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自分の頭で聖書を読まない「熱心な信者」たち

原理主義者や聖書カルトは、自分の頭で聖書を読まない「熱心な信者」たちです。熱心に聖書を読みますが、自分の頭で考えず、言われたとおりに信じて、自分たちは真理の側にいると思っています。なにしろ真理の側ですから、気分は高揚し、居丈高になります。この高揚感を「聖霊の働き」だと感じて、ますます自分たちは正しいと思いこんだりします。そして、「救われていない人たち」(自分たちのグループの外の人たち)を蔑みの目で憐れむのです。
「私たちは罪びとです」なんて口では言いますが、全然低姿勢ではありません。「救われていない人たち」に対して完全に上から目線です。なにせ自分たちは真理の側ですから。

立場が異なる他者と対話して学ぶこともありません。真理の側にいる自分たちが、不完全な他者から学ぶことなど何もないのです。対話しないので、相手を誤解し、誤解したまま自分たちの思い込みで相手を非難します。非難された側が、「それは違います、こうです」と答えようとしても聞く耳を持ちません。一方的に非難をぶつけておいて、聖書の正義で悪を成敗する高揚感に浸っているのです。

そうした言動を非難されると、「私たちは正しいから弾圧されている」「イエス様が迫害されたように私たちも迫害されている」などど言って、ますます熱心になります。

そんなのは、真理でも、正義でも、聖霊の働きでも何でもありません。宗教カルトの発想です。

カルト化が進むと、他の宗教カルト同様に、ボスの君臨(パワハラやセクハラの横行)、高額な献金の要求と不明朗な経理、指導者の異性問題などが起きてきます。聖書が改竄されることもあります。

原理主義者や聖書カルトからよく攻撃されてしまうのが、人のいいカトリックの信者です。人がいいから、キリスト教と聞くと相手を疑わないのです。
多くのカトリック信者はプロテスタントの教派の見分けなどつきません。以前プロテスタントの人から親切にしてもらったから、みんなそんな感じだろうと思って話しかけたら、いきなり取り囲まれて怖い目で議論を吹っかけられたりして、「なんで~???」になるんです。

原理主義者やカルトは「私たちは聖書に書いてあることを、書いてある通りに信じています」と言いますが、自分の頭で聖書を読んだり、自分で考えたりしていないから、多様な意見も多様な発想もないのです。それがあれば、そもそも、原理主義やカルトにはならないのです。

どこを切っても同じ顔が出てくる金太郎飴のように、彼らの主張が不気味なほど一致するのはなぜでしょうか? それが「真理だから」ではありません。それは、ある種の「神学者」や「牧師先生」の見解のコピーだからです。つまり、ネタ本があるからです。

特定の出版社から出されているネタ本類や特定のサイトに見られるネタのもとになっているのは、おそらく、原理主義者やそれに近い人たちが過去百年以上積み重ねてきた理屈(というより屁理屈)の体系でしょう。20世紀の初頭から、彼らは、「非科学的だ、反知性的だ」と馬鹿にされながら、こう言われたらこう切り返す、こう問われたらこう答えるという、スコラ学も顔負けの体系を作ってきました。それをうまく抜粋・要約してくれる「神学者」や「牧師先生」の見解がコピーされるから、みんな同じようなことを言うようになるのです。

指導者がカルト化すれば信者もカルト化します。指導者に疑問を感じても、それはサタンの誘惑だと打ち消してしまいます。
普段から、自分の頭で考えていませんから。

彼らは、「カトリックは聖書以外の聖伝を信じているから誤りだ」などど言いますが、自分たちも、ありがたい「神学者」や「牧師先生」の主張を聖伝のように信じています。むしろ、ありがたい主張は「聖書以外の聖典」のようなものかもしれません。

それは、聖書への服従ではなくある種の聖書解釈への服従です。

目を覚ましてください。

(一滴)

「私たちは穏健な教会です」って?

「私たちは穏健な教会です」とか「カルトとは関係ありません」とか、そんなことを、普通の教会がいちいち言うでしょうか?
そういうことを言うこと自体、怪しいのです。

「私たちは、ものみの塔(エホバの証人)、モルモン教、統一協会とは一切関係ありません」なんて、わざわざ言うのもどうなんでしょう。
普通のキリスト教会がそうした団体と関係ないのは当たり前です。それをわざわざ言うって、何かうしろめたいところがあるんじゃないかと疑います。リベラルなプロテスタント教会やカトリックの教会で、そうした掲示や記述を見たことがありません。

「私たちは正統プロテスタントです」「福音的な教会です」といった言葉にしても、まっとうな教会がそんなことを言うのだろうかと思います。私たち以外は「正統でない」「福音的でない」とでも言いたいのでしょうか。
正統性が疑われる新興団体だから、あえてそんなことを言うのでしょうか。


あとは、「〇〇〇は真のキリスト教ではない。〇〇〇は聖書に基づかない教理を信じ、聖書に基づかない主張をしている」といった見解も、私は「?」です。「〇〇〇」にカルトと入れると正しいように聞こえますが、どうでしょう? そもそも真のキリスト教って何でしょうか? 
先にも書いたとおり、聖書は、どうにでも解釈できるのです。

そうした言葉は、自分たちのグループこそが正しく聖書を信じる真のキリスト教だという視野の狭い価値観から出てくるのです。「〇〇〇」に、日本基督教団や、日本キリスト教協議会や、カトリック教会を当てはめるかもしれません。自分たちと違う人たち全般を当てはめるかもしれません。その教理や主張が聖書に基づくかどうかなんて、解釈次第で何とでも言えるのです。そんなことさえわからないから、上記のような発言が出てくるんです。

実際に、リベラルもカトリックも異端もカルトもみな一緒くたにして非難している人たちがいます。自分たち以外はすべて誤謬、すべて敵に見えるのでしょう。

上にあげたいくつかの例は、原理主義者やカルトが好んで口にしたり、書いたりする言葉です。上記のような言葉が出てきたら要注意です。

特に、その「教会」で、リベラルなプロテスタント(主流派=エキュメニズム派)やカトリック教会やキリスト教以外の宗教を敵視するような発言がポンポン出てくるなら、それは極端な原理主義かカルトの「教会」でしょう。

もっとすごいのは、「私たちは教派ではありません」という言葉でした。
学生のとき、聖書カルトと思われる人が学内で「伝道」していたので、「どちらの教派の方ですか?」と聞いたら、「私たちは教派ではありません。教派というのはキリスト教から派生した不完全なものを言うのです。私たちは聖書に書いてあることを書いてあるとおり完全に信じているので、教派ではなく、真のキリスト教です」と言うのです。

びっくりでした。背筋が寒くなりました。
聖書に書いてあることを書いてあるとおり完全に信じるなんて、そんなこと、人間にできるのか。その人、神様か。ぞお~~。
今、どこでどうしているのでしょうか。どこかで気がついて、目を覚ましているといいのですが・・・・。


私は別にブランド志向ではありませんが、キリスト教や聖書に関しては、名の通った教会や団体、名の通ったキリスト教主義の学校、また、そこで使われている聖書やキリスト教関連書籍をお勧めします。名が通っているというのは、それだけの信頼があるのです。それを「この世に媚びている」などと言うのは話のすり替えです。

福音派と名乗る教会は玉石混淆です。とてもいい人たちもいますから、うまくそういう人たちにめぐり合えればいいのですが、中に自称「福音派」の原理主義者やカルトも混じってます。

エキュメニズムの立場に立つリベラルなプロテスタントやカトリック教会がカルト化することは、まず、ありません。

(一滴)

原理主義やカルトの側から世界はどう見えるのだろう

原理主義やカルトの側から世界はどう見えるのか、これは、そうした集団を退会して目を覚ました人の証言が確かです。私も、脱会者の証言をいくつか読みましたが、それまで信じてきたことを捨てて、集団の側からは裏切者扱いされ、そうとう苦しい思いをなさったことと思います。特に、子どもが気の毒だと思いました。親が原理主義やカルトになってしまうと、子どもは幼少期からその影響を受けて育ってしまいます。社会生活に影響が出てしまいますし、ゆがんだ世界観から抜け出すのはとても大変だろうと思います。

私自身は原理主義やカルトに入信した経験はないのですが、そうと知らずに、原理主義(あるいはカルト)っぽい「教会」に行ったことはあります。

10代でした。キリスト教の教派について、何も知りませんでした。

たまたま小学校3年のときに、聖書を配っている団体のかたから新約聖書をいただいて、読み始めたのが聖書との出会いでした。中学生の頃には新約聖書全体を読んでいました。読んでいて気になる箇所もあったし、教会で話を聞いてみたいと思いました。それで、自宅から行ける範囲にある「キリスト教会」に行ってみたのです。何の予備知識もありません。建物に十字架が掲げられ、「〇〇〇教会」と書かれた看板があるから、当然、キリスト教の教会だと思って行ったのです。

「牧師」と称する人が笑顔で迎えてくれました。どんな話をしたのかよく覚えていないのですが、最初の印象が良かったのです。礼拝にも誘われ、次の日曜礼拝に出てみました。信者さんたちも歓迎してくれて、なごやかな雰囲気でした。だから、また行きました。新来者を歓迎して迎え、その後、少しずつ正体をあらわすことを後から知りました。

私は、情報が限られた田舎で育ち、普遍的なもの、世界的なものへあこがれていました。たまたま聖書を読み、普遍的な教えを感じ、教会へ行ってみたいと思ったのです。教派のことなど知らずにその「教会」に行って、受け入れてもらった気になっていたのです。

「平和島」という詩を読んだときに、中学~高校生の私はまさにその船に乗りかけて、乗るのをやめたことに気づきました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/11/post-e773.html

これまでも書きましたが、彼らの正体が見えてくるとこんな感じです。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2016/08/post-68d2.html

上記はある程度して、気づいてから思ったことです。なにせ最初の印象が良かったし、他のキリスト教の教派を知らないので比較のしようもなかったのです。

その「教会」の言うことが全部おかしいなら、こっちも気づいたでしょうが、彼らはいいことも言うのです。「すべての暴力は悪です」とか「悪に悪で報いてはいけません」とか「三浦綾子さんの『塩狩峠』はいい本だから、読んでみるといいですよ」とか。でも、そういったいい話の中に、時々、あれっ?て思う話も混じるのです。

時に違和感もありましたが、でも心のどこかに、この「牧師先生」や「信者さん」たちの言うことは正しいのかもしれない、という思いもありました。私は10代で、未熟でした。結局、深入りしなかったのは、すべての奇跡を文字通りに信じる主張や進化論否定の主張、また、社会的・政治的な問題への極端な無関心、自分たちの立場以外への非難(それも無知や誤解に基づく非難)などについて行けなかった、というのもあります。

それに私は、すでに新約聖書を読んでいました。そのときは意識していませんでしたが、聖書に示されたイエスの姿勢とその「教会」の教えのズレに、心のどこかで気づいて、何か変だと感じていたのかもしれません。

あのときの、「もしかしたら正しいのかもしれない」という気持ちを思い出してみます。そのまま、あの人たちの世界観に入って行ったら、世界はどう見えていたのだろうかと想像してみます。
「他宗教・他教派は間違っている。私たちの外の世界はサタンの支配下だ。外の世界の人たちは敵だ。」 
そんな風に見えていたのではないかと思います。

彼らは、自称「福音派」、自称「正統プロテスタント」でした。私は、彼らの主張、価値観を受け入れませんでした。つまり、「立派な船」に乗りませんでした。乗っていたら、私もそうした「伝道」に加わり、心がぼろぼろになっていたかもしれません。

(一滴)

聖書に書いてあることをそのまま信じようとする反聖書的な生き方

もう少し、原理主義やカルトのことを書きます。

「どうしても満たされない承認欲求・世の中に対する強烈な敵意とコンプレックス・恐怖から来る支配欲・病んだ心を埋める為に使う使命感・・・など、そういう自分の心の闇を、直視する事が出来ない程に傷付いた人にとって、カルト化した教会は、本当に救いの場であるのだろうと感じます。」(「metanoiaxの日記」2018-2-26より引用)

キリスト教原理主義や聖書カルトめいた人たちは地獄(ゲヘナ)をすごく恐れています。地獄が怖くて仕方ないから、聖書に書いてあることを書いてあるとおりに信じることで地獄を免れようとします。そういう信じ方自体が反聖書的なのですが、気づいていません。そして、自分が人を支配すれば、支配下にある人たちも地獄行きを免れると思うから、人を支配しようとするのです。恐怖から来る支配欲です。それこそ、マインドコントロールの手法でも何でも使うのです。地獄に堕ちる魂を救うのだ、正しいことをしているのだ、自分たちは聖書を文字通り信じているから真理の側にいるのだ、という使命感に燃えて。自分の心の病みを見たくないから使命感に燃えるのでしょうが、現実を見ていませんから、患部を放置したまま鎮痛剤で痛みを麻痺させて活動しているようなもので、傷は癒えません。
マルクスが言った「宗教は民衆のアヘン」という言葉は、すべての宗教に当てはまるわけではありませんが、こうした人たちには当てはまるようです。

原理主義者や聖書カルトにとって、この世はサタンが支配する邪悪な世界ですから、邪悪な世界に関わっても仕方がないのです。だから、社会問題にも政治にも無関心なんです(この、社会的・政治的なことへの無関心はエホバの証人と似ています)。
彼らは「・・・神の国とその義とをまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)という言葉をよく引用するのですが、神の国というのは救われた人が死後に行く楽園のイメージですし、神の義にかなう生き方とは、地獄を恐れ、この世の社会や政治に関わりを持たず、聖書に書いてあることを書いてあるとおり、文字どおりに信じようとする生き方です(やはり、エホバの証人と似ています)。
それは、大局を見ないで「こう書いてあるからこうなんだ」と自分の思考を停止して文字に縛られて生きる生き方です。聖書それ自体、そういう生き方を人に求めていません。むしろ「文字は人を殺し、霊は人を生かす」(2コリント3:6)と、文字に縛られることを戒めているのです。

「私たちは正統プロテスタントです」「福音的な教会です」などと称する原理主義者・聖書カルトの文字による縛り(実際はその文字を解釈する「教会」や「牧師」による縛り)は、聖書に忠実どころか、反聖書的で、聖書が求める生き方とは方向が逆なのです。彼らはエホバの証人を異端と呼んで厳しく非難しますが、たぶん、近親憎悪でしょう。よく似た発想ですから。

原理主義者やカルトは「私たちは正しい聖書解釈をしています」と言うでしょう。だったら、なぜ教派に分かれ、同じ教派の中にさえ、派閥のようにグループが出来てゆくのですか。
「私たちのグループ」が正しく、「彼らのグループ」が間違いだからですか。
逆から見たら逆に見えますよ。

実は、聖書は、解釈のしようでどうにでもなるものなのです。屁理屈の解釈で何とでも言えるのです。
だから、「福音派」「聖霊派」と名乗る教会、特に小さな教団や本部を持たない単立教会の中で、カルト化した「牧師」の指導で、むちゃくちゃな解釈による暴走が起きたりするのです。

目を覚ましてください。

(一滴)

神が存在すると言う前提 クリスチャンに感じた違和感

この夏、誘われて、複数のキリスト教の教会や集会を訪れました。

私は幼い頃から聖書を愛読してきましたし、今も愛読しています。
学生の頃は、いろいろな教派の教会に行って話を聞いていました。

クリスチャンの大多数はいい人です。なんでこの人はこんなにいい人なんだと思うような、底抜けにいい人もいます。
三浦綾子『道ありき』に出てくる前川正さんや三浦光世さんらの言葉や行動を読んでいて、「そうそう、クリスチャンてこんな感じだな」と思いました。

(例外は、自称「クリスチャン」(多くは自称「福音派」)の原理主義者やカルトです。彼らは自分たちの外の世界はサタンの支配下にあると考えているようで、他の教派や非キリスト教への敵対心が強く、最初はニコニコ話しかけてくるのですが、こっちが思っていることを正直に言うとにらみつけてきます。この人たちとの対話は難しいです。)

キリスト教の教会や集会でいろいろなクリスチャンたちとお話ができて、楽しく過ごしてきました。福音派の人たちにも会いましたが、話のわかる人たちでした(つまり原理主義者やカルトでない人、それが普通)。
私は、聖書のことも、クリスチャンの発想も、おおよそ見当がつくつもりでいたのですが、一つだけ違和感がありました。それは、クリスチャンたちが(その人が福音派であれリベラル派であれ)、神の存在を当然の前提として話をすることでした。まあ、私のことを普通のクリスチャンの一人だと思い、仲間だと思ったからかもしれませんが。

考えてみれば、クリスチャンが神の存在を前提として話をするのは当たり前のことなのでしょう。キリスト教の神を信じているから、クリスチャンなのですから。

私は、キリスト教の神が存在するのか否かは証明のしようがないことだと思っています。だから、神の存在を当然の前提とすることに違和感があるのです。

普遍的な経験から証明できないことを認識の対象にはできないはずです。多くの人が神を感じ、神を信じて生きてきたし、今も信じている、だから普遍的な経験だと言えばそうかもしれませんが、客観的に神の存在を証明できない以上、認識の対象にはできないだろうと思うのです。

私が聖書やキリスト教について何か書くときも、「もし神というものが存在するのなら~」みたいな書き方になります。クリスチャンの中には「もし神が存在しないなら~」という想像ができない人もいるようですが、私は、神が存在しないのならどうなのかと考えてみることもあります。

でも、私は神の存在を頭から否定しているのではありません。神の存在を否定してしまうと説明の難しいことが人類の歴史的経験や証言の中に多数あるのも知っています。
それに、神というものをどう定義するのか、そもそも定義できるのかという問題もあります。
仮に何らかの定義をしたとして、その神が存在するのか否かも証明できませんし、(無理だとは思いますが)仮に証明できたとしても、そもそも人間のちっぽけな頭で、神のような壮大なものをきちんと認識できるのだろうか、と思えてしまうのです。

神を信じる人たちの良心的な言動を通して、神の存在を感じる、と言うことは出来ます。

また、原理主義者やカルトの恫喝的で破壊的な言動を通して、彼らが言う意味での「神」の存在を感じない、と言うことも出来ます。

(一滴)

金太郎飴のように酷似 カルトっぽい教会のよく似た「牧師」たち

どんな人に対しても怒りや憎しみをぶつけるべきではない、怒りや憎しみをぶつけたって、そこから何も良いものは生じない。私はそう思っています。

以下は、私の怒りや憎しみのように感じられるかもしれません。でも、私の真意は「目を覚ましてもらいたい」ということなのです。目を覚ました人を責めたりはしません。それに、私には、そもそも人を責める資格などありません。

私は以下を読んで驚きました。
自分がかつてつまづいた人たちとそっくりだからです。
ぜひ、ご覧ください。

http://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/06/23/033702

まさか同じ牧師のはずはない。時代も場所も違う。だのに、なんて似てるんだ。
あなたがたは、なんでそんなに似てるんだ。

「違う教派の悪口を言い、
カトリックの悪口を言い、
ノンクリスチャンの悪口を言う、あ・な・た。」
です。

正統と称し、福音派と名乗るあなたです。(穏健な福音派が同一視されて迷惑しています。)
熱心に聖書を読みながら、イエスが生きた姿勢から何一つ学ばないあなたです。

私が大学生で愛知県にいたとき、あなたの弟子たちがカトリック信者の学生を取り囲み、「カトリックの教えは間違ってる!」と詰め寄ったそうですね。その学生は戸惑い、おびえてました。「聖書を学ぶサークルだというから寄ってみただけなのに・・・。カトリック信者ですと名乗っただけで、なんで? 自分はカトリックの代表でも何でもないのに、なんで?」とその人は私に言いました。「プロテスタントの内部に原理主義者がいて、一部はカルト化しているようです。ごく一部です。プロテスタントがみんなそうだと思わないでください。多くのプロテスタントはカトリックに友好的です」と、私はその人に言ったのですが・・・・。
カトリック司祭と神学上の話をするのならともかく、一般信者をつかまえて、何をするんだ。

あなたやあなたの弟子たちは新約聖書に出てくるファリサイ派(パリサイ派)や律法学者とよく似ています。
実に熱心です。とりつかれたように熱心です。
地獄の恐怖をちらつかせ、人を断罪し、おびえさせるのが大好きです。
自分も恐怖に囚われ、おびえながら生きているのでしょうか?

あなたがたは山形県にいた、愛知県にいた、東京都にいた。
教会のような建物を作り、屋根に十字架を掲げ、「〇〇〇教会」と書かれた看板を出して、いかにもキリスト教のようにしていた。
それどころか、福音派の団体に加盟している「教会」もあった。福音派の団体よ、見抜いてくれ。それがキリスト教の教会なのか、キリスト教とは名ばかりのカルトじみた集団なのか、ちゃんと見抜いてくれ。
「福音派の団体に加盟しているのだから安心」ではない!

たぶん、あなたがたは全国にいて、全国で恐ろしい教えを「伝道」して、福音を妨げているのでしょう。

それにしても、なんて似てるんだ!


キリスト教系カルトには共通の特徴が見られます。
20世紀初頭にアメリカで台頭したファンダメンタリズム(=原理主義、根本主義)は極端化し、カルト化も見られましたが、それは、日本にもいる自称「福音派」のカルトっぽい人たちとよく似ています。彼らはエホバの証人とも似ていますが、エホバの証人のほうが人に暴言を浴びせないだけまだまともです。

それにしても、なんて、なんて似てるんだ!

あなたやあなたの仲間たちは、どこを切っても同じ顔が出てくる金太郎飴のようです。

目を覚ましてください。

(一滴)

「カルト化した教会」を必要とする人々がいるから、なくならない

「カルト化した教会」を必要とする人々がいるからなくならないというご指摘を見つけました。
ちょっと驚きでしたが、読んでみて、はっとしました。なるほどと思いました。ぜひこれを紹介したいと思います。
(万一にも執筆者さんにご迷惑をかけることがあってはいけないと思うのですが、以下はネット上の「metanoiaxの日記」に公開されており、執筆者さんは、当然広く読まれることを前提にお書きになっていることと思います。)

引用開始  
 
「信仰という名の虐待」という本が出て、もう20年以上の月日が経ちました。

多くのクリスチャンの方々も良くご存知の本です。

カルト化していく教会に危惧を感じ、一人の海外の牧師様が書き下ろされたこの本・・・

この前後くらいから、現代の教会のカルト化を危惧する牧師様、神父様、宗教家、信者達が少しづつ声をあげられていきました。


警告を鳴らす一人一人の小さな声の音も・・・
月日を重ねるごとに、カルト化した教会に苦しむ人や、その家族、関わる周り人達に少しづつ浸透していったのだと思います。
そして、それによって救われた人も多いのだろうと感じています。


やはり、小さな小さな声であっても、発していくことは大切なのだなと感じます。
 又、苦しみの中にいる人達と手を繋いだ底辺からの声には力があるのだなとも感じています。


しかし・・・

まだ厳然と、このカルト化が進む教会は存在し、又、その中で泣く人は多くいらっしゃるのだと感じています。

「正統派・◯◯とは一切関係ありません・カルト教会で悩んでらっしゃる方のカウンセリングをします」等々を謳う教会の中に、かなりの数のカルト教会が存在するのも事実かと思われます。


そして・・・・

このカルト化している教会は、まだまだ無くならないのだろうと感じています。


なぜなら・・・

「カルト化した教会を必要とする人々」が多くいらっしゃると思うからです(二世さんは除きます)

カルト化した教会を必要とされる方々は、カルト化していない教会では満足出来ません。
いずれ、カルト化した教会に移籍されるのだと思います。


どうしても満たされない承認欲求・世の中に対する強烈な敵意とコンプレックス・恐怖から来る支配欲
・病んだ心を埋める為に使う使命感・・・など、

そういう自分の心の闇を、直視する事が出来ない程
に傷付いた人にとって、カルト化した教会は、本当に救いの場であるのだろうと感じます。

自分の傷の根本治療が出来ない程痛んでいる人にとっては、一本のモルヒネ注射の方が救いになるのかも知れません。

その時は痛みが和らぎ嘘の世界で夢心地になれるものの・・

やがては、一本のモルヒネ注射では痛みが治まらなくなり、もっとキツい注射を打ち続け、最初の傷は悪化し、新たにもっと深い傷を負ってしまう・・・


傷の深さは相当なものなのだろうと思います。


誰も・・・
好きで満たされない承認欲求を抱えたいわけがありません。

誰も・・・
好きで、世の中に対して強烈な敵意とコンプレックスを持ちたいわけではありません・:・

誰も・・・誰も・・・


カルト化した教会を必要としない私や色んな方々は、たまたまその環境だっただけなのだと思っていす。


こうしてブログを書いていると・・・
 カルト化した教会を必要とする人々と、日常生活の中でなるべく関わりを持つことを上手く避け、敵意・支配欲・承認欲求、そして嘘の世界で陶酔しなければ生きれない方々から目を背け逃げる自分を突きつけられます。


全ての人の傷が早く癒えますように・・・

特に、深い傷を負った人の心が癒されますように・・

引用終了

出典 「metanoiaxの日記」2018-2-26より


私、一滴は、原理主義者やカルトが憎くて批判しているのではありません。彼らは純粋で熱心なんです。ただ、その信じ方は、信仰というより病的な思い込みのようだと感じていました。そして、そうした「信仰」のあり方の問題点や矛盾点を指摘すると、火がついたように怒り出す人もいました。私は、目を覚ましてもらいたいから、あえて言うのです。「やはり、小さな小さな声であっても、発していくことは大切」だと思います。

病的な思いこみのようだと以前から感じていましたが、上記に引用したご指摘を読んではっきり分かりました。「カルト化した教会を必要とする人々」が多くいるのです。「どうしても満たされない承認欲求・世の中に対する強烈な敵意とコンプレックス・恐怖から来る支配欲・病んだ心を埋める為に使う使命感・・・など、そういう自分の心の闇を、直視する事が出来ない程に傷付いた人にとって、カルト化した教会は、本当に救いの場であるのだろう」と、私も納得しました。もちろん、真の意味で「本当の救いの場」であるはずもなく、当人がそう感じているだけで、治療せずに痛みを麻痺させる鎮痛剤なんです。だんだん鎮痛剤が効かなくなって、もっと強い薬を求め、傷は悪化してゆくという泥沼です。それも、上記引用のご指摘にある通りです。

気の毒です。でも、こっちが彼らに引き込まれてはいけません。引用の中にもありますが、カルト化した「教会」の中に正統派を自称し、「カルト教会で悩んでらっしゃる方のカウンセリングをします」等々を謳っている場合もあるので要注意です。原理主義者やカルトが、他の原理主義者やカルトを非難して、相談に乗りますなんて言っていても、病んだ「教会」から別の病んだ「教会」へ引っ張られるだけですから、そういうところに相談してはいけないのです。

ゆがんだ考えを持つ人たちは、「私たちはゆがんでいます」なんて言いません。伝統的なキリスト教を思わせる教義を主張し、「私たちは福音主義の信仰に立つ正統プロテスタントです」「正しい聖書信仰に立つ教会です」「福音的な教会です」「ものみの塔(エホバの証人)、統一協会、モルモン教とは一切関係ありません」等々、さも自分たちは正しいキリスト教であるかのようにかたるのです。中には「『「信仰」という名の虐待』や『教会がカルト化するとき』などの良い本が出ていますから是非お読みください」なんて言う人までいて、ぶったまげ!! それ、自分たちのことが書いてあるんだって思わないんだろうか。自分たちもカルト化しているのに、他のカルト教会の非難に使うとは・・・・。
目を覚ましてください。

見分けるポイントはいくつかあります。他の教派に対する非難もそうです。それも、相手のことをよく知らずに、知ろうともせずに非難するのです。何しろ自分たちは「真理」の側にいて正しいのですから。「私たちは罪びとです」なんて言いながら、そう言ってるだけで全然低姿勢じゃない。自分たちは「真理」の側だという高みから他者を断罪するんです。他宗教、他教派、他教会の人との交流が嫌いで、学問的な検討も嫌いで、特にエキュメニズムを嫌います。どうも、自分たちの外の世界はサタンの支配下にあると考えているようです。中でもとりわけ日本基督教団などのプロテスタント主流派(メインライン、エキュメニズム派、リベラル派とも呼ばれる人たち)やカトリック教会(これもエキュメニズムの立場)を執拗に攻撃します。エキュメニュカルな人たちは、学問を積んだ理性的な人が多く、的外れな非難を浴びても非難の仕返しなどしませんが、あまりにもしつこいのでちょっと反論すると「弾圧された」と大騒ぎして、「クリスチャンなのにクリスチャンから迫害された」「あっちはサタンのパン種が入った教会だ」「イエス様が迫害されたように、私たちも正しい主張をするから迫害されている」などと言い出す始末です。私はかつて、そうした光景を目の当たりにしました。そのような自称「教会」や自称「クリスチャン」に引き込まれてはいけません。

こんなことを書くと憎しみをこめて非難しているように聞こえるかもしれませんが、事実だから、見分け方を書いて、引き込まれないようにと注意を促しているのです。
憎しみではなく、私は、彼らに目を覚ましてもらいたいのです。

そして、どうか、「metanoiaxの日記」の執筆者さんが守られますように。健康の問題もおありのようですが、どうか、守られますように。

キリスト教界には、このmetanoiaxさんのような、良心の声を上げる人が必要なのです。

(一滴)