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「友達に国境はな~い」への攻撃?!

https://dot.asahi.com/dot/2018032400007.html?page=1

https://ameblo.jp/akaike-masaaki/entry-12362632221.html

https://www.j-cast.com/tv/2018/03/26324502.html

上記の3つを読み比べていました。
いちばん下から引用します。

引用開始

  その赤池議員が23日、自身のブログで、映画「ちびまる子ちゃん イタリアから来た少年」に改めて噛み付いた。映画は2015年に公開された。文科省とタイアップした作品で、当時の馳浩文科相がポスターの紹介で、「友達に国境はな~い」と言っていたものだ。

   赤池氏はその直後の2015年12月3日付のブログで、「みなさん、『友達に国境はな~い』というポスターを見て感じることはありませんか。私は思わずのけぞりそうになりました」とこう綴った。「国際社会とは国家間の国益をめぐる戦いの場であり、地球市民、コスモポリタンでは通用しない」「文科省には猛省を促しました」

   23日のブログは、雑誌の質問に答える形で改めて同じ主張を展開した。「文科省が子供向けとはいえ、『国境はない』という嘘を教え、誤認をさせてはいけない」「国境は歴然としてあります。国家があってこそ平和で安全な暮らしが守られる」。さらに「国家意識なき教育行政を執行させられたら、日本という国家はなくなってしまう」とまで。

   しかしこれを中学生に聞くと、「これは比喩的なことで、実際の国境とは関係がない」(男子15歳)、「人とのつながりについて言っているので、嘘だとかいうのは違うんじゃないか」(女子14歳)と、これは極めてまともだ。

“キャスターの小倉智昭「国境がないのはおかしいだろうと吠えた議員よりも、中学2、3年生の方がよくわかっていた」

“リポーターの森本さやか「国境を越えて友達になれるんだよ、という映画だったんですけど」

“橋口いくよ(作家)「最近、文脈を読める人が減っているけど、これは子供でもわかること」

   小倉が「こんなことに時間取るより、明日の証人喚問」と話をそらせたが、少なくとも、こんな人物を文科相にしてはいけないとだけはわかった。もっとも、故・後藤田正晴氏が「あの男だけは首相にしてはいけない」と言っていた「あの男」がいま首相だもんね。

引用終了

安倍チルドレンの中に、「子供でもわかること」がわからない国会議員がいます。
前川喜平氏講演への恫喝的とも思える介入のみならず、映画にも介入していたのかと、「私は思わずのけぞりそうになりました」。
一強体制の中、どこまで堕ちてゆくのでしょうか、この国は。

(一滴)

味方を見殺しにして時間を稼ぎ、その間に逃げる

味方を見殺しにして時間を稼ぎ、その間に逃げるという「戦法」が、戦国時代からあったそうだ。太平洋戦争中の日本軍、特に、ソ連軍が侵攻した満洲で、兵や市民に知らせずに真っ先に逃げた関東軍幹部もそれと似ていると思う。

きのうの佐川氏の国会での答弁を聞きながら、そんな「戦法」を思った。
国家公務員らは、公文書の改竄までして、身を呈して首相らを守ろうとしたのに、首相官邸は守ってくれなかった。
むしろ、忠良な公務員に責任を押しつけて見殺しにし、時間を稼ぎ、策を練っているように見える。そのうち国民は忘れるだろう、沈静化するだろうとでも思っているのか。沈静化しなければ、電撃解散で逃げる気か。

佐川さん、あなたはもう公務員ではない。捨石になる必要はない。本当のことを言ったらどうですか。

もう一つ、例の森友学園の籠池夫妻は、どう考えても安倍晋三氏や昭恵氏を深く尊敬していたようだ。都合が悪くなれば自分たちを尊敬する人もバッサリ斬って捨てるのが安倍さんだ。加計さんはだんまりを決め込んでいるからお咎めなしだが、籠池さんは正直な人で本当のことを言うから都合が悪いのではないかと思えてくる。いつまでも身柄を拘束したまま釈放もしないし、裁判にもかけない。釈放すればマスコミや野党の前で本当のことを言うだろうし、裁判になれば裁判の場で本当のことを言うだろう。本当のことを言われては困る安倍さんとその周辺の人たちが、いつまでも宙ぶらりんのまま、籠池夫妻の身柄を拘束させているのではないかと勘ぐりたくもなる。

違いますか。

(一滴)

Photo

安倍政権に対する批判など、もう、書き尽くした感じがするけれど

(安倍政権に対する批判など、もう、書き尽くした感じがするのですが、思いつくことだけ、少し書いておきます。)

ついに、国家公務員の一部が反乱を起こした。安倍政権のやり方があまりにもひどすぎるから。
森友文書の改竄(かいざん)は、誰も否定できなくなった。安倍自民党の機関誌のようであった読売新聞や産経新聞でさえ、文書改竄を否定できなくなったし、佐川氏の発言の嘘も否定できなくなった。
そもそも、役人が自分たちの益にもならない公文書偽造など、勝手にやるはずがない。忖度どころか、何か相当の圧力に屈したと考えるのが自然だろう。相当の圧力をかけたのは誰なのか。やがて加計問題も明らかになるだろうから、モリカケ問題は戦後最大級の疑獄事件に発展するのかもしれない。

しかし、まあ、これまでマスコミを黙らせてきた力もすごい。マスコミは実に弱腰であった。
いや、安倍政権を批判しても売れないとわかっていたから、あまり言わずにいたのだろう。要は、国民の関心の問題だ。野党も弱くて、これまで一時的に安倍政権の支持率が落ちてもV字回復だった。国民が政権批判に関心を向け続けないように仕向ける政権側もたいしたものだった。

若い世代の内閣支持率も高かった。公教育によって、政権に従順な「健全な青少年を育成してきた」というべきか。小さいときからスポ少や塾で大人の指導を受け、中学や高校で徹底的に部活動や受験勉強をさせられて、上に逆らわない子が育ってゆく。教員も徹底的な管理下に置かれ、逆らえば処分されるから、逆らわない。逆らえば損をする。これも、自民党を中心としたこれまでの政権の教育に対する「成果」であろう。

嘘で固めた主張は、そもそもが嘘なのだから、少しほころびればどんどんほころびてゆく。ほころびが大きくなれば、もう、どんな嘘でも圧力でも固まらない。あとは総崩れになるだけだ。

想像してみる。
「相当の圧力」による官庁の隠蔽工作に、我慢の限界を越えた氏名所属不詳の国家公務員(複数かもしれない)が、改竄前の森友文書を朝日新聞記者に見せたのだろう。トップの人事権を官邸側に握られているからうかつなことはできない。その国家公務員(たち)は、所属を明かさないことや文書をコピーしたり撮影したりしないことなどを条件に改竄前の文書を記者に見せて、主要な箇所をメモしてもらったのではなかろうか。

改竄は間違いないと判断した朝日新聞は、報道した。だが、文書のコピーや写真は示せなかった。
現物を示さないから、朝日の報道は誇張ではないか、捏造ではないか、という人までいたが、その後、現物も出てきて、改竄は誰も否定できなくなった。
安倍一強政権はやり過ぎた。国家公務員は政権与党の私兵ではない。もう、彼らの反乱は止まらない。

これまで国家公務員らは(特に官僚は)、厳しい状況でも政権を守ろうとしたのだ。だのに政権側は自分たちを守ってはくれない。自民党の一部の議員が言った「佐川事件」という言葉が、みごとにそれを示している。「佐川事件」ではなく、アッキード事件、あるいはアベゲート事件なのに。

文書の書き換え問題は、突破口ではあるけれど、これ自体は氷山の一角であろう。問題の核心は、なぜ、安倍晋三氏と昭恵夫人に近い人たちに、不明朗な形で行政が動き、学校認可がスムーズに動き出したり、国有財産が大幅に値引きされたりしたかだ。

どのような意図で、誰がどう動いたのだろう。相当の圧力と忖度なしにそのようなことが起きるのは、合理的に考えられない。
もう、右派マスコミも安倍政権を応援しなくなった。これから、モリカケ問題(アッキード事件あるいはアベゲート事件)の全貌が明らかになるだろう。これを明らかにした上で、安倍政権下で制定されたすべての法律と法解釈を見直し、不適切なものは改廃すべきであろう。

(一滴)

近況 2018年早春

3月の半ばになって、ようやく春めいてきました。
長い冬でした。
雪の降り始めが早かったし、雪の量も多かったし、しかも寒くて、疲れを感じる冬でした。

さて、季節は春に向かっていますが、長男に春は来ません。がんばって勉強していたのですが、希望がかないませんでした。二浪目に入ります。

山里に越してきた年に生まれた娘が、今年中学に上がります。長男が小学校に入学したときからずっと、そして次男、娘と、もう13年間切れ目なくふもとの小学校に関わってきました。PTAの役員をした年もありました(その年はけっこう大変でした)。今年、娘と一緒に、小学校関係を卒業です。

意を決して内村鑑三全集を買いました。生きているうちには全部読みたいです。内村鑑三自身はもちろん、内村門下の人たちも、今では歴史上の人物ですが、内村鑑三や門下生たちの思いは、今も生きて働いているように思えるのです。

(一滴)

東日本大震災から7年

東日本大震災から7年になりますが、毎年、私の思いは同じです。
以前、山形孝夫先生の言葉を引用しながら心の思いを書いたのですが、それは今も変わりません。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2013/04/post-cf00.html

被災地に霊が出るという話を聞きます。故人が夢にあらわれることもあるそうです。
そうした「霊」や夢の中の故人は、残された人を慰めたり励ましたりすることが多いそうで、恐ろしい怨霊の話は聞きません。

(一滴)

現代のプロテスタントは、何にプロテストすべきなのか?

そもそも、中世末のカトリック教会があまりにも腐敗していたから、その腐敗への抗議(プロテスト)としてプロテスタント教会が成立したのではなかったのか。
当時のカトリック教会への抗議の中で、ローマ教皇の権威を認めないなら何を権威とするのか、というときに、「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」の3つが掲げられた。

私が学生のとき、ある集まりで、カトリック信者が言った。
「現代のプロテスタントの人たちは何にプロテストするのですか? 私たちはもう中世のカトリックではありません」
たしかに、今、そして今後、プロテスタント教会は何にプロテストするのだろう? その発言を聞いていたプロテスタントの人もいたが、きちんと答えられる人がいなかった。
別な人が言った。
「プロテスタントの諸派に、何か共通点はあるのですか。カトリックではないという、この一点だけではないのですか」(発言者はプロテスタント信者)
これにも、きちんと答えられる人がいなかった。

カトリック教会に自浄作用が働き、かつての腐敗を改め、プロテスタントと同等かそれ以上に改革が進んでいるとしたら、プロテスタントは何のために何に対してプロテストするのか。プロテストすることが自己目的で、それがアイデンティティーであり、もう相手がいなくても、いない相手に向けてプロテストし続けなければならないのか。「16世紀のカトリック教会は腐敗していました」と、カトリックの人も言っているのに。

「聖書のみ、信仰のみ、恩寵のみ」は、カトリック教会が腐敗した歴史的状況の中で掲げられた主張ではなかったのか。この主張を、「イエスが人々に伝えようとしたメッセージ」と同一視すべきではない。

ルターの宗教改革は、もともとは、カトリック教会内部の改革を目ざしたものであり、教会を独立させる意図はなかったという。ルターが1517年10月31日に発表したとされる九十五箇条の提題は、カトリックの神学に反するものではなかったのに、当時のカトリック教会に受け入れられず、教会は分裂した。

これも私が学生のときの話だけれど、九十五箇条の提題を読んだカトリック信者の学生が言っていた。
「これ、今なら、カトリック信者は誰も反対しないと思うよ」

「プロテスタント(抗議者)」は、すでに歴史的名称となっているのではないか。第二バチカン公会議を経た今日のカトリック教会は、プロテスタントの敵でも対抗勢力でもなくなって、共に聖書を学び、共にイエスに従おうとする者となっている。
今、世界の各地で、両者は同じ翻訳の聖書を読み、共に祈っている。伝統の違い、考え方の違いはあっても、同じ聖書、同じイエス・キリストに従おうとすることに何の違いもない。

今日、プロテスタントが真にプロテストすべき対象は、カトリック教会ではなくて、世界の各地で起きている人間性を否定するような現実ではないか。これはプロテスタントのみならす、良心に従って生きようとするすべての人にとってプロテストすべきものであろう。
私を含むこの社会の罪、この世界の罪が、世界の各地で、いと小さき人たちに過酷な苦しみを与えている。
プロテスタントもカトリックも非キリスト教徒も共に祈りながら、世界の現実に向き合ってゆくべきではないのか。

(伊藤一滴)

嵐の山里で世界を思う

きのうから、北海道や東北で強風が吹き荒れていて、私が住む山形県の山里も嵐です。とにかく風が強くて、昨夜は風の音で何度も目を覚まし、朝になって家の周りを見たら、雪の上に無数の小枝が散らばり、家の漆喰壁の一部が剥がれて落ちていました。
怖いような暴風です。でも、その程度で済んでいる、とも言えます。

世界のニュース、特にシリア内戦やロヒンギャ難民に関する新聞記事を読み、心を痛めています。

今、この世界には、命の危険にさらされ、たいへん苦しい思いをしている人たちがいます。

お祈りください。

祈って何になると言われそうだけれど、祈ることで心がそこに向かうのです。世界の無関心がその人たちを殺します。

どうか、お祈りください。

(伊藤一滴)