« 2021年2月 | メイン | 2021年4月 »

創作 あるクリスチャンの説得

人はみな罪びとだと教えられ、罪から来る報酬は死だと教えられ、そうした教えがいつも頭から離れず、苦しんだのですね。
さぞ苦しかったことでしょう。ずいぶん、おつらい思いをなさったのですね。

確かにキリスト教には、人はみな罪びとだという考えがあります。しかし、人がみなそうだということは、それは万人が持つ性質だとも言えるのです。

生まれつき万人に備わっている性質ゆえに地獄に行くというのは、はたして、筋の通った説明でしょうか。
アダムとエバの罪を受け継いでいるから人はみな罪びとだというのは、人間とはどういう者かを説明するための神学上の話です。あなたの先祖のネアンデルタール人の1人がやったことの責任が今のあなたにもありますか。そのためにあなたは死刑になるのですか。

いったい、誰が地獄に行けるのでしょう。地獄に行けるほど大きな罪を、誰が犯すことができるのでしょう。
私たちは、ちっぽけな人間に過ぎません。ちっぽけな、一般の庶民が、地獄に行けるほど大きな罪を犯す能力を持っているのでしょうか。
ゼロだとは言いませんが、地獄に行くほどの能力があり、その力をふるうことができる人なんて、ごく少数だと思います。少なくとも、あなたや私には当てはまらないでしょう。

「聖書にこう書いてあります」と言われ、脅されたのですね。大変でしたね。聖書は、古代人が、古代人の世界観で書いた書物です。矛盾する箇所もありますし、歴史的事実に反する箇所も多数あります。そのままでは現代に通じないのです。でも、だから意味のない書物だということにはなりません。神様は、古代人の表現や神話も使って、人に大切なことを示しておられるのかもしれません。

聖書にこう書いてあるといっても、解釈にはかなり幅があります。聖書の御言葉を引用し、まったく、正反対の主張だってできるのです。
有名なのは奴隷制です。かつてアメリカ南部ではアフリカから連行された黒人奴隷が酷使されていましたが、奴隷使用者のほとんどは白人のクリスチャンでした。聖書は、読みようで、奴隷制を肯定しているとも読めるんです。奴隷を使っていた人たちもクリスチャンでしたが、奴隷制に反対して奴隷解放を主張した人たちもクリスチャンでした。聖書の御言葉を使い、奴隷制を肯定することも、非難することもできるのです。戦争もそうです。聖書の御言葉を使い、戦争を肯定することも、非難することもできるのです。

旧約の律法は今も有効なのか、
豚肉を食べることの是非は、
真の安息日は土曜か日曜か、
死刑は認められるのか、
女性は教会で発言していいのか、
女性は牧師になれるのか、
幼児洗礼は有効な洗礼なのか、
教会は同性愛者にどう接すべきか・・・・。

聖書を引用して正反対の主張ができる例は、いくらでも挙げられます。

また、かつて当然のように言われた聖書の解釈が、ある人々を苦しめてきた例もあります。
よく知られているとおり、旧約聖書には、神は人を「男と女に創造された」とあります。ここから、人は男か女かどちらかだとされ、男でなければ女、女でなければ男と、当然のように考えられてきました。性同一性障害などの障害を持つ人たちは、クリスチャンたちから奇異な目で見られ、苦しんだのです。性同一性障害の人が教会に相談したら「汚らわしいと言われた」という証言もあります。かつての神学校では、性的少数者にどう対応すべきかの教育がまったくなかったのでしょう。
また、長い間、聖書は同性愛を厳禁していると解釈されてきました。今もそう考えている人も少なくありません。1980年代に私がこの耳で聞いた話ですが、比較的リベラルな教会の人さえ「同性愛は病気ですから、治療を受けて治すべきです」と言っていました。また、ある「福音派」の牧師は、「同性愛は大罪です。同性愛を改めなければ地獄に行きます」と言っていました。生まれつきの性的指向ゆえに責められるのは、生まれつきの盲人が責められるような話です。

さすがに今は、多くの教会が性的少数者の苦しみに寄り添う姿勢を示してはいますが、中には、過去の差別と同じような差別を繰り返しているクリスチャンもいます。

聖書を解釈するのは人間です。
聖書にこう書いてあるからこうだというのは、その教派や、その教会や、その牧師の、その時代の主張に過ぎません。別の教派の教会に行けば、別の牧師から、かなり違う説明を聞くでしょう。まったく正反対の話を聞くかもしれません。ある程度学んだ人なら「聖書的にはこうです」なんて、簡単に断定しません。

聖書が描く死後の世界や終末論も、実は、よくわかりません。
旧約の人たちは死後の世界についてあまり語っていません。旧約だけを読めば、死後の世界は存在しないと考えることもできます。
新約も、死後や終末については、読みようによってどうにでも読めるような表現です。さまざまな解釈が成り立つ新約の御言葉を、ある特定の解釈で、人は死んだらこうなるとか、世の終わりはこうだとか断言し、審きの恐怖で人を脅すことが、はたして、正しい聖書信仰なのでしょうか。そして、日々、恐怖におびえて生きることが、クリスチャンにふさわしい人生なのでしょうか。

福音を信じてイエス様に従うというのは、喜びではないのですか。
よくわからない死後や終末の記述をこうだと断定し、おびえて生きるべきではありません。イエス様のメッセージに従いこの世の人生を誠実に生きることのほうが、ずっと大切です。

イエス様は、権力を持つ人たちに厳しい非難の言葉を向けておられます。しかし、一般の庶民に恐怖を与えて脅す箇所など一箇所もありません。イエス様の非難は、人を脅す牧師や教会のリーダーたちにこそ向けられるのではありませんか。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」というイエス様の御言葉はよく御存知でしょう。イエス様に向かって、「主よ、主よ」と言う者は、つまり、クリスチャンたちです。天の国に入るのは「父のみこころを行なう者」で、キリスト教の信者とは書いてありません。仏教徒、イスラム教徒、無神論者らが、「父のみこころを行なう者」として天の国に入るとき、イエス様に従わなかったクリスチャンたちは、イエス様から、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」(同7:23)と言われるのかもしれません。

ドイツの神学者カール・ラーナーの論文にもありますが、持って生まれた人間の良心に従って生きようとする人たちは、たとえその人が自分はキリスト教徒であるという自覚を持っていなくとも「知られざるキリスト者」とでも言うべき真のクリスチャンであり、神の救いの内にある、と考えることもできるのです。(カール・ラーナー「知られざるキリスト者」『日常と超越』所収 「無名のキリスト者」とも訳される)
この、良心に従って生きようとする人たちの中に、他宗教の人や無神論者もいる、という考えなのです。

人は、神によって、神の似姿として創造されました。神の似姿ですから、生まれつき、神から与えられた良心を持っています。この良心に従っているのなら、その人は、神に従っていると言えるのです。その人は無意識に「父のみこころを行なう者」となっているのです。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)と、聖書に書いてあります。神様が、全く可能性のないことをお望みになるはずはありません。神様はすべての人の救いを望んでおられるのですから、すべての人に救いのチャンスがあると考えるべきでしょう。その人が他宗教の信者でも、無神論者でも、あるいは、陰府に下った霊であっても。

私のことを万人救済論者だと言う人がいますが、違います。私は万人救済とは言っていません。
聖書の御言葉で人を脅し、支配し、コントロールするような人たちは、はたして、救いの中にいるのでしょうか。聖書を熟読しながらイエス様のメッセージに学ばないどころか、逆方向に進む人たちに、救いがあるのでしょうか。

あなたは、聖書66巻は神の御言葉だと教えられたでしょう。
仮に、聖書に書いてあることはすべて正しく、無誤無謬だとしますよ。
仮にそうだとしても、人間は無誤無謬ではありません。神様は全能であっても、人間は全能ではありませんから、神様の言葉を完全に理解する能力などないのです。私たち不完全な人間に、それはできないのです。
ということは、人間の聖書理解には常に誤謬がつきまとうと言えます。もちろん私自身も人間ですから、私の聖書理解だって、思い違いもあるかもしれません。ただ、福音書に記されたイエス様のメッセージが示している方向に向かおうとするなら、そう大きく外れはしないのではないかと思います。

いったい誰が、その聖書解釈は正しいと証明したり断定したりできますか。
もう一度言いますよ。人間の聖書理解には、常に誤謬がつきまとうのです。
誤謬かもしれないある種の聖書解釈に日々おびえ、そのおびえの中で一生を過ごすのが健全な信仰生活なのですか。

人はみな罪びとだといっても、それも含めて人間です。神様は、そういう限界を持つ私たちの限界を知りながら受け入れてくださるのです。

もう、おびえることはありません。
特定の教派の特定の聖書解釈を乗り越えましょう。

あなたのために祈ります。
全能の神があなたを強め、導いてくださいますように。
私たちの主、イエス・キリストの御名によって。
アーメン。

(伊藤一滴)

追記:前回もそうですが、これも創作です。「これは異端の信仰だ」なんて言うのは、なしですよ。架空の、あるクリスチャンが語った話という形の創作ですから。
ただし、私がこれまで直接聞いた話や読んだ話などをもとにしています。そして、上記はみな、キリスト教の中に実際にある見解です。創作と言っても、私が頭の中ででっち上げた話ではありません。

創作 あるクリスチャンの告白 るっせえな(自称「福音派」編)

小さいときから「福音派」の教会に通っていました
高校に入って間もなくバプテスマ(洗礼)を受けました
両親が「福音派」でしたから
教えられたことを何も疑わずに育ちました

------

聖書66巻だけが神の霊感によって書かれた誤りのない神の御言葉であり、真理を示す唯一の完全な規範です。私たちは聖書66巻以外の外典や聖伝、他宗教の教え、その他の一切を排除します。

イエス・キリストは、世の罪びとを救うために処女マリヤから生まれ、真の神でありながら人としてこの地上を生きて、私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり、罪の贖いを成し遂げられたのです。
陰府にくだり、三日目に復活し、天に昇り、父なる神の右に座し、やがて生者と死者を審くために再臨されます。

父なる神、イエス・キリスト、聖霊は、三位一体であり、これを認めないのは異端です。

人は、父なる神によって、神の似姿として創造されました。しかし、最初の人アダムとエバは誘惑に負けて禁断の実を食べ、神に背く者となって楽園を追われ、死ぬ定めとなったのです。アダムとエバの子孫である我々はみな罪びとです。それにも関わらず、神は世の人々を愛し、そのひとり子をお与えになり、イエス・キリストの十字架の贖いによる救いの道を開いてくださったのです。

悔い改めてキリストを信じる者だけが、罪を赦され、神の子とされ、永遠の命を得るのです。これを認めない異教徒や異端者や無神論者はすべて地獄の火で永遠に焼かれます。その人の良心、ヒューマニズム、善行などは一切関係ありません。ただキリストを信じる以外、他に救いの道はありません。福音を知らなかった人も、知らなかったからといって赦されることはなく、みな地獄に行きます。だから地の果てまで伝道しなければならないのです。また、「キリストを信じる」と言ってはいても、正しい信仰を持たないリベラル派やカトリック教徒も審かれることでしょう。サタンのわなは巧妙で、福音派の中にさえ、リベラル派やカトリックの悪影響を受けて正しい聖書信仰からそれてしまった人たちがいます。この世はサタンの支配下にあり、サタンは巧妙に人を惑わします。進化論を教える教育や、聖書の中に歴史的事実ではない記述があるとする主張、同性婚を認める主張など、みな神の教えに反するサタンのわなです。常に警戒しなければなりません。

正しい教会は、聖書66巻だけを信じる聖書信仰に立つ福音主義の教会だけです。聖書に書いてあることは、みな真理であって、歴史的にも科学的にも正しいのです。神話的な世界観の中に生きていた古代人の表現であると言った主張は異端者の考えです。自由主義神学の悪影響を受けたリベラルやカトリックに騙されてはいけません。

日曜は主の日ですから、正しい教会で正しく礼拝を守るのは義務です。「炎のランナー」を見ましたか? 世界的な陸上選手が信仰ゆえに日曜日に行われるオリンピック予選を欠席したのです。そうやって彼は主日を守りました。主日礼拝は信者の義務です。
バプテスマを受け、収入の10分の1を教会に捧げ、弟子訓練を受け、正しい福音を正しく伝え、聖餐にあずかり、主の再臨を待ち望むのです。

世の終わりは近いのです。携挙のときが来ます。そのとき地上にいる真のクリスチャンは、空中に挙げられ、再臨のキリストにお会いします。イエス様は地上に再臨され、すべての死者は復活して審判にあうのです。異教徒や異端者や無神論者はすべて地獄の火に投げ込まれ、そこで永遠に焼かれます。どんな良心的な人でも、正しいクリスチャン以外はみな地獄行きです。正しく聖書を読むなら、未信者は決して救われません。

-----

本気で信じてました
親や教会から教えられてきたことを

それが百パーセント嘘だったら
こっちも気づいたのかもしれませんが
一般のキリスト教会の教義や
かつての教会で言われていたいたことを
うまく混ぜた教えだったのです

あなたがたは聖書の言葉と歴史的な教会の教義を
つまみ食いのように引用して
イエス様の教えとは似ても似つかぬ教えを作っていたのです
それは人間が 聖書を利用して 独自に作った教えです

愛の心などありません
仏教徒の善意も
イスラム教徒の善意も
無神論者のヒューマニズムも
救いとは無縁であると 切り捨て
否定する教えです

人を完全に支配してしまう 恐ろしい教えの中に
私はいました
「あなたは罪びとです」
「イエス様を信じなければ地獄に行きます」
そういった言葉が
絶えず私を支配していました

真剣に信じ
教えに忠実であろうとして
苦しみました

今ならわかります
それは 人が作った教えで
「正しい聖書信仰」という名の偶像崇拝だったのです

あなたがたはいったい何の権限で
正しく聖書を解釈できるのですか
なぜ正しい聖書信仰の「福音派」が
他の「福音派」と対立するのですか
対立する主張が
どちらも正しいのですか

なぜ自分たちの重大な不祥事を
サタンのわなだと言うのですか
なぜ勇気を出して訴えた被害者を
狂言だと言って罵るのですか

私は気づきました
気づくまで いばらの道でした

一時は混乱し
おかしくなってしまいました
今まで信じていたことが
一気に崩れていったのです

あなた方から教えられたことを
余白にびっしり書きこんだ聖書は
開こうとすると気分が悪くなり
体が震え
見たくもなくなって
ごみに捨てました

苦しみぬいたあげく
私は立ち直りました
別の訳の新しい聖書を買って
リベラルな教会に改宗し
エキュメニズムに加わりました

今 幸せに生きています
もう地獄の恐怖におびえることもありません
そんな私を
「サタンのわなに落ちた」とか
「背教者」とか言うのですか

イエス様の教えは
恐怖心で人を縛る教えではありません
人を縛って がんじがらめにする教えではないのです
だのに あなた方は あべこべのことを教えました
あなた方は信者を 罪の意識と地獄の恐怖で脅し
支配し コントロールしていました

私はあなた方から教えられた逆の教えで苦しんだのです
まったく逆でした
イエス様の教えは
苦しみにある人に手を差しのべ
苦しみから解放する教えだったのです
人と人とが 互いに 愛し愛され
共に向上していく教えだったのです

汚い言葉は使いたくないのですが
あなた方から言われたことを思い出すたび
私は心の中で
「るっせえ、るっせえ、るっせえな」
と叫んでしまいます

あなた方が憎いのではなく
早く目を覚ましてほしいのです

今、私は、神様から与えられた重大な使命を感じています
それは 目を閉ざしているあなた方に
目を開いてもらうことです

あなた方は真面目だから
真面目に道を求める中で
恐ろしい教えに引っ張られてしまったのでしょう

そこから抜け出すための
手助けをしたいのです

それが私にとっての福音伝道です
私の使命 負うべき重荷 なすべき務めだと思っています

私は裏切り者ですか
サタンの手下ですか
いいえ

あなた方がどんなに目を閉ざそうとも
イエス様はあなた方を愛しておられます

あなた方に目を開いてほしいのです

あなた方も
こっちに来て
楽になればいいのに

真面目なあなた方は
きっと
すばらしい人になれるでしょう

栄光は父と子と聖霊に
初めからそうであったように
今も 後も 代々に
アーメン

(伊藤一滴)

追記:これは創作です。架空の、あるクリスチャンの告白という形の創作です。
ただし、私がこれまで直接聞いた話や読んだ話などをもとにしています。創作と言っても、私が頭の中ででっち上げた話ではありません。

野原花子『聖書はもういらない』のレビュー

野原花子氏の『聖書はもういらない』を早く読みたいと思いながら、届くのを待っていました。kindle版だとすぐ読めるのでしょうが、できれば、紙の本で、落ち着いてじっくり読みたかったのです。
20日(土)の午後に、郵便配達員さんが山里の家まで持ってきてくれました。まだ雪がだいぶ残る中、ありがたいです。
夕方から一気に読んで、読み終えたら夜中の2時でした。


自分の感想を書く前に、他の方のレビューを紹介します。

アマゾンのレビューから引用します。
こうしたレビューからも、著者が所属していた教会の教派やその教えの輪郭が察せられると思います。


板風氏のレビューから抜粋して引用

抜粋引用開始

5つ星のうち5.0

カルトはエホバの証人や統一教会だけの問題ではないと気づかされる。
2020年12月5日に日本でレビュー済み

聖書信仰派の主張は「聖書は一語一句が誤りのない神の言葉であり、人間はその命令にひたすら服従するのが務めであり、それ以外は滅びの道しかなく、聖書の神を受け入れない人のヒューマニズムや、一般的な善行は、神の前には無価値である」ということである。

著者もまたプロテスタントの信者であり、人生の究極の知恵や規範をすべて聖書に求める聖書信仰者である(引用者注1)。著者の母は、もうすぐキリストが再臨し、自分たちが携挙されることを夢みるほどの人である(引用者注2)。しかしある時著者は精神疾患にかかり、家庭が崩壊し、すべてを失う。子どものころからキリスト教を信じ、高校生の時に洗礼を受け、10分の1献金をするのはもちろん教会のあらゆる仕事に全力をもって尽くした自分と自分の家族が、いったいなぜこんな目に合うのか。つまり「神はいない」ということではないか。そう気づいたとき、社会に対する見方の一切が変わり、いままで非キリスト教的として相手にしなかった人間観が自然なものに思える一方、聖書が何の保証もなしに人間を一方的に縛り付けるものでしかないと気づくのである。

ここで注意すべきは、著者は決して「エホバの証人」や「統一教会」などといった評判の悪いカルトの信者ではないという点である。にもかかわらず、キリスト教に入信していたころの彼女の発想は、エホバなどを盲信している人のそれとなんと似ていることか。聖書など特定の経典や教祖の一言一句を誤りなき言葉として狂信し、世間の良識も科学的真実もそのフィルターでしか見ないという点では瓜二つである。日本では創価に比べ、キリスト教が非難されることは少ないけれど、教えの排他性・異常性というのは福音派を中心にかなり強度のものと気づかされる。

抜粋引用終了

引用者注1:信者であったのです。過去のことです。
引用者注2:携挙(けいきょ)について、また引用ですが、ふみなる氏の言葉から引用します。
「(略)世の終わりの「そのとき」がくると、地上で暮らす敬虔なるクリスチャンらが不思議な力によって一気に空中に引き上げられ、そこで再臨のキリストにお会いする、という現象が携挙だと考えられています。」
「この携挙は地上に残される側からすると、敬虔なるクリスチャンらが一瞬にして消失するように見えるそうです。人体消失や神隠しみたいな。よくわかりませんけれど(何せまだ起こってない、誰も見たことのない現象ですからね!)。」
「もちろんこれは終末に関する、諸説あるうちに一説に過ぎません。ですから必ず患難時代の前にクリスチャンが携挙される! と断言することは誰にもできません。断言する人がいたらそっちの方が問題です。」
出典:https://note.com/fuminaru/n/n44f1a2954c2b(関心のある方はこの出典もぜひお読みください。携挙信仰の問題点が書いてあります。ふみなる氏は「どうも携挙信仰と、イエスが教える神の愛との整合性が取れないような気がします」とおっしゃっていますが、私もそう思います。)


masaki tomita氏のレビューを全文引用

引用開始

5つ星のうち3.0

お疲れ様でした。今後、平和な暮らしが来ることを願います。
2021年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入

マインドコントロールの被害を受け、そこから生還した著者の悲痛な被害届のような書物である。
著者を捕らえ込み、ここまで痛めつけたキリスト教は、文章を読む限り「福音派」と呼ばれるタイプの教会である。そこがこの人の不幸の始まりであると思われる。
キリスト教の中には、聖書の文字面だけ鵜呑みにすることはなく、神の存在さえ批判的に検証するような人々もいる。そして、人間らしい感情や愛を何より大切にする教会もある。
もしそういうタイプのキリスト教とこの方が出会えていたら、この方の人生も変わっていたかもしれないと思う。

引用終了


蓑笠亭主人鋤谷九郎氏のレビューの冒頭を引用

引用開始

5つ星のうち5.0

信仰という陥穽に陥らないために(陥穽(かんせい):落とし穴、わな、引用者)
2021年3月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入

何とも壮絶な本を読んだものだ。本書は「信仰という陥穽に陥り、文字通り『生き地獄』を見てしまった人の手記」といってよいだろう。著者は元キリスト教徒とのことだが、いかなる宗教においても、「生き地獄」をみる危険性を孕んでいると断言してよいだろう。
 「鰯の頭も信心から」という諺があるが、対象が何であれ、「信じることで救われる」ならば、それはそれでよいことだ。しかし決して忘れてはいけないことは、「信仰とは、あくまでも『鰯の頭を信心することでしかない』ということ」だ。つまり「救われること」とは、その人の「心理現象」であり「物理現象」ではないのだ。

(以下略 引用者)

引用終了


as it is氏のレビューを全文引用

引用開始

5つ星のうち5.0

聖書は指月の指に過ぎません
2021年3月4日に日本でレビュー済み

著者はプロテスタントに所属していた方のようですが、カトリックでも状況は同じでしょう。

沈黙・静寂・従順・謙虚・無私という美名の下に、口封じ・見殺し・素通り・奴隷化・隠蔽・集団いじめが負かり通っています。
多元主義という看板付け替えがされても実態は、ウイクリフ、ヤン・フス、魔女狩り、十字軍の時代から何も変わっていないと思います(引用者注3)。

聖書は真理を指し示す指月の指に過ぎません。聖書を月そのものと錯誤している間は悲劇が繰り返されでしょう。

引用終了

引用者注3:「宗教多元主義(しゅうきょうたげんしゅぎ、英: Religious pluralism)とは、さまざまな宗教が同じ社会に存在することを認め、お互いの価値を認めながら共存していこうとする宗教的態度、思想である。」(ウイキペディア)
イギリスのジョン・ヒックが有名。
遠藤周作『深い河』にも多元主義の影響が見られる。


はる氏のレビューを全文引用

引用開始

5つ星のうち2.0

聖書への批判なのでしょうか?
2021年3月8日に日本でレビュー済み

教会の歴史のまとめの部分は分かりやすくまとまっていました。後半の著者の経験に触れる箇所で、大変な経験をしておられることは理解できましたが、それが自分に起こったのは、全て聖書に問題があるからであると結論付けられていることに違和感がありました。歴史的に教会が行(おこな)って来たことに問題があったことは本書の指摘にもあるとおりだと思いますが、それは教会への批判であって聖書への批判としてはズレているように思います。

引用終了(「おこなって」の読み仮名は引用者)


私、一滴もアマゾンにレビューを送りました。「いったい正しいキリスト教信仰とは何なのでしょう」というタイトルです。
内容はこれまでこのブログに書いた話ばかりで、目新しいことは何も書いていません。
数日内に読めるようになるでしょう。

(伊藤一滴)

るっせえな(「女の子なんだから」編)

生まれたときから女の子でした
そして だんだん女の子っぽくなりました
「あなたは女の子なんだから」と
刷り込まれた結果でしょうか

あなたは女の子なんだから、
礼儀正しくするんですよ
足をくずしたりしないの
ほら お行儀悪い
乱暴な言葉を使っちゃ駄目

あなたは女の子なんだから、
喧嘩は駄目よ
家のお手伝いをしてね
きちんとお部屋を片付けるのよ
それからお花に水をやってね

あなたは女の子なんだから、
ランドセルは赤ね
スカートがいいわね
何でも控えめにね
男の子より目立っちゃ駄目

あなたは女の子なんだから、
野球やサッカーなんかしなくていいから
それよりピアノを習いましょう
服も髪もきちんと整えるのよ
「お里が知れる」なんて言われないように

あなたは女の子なんだから、
言われる前に気がつかないとね
お客さんが来たらご挨拶して
言われなくてもお茶を運ぶ
靴もそろえておく

あなたは女の子なんだから、
高望みはしなくていいの
何も県外の四年制大学に行かなくても
地元の短大で十分
あんまり出来過ぎちゃ駄目

あなたは女の子なんだから、
そんなに就職のことで悩まなくていいのよ
結婚して退職する女の子も多いんだから
いい人と結婚することの方が大事でしょ
相手は大企業の人か公務員がいいわね

はい はい はい
私は女の子ですから
言われた通りにしてきました
そしてその結果は
「私って何?」

私の人生を返せー!
返せー!
返せー!
返せー!

るっせえ、るっせえ、るっせえな
あわれなクソ野郎、クソアマども
てめえらの臭え口ふさげ


・・・・・・・

はい、これも創作です。
作者の伊藤一滴は男です。すみません。
最後の言葉が汚くて、どうもすみません。
しかも、これ、昭和の感覚ですね。

私が育った昭和時代には、上記のようなことを言われている女の子たちが本当にいたんです。今も、上記に近いことを言われる場合も、ゼロではないでしょう。
自分は男だから関係ない、では済まない話です。
女性が生きにくい世の中って、男性にとっても嫌な世の中ですよ。

性別に関わらず、人が自分の望みや適性を発揮できる世の中であってほしいと思います。

(伊藤一滴)

るっせえな(優等生編)

ちっちゃな頃から優等生
15で成績学年トップ
親にも教師にも友だちにも気に入られたくて
いつも周りを気にしてました

県内トップの高校で
私はいつも優等生 生徒会長になりました
君の成績なら 医者にも弁護士にも大学教授にもなれるよって
期待されてる生徒でした

でも私は絵を描きたかった 美術を学びたかった
だから正直にそう言ったら
何を馬鹿なことを言うんだって
親からうんと叱られました

絵描きじゃ食べていけないよ
成績がいいのに もったいない
絵を描くのは趣味の範囲にして
名門大学を目ざしなさい

それでも私はとことん絵を描きたかった 美術を学びたかった
それが本当の自分だと思ったのに
親は許さない ちっともわかってくれない
自分て何? 親の望み通りに動くあやつり人形?

もう いい子に疲れました
親は「あなたのため」って言うけれど
それって私のためじゃなくて
ただの親の見栄じゃない

いつも周りを気にしてばかり
人に喜んでもらえるように
先回りしていい子を演じる自分に
本当に本当に疲れました

恋した人はいないけど 家を出ようと決めました
駅のホームで見つかって 力まかせに窓を割り
砕けたガラスの上に寝転がり
背中が傷だらけになりました

血まみれのまま暴れたら 駅員たちにおさえられ
父母の泣いている声と一緒に
救急車とパトカーの両方のサイレンが
近づいてくるのが聞こえました

るっせえ、るっせえ、るっせえな
あわれな野郎 臭え口ふさげ

あれから10年経ちました
親元を離れてアパート暮らし
今、塾講師のバイトと兼業で
近所の子どもたちに絵を教えています

自分の絵はたまにしか売れませんが
それで 十分に幸せです
だのに 10年前を思い出すと
今でも怒りが込み上げます

何が「あなたのため」だ!
自分たちが出来なかったことを代わりに私にさせて
見栄を張ろうとしてただけじゃないか
どうしてわかんないだよー! 

「あなたのため、あなたのため」って勉強ばかりさせられた私の幼少時代と青春を返してよー!

るっせえ、るっせえ、るっせえな
あわれな野郎 臭え口ふさげ


・・・・・・・

創作です。
もちろん創作。
私(一滴)はそんな優等生じゃありません。駅のガラスを割ったりもしてませんし、割れたガラスの上に寝たこともありません。痛いだろうな。やったことないんで、想像ですが。

ただ、

親は「あなたのため」って言うけれど
それって私のためじゃなくて
ただの親の見栄じゃない

は、本当にありましたね。

それと、「成績がいいのに、もったいない。やりたいことは趣味の範囲にして、〇〇大学(旧帝大)を目ざしなさい」って、私の知っている人が本当に言われました。
私ではありませんけれど。

(伊藤一滴)

るっせえな

ちっちゃな頃から優等生
15で表彰されました
ナイフに触ったこともない
ガラスを割ったこともない

バイクを盗んだこともない
教科書に落書きしたこともない
煙草を吸ったこともない
百円玉で缶コーヒーを買ったこともない

安いダンスホールに行ったこともない
放火後に街をふらついたこともない
もちろんピンボールのハイスコアを競い合ったこともない
スクランブル交差点で歌ったこともない

ラジエターを洗ったこともない
オイルを替えたこともない
煙草と毛布とギターを
バックシートに積んだこともない


スマホを開いてトレンドをチェック
新聞の経済面もじっくりチェック
でも政治面は読まなくていいですからね
政権批判はタブーです

誰のおかげで食べてるんだあ?
お偉いさん方に失礼があっちゃいけない
政権与党批判は特に駄目
週刊文春なんて読んじゃ駄目 さわるのも駄目

嫌な飲み会も必ず出ましょう
断らない男、断らない女になりましょう
上司の御機嫌を取りましょう 与党の御機嫌も取りましょう
さあ、さ、とりあえずビール 極度に乾燥させよビール

俺たち優等生
俺たち模範人間
いい学校を出て
いい所で働いています

社畜ですか
社畜で結構
そうならないと
食べていけない

俺たちは何を卒業し
どこに向かっているんだろう

るっせえ、るっせえ、るっせえな
あわれな野郎 臭え口ふさげ


・・・・・・・

今朝(2021.3.15)、NHKラジオの「三宅民雄のまいあさ」を聞いていたら、Adoさんの歌「うっせぇわ」が紹介されました。私は今朝のラジオで始めて知ったのですが、この歌、小学生にまで人気で、小さい子も歌っているのだそうです。ためしにうちの子どもたちに聞いたら、大学生の息子も中学生の娘もこの歌を知ってました。娘は「チェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」を意識してるねー」って言ってました。そんなのも知ってるのか。

それで、「うっせぇわ」に触発されて書いたのが上記です。
「放火後」は変換ミスではなくてわざとです。1984年、当時の富士通オアシスは「放課後」が出なくて「放火後」と変換されました。それを思い出したんです。そう言えば、アッシジのフランシスコが出なくて「圧死時の腐乱死す子」になったり、アマデウスが出なくて「尼で臼」になったり、いろいろありました。
いかにも私、50代ですね。(笑)

上の変な詩は青春の歌と思いを混ぜこぜにした初老のつぶやき?
「うっせぇわ」って言われそうだな。

(伊藤一滴)

東日本大震災から10年 祈り

東日本大震災から今日で10年になります。
震災について思うことは、これまでたびたび書いてきた通りですが、今、特に、次のことを思っています。


どのような形であれ、追悼、慰霊が大切であること

被災された方々、肉親や友人知人を亡くされた方々のことを思うこと

復興を願うこと


知れば知るほど、被害のあまりの大きさに言葉を失いそうになるのですが、私は、祈り続けます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

どう祈ればいいのでしょうか。

決まった形式はないと思います。

神と呼ばれるような、人智を超えたお方が本当におられると仮定すれば、そのお方は人間の思いなどすべて御存知でしょうから、長々と祈る必要はないのです。
肝心なことだけ祈れば、それで十分でしょう。
何が肝心なのか、見抜かないと。

神などいないと仮定しても、祈りは自分の思いの表明であり、自分は何を願い、何に感謝し、どこに進もうとしているのか、言葉によって自己を客観化することでもありますから、「存在しない神に祈ることに意味がある」と思います。


私たちみんなが、よりよい方向に向かって進むことができますように。

(伊藤一滴)

野原花子著『聖書はもういらない』その2

アマゾンで『聖書はもういらない』を今日見たら、販売価格が定価になっていたので注文しました(昨日は定価の約2倍)。

「通常1~2か月以内に発送します。」「最も早いお届け日: 3月23日 - 4月20日」って、
今日が3月10日ですから、ずいぶんかかりますね。船便じゃあるまいし。
かなり売れて、品薄なのでしょう。
まあ、世の中みんな、私も含めて、注文すればすぐ着くのに慣れてしまって、遅く感じるのかもしれませんが。

(翌日配達が世の標準になると、特に指定しなければ翌日でなくていい荷物まで翌日に届きます。そのために、悪天候でも真夜中にトラックを走らせる人たちが多数いて、それで当然というのも、どうかと思いますけれど。)


『聖書はもういらない』の表紙の写真が載っています(アマゾンより)。

Photo

帯にこう書いてあります。

引用開始

人間を
幸せにするのは
神様ではありません。
人間を幸せに
できるのは
人間です。
(本文より)

様々な固定観念から解き放たれたときに、
新たに見えてくる世界

引用終了


この本には旧版もあったようで、「聖書の持つマインドコントロール性」というサブタイトルがついています。

Photo_2

帯にはこう書いてあります。

引用開始

キリスト教のプロテスタント信仰に生きてきた立場と
そのような信仰を捨てた立場の二つの視点から
キリスト教の矛盾を紐解く

引用終了


旧版の表紙は、世のクリスチャンたちへの公開質問状のようにも思えます。
さて、クリスチャンたち、どう答えるのか。怒るのか、無視するのか、背教者呼ばわりするのか。「浅い土に落ちた種は根が張れなかったのだ」と見下すのか。それとも「あなたが迷いから覚め正しい信仰に復帰するよう祈っています」とでも言うのか。

私も早く読みたい!

(伊藤一滴)


付記:今日は東京大空襲の日です。そして明日は東日本大震災の日。
多くの命が失われた事実が、重い。

野原花子著『聖書はもういらない』を、早く読みたい!

朝日新聞の広告で、野原花子『聖書はもういらない』(幻冬舎)という本を見かけました。読みたいのですが、大人気のようで、 天下のアマゾンでさえ定価の約2倍になってます。

定価で買えたら是非ほしい。

版元が幻冬舎となっていますが、自費出版のようです。

幻冬舎ルネッサンス新社のホームページにこうあります。


引用開始

内容紹介
その起源から現在に至るまで長らく世界中に影響を与え続けている聖書。
キリスト教の歴史をひもときながら、聖書がどのように人の心をとらえ、支配してきたのか、その過程と構造の解明を試みる書。
真の魂の救済とはどういうものか。喪失の悲劇から人間の弱さを理解したときに、人生はより豊かな広がりを見せる――。

■著者紹介
野原 花子(のはら はなこ)

1958年生まれ、四国出身。
幼い時から、クリスチャンの母親の影響で地元のプロテスタント教会で信仰教育を受け、聖書的価値観から離れて生きることは生涯ないであろうと考え、高校3年時に洗礼を受ける。
結婚後、12年間韓国で暮らす。その後、帰国、関東へ移る。

引用終了


目次も載っているので引用します。


引用開始

目次
まえがき
第一部 聖書の支配
     キリスト教の影響力
     聖書の誕生
     イエスの教え
     パウロの福音
     排他的な愛
     エンドレスの感謝
     神のみこころ
     クリスチャンとノンクリスチャン
     刷り込み
     ある牧師の死
     珠玉の「愛の章」
     フィルターをかけられる
     愛とは
     ヨブの試練
     安息日
     閉鎖的な教会
     韓国の教会
     インターネット時代の聖書
     三位一体とは
     カトリックとプロテスタント
     キリスト教会の反ユダヤ主義
     十字軍
     異端審問
     魔女狩り
     免罪符と宗教改革
     人権思想の誕生
第二部 マインドコントロールが解けた
     罪意識からの解放
     事実は小説より奇なり
     教会ごっこ
     固定観念
     バランス
     神に人生を委ねるとは
     喜びの消えた人生
     人間の愛とキリストの愛
     喜びこそ、生きる力
第三部 事実は小説より奇なり
第四部 喪失
あとがき

引用終了


読んでもいないのにコメントするのは無責任だと言われそうですが、紹介や目次から、内容を察します。

聖書が人を支配するというより、ある人たちが聖書を使って人を支配してきた、ということではないのでしょうか。
そういう人たちが今もいて、人を支配しようとしています。そんなのは、もういりません。

支配の道具としての聖書はもういらない。

聖書を使って人を支配する自称「正しいキリスト教」など、もういらない。

そういうことではないのかと、私は、思います。


聖書そのものは、人類の宝です。

新約聖書は、田川建三訳、前田護郎訳などがあります。
旧約聖書は、関根正雄訳が有名です。
他にも、日本聖書協会などから、廉価で買える訳が数種類出されています。


人類の宝である聖書を人を支配する道具にしてはいけない。

聖書を使い、人が、人を支配する宗教を作り出してはいけない。


野原花子著『聖書はもういらない』を、早く読みたい!

(伊藤一滴)

大雪の山里も春が近い 2021年3月

昨冬はほとんど雪が降らず、この冬は大雪・・・・。
何でしょう、この極端な違いは。

私も妻も、豪雪は承知の上で山形県内陸部のこの山里に越してきたんですが・・・・。

それにしても・・・・、この冬はかなりの大雪でした。

除雪しても、しても、また降る。
車庫前の雪をどかして車を出しても、翌朝にはまた腰までの雪。それをまた排雪、次の日もまた排雪の繰り返し。

もう家の1階も完全に雪に埋まって、雪下ろしではなく雪堀りの日々。
雪の階段を下って家に入って、1階はまるで地下。昼でも暗くて1階は夜と一緒。

雪は覚悟の上での山里暮らしですけれど、さすがにちょっと疲れました。
まあ、冬に運動不足にならずに済むという考えもありますが。

3月2日、用事があって山形市内に行ったら全然雪がない!
はあ。
多くの人が「便利」な場所を求めて、機会があれば越すのですね。
私たちは、多少不便があっても、居心地の良さを求めてここに来ました。

大雪の山里も、3月になってだいぶ明るくなってきました。
春が近い。

2021

家の周りでウサギの足跡を見ます。なんか、ムンクの「叫び」の顔みたいです。目のように見える部分が後ろ足、鼻と口のような部分が前足です。

影は私です。

(伊藤一滴)