« 2023年11月 | メイン | 2024年1月 »

聖書、信仰、天国、永遠の命

小学生だった1973年に聖書に出会い、それから50年、聖書を読んでます。
10代の半ばまでは、聖書に書いてあることの多くは史実または事実が反映して書かれた記述だと思っていました。でも、読み進めるうちに聖書は矛盾だらけで、事実に反する記述も多いと気づきました。
それでも、私は聖書の中に普遍的なメッセージを感じてますし、イエスというお方の言葉やわざにとても魅力を感じています。

私は今まで一度も山が動いて海に入るのを見たことがありません。つまり、からし種ほどの信仰を持つ人さえ私の周りに誰もいなかった、ということです。
「信仰がなければ救われない」なら、いったい誰が救われるのでしょう。

私は、使徒行伝の時代の人たちとは違い、「人にできないことは神にもできない」と思うようになりました。でもそれは、「神のみこころは人の手によってなされてゆく」とも言えます。それは「信者の手によって」と言うより「神のみこころにかなう人たちの手によって」だと思います。

私は、神に従わないクリスチャンたちより、神のみこころにかなう非クリスチャンの方がよっぽど神様に近い所にいると思うようになりました。でも教会の側からは、その人が神様の近くにいるかどうかではなく、ちゃんと教会に所属して牧師に素直に従い維持費や献金をきちんと納入してくれる方が、運営上、いいんです。神のみこころにかなう非クリスチャンが教会の外にどれだけいたって教会の収入になりませんから。


天国とか神の国とかを、死んでからそこに行ける楽園みたいに思っている人が多いようです。たしかにそういう考えもあるんですが、死んでからそこに行きたいから信仰するなら、それは取引きですね。あるいは、天国という御利益(ごりやく)を求めて信じる御利益信仰です。イエスはそのような取引きや御利益を教えたんでしょうか?

キリスト教の中には死後の世界などないという考えもあります。天国(神の国)はこの地上の現実の中にあるという考えです。
そう考えれば、永遠の命というのは、永遠に変わらない普遍の理念を信じて生きた生き方だとも言えます。たとえば、紛争地域で何が起きているのかの取材を続けたジャーナリストの後藤健二さんとか、アフガニスタンの住民に尽くした医師の中村哲さんとか、普遍の理念に殉じたとも言えるわけで、死後もその理念は残るという意味で、永遠の命を得た人だと言えるのです。

大事なのは自分の死後の幸福を願うより、みんなの幸せを願いながら普遍の理念に向かうことではないのかと思うようになりました。だから、死後の世界があってもなくても、どっちでもいいんです。私は、「自分が死後に救われて天国に行くこと」が最も大切な教えだとは思っていません。


みんなが平和で幸福な未来に向かって進んでゆくことができますように!


フランシスコ・ザビエルに帰せられる次の祈りがとても好きなので、また引用します。

「十字架上のキリストへの祈り」

主よ 私があなたを愛するのはあなたが天国を約束されたからではありません。
あなたにそむかないのは地獄が恐ろしいからではありません。
主よ 私を引きつけるのはあなたご自身です。
私の心を揺り動かすのは十字架につけられ、侮辱をお受けになったあなたのお姿です。
あなたの傷ついたお体です。あなたの受けられたはずかしめと死です。
そうです 主よ。
あなたの愛が私を揺り動かすのです。
ですから たとえ天国がなくても主よ 私はあなたを愛します。
たとえ地獄がなくても私はあなたを畏れます。
あなたが何もくださらなくても私はあなたを愛します。
望みが何もかなわなくても私の愛は変わることはありません。

(伊藤一滴)

神は無力 アーマン著『破綻した神 キリスト』(再掲)

アーマン著『破綻した神 キリスト』の問いはあまりにも重く、考えながら、ゆっくりゆっくり、時間をかけて読みました。


この世にはなぜ過酷な苦しみがあるのか?
「その人を向上させるための試練」では説明のつかない大変な苦しみがあるのに、神はなぜ沈黙しておられるのか?

聖書の著者たちは、苦しみの意味に答えようとしているのですが、その見解は聖書の各書によってまちまちで、聖書全体を貫く統一の見解などありません。アーマン氏は、旧約聖書の古典的見解、預言書に示された見解、黙示思想の見解など、ていねいに検討した上で、それぞれは一貫性もなく、また現代人が納得できるような答えになっていないと論破するのです。

博識のライプニッツの「神義論」でも説明がつきません(微積分学で知られるあのライプニッツです)。何百年議論を重ねても、この世にはなぜ過酷な苦しみがあるのか、みんなが納得できるような答えは見つかりません。

私、一滴は、「神は無力だ」としか言いようがないのではないか、と思っています。


ラジオで、被爆者の話、満洲から生還した人の話など聞いた時、やはり「神は無力だ」と思いましたし、現在(2023年12月)のウクライナやパレスチナのガザや、世界の多くの地域で、「神は無力だ」としか言いようがないような現実があります。

結局のところ我々は、「コヘレトの言葉」(=伝道の書)にあるように、空(くう)の空、空なるかな、一切は空なり、という思いで、自分の人生を楽しむしかないのでしょう。ただし、この世界の各地に今も苦しむ人たちが多数いることを忘れずに。そして究極の理想としては、世界がぜんたい幸福になることを願いながら。だって、世界がぜんたい幸福になることを願ったほうが、自分自身も幸せに向かって歩めるのですから。

ユニセフや赤十字や、難民支援団体、海外援助団体等に寄付したところで、個人の寄付など焼け石に水なのはわかっています。わかっていますが、やもめのレプタのように一灯を捧げることに意味があると思うのです。ただの自己満足だろうと言う人もいますが、どうでしょう。わずかでも捧げれば、それが一滴一滴の集まりとなるわけですし、意識がそちらに向かうのですから。


アーマン氏の姿勢はまさに、自分の人生を楽しみながらも「自分自身を愛するように隣人を愛する」というものです。そういう考えの人を「背教者」って言うんでしょうか?

私も、「自分自身を愛するように隣人を愛する」生き方が理想です。少しでもその理想に近づくためには、祈りがあったほうがよいと思っています。祈りは、感謝や願いなどの自分の思いを口にする行為です。口にすることで、自分の思いを客観化するのです。口にした言葉に向かい、一歩、一歩と、進んで行けたらと思います。

「存在しないかもしれない神に祈ったって意味がないだろう」とか「無力な神に祈ったって意味がないだろう」と言われそうですが、違います。大いに意味があります。自分の気持ちと行動をそちらに向けるのですから。

(伊藤一滴)

2021-08-06 掲載分を一部修正して再掲

神は全能である 神は愛である この世には苦しみがある(改訂版)

聖書の中の矛盾点についてわかりやすく書いてある本はないだろうかと探していて、アメリカの新約学者バート・D・アーマン(Bart D.Ehrman)氏の著作に出会いました。氏の著書『捏造された聖書』、『破綻した神 キリスト』、『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』等は、日本語訳も出ています。

アーマン著『破綻した神 キリスト』(松田和也氏訳)の中に、
「神は全能である 神は愛である この世には苦しみがある」という、
この3つが3つとも成り立つのかという問いが出てきます。

2つなら、成り立つでしょう。

1.神は全能である 
2.神は愛である 
3.この世には苦しみがある

仮に、1をバツにしてみましょう。
「神は愛であるが、神は全能ではない、だからこの世には苦しみがある」
矛盾のない文が成り立ちます。ただし、キリスト教の説く神は全能なので、1をバツにはできません。

仮に、2をバツにしてみましょう。
「神は全能であるが、神は愛ではない、だからこの世には苦しみがある」
恐ろしい神様です。これも文としては矛盾なく成り立ちますが、愛でない神もキリスト教の教えに反します。

仮に、3をバツにしてみましょう。
「神は全能であり、神は愛である、だからこの世に苦しみはない」
これも文としては成り立ちますが、事実ではありません。この世には多くの苦しみがあります。「苦しみはその人を向上させるための試練」といった理解が成り立たないような、大変な苦しみもあります(※1)。


私なりの考えで4を付け加えてみます。

1.神は全能である 
2.神は愛である 
3.この世には苦しみがある
4.そして神は無力である

当然、1と4は両立するのか、と問われることでしょう。
「聖書にこう書いてある」といっても、解釈のしようで何とでも言えます。聖書を引用してまるで正反対のことも言えるのですから。聖書から導く見解は、理屈のつけようでどうにでもなるのです。
私は、次のような理屈も可能ではないかと思います。


キリスト教における神の全能とは、神のいつくしみにおける全能のことである。神は、全能のいつくしみで人の心に働きかけてくださる。私たちは、その働きかけに応えるのかどうか、応えるならばどう応えるのか、それが問われている。
旧約の昔、神は天から声を発したり、預言者を用いたりして直接的に民に語りかけておられた。また、世に対し、人に対し、直接の行動をなさっておられた。しかし、イエス・キリストの受洗以降、父なる神からの直接の語りかけや直接の行動はほぼなくなった。
キリスト以降の神の全能とは、政治や社会や軍事等における全能ではなく、病気や怪我やさまざまな事故や困難から人を守ってくれるような全能でもない。そういった面で、神は無力だ。キリスト以降の神の全能とは、超自然的な全能ではなく、いつくしみにおける全能であり、いつくしみを感じた人間に決断をせまるものなのだ。人が神に従うとは、超自然的な力にたよることではなくて、神の働きかけに対し、イエスのメッセージに聞き従うという形で、日々、決断し、応えていくことなのだ。

神にどこまでも従うなら、排除されたり、仕事を失ったり、場合によっては命を失うかもしれない。
神に従うには、その覚悟がいる。そうやって、神に従うことが信仰なのだ。

神は無力だ!

キリスト教信仰は、豊穣、金運、繁栄、安全、無病、試験合格、良縁などを招くものではない(※2)。現世の御利益(ごりやく)とは凡そ無縁である。また、キリスト教信仰は、天国行きを目的としたものでもない。天国に行きたいから信仰するというなら、天国に行くことが信仰の目的となる。天国に行くという御利益を目的とした信仰になってしまう。それは、天国に行きたいから免罪符を買うのと変わらない。
キリスト教信仰は、御利益のための信仰ではない、神の全能のいつくしみへの日々の応えである。

神の国を、救われた人が死後に行く別世界のように考える人が多いが、神の国は別世界ではなく、神の全能のいつくしみへの日々の応えである。「ここにある、あそこにある」というものではなく、まさに「内にある」ものなのだ。

どうですか、これで。

(伊藤一滴)


※1 20世紀になってからだって、アーマン氏も述べておられるナチスの大量虐殺をはじめ、数々の無辜の死がありました。今だって、この世界には深刻な問題の数々があり、戦争や紛争も止まず、飢餓に瀕したり、むごく殺されたり、深い傷を負ったり、重い病や障害で苦しんだりする人たちがいます。「その人を向上させるための試練」なんて言えない苦しみもたくさんあります。

※2 ただし、場合によっては良縁を招くこともあります。教会やキリスト教の集まり、キリスト教系の学校、ボランティア活動などで出会い、結婚なさった方々もおられます。カルト思考原理主義者(自称「福音派」やエホバの証人、統一協会等)は別として、一般のキリスト教系の団体や集まりで出会い、幸せな家庭を築いた方々は多数おられます。まあ、そういう夫婦の多くは、儲かる人生ではないでしょうけれど。


追記:まず、日本語訳が出ているバート・D・アーマン氏の著書『捏造された聖書』を読み、『破綻した神 キリスト』と『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』を読みました。どれも、すこぶる読みごたえのある本でした。
著者のアーマン氏が自分で言っておられますが、かつて氏は熱心なキリスト教原理主義者で、原理主義の教えをかたく信じていたそうです。聖書の無誤無謬を信じ、ムーディ聖書学院で学んだ後に福音派の大学に進んだ筋金入りの人でした。そのアーマン氏が徹底的に聖書を学ぶ中でどのように目を覚ましたのか、上の3冊はその記録でもあります。もちろん、どれも学問的な検討を踏まえたものです。

氏は、福音派と称する中でも特に保守的な原理主義者でしたから、徹底した聖書研究で聖書の成立と写筆の真実を知り、それまで信じてきたこととのギャップに苦しんだのです。それ以上に、神は全能で愛だというなら、なぜこの世に耐え難い苦しみの数々があるのか、答えられなくなってしまったのです。もし、もっと柔軟で穏健な福音派だったら、リベラルな主流派だったら、カトリックだったら、果たして、信仰を捨てたでしょうか?
氏が拒絶したのは、聖書の文字面をを文字通り信じ「罪の意識」と「地獄の恐怖」で人を縛る硬直化した原理主義的「信仰」ではなかったのでしょうか。

氏ははっきりと「信仰を捨てた」とおっしゃるのですが、福音書に記されたイエスの隣人愛の教えが、氏の著作からひしひしと伝わってくるのを感じます。アーマン氏は良心的で、隣人愛を重んじる人なのでしょう。だからこそ、「罪の意識」と「地獄の恐怖」で人を縛る「信仰」を捨てたのでしょう。
聖書の文字から「罪の意識」と「地獄の恐怖」導きだして人を脅し、人を縛るのは、まさに、文字による束縛です。それは現代の律法主義、現代のファリサイ派(パリサイ派)です。


福音書や使徒行伝の時代の人たちは「人にはできないことも神にはできる」と考えました。でもそれは、その時代の考えです。現代を生きる私は「人にできないことは神にもできない」と考えています。
もう神の超自然的な力に頼るのはやめにして、「神のみこころは人を通して為される」と考えてはどうでしょうか。

クリスマスが来ます。
平和を祈りましょう。

人は自分の祈りの課題に向かって動きます。
私たちに求められるのは、祈りと、祈りの課題へ向かう現実的な行動なのでしょう。

2021-07-05 掲載分を改訂

性的少数者とキリスト教(再掲)

 

性的少数者といっても全人口比に対しての少数者であり、彼らの数が少ないということではありません。我々は、過去、認識不足によって、こうした人たちをさげすんだり、笑い者にしたりしてきました。私自身、幼い頃から聖書に接してきた人間ですが、私の中にも彼らに対する偏見がありました。社会的な認識不足の中にいたとはいえ、偏見を持って、差別に加担してしまった過去を申し訳なく思います。歴史的にみても、キリスト教徒による差別、偏見はひどいものであったと思います。

今日なお、性同一性障害について、キリスト教の側からの統一的な見解はないと思いますが、キリスト教的良心に従えばこうなるのではないかと思える答えが、下記にありました。

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/5929286.html

私はこれを読んで、胸が締め付けられる思いで、涙が出てきました。だいぶ前の記事ですが、今、どうしておられるのか・・・・。

福音派の立場からの、同性愛者に対する良識ある見解が次にあります。水谷潔氏がお書きになったもので、上記で知りました。

http://kiyoshimizutani.com/guideline

福音派と自称する原理主義者(ファンダメンタリスト)の中に、「同性愛は重大な罪だ、同性愛者は必ず地獄に行く」とか、「エイズは人類の不道徳に対する神の裁きだ」とか、言う人がいます。目を覚ましてほしいと思います。

原理主義者らの妄言など、いちいち紹介してもしかたないのですが、良心的な福音派と狂信的な原理主義者が混同されては困ります。あたりまえの感覚を持つ福音派は、苦しむ人に寄り添い、共に祈る人たちです。

カトリック教会は、「同性愛者」と「同性愛行為」を分けて考えています。現代のカトリック教会は、同性愛者を排除したり差別したりすることに断固反対しながらも、教義として「同性愛行為(同性同士の性行為)は容認できない」と言っています。(なお、性同一性障害は同性愛とは別であり、この障害について広く知られるようになったのは近年になってからです。性同一性障害についてのカトリックの正式な教義は見たことがありません。)

同性愛についてひとたび教義として定めてしまったことを、簡単には変えられないのでしょう。でもこれは同性愛者を人として断罪するものではなく、同性同士の性行為は、教会として(公的には)容認できない、という見解です。避妊具の使用は性行為を生命の恵みから遠ざけるものであるから教会として(公的には)容認できない、という見解に通じます。カトリック教会の公式見解を文字通り読めば、同性愛者には性的禁欲が求められる、ということになります。一般民衆は、司祭や修道者とは違うのですが・・・・。

過去はともかく、現代のカトリック教会は、同性愛者に寄り添う姿勢を示し、同性愛者の人権を尊重し、共に歩もうとしているのは明らかです。ただし、上記のとおり教義上の制約による限界も感じられます。

「性同一性障害の人や同性愛の人はカトリックの洗礼を受けられるんだろうか?」と、あるカトリック信者に聞いてみました。気の置けない人だからそんな質問をしたのです。そうしたら、「そんなこと教会に聞かないで、だまって受けちゃえばいいんだよ」との答えでした。なるほど。(もちろん個人的意見です)

日本基督教団の牧師で、自ら「ゲイ」であるという方の見解が載っていました。

http://life.letibee.com/christian-gay/

これは、考えさせられました。

(伊藤一滴)

2017-02-16 そのまま再掲