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カルト信者も被害者か ただし指導者の一部は悪質

澄み渡る秋の空の下。山里は実に快適です。
実りの秋を迎え、私も稲刈りの準備をしています。

もう原理主義やカルトの話はいったんやめて別な話題をと思ったんですが、もう少しだけ、気になることを書きます。

原理主義者やカルト信者は悪人だというのではありません。
たぶん、真面目な人が、何かのきっかけで乗ってしまったのでしょう。
そこで地獄の恐怖を植え付けられてマインドコントロールみたいなことをされ、時には、自分で自分をマインドコントロールするようなことをして、「絶対だ」と信じてしまったのでしょう。だから、彼らは被害者とも言えます。

生きてゆく中で傷つき、苦しみ、原理主義やカルトの教えに救いを感じたのかもしれませんが、前から言っている通り、治療というより鎮痛剤(あるいは麻薬)で心の痛みを麻痺させるだけです。癒えません。それは信仰というより病的な思い込みであり、ごまかしです。私は、救いを感じません。「神の働き」も感じません。

原理主義やカルトの一般信者が被害者だとしても、指導者の場合だとまた違います。誤りに気づかずに教えているならあまりに不勉強ですし、誤りだと知りつつ嘘を教えて自分たちの立場を守ろうとしているなら、かなり悪質です。

どちらにしても、イエスが人々に示した生き方とはまるで方向が違います。


戸田さんという方が「カルトの付き合い」というのをお書きになっているのを見つけました。
まったくそのとおりです。
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19869606.html

戸田さんがご指摘なさっていますが、

(カルトは)
「丁寧な言い方をすれば
自分は柔和だと思い込んでいるようです。」

だから、恐ろしいことを丁寧な言葉で言ってくるのです。

私も「聖書カルト」からいろいろ嫌なことを言われましたが、実に丁寧な言葉遣いの人もいました。(注)

クリスチャンと称する人が、丁寧な言葉を使って、人を侮蔑し、鼻で笑い、憐れむようなことや、呪うようなことを言ってきたら、それはカルトです。

今から30年以上前ですが、若かった私は、丁寧な言葉で他教派やカトリックを見下して馬鹿にするようなことを言いまくる聖書カルトに腹を立て、丁寧な言葉でかなり言い返したことがありました。

「あなたのような人を原理主義者と言うのです。日本基督教団の牧師先生方やカトリックの神父様方の百分の一の知識もなくて、分かったようなことをおっしゃるのはおやめになった方がいいと思います。対等にとは言いませんが、せめてそうした先生方の十分の一くらいは勉強をなさってから、ものを言われてはいかがですか」

その人も言い返してきました。
「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです。信仰は知識の量ではありません。多くの知識があっても正しい信仰がなければ滅びへの道を歩みます。あなたもサタンの側に加わり、滅びの道を歩んでいるようです。あなたが悔い改めて正しい信仰に加わるよう願っています」

と、まあ、こんな口調で、自分は正しい聖書信仰に立つ真理の側だという確信に満ちて、丁寧な言葉で「サタンの側」だの「滅びの道」だのと人を罵倒してきました。私もまだ若くて、そのあとかなり言い返してしまいましたが、思い出しても不愉快になるだけなので、言葉遣いの例程度だけ書いておきます。

もう一点、戸田さんのご指摘を引用します。

「キリスト信仰は
人間においては真実追求の道であり
道であるがゆえに一生求めてゆくものであり
 そのことは
人間において罪深さという不完全性を
聖書から学んだ人々の共通理解に根差しています。
  
 安易な真実を提供する向きに支配されてはいけません。」

原理主義者やカルトは、自分たちは真理の側にいると思っているから、真実は自分たちの所にあると考え、「真実追求の道」を求めたりせず、真実を求める人を「間違っている」と言い、時に慇懃な言葉で罵ってきます。

私は、リベラル派の人たちも、カトリックの人たちも、リベラルやカトリックと対話する穏健な福音派の人たちも、その多くは真実を求め、誠実に生きていると思います。

それに対し、原理主義者やカルトには、真実追求の姿勢を感じません。感じるのは、聖書の表面をなぞるだけの、薄っぺらで安っぽいイデオロギーです。文脈を無視した牽強付会の引用の数々で、自分たちの数百倍も勉強している人たちを非難して、平気でいます。そういう浅さで、本当の意味での真実を追求しようとせず、真実を求める人たちを攻撃するのです。

安易な真実(定かでない「真実」、薄っぺらで安っぽい「真実」)に乗せられてはいけません。

乗りかけてしまった人は、一刻も早く目を覚ましてほしいと思います。

(一滴)

(注)以前、「口汚い非難」と書きましたが、丁寧な言葉で相手を侮辱し、罵倒する人もいます。言葉遣いは丁寧でも、言っている内容は「口汚い非難」と変わりません。 
 

なぜ原理主義やカルトのことを書いたのか

なんで原理主義やカルトの話が続いたのかと言うと・・・・。

田川建三訳の「新約聖書」本文が1冊の本になって出る。

田川建三さんにお会いしたときのことを思い出した。

田川さんは、キリスト教を装うカルトが各地の大学などで活動していることに、注意を呼びかけていた。

私が最初に行った山形県内の「教会」も、原理主義(あるいはカルト)ではないかと疑われる自称「福音派」、自称「正統派」だった。

大学生になって、愛知県内にいたとき、聖書カルトらしき人たちから議論を吹っ掛けられて、嫌な目にあった。それも、一方的に自分たちの主張をまくしたてる人たちで、最初に行った「教会」とよく似ていた。

一方は山形県の田舎、一方は愛知県の田舎で、なぜ、よく似た主張をする人がいるのか、不思議だった。あとから東京で暮らしたときも、一部によく似た人がいた。どうも、原理主義(あるいはカルト)は全国にいるようだ。

何度も聞いたから、彼らの言い分を覚えてしまった(以前「聖書カルト」「聖書カルト2」に書いた通り)。でも、なぜ人は原理主義やカルトを作り出し、信じ込み、それを維持してしまうのか、説明できずにいた。

最近、たまたまネット上で「metanoiaxの日記」を読んでいて、執筆者さんが、「カルト化した教会」を必要とする人々がいるからなくならないとご指摘をなさっているのを見て、これだ、と思った。(「metanoiaxの日記」2018-2-26)
同じ執筆者による「悪口満載のお説教をする牧師達(「metanoiaxの日記」2017-06-23 )も、私が会った人たちにそっくりで、一瞬、同じ牧師かと思うくらいだった。 あの人たちだ。不寛容、排他的、独善的、攻撃的なあの人たちだ。山形県にいた、愛知県にいた、東京にもいた、ネット上にもいる、そっくりだ。

答えが出た。

40数年間の疑問が解けた。

「カルト化した教会」を必要とするくらい傷ついたり、心を病んだりしている人がいる。
気の毒な話だけれど、アルコール依存やパチンコ依存のように、カルト信仰依存になってゆく人がいる。しかも当人は、それが正しいキリスト教だと思い込んでいる。

福音派が極端になれば原理主義に陥り、原理主義者の中にカルト化していく人たちがいる。
原理主義化の危険は、福音派が持つ宿命なのかもしれない。

原理主義やカルトの「信仰」は傷の痛みを麻痺させるだけで、傷を癒してくれない。麻痺させているうちに傷はますます悪化する。それは信仰というより病的な思い込みだ。
早く目を覚まさないと。
(参照「平和島」http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/11/post-e773.html

それで私は書きまくった。

(一滴)

カルトの特徴は共通する

聖書カルトには共通の特徴があります。

その思考回路もかなり共通しています。


自分たちは救われている。真理の側にいる。真実はすべて聖書に書いてあるとおりで、我々はそれを知り、信じている。
我々が非難されるのは、我々が正しいからだ。我々を非難する人たちはサタンの支配下にある。サタンの側の人たちが何を言おうが、真理の側にいる我々が考えを改めたりやり方を変えたりする必要はない。彼らから学ぶことなどないし、対話の余地もない。

世の中には、「真理を探究するのが学問だ」とか「真実を求める」とか言う人たちがいるが、聖書が真理であり、聖書にすべての真実がある。聖書を文字通り正しく信じる我々は真理の側にいるのだから、我々が知る以外の真実など存在しない!

プロテスタントのリベラル派、カトリック、多くのキリスト教系の大学などは、聖書を文字通り信じていないから、間違ったことを求めている。彼らの言う聖書学も聖書考古学もみな間違いだ。
すべては6日間で神によって創造されたのだから、それ以前の歴史はない。創世記の冒頭にあるとおり、太陽より先に光があったし、太陽より先に地球上には植物があった。人も三葉虫も恐竜もみな、この時に創造され、同じ時代を生きていた。そして、あるものは、ノアの洪水の時などに滅んだ。恐竜もこの洪水の時に滅んだのだろう。ある生物が絶滅することはあっても、天地創造の時にいなかった生物があとから進化によって発生することなどありえない。聖書にはっきり書いてある創造の事実を認めないのは異端者だ。

間違った考えを持ち、間違ったことを追求するキリスト者たちは、この世と妥協し、サタンの側についてしまっている。こうした勢力は、キリスト再臨の時に滅ぼされるだろうが、できれば今すぐにでも完全に消し去ってやりたい。真理に立つ我々は、彼らを徹底的に非難し、断固糾弾する!!


聖書カルトがこのような思考回路だと考えれば、その怒りのパワーも、社会や政治への無関心も、他教派への一方的な非難の数々も、みな説明がつきます。

でも、それって、キリスト教なんだろうか?
彼らは「正統プロテスタント」って自称してますけど。

さて、自らを「福音派」と称し「正統プロテスタント」とするあなた方は、日々、幸せを感じていますか?
救いの実感がありますか?
あなたがたの信仰の中心は何ですか。地獄の恐怖ですか?

カルトではない多くの普通のクリスチャンは幸せに生きています。(もちろん、福音派を含めてです。リベラルもカトリックも、多くは、普通に、幸せに生きています。)
人生の中には悲しみも苦しみも、当然ありますが、トータルで見るなら、多くは、助け合いながらつつましく幸せに生きているのです。
それがサタンの誘惑ですか? 
普通のクリスチャンは、イエス様を信じ、誠実に生きています。なんでそれがサタンの側?
他教派、他宗教に罵詈雑言を浴びせたりしないし、罵詈雑言に満ち満ちた説教を聞かされることもないし、宗教情報の統制もありません。当然、法外な献金の要求もありません。

あなた方もこっちに来ればいいのに。

(一滴)

怪しい団体はいいことを言う

原理主義やカルトの問題について妻と話をしていたら、妻が言いました。
「出発点や結論が違えば、途中でどんないいことを言っていてもそれは違うと思う」

私も納得しました。

たとえば、出発点が「死後に地獄に堕ちる恐怖」であったとします。
これを解決するためにどうすればよいのか?

死後の世界などないと思い込む方法もありますが、宗教にすがる方法もあり、その中の一例としてキリスト教原理主義や聖書カルトにすがる、というやり方もあります。

「イエス・キリストを信じれば、イエスの十字架の贖いによって救われる、天国に行ける」と信じて、安心感を得た気になります。

それは、一見、正しいキリスト教のようですが、どうも違います。恐怖から出発した「信仰」で、恐怖はどこまでもついてまわります。地獄に行くといけないから、牧師先生に逆らってはいけない、教会には毎週行かないといけない、きちんと献金しないといけない、間違った本を読んではいけない、「正しく」聖書を読まないといけない、進化論は否定しないといけない。そして、地獄行きを免れるこの教えを一人でも多くの人に伝え、信じてもらわないといけない・・・・。そのためなら何でも許される。

喜びがありません。
「いいえ、喜びの毎日です」って。
嘘です。

真理によって自由を与えられるのではなくて、規則や禁止事項や義務でがんじがらめですよ。

がんじがらめにされた中で、地獄の恐怖を免れたと思って、救われたような気になっているだけですよ。

鎮痛剤(あるいは麻薬)で心を麻痺させて、地獄の恐怖を感じにくくしているだけですから。それは治療ではなくて麻痺ですよ。

麻痺させても、麻痺させても、どこかで恐怖を感じる。だからもっと強い薬を使う。それでもどこかで感じる。
自分は救われているんだ、救われていないあの人たちとは違うんだと、優越感を持って自分たちを正当化しても、どこかで恐怖を感じる。もし自分が救われていなければ、地獄の火の中で、永遠に焼かれてしまう。

いつもおびえ、囚われている「信仰」です。
福音書に書いてあるイエス様の優しさと、全然違う。
一般のクリスチャンたちの明るさと、全然違う。


原理主義やカルトは、いいことも言います。でも、出発点や結論が違います。

そりゃあいいことを言いますよ。当然です。でないと入信者を獲得できません。

私は中学生のとき、原理主義(あるいはカルト)っぽい「教会」で、三浦綾子の著書を紹介されました。『塩狩峠』も『道ありき』も『氷点』も、とてもいい本です。いい本を紹介してもらったのはありがたいです。(もちろん三浦綾子は原理主義やカルトの仲間ではありません。彼らが利用したのです。)

たとえ、部分的にいい話が出てきても、だまされてはいけない。
彼らはいい話を巧みに利用します。
大局を見ないと。

別な例ですが、私が大学生のとき、オウム真理教がさかんにビラを配っていました。その中には正しいことも書いてありましたが、だからといって、オウム真理教が正しいということにはなりません。

いいことを言っても、いい話を都合よく利用しているだけです。

目を覚ましてください。

(一滴)

災害の次に来るものは

台風の被害、北海道地震の被害に遭われた方々に、お見舞い申し上げます。

単なる私の思い過ごしであればいいのですが、最近の日本の姿が、昭和の初めの日本と重なって見えるのです。

昭和の初めというのは、もちろん、私が生まれるずっと前ですから、当時を知る高齢者から聞いた話や、文字で記録されたものや、写真や、一部の映像でしか知りません。それでも・・・・。

大正時代に関東大震災があって、昭和になると世界恐慌があって、東北の凶作が続いて、そんな中で、日本は軍事国家の道をゆく。無謀な戦争を誰も止められず、大勢を巻き込んで、敗北する。

自然災害
経済の混乱
凶作
軍国主義の台頭と同調する国民
無謀な戦争(無責任体質)
等々
いろいろ、絡み合ったのでしょうけれど。

そして、今。

自然災害、原子力災害
1000兆円を超える借金
極端に低い食糧自給率
自公政権の台頭と同調する国民(無責任体質)
戦前を思わせるような諸法の制定
さて、次は?


戦後70年目の平成27年(2015年)の「天皇陛下のご感想(新年に当たり)」にこうあります。

「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。」(宮内庁ホームページより)

当時、報道でこのお言葉を知った私は、陛下は憂いておられると思いました。想像ですが、「満州事変に始まるこの戦争」に向かって行った時代と重なる雰囲気を感じておられるのではないかとさえ思いました。

自公政権の議員たちは、真剣にこのお言葉を聞いたのでしょうか?

彼らはどう日本の舵を取り、どこに向かって国を進めるの気なのでしょう。

「今後の日本のあり方を」どう考えているのでしょう。

最近の日本の姿が、昭和の初めの日本と重なって見えるのです。単なる私の思い過ごしであればいいのですが。

ご参考に、http://yamazato.ic-blog.jp/home/2014/09/post-357b.html

(一滴)