後の口語訳聖書がこの箇所を父なる神への頌栄(しょうえい)と見なして「キリストは神」という意味に訳さなかったので、福音派の人たちは許せなかったようです。それもあって、福音派は新改訳聖書という独自の訳を出したんです。どうも、福音派の思考の根底には現状への批判や否定の精神があり、この新改訳聖書もそうした意識で訳された「対抗改訳」ではないかと思えるのです。まあ、私はそれを承知で、新改訳聖書(初版)使っていますが。
「新改訳って、どうせ福音派の訳でしょ」みたいな感じでまるで相手にしていない人もいるのですが、新改訳の方が口語訳や新共同訳よりうまく訳していると思える箇所もありますし、なによりイエスの言葉づかいがていねいなのが好きです。

付記2
以下は以前書いたものです。よろしければご覧ください。

聖書の非神話化(それでもキリスト教は信じうるのか)
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/03/post-0aba.html

そんなイエスについていこうと思った
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/04/post-9c77.html

付記3
7月の後半から暑い日が続いています。
「山形県の山里で古民家暮らしをしています」と言うと、「涼しいでしょう、いいですね」なんて言われるんですが、昼間はかなり暑いです。
朝晩涼しいだけ、まだましですけどね。
家にエアコンはありません。
通気性が良い(要するに隙間風が通る)古民家にいるんで、エアコンをつけても、あまり意味ないかも。

付記4
上に引用したdol********さんは、19世紀~20世紀初頭の自由主義神学も現代のリベラルな神学も、どちらも自由主義(神学)と呼んでおられますが、文章の流れで区別がつくと思います。私自身は、自由主義神学という言葉は19世紀~20世紀初頭の自由主義神学という意味に限定して使っています。この言葉はカルト思考の原理主義らが、自分たち以外のキリスト教へのレッテル貼りによく使っています。