« 2018年6月 | メイン | 2018年8月 »

「神様なんていませんよ」 田川建三さんにお会いしたときのこと

田川建三さんにお会いしたのは1994年5月20日でした。
著書にサインをお願いしたら、几帳面な田川さんが日付まで書いてくれたので、その日だとわかります。

当時、私は建築学生で、東京の高田馬場に住んでいました。
西早稲田の大学本部キャンパスで田川さんの講演会があると知り、あの田川建三の生の話が聞けるのがうれしくて、知り合いの学生らと聞きに行ったのです。
講演の内容は、宗教カルトの問題で、キリスト教を装うカルトが各地の大学で活動していることへの注意の呼びかけが主でした。ご専門の新約聖書の話もしながら、カルト団体が聖書学的に成り立たない解釈をしているという話もしてくださいました。

講演が終わり、「本日の講師、田川建三さんとお話がしたい方はこの場にお残りください」とアナウンスが流れました。十数名の学生が残りました。私も残りました。なぜか、全員男子でした。

当時、田川建三氏は、まだ、著書などで自分の生い立ちを明らかにしていませんでした。私は、ぜひ聞きたかったので質問しました。
「田川先生、先生はクリスチャンホームのご出身ですか?」
初対面の人にいきなりそんなことを聞くのはどうかと思ったのですが、私は聞きたかったのです。
田川さんは私の方を見て言いました。
「母は信者でした。・・・・父は違いますが。」
そして私から目をそらし、宙を見ながら独り言のように言いました。
「神様なんて、いませんよ」

私は神様がいるかどうかを田川さんに聞いたのではなく、クリスチャンの家に生まれたのかどうかを聞いたのに。
それに神が存在するか否かは、神をどう定義するのかによるでしょう。でも、そもそも神って、人間の能力で定義できるのでしょうか。人間の思考の範囲内に収まる存在なのでしょうか。

そんなことを思いながら、いくつか質問をしました。

田川さんは、私がいろいろ聞くと、ていねいに答えてくださいました。「ケンカ田川」なんて言われる人だから、ちょっと、怖かったんです。恩師の前田護郎には批判的だし、八木誠一さんともあまり仲が良くないようだし、荒井献さんらを厳しく非難しているし・・・・。
でも、一般の人にはていねいに答えてくれる人でした。文系の学生たちが的外れなことを聞くのはちょっとまいりましたけど。彼らは、うんと文系の受験勉強をしているから、広く歴史一般に詳しいのですが、聖書学や原始キリスト教史のことはあまり知らないようでした。

「マルコ福音書注解の中巻や下巻の刊行はいつごろになりそうですか?」と聞いたら、
「中巻はほぼ出来ているので数年のうちに出せると思います。下巻もだいぶ進んでいるので、中巻を出したらまもなく出せるでしょう」なんて言ってたんですが、あれから20年以上たって、数年のうちと言っていた中巻もまだ出てません。

話込んでいるうちに会場の使用時間が来てしまい、外に出て話を続けました。場所を変えてもう少しお話ししましょうということになり、田川建三さんと私と数名の学生で、西早稲田から高田馬場駅前まで、暗くなった道を歩きました。私は田川さんのすぐ隣を歩きました。歩きながらでも、少しでもお話ししたいという思いもありました。それと、田川さんは、宗教批判もするし政治的な発言もするんで、敵も多いだろうと思い、万が一にでも、暗がりから暴漢が襲いかかってきたりしたら、私は自分の身を盾にして守るつもりでした。本気でした。田川建三を失ったら、新約学研究にとってどれほどのマイナスになることか、たとえ自分が刺されようが斬られようが、身を挺して田川さんを守ろうと、あのとき、本気で思いながら歩きました。

駅前の飲食店で食事をしながら話しました。少しお酒も飲みました。天下の田川建三と飲む日が来るとは思いませんでした。
私は、当時、田川さんの日本語の著書は全部読んでいましたし、お聞きしたいこともいろいろあったので、とにかく、いろいろな話をしました。飲食店に入ってからの会話はあまり覚えていないのですが、聞いてもいないのに、田川さんは、「神様なんていませんよ」って、3回か4回、あるいはもっと言っていたんじゃないかと思います。

自分たちのことを正統だの福音的だのと言いながら、平気で人を虐待する自称「教会」や、カルト化した「教会」が言う意味での「神様」なんていないのは、私も知っています。そんなのは、人が勝手に聖書をこねくり回して頭の中で創り出した神様ですから。つまり偶像ですから。でも、たとえばマザーテレサが本気で信じていた神様もいないのかと問われたら、私は、いないとは言えません。
そんな話をしたのかもしれません。田川さんは、「第二バチカン公会議があってカトリックも変わりましたね」みたいなことを言ってました。あとは詳しく覚えていません。

一番頭に残っているのは、「神様なんていませんよ」って、田川さんが何度も言っていたことです。
それが、田川建三という人なのでしょう。

(一滴)

翻訳には訳者の考えが反映してしまう

暑い日が続きます。

Photo

田川建三『新約聖書 本文の訳』(作品社)が届きました。
これで、田川訳の新約聖書全体を一冊の本で持ち歩くことができるようになりました。
 
聖書の翻訳に限ったことではありませんが、翻訳というのはある言語を別な言語に移し替える作業であり、どうしてもこの作業の中に訳者の考えが反映されてしまいます。故意ではなくとも、無意識にそうなってしまいがちですし、個人訳だけでなく、団体が訳しても、団体の考え方が翻訳に出てしまうのです。だから「原文通りの訳」とか「原典に忠実な訳」とか、訳者がそう称しているだけであり、不可能に近いのです。

なるべく原文に忠実に訳したいなら、クリスチャンが聖書を翻訳してはいけないし、仏教徒が仏典を翻訳してはいけないのです。その人の「信仰」による考えが訳文を曲げてしまうおそれがありますから。

田川建三さんは、新約聖書学の碩学であるだけでなく、「神様なんていませんよ」と言っている人ですから、ご自分の「信仰」による訳文の歪曲はないでしょう。その点は、田川訳を信頼していいと思います。ただ、逆に、「神様なんていない」という思いが、訳文のどこかに反映している可能性はあります。

(わざとでなくても、クリスチャンたちは、自分が属する教派の見解に沿うように、うまく訳文を持っていってしまう傾向があるのです。私たちが知りたいのは教派の見解ではなく、聖書そのものにどう書いてあるのかです。教派の見解を知りたいなら、その教派が出している教義の解説書を見ればよいのですから。)

(一滴)

田川建三訳の新約聖書本文の訳 一冊本が出ます

田川建三氏の大著「新約聖書 訳と註」が全巻出揃い、訳の部分が一冊本になって出るそうです。

http://sakuhinsha.com/philosophy/27082.html

携帯用の廉価版も出るそうですが、私はもう、視力も落ちてきたんで、高いほうを(つまり字が大きいほうを)予約しました。

新約聖書の日本語訳として、おそらく、最高峰でしょう。
田川建三さんて、博識の人なのに、なんか職人気質みたいなところがあって、学者先生っぽくないんです。これまでの翻訳や学説にも激しく噛みつくし。嫌う人は嫌うでしょうね。

版元の作品社のホームページにこう書いてあります。
「 余計な粉飾を排し、協会の壁の外の解き放ち、原文の趣をありのままの姿で伝える、画期的な日本語訳新約聖書!」
協会の壁の外の、ですか・・・・。「壁の外へ」でなくて? それに協会って? 日本聖書協会? それとも「教会」の変換ミス?
まあ、日本聖書協会でもキリスト教会でも、どっちでも意味は通りますけど。
でも、こんな宣伝文では買う気が失せる人も出るんじゃないかなあ?
(私は4千円+税を出して買いますが)

(一滴)


追記:今日(7月26日)に作品社のHPを見たら、訂正してありました。たぶん指摘があったのでしょう。
「余計な粉飾を排し、教会の壁の外に解き放ち、原文の趣をありのままの姿で伝える、画期的な日本語訳新約聖書!」となってます。まあ、田川さんは、教会からも日本聖書協会の訳やその影響からも、新約聖書を解き放ったと言えますが。(日本聖書協会の文語訳、口語訳、新共同訳は、いろいろ批判もありますが、これまでの他の訳と比べれば決して悪くはありません。念のため。)

今日は土用の丑の日です

今日は土用の丑の日です。

暑いですね。
私の住む山里は、朝晩涼しいだけでもまだ助かっていますが、日中はかなり暑く感じます。(山形市内より2~3度低いはずですが、それでも、暑い。)

NHKのニュースで知ったのですが、ツイッターに「うなぎ絶滅キャンペーン」があるとのことで、見てみました。

https://twitter.com/eelextinguish

「当アカウントはウナギの絶滅に向けて、販売推進を行ってくださる企業様を応援しております。ウナギを絶滅させるにはこうした企業様がなんら絶滅の心配がないかのように販売していただくことがとても効果的です。」
なんて書いてあります。

要するに、絶滅危惧種を販売し続ける業者や食べ続ける国民を猛烈に皮肉っているんです。
そのツイッターに、業者がウナギの宣伝広告を載せているから、完全に「逆宣伝」になってます。

震災前だからもうだいぶ前の話ですが、真冬にある地域で大規模な停電があって、民放のニュースが、オール電化住宅に住む人が寒くて困っていると報じていました。その番組の提供が東北電力で、なんと、オール電化住宅のCMを流してました。すごい「逆宣伝」だと思ったんですが、そういうのって、ありますね。

さて、ウナギ。
私は好きだけど、絶滅のおそれがある生き物を食べなくてもいいんじゃないかと思いますけれど。

世の中、資本主義ですから、もうかれば何でもします。
絶滅するまで食べ尽くしても、もうかるならそうするでしょう。
それどころか、やがて人類が絶滅するようなことでも、もうかるなら、するでしょう。
何しろ、経済が第一、もうけが第一ですから。

(一滴)

オウム死刑囚の死刑執行の報道を聞いて思ったこと

10年以上前の本ですが、加賀乙彦『悪魔のささやき』(集英社新書2006年)から引用します。精神科医でもある加賀氏は、松本智津夫被告(当時)と面会したときのことをこう書いています。

引用開始
接見を許された時間は、わずか30分。残り10分になったところで、私は相変わらず目をつぶっている松本被告人の顔の真ん前でいきなり、両手を思いっきり打ち鳴らしたのです。バーンという大きな音が8畳ほどのがらんとした接見室いっぱいに響き渡り、メモをとっていた看守と私の隣の弁護士がビクッと身体を震わせました。接見室の奥にあるドアの向こう側、廊下に立って警備をしていた看守までが、何事かと驚いてガラス窓から覗いたほどです。それでも松本被告人だけはビクリともせず、何事もなかったかのように平然としている。数分後にもう1度やってみましたが、やはり彼だけが無反応でした。これは間違いなく拘禁反応によって昏迷状態におちいっている。そう診断し、弁護団が高裁に提出する意見書には、さらに「現段階では訴訟能力なし。治療すべきである」と書き添えたのです。
引用終了

オウム真理教の事件で、被害に遭われた方々やそのご家族のことを思うと胸が痛みます。
しかし、どんな重罪人であれ、「間違いなく拘禁反応によって昏迷状態におちいっている」という人を処刑していいんだろうか。それって「心神喪失状態」じゃないの? 詐病でそんなこと、できるはずないのに。
麻原を処刑しなければ世論がおさまらないから殺しちゃえ、ってことなのか。世の中に、御用学者がいるように、御用医師、御用裁判官もいて、正当化しちゃうんだな。
それがまず、私の思いです。

オウムの死刑囚も、一人ひとり、人間であり、いろいろです。それを、大雨の混乱の中でまとめて処刑していいんだろうか、という思いもあります。
そういうことを、この国は、するんだな。

そんな思いでネットを見ていたら、かつてオウムの事件を追っていたジャーナリストの有田芳生氏(現・参議院議員)の見解を見つけましたので、引用します。
(https://dot.asahi.com/dot/2018070600022.html?page=2)

引用開始
「国会でモリカケ疑惑の追及が激しくなった時期からオウム死刑囚らの死刑執行が話題になったので、これまで何度も法務省幹部らから状況を聞いたが、世論が沸騰するのは間違いなく、『強い法務大臣の下でないと難しい』などと話していた。だが、今朝、マスコミにリークして7人の死刑執行を敢行した。なぜ、このタイミングだったのか」
「安倍内閣への不信任案の提出、IR法案の審議などで国会はこれから山場を迎える。日本代表の敗退でW杯もひと区切りとなり、国会での審議が注目される時期でもあった。しかし、今回のオウム死刑囚の死刑が執行で報道はそれ一色になり、国会での審議はほとんど報じられなくなる。死刑執行のタイミングには疑問を感じざるを得ない」
引用終了

なるほど、与党に都合の悪いことや国会審議などはなるべく報道されないように、いま、この時期に死刑執行ですか? そう考えれば納得いきます。
広告代理店からでもアドバイスされたのかな?

(一滴)

「続・沈黙」 吉次郎との対話 その3

第一話
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/05/post-4b3d.html

第二話
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/07/post-8ce4.html

神父様。吉次郎です。夜分にすみません。ああ、こちらにおられたのですか。

ええ、夜中になっても暑いもので、縁側で涼んていたのです。日本の夏は湿気があって、どうも苦手です。最近は役人の監視もゆるくなってきたので、こんなふうに夜中に涼んだりしています。縁側っていいですね。バルコニーとも違うし、西洋家屋にはないものです。

私もここに座っていいですか。

どうぞ。

あの~、神父様。神父様が結婚なさるとか、遠州に引っ越すとか、そんな話を聞いたのですが、本当ですか・・・・。

ここから移されるのは、本当です。ただ、遠州というのは隠語で、実際の行先は江戸です。
万一にも切支丹信徒が私を奪還したりせぬように、遠州だの遠江だのと隠語を使って、移送先が分からないようにしているのですが、本当は江戸に送られるのです。

江戸、ですか。

はい。岡本右衛門さんという江戸のお侍さんが子を残さずに亡くなり、私がお名前を頂くことになりました。これも隠語で岡田と呼ばれていますが、本当は岡本さんです。詳しく教えてもらえないのですが、どうも、岡本さんは殉教した切支丹のようです。彼のお名前だけでなく、奥様まで、私がお受けすることになりました。つまり、私は岡本さんの未亡人を妻にして江戸で一緒に暮らすことになります。これからは私のことを岡本と呼んでください。

えっ? 今さら岡本様なんて呼べませんよ。それなら、先生と呼ばせてください。神父様は私の先生ですから。

先生なんて呼ばれたことがないので、何か変な感じですね。まあ、それでもいいですが。

それで、神父様。いや、先生。先生は、結婚するとか江戸に行くとか、本当にそれでよろしいのですか。

それは、逆らえないのです。私は司祭として生涯独身を貫くつもりでした。それが、踏絵を踏み、違う人生に向かっています。踏絵も、逆らえませんでした。拒めば、私の身代わりに、無関係な切支丹農民が拷問されて殺されるのですから。もしあのときに私がとことん拒み続けたなら、代わりに何人も何人も死ぬまで拷問されたことでしょう。あの状況では、踏絵を踏まないほうが、キリストに逆らうことのように思えました。踏んだ以上、あとは、とんとんと、話が決まっていったのです。江戸への移送は、従うしかありません。結婚は、断る気なら断ることもできたのでしょうが、今後の人生を日本という異国で過ごすなら、妻がいたほうがいいのではないかと、そんな気がしたのです。

でも、会ったこともない人と結婚だなんて。

たぶん、今の日本では、かなり多くの人が会ったこともない人と結婚しているのでしょう。先日、岡本さんの未亡人からお手紙をいただきました。私は日本語があまり読めないので、役人から読んでもらったのですが、その内容から、誠実なお方だと思いました。異国人と再婚することに戸惑いもあったが、心を決めた、亡き夫に仕えたのと同じ気持ちであなたと生きていきたいと、まあ、そういう意味のことが書いてありました。私も、その女性と共に生きていくことにしました。

本当にそれでよいのですか。

はい、後悔はしないでしょう。

先生は、江戸でどうなるのです。

形の上では、岡本右衛門という武士です。江戸の切支丹屋敷に住み、外出などは制限されそうです。仕事は、海外から持ち込まれる物品が切支丹に関係あるものかどうかの判定や、翻訳ですね。あとは、キリスト教の教えの解説です。役人たちは切支丹に反論したいのです。反論のために教えを聞きたいというのです。でもまあ、それも一つの伝道かと思います。信仰を表明しなくとも、キリスト教の教えから何かを学び、考えてほしいと思います。そういう仕事で、形の上では幕府直属の武士となり、拾人扶と言って、十人分の給金が支給されます。お米でいただくのでしょうが、それを売れば十人分の生活費になるだけ頂けるのです。それを私と妻の生活費に使うほか、女中や使用人を何人かは雇えるでしょう。

先生、それなら、先生のところで働かせてもらえませんか。給金などいりません。粗食と寝床さえ与えて頂ければ十分です。どんな雑役でもしますから、どうか使用人にしてください。

本気ですか。

もちろん本気です。

ちょっと待ってください。私が勝手に決めるわけにはいきません。だいたい、役人にどう説明するのです。

例の銀三百枚の残りを旅費にして、巡礼のふりをして、私も江戸に行きます。長崎出身の切支丹だなんて分からないように、適当に自分の履歴を考えておきますから、どうか、先生の所で私を使ってください。

吉次郎さん、あなたは・・・・、今もイエス様を信じているのですね。

はい、だから私は先生についてゆきたいのです。

(一滴)