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福音派と原理主義(【いのちのことば社物語3】に思う)(再掲)

インターネット上の「クリスチャン新聞」のホームページに「【いのちのことば社物語3】「聖書信仰」に礎を置く」というのがある。それに次のように書いてある。


引用開始

(略)福音派の関心事の中で伝道と並んで大きな位置を占めるのが、聖書をすべての物事の規範とする「聖書信仰」である。これは20世紀に影響を強めた自由主義的(リベラル)な神学に対し、聖書を「誤りなき神のことば」と信じ、「信仰と生活の唯一の規範」として尊重する信仰の立場。いのちのことば社は創立以来、今日まで一貫してこの「聖書信仰」に立ち続けてきた。

「聖書信仰」という言葉は一部の主流派の人々から「学問(神学や科学)よりも信仰を重んじる」「神を信じるのでなく聖書を絶対視する」などと揶揄(やゆ)されることがある。しかしそのような偏見に反して、実際の聖書信仰は、旧新約聖書に描かれた信仰の態度を踏襲するものだ。それはキリスト教会の歴史を通じて受け継がれ、プロテスタント宗教改革によって再確認された。

そして、人が理解できる合理性の下で聖書を解釈しようとする20世紀の人間中心主義的な思潮に対して、神の霊感によって書かれた「神のことば」としての聖書に権威を認め、その事実性を重視して真理を追究する。したがって、聖書が原典において何を語っているのかを研究する本文批評や聖書学においては、リベラルな神学に引けを取らない学的な実績を積み重ねてきた。

引用終了

出典:https://xn--pckuay0l6a7c1910dfvzb.com/

広義で、福音派と名乗る人たちは、共通認識として下記の(1)を主張する。これが福音派の立場なのだろう。中には(2)を主張する人たちもいるが、(2)は福音派全体の共通認識とは言えない。

(1)聖書を「信仰と生活の規範である誤りなき神のことば」と信じる

(2)聖書を「歴史的にも科学的にも誤りなき神のことば」と信じる


上記の【いのちのことば社物語3】の表現は微妙だが、基本的には(1)の主張と読める。(2)とまでは言っていないようだが、そう言う人たちにも配慮した表現だろうか。

(1)を聖書無謬論、(2)を聖書無誤論と呼んで、言葉を使い分けることもある。
私もこの使い分けに従い、無謬論と無誤論とを分けて考えてみる。

(1)の無謬論は、信仰と生活の規範として聖書は無謬だという主張である。唯一と言えるかどうかはともかく、聖書は無謬の規範であると言えば、多くのカトリック教徒も納得するだろうし、主流派の(リベラルな)プロテスタントの中にも賛成する人がかなりいるだろう。
この見解なら、福音派も、主流派も、カトリックも、そう遠くないということになる。

(2)の無誤論だと、聖書は歴史的にも科学的にも誤りはない、となる。字義通りの無誤論だと、たとえば、次のような話になる。
「天地創造は紀元前4004年頃の6日間に実際にあった。地球も太陽も月も星もその6日間に出来た。すべての生物はこの創造のときに完成した状態で造られた。進化などない。」(※付記、参照)

私は、現代の科学研究や歴史研究は絶対だとは言わないが、大筋では、かなり正しいところまで接近しているのではないかと思っている。古代人や中世人はともかく、現代人が(2)を受け入れるためには、今日の科学や歴史の研究を、かなり否定しないといけなくなる。


(1)は福音派の立場
(2)は原理主義の立場

と考えていいだろう。(2)も「福音派」と名乗り、福音派の団体に加盟していることもあるから注意が必要だ。原理主義者の一部は、カルト化したり陰謀論になったりしている。
ただし、中間的な人たちもいるから、(1)と(2)は、はっきり線引きはできない。
(なお、日本の福音派の団体が公式に表明した見解の中に(2)に近い考えが見られることを、私は危惧している。)


「学問(神学や科学)よりも信仰を重んじる」とか「神を信じるのでなく聖書を絶対視する」といった言葉で福音派が揶揄されると言うが、揶揄や偏見ではなく、実際にそう言われても仕方のない人たちがいる。
「信仰を重んじる」というより、信仰と称する先入観を重んじ、「聖書を絶対視する」というより、聖書から独自に導いた自分たちのイデオロギーを絶対視する人たちだ。「聖書信仰」と称し、現代の律法主義で人を縛り、支配しようとする人たちだ。
彼らは、違う意見にムキになって食ってかかってくる。そしてしつこく絡んでくる。いのちのことば社だって、そういう人たちがいることに気づいているだろう。だから『「信仰」という名の虐待』という冊子まで出して注意を促したのだろう。

(聖書信仰は)「キリスト教会の歴史を通じて受け継がれ、プロテスタント宗教改革によって再確認された」と言うが、では、宗教改革以前に、キリスト教会の歴史を通じて受け継がれたという聖書信仰はどこにあったのだろう? 当時のカトリック教会の中に? それとも異端派とされた人たちの中に?
宗教改革以前、福音派の教会はもちろんプロテスタント教会はなかった。プロテスタント教会がなかった時代に、正しい聖書信仰はどこにあったと言うのだろう?
これまでいろいろな人に質問してみたが、私は誰からも納得できる答えを聞いたことがない。

「神の霊感によって書かれた「神のことば」としての聖書に権威を認め、その事実性を重視して真理を追究する」と言うが、「その事実性」とは何だろう。
読みようによって、「聖書は神の霊感によって書かれ、神のことばであり、権威があるという事実」とも、「聖書に書いてある内容は事実」とも読める。後者なら(2)に近い。


(1)の立場で、「旧新約聖書に描かれた信仰の態度を踏襲」したいと願い、誠実な福音派の信仰に立とうとする人たちを、私は尊敬こそすれ、決して揶揄などしない。

(揶揄などしないが、納得できないことは、それは納得できないと申し上げる。)

(伊藤一滴)


※付記
上述の(2)の立場だと、さらにこうなる。
「アダムとエバも実在の人物で、エデンも本当にあった。アダムは実際に地のちりから造られ、彼のあばら骨からエバが造られた。これは事実である。エバは蛇から誘惑されて禁断の実を食べ、夫にも食べさせた。当時の蛇は本当に人間の言葉をしゃべって人間を誘惑した。みな、事実である。楽園追放も、カインとアベルの話も、カインの町も、ノアの箱舟も、バベルの塔も、ソドムとゴモラも、みな事実である。その他、聖書に書いてあることはみな事実である」
「新約聖書に書かれているイエスの超自然的な誕生も、奇跡の話の数々も、復活も昇天も、みな、文字通りの事実である」
「聖書にはっきり書かれているこれらの事実を、「神と人間との関係について古代人が表明した神話」とか「神話的な世界観の中に生きていた古代人の表現」などど言うのは間違っている。だから、かつての自由主義神学も現代のエキュメニズム派(主流派のプロテスタントやカトリック)も間違っている」

こうした(2)の立場だと、聖書の記述の中に多くの矛盾点が見られることの説明がつかなくなる。
矛盾はないということにするために、延々とつじつま合わせをする人たちがいるが、それでも矛盾は残る。それで、「聖書は原典において無誤である」(シカゴ声明)といった、苦しい説明が出てくる。
聖書の原典は、古代に失われている。今後、原典に近い写本が出土する可能性はゼロだとは言えないが、今は誰も原典を持っていないし、見ることもできない。そもそも、聖書のすべての文書に本当に原典があったのかどうかさえわからない。
誰も持っておらず、誰も見ることができない原典が、どうして無誤だとわかるのか?
それがわかるあなた方は神なのか?

それに、最近、私は思うのだが、イエスは人々に「聖書のつじつま合わせを延々とやること」を求めたのだろうか?
そんなことに自分たちのエネルギーを使うことを求めたのだろうか?
それが信仰にとって大事だと、イエスはおっしゃったのだろうか?
イエスを信じると言うのなら、もっと優先すべきことが他にあるのではないか?

福音書を読みながら、私は思った。
イエスが人に求めたのは、
心から神を愛すること、
自分自身を愛するように隣人を愛すること、
互いに愛し合うこと、
最も小さい人たちに手をさしのべること、
平和を求めること、
謙虚であること、
いつ神の国が到来してもいいように、日々、覚悟を持って生きること・・・、
もっとあるけれど、
こういったことだろう。

イエスが人々に求めたことを後回しにして、あるいは知らんぷりして、「聖書のつじつま合わせを延々とやること」を、正しい聖書信仰と言うのだろうか?

イエスを信じると言うのなら、イエスのメッセージに従うことこそが最優先だろう。

2022-06-23 掲載 そのまま再掲

翻訳された聖書を読むときや聖書を訳すときの留意点

インターネットのクリスチャントゥデイ(※)に載っていた次のコラムを読みました。

「聖書をメガネに 聖書翻訳の課題―榊原康夫先生に学ぶ」宮村武夫
https://www.christiantoday.co.jp/articles/24556/20171007/seisho-wo-megane-ni-98.htm


宮村武夫氏は、榊原康夫氏の著書に学び、また直接榊原氏に接して学んだ方ですが、そのことをふまえ、翻訳された聖書を読むときや聖書を訳すときの留意点を述べておられます。

この宮村武夫氏の見解を読み、すごく納得しました。
以下に引用します。


引用開始

1つの訳を絶対化して他の訳を軽視したり無視したりしない。互いに注意深く比較し、特徴と課題を日本語の表現をも十分考慮しながら見ていく地味な歩み、これこそ説教への準備として大切との平凡な指針とその実践です。(略)

今、私は、3つの点に意を注いでいます。

 1.この訳語や訳文は、絶対に認めてはならないものがあるかどうか。あるとすれば何か。

 2.この訳語や訳文は、他のものに比較して絶対に優れており、ぜひ紹介し提示すべきものがあるかどうか。あるとすれば何か。

 3. 1はそれぞれ大変な労力を払って営われている聖書翻訳においてはごく限られていると推察されます。また、2も他の訳語や訳文を押しのけて絶対的に提示する必要があるというのも、案外限られているのではないかと予測されます。つまり、大部分の場合はあれでもよい、これでもよい。どちらがより良いか、絶対的ではなく相対的な課題である。
この3点を互いに了解できるならば、1つの委員会訳を求め決定する道は、自ら開かれるのではないか。

引用終了


つまり、こういうことでしょう。
日本語に翻訳された聖書を読む場合、「1つの訳を絶対化して他の訳を軽視したり無視したりしない」「互いに注意深く比較し、特徴と課題を日本語の表現をも十分考慮しながら見ていく地味な歩み」が大切である。
牧師であれば説教の準備として大切だろうし、牧師でなくても、そういう読み方が大切でしょう。

ただし、「他の訳」の中にはひどいのもあるんで(特にナイダ理論の影響を大きく受けた訳)、ほぼ全章全節が誤訳のような特殊な「訳」は最初から除外し、大きく見ればちゃんと訳された聖書をそろえ、それらを「互いに注意深く比較し、特徴と課題を日本語の表現をも十分考慮しながら見ていく」べきでしょう。

日本語に訳された新約聖書で、おすすめのものを前回載せました。

他に、

明治元訳、
正教会訳、
天主公教会(カトリック)のラゲ訳、
永井直治訳、
キリスト新聞社版口語訳、

なども、私が思うに、見事に訳された新約聖書です。

特に、戦前の正教会訳、公教会訳はそれぞれ、言葉の美しい文語体です。


1.今後、聖書を訳すのであれば、原語から訳すのはもちろんですが、これまでの訳を比較した上で、「この訳語や訳文は、絶対に認めてはならない」もの(明らかな誤訳)は排除する。

たとえばルカ5:10「「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」(口語訳)など、絶対に認めてはならない訳文です。原文に「漁師」なんて語はないのですから。ここを訳すなら、単に「人間を捕るようになる」または「人間を捕る者となる」でしょう。「漁師」という存在しない言葉を使った訳は駄目なのです。ルカは、漁師が魚を捕ったら魚は死んでしまうが、殺すのではなく生け捕るようになると言いたくて、あえて漁師という言葉を使わなかったと考えられます。マルコの文やマタイの文につられて誤訳してはいけません。ルカはルカの視点で書いてるんです。

1ペトロ(=ペテロの手紙第一)4:6「このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。~」(新改訳2017)も絶対に認めてはならない訳文です。「生前」なんて語は原文にありません。これは、セカンドチャンス否定論者が原文を改変した訳です。意訳として許される範囲を超えています。意訳はなるべく避け、特に、議論のある箇所は、自分たちの主張に沿うよう変えたりせずにそのまま訳すべきです。

2.「この訳語や訳文は、他のものに比較して絶対に優れており、ぜひ紹介し提示すべきものがある」場合、欄外に「〇〇訳による」明記した上でその訳語や訳文を紹介する。
私が思うに、たとえば田川建三訳に出てくる「創成の書」とか「月化」とか。こうした訳を踏まえて、「生涯の書」とか「月光病」とか訳すのも可能かと思います。

3.どの訳も同じように訳している箇所は、原語と照らし合わせた上で、原則、それに従い、より良い文を採用する。
(ただし、マタイ1:1の「イエス・キリストの系図」とかマタイ5:3「こころの貧しい人たち」みたいに、どの訳も同じように誤訳している例もあるので、注意が必要です。これらを訳すなら「イエス・キリストの生涯の書」あるいは「誕生と生涯の書」、「霊において貧しい人たち」あるいは「霊的に貧しい人たち」でしょう。)

実は、今、榊原康夫著『新約聖書の生い立ちと成立』(いのちのことば社 昭和53年)を読んでます。榊原氏は新改訳聖書の翻訳や新聖書注解の執筆にも加わった福音派の先生です。

榊原氏は、福音派の信仰にとって都合がいいかどうかで判断していません。そんなの、学問として当たり前でしょうけれど、私は、福音派を称する人の中に、都合のいいことを事実とし、都合の悪いことは無視する人がいるのを見てきました。「そういう考え方は学問的ではないです。おかしいです」って私が言うと、「信仰は学問ではありません。学問的に聖書を読もうとするほうが間違った聖書の読み方です。聖書は信仰的に読むものです」って、言い返されましたね。

ネットで「榊原康夫」と検索して、上記の宮村武夫氏の記事に出会いました。この宮村氏も、誠実に論じておられ、紹介したい記事なので引用しました。

聖書に誠実に向かい合おうとするなら、教派は関係ないです。私は、福音派でもカトリックでも、関心があれば話を聞きますし、書いてあるものを読みます。

やっと、B・M・メツガー著、橋本滋男訳『新約聖書の本文研究』(聖文舎 1973年)を入手して、読んでます。旧版ですが、すこぶるおもしろいです。
す・こ・ぶ・る!
日本キリスト教団出版局の新版は持ってません。絶版だし、古書も高くて。

(伊藤一滴)



ウィキペディアで「クリスチャントゥデイ」を調べるとこう書いてあります。
「2004年6月、クリスチャン新聞編集長(当時)の根田祥一が韓国のオンライン新聞News N Joyの記事を主な情報元とするとして、福音派の教団連合組織である日本福音同盟(JEA)に「クリスチャントゥデイは統一協会と関係がある」との提供をした。」

キリスト新聞(電子版)にはこう書いてあります。
http://www.kirishin.com/2018/01/27/10665/

クリスチャントゥデイの開設者・経営者について、キリスト教の異端・カルトではないかと疑う人たちがおり、クリスチャン新聞や日本基督教団まで見解を出しています。

それは開設者・経営者について言われていることで、否定する見解もあり、真相は闇の中です。
記事の執筆者や編集者が異端・カルトを疑われているのではありません。私が読んでも、まっとうな記事が多いです。

おすすめの新約聖書 日本語訳 (再掲)

日本語訳の新約聖書の中で、おすすめのもの。かつ、入手が比較的容易なもの。

個人訳以外は、ほぼ年代順。


「聖書 文語訳」(日本聖書協会/岩波文庫版あり)

文語体です。
漢字の読みは独特です。(ルビがなければ読めません)
よどみなく読むには、慣れが必要です。
現行の新約は大正時代の改訳です。
ネストレを参照して訳したとされていますが、欽定訳の影響を感じます。
名訳として高く評価されています。まあ、欽定訳が名訳ですから。


「聖書 口語訳」(日本聖書協会)

戦後間もない頃の訳で、文語から口語への移行期でした。それもあって、ぎこちない表現もあります。
ネストレを底本にして正確な翻訳に努めたそうですが、間違いなく、RSV(Revised Standard Version)を手元に置いて見ながら訳してます。
「アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、~」(マタイ1:2)。えっ、「父」なんて単語はないぞって思ったら、RSVがそう訳しています。
「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。」(マタイ5:41)。マイルなんて単位はどっから出てきたんだって思ったら、RSVがそうなってます。
もしかして、底本はRSV? ネストレは参照程度?
翻訳はネストレに従っていない箇所もあって、それはそれで興味深い訳です。
「差別語、不快語」がよくないとされ、現行版は「改訂」されてしまいました。文語訳はそんな「改訂」をしていないのに。
読むなら改訂前の古書かネットで。
半世紀以上前の訳です。今日の目から見たらいろいろありますが、文学的にはともかく、正確な翻訳に努めたという点では評価の高い訳です。そして、翻訳者が参照しているRSV自体、評価の高い訳です。


「聖書 新改訳」(日本聖書刊行会)

読みやすいです。
会話の言葉づかいが丁寧です。他の訳と比べると、会話が一番まともかも。
福音派の訳で、福音派なりの見解もありますし、細かく見ればどうかと思える箇所もあります。でも、それを承知で私も愛用しています。
私の場合、小学生のときからこの訳を中心に読んできたんで、一番なじみがあります。口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳などのイエスの言葉づかいは、「~である」調で、どうも尊大で居丈高に聞こえてしまい、抵抗があります。
旧新約の合本は引照と簡単な注がついていて便利です。チェーン式だともっと便利です。
初版、2版、3版、2017と改訂され、私見では、改訂されるたびに悪くなっていったように思えます。
これまで大量に出回ったんで、古書で旧版の入手も可能でしょう。
初版はネットでも読めますが、引照・注付きの紙の本がおすすめです。
新品で買うなら「新改訳2017」しかありません。以前の版は絶版です。


「聖書 新共同訳」(日本聖書協会)

これも読みやすいですが、イエスの言葉づかいは新改訳の方がていねいです。
例外もありますが、福音派を除くプロテスタントからカトリックまで、またキリスト教系の学校でも、広く使われてきました。
数年前まで最も出回っていた訳で、日本における標準的な訳でした。今は、「聖書協会共同訳」に移行しつつあるようです。
新共同訳は、口語訳聖書よりも意訳してます。正確さより読みやすさを優先したのかな。
初期版と後期版があります。初期版の「らい病」が後期版では「重い皮膚病」になってました。原文尊重と、現代における人権尊重と、どちらもふまえてどう訳すべきか、難しいところですね。
前身の「新約聖書 共同訳」(新共同訳ではなくて、共同訳)もあるんですが、もし見かけてもおすすめしません。極端な意訳で、ひどすぎます(※1)。「新約聖書 共同訳」は日本聖書協会版(絶版)と講談社学術文庫版があります。講談社さんまで、なんでこんなのを出したんですかね。それよりヘボン訳、明治元訳、ラゲ訳、永井直治訳でも出してくれればいいのに。


フランシスコ会聖書研究所「聖書 原文校訂による口語訳」(サンパウロ)

1950年代から翻訳が始まり、2011年に旧新約の1冊本が完成した、何とも気の長い翻訳です。1950年代に翻訳に参加した人はいくつになってたんでしょう。関係者の中には、完成を見ずに亡くなられた方もおられるんじゃないかと思います。
ヴルガタ(ヒエロニムスのラテン語訳聖書)からの重訳しかなかった日本のカトリックが、原文校訂(本文校訂)による口語訳を進め、長い歳月をかけて訳した見事な訳です。特に分冊版は注が充実していて、私も、とても勉強になりました。
しかし、翻訳にあまりにも時間がかかり過ぎて、その間に新共同訳も出て、どうしてもこの訳という意義が薄れたようです。見事な訳なのに、あまり売れていないようで残念です。修道会だから、採算を度外視してこの大事業を成し遂げたのでしょうが、商売として考えたらまったく割に合わないでしょう。それにしても、まあ、カトリックさんのやることは何とも気が長い。サグラダファミリアの建設みたいです。
新共同訳と似ている箇所がかなりあります。同じ人が両方の訳に加わっていますから。聖書を原文(校訂本)から訳せる人なんて、そんなにたくさん日本にいないんでしょう。
時間はかかりましたが、口語訳、新共同訳と比べても、見事な訳だと思います。
新品で購入して少しでも資金協力に参加したいと思い、私も、新約の分冊、新約の合本、旧新約の合本を買いました。
なお、このあまりにも長い翻訳の期間中、全体の完成の前に一部が改訂され、改訂前の方がよかったと思える箇所もあります。もし古書で旧版を見かけたら、買っておく価値があります。


「聖書 聖書協会共同訳」(日本聖書協会)

日本聖書協会の最新版です。
これは持ってませんし、立ち読み程度しか読んでません。
その程度で紹介するのもちょっと気が引けるんですが、思ったことを少しだけ。
本屋で見ただけですが、引照・注も含めて字の組み方は新改訳と似ています。視力が衰えてきた私の目で見ると、一瞬、新改訳かと思うくらい似てます。新改訳の引照は使いやすいんで、いい点をまねてくれたと思います。
イエスの言葉づかいは相変わらず「~である」調だし、訳者は気づいているだろうに先輩への配慮なのか聖書協会が求めるのか、誤訳の踏襲も続いています。もし、クリスチャンの学者による聖書翻訳が、先輩の訳を批判できない世界だったら、それ、どうなんですかね。
立ち読みしただけですが、ローマ書16章のユニアスの名がユニアになってました。独自の本文校訂でしょうか。フェミニズムを意識したのかも。
いずれ買ってじっくり読もうと思います。
たぶん、今後、この訳が主流になるのでしょう。
引照も注もないスタンダード版はおすすめしません。買うなら「引照・注付き」です。
引照も注もなしで聖書を読めるのは、よっぽどの達人だけでしょう。


田川建三訳「新約聖書」(作品社)

本文の訳だけの一冊本と、詳しい註のついた分冊があります。どちらも、高価です。
分冊は、他の訳の批判を延々と書かなければもっと薄くできたと思いますけどね。田川訳を読むような人は、他の訳に問題があることなど当然知っているでしょうし。
それと、ご自分で独自に本文校訂(正文批判)をなさっているようですが、ネストレと違う読みを採用した箇所は、ギリシャ語の文を載せてくれたらよかったのに、と思います。他の訳の非難を削ればそれくらいのスペースは出来たんじゃないですか?
配列も独自です。成立年代順でもないようです。年代順なら福音書よりパウロ書簡が先ですし。
一冊本も、ぱっと開けないんです。こっちは頭の中に、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、使徒、ロマ、コリント(1・2)、ガラテヤ書、エペ、ピリ、コロサイ、テサロニケ(1・2)、テモ(1・2)、テト、ピレモン、ヘブル書…って、鉄道唱歌の曲に合わせて順番が頭に入ってるわけだから、参照したいときに、ぱっと開けないのがちょっときつい(※2)。
まあ、言いたいことはいろいろありますが、これまで日本語に訳された新約聖書の中で、おそらくこの訳が最高峰でしょう。


前田護郎訳「新約聖書」(中央公論社)

入手または閲覧が容易なものとしましたが、これは例外で絶版です。でも、歴史的な一冊ですので紹介します。
無教会伝道者・塚本虎二門下の前田護郎の訳です。
前田護郎門下には佐竹明、荒井献、田川建三、八木誠一、川村輝典といった、日本を代表する聖書学者たちがいます。
前田訳は他の日本語訳聖書やRSV等の影響を感じません。そうしたものをまったく見ないで訳したんでしょう。注に訳者の信仰を感じますが、信仰を前提に訳すのがいいのかどうか、評価は分かれるでしょう。
前田護郎の師の塚本虎二の訳もありますが、独特の意訳箇所も多く、戦前や戦後すぐならともかく、今、あえて使うこともないでしょう。日本における聖書翻訳史やキリスト教伝道史の資料としての価値はともかく、聖書そのものの学びには、塚本訳はおすすめしません。塚本虎二訳「福音書」が岩波文庫から出ています。同じ岩波文庫から「使徒のはたらき」(=使徒行伝)も出てました(こちらは絶版)。


では、どの訳がいいのか。

決定版はありません。

訳文の信頼とコストパフォーマンスを考えれば、多少の問題点はあってもまずは日本聖書協会版からでしょう。
主流派のプロテスタント、カトリック、正教会はもちろん、福音派の人でも、非キリスト教の人でも、日本聖書協会版の聖書を読んで損はありません。

たぶん、今後の主流は、「聖書 聖書協会共同訳」(日本聖書協会)になるのでしょう。でも、もしかすると改訂版が出るかもしれません。いつだかわかりませんが。
新たに買うのであれば、引照・注付きを。旧約と新約の合本を買うなら、可能であれば旧約聖書続編付きを(所属教派の立場や自分の信条で旧約続編は認められないというのであれば仕方ありませんが)。

特に正確な訳を望むのであれば、田川建三訳です。けっこうクセがあるし、値段も高いです。
(旧約については、私はヘブライ語の知識がないのですが、これも信頼とコスパを考えれば、まずは日本聖書協会版あたりからでしょうか。他に有名なのは関根正雄訳です。正確さの追求であれば、新約は田川訳、旧約は関根訳でしょうか。)

福音派の訳を参照するのであれば「聖書 新改訳」です。福音派の訳だというので相手にしない人もいますが、新約を読む限り、ほとんどはちゃんと訳されています。口語訳や新共同訳よりうまく訳していると思える箇所もあります。私の個人的な見解ですが、2017版よりも旧版のほうがよい訳です。

英訳を参照するなら、まずは RSV(Revised Standard Version)でしょう。
英国欽定訳は、初版が1611年と古いのですが、現代表記に直したものなら今も普通に買えます。どういうわけだかアメリカ人は King James Version(KJV) と呼び、イギリス人は Authorized Version(AV) と呼ぶことが多いようです。
欽定訳の新約の底本がTRなんで、底本自体が一部不正確なんですが、ギリシャ語を忠実に訳そうとした努力を感じます。箇所によっては、RSV よりうまく訳していると思います。先行するティンダルの訳があったからでしょう。「聖書を英語に訳した罪」によって処刑されてしまったティンダルは、偉大な人でした(※3)。

何度も言いますが、聖書の訳に決定版はありません。

(伊藤一滴)


※1 余談になりますが、日本でも、特に1970~80年代、ユージン・ナイダらの理論の悪影響を受けて、ひどい訳の「聖書」が出回りました。原文から離れ、極端な意訳に走り、さまざまな含みのある表現を1つの意味に限定したりして、とても訳と呼べないようなものがありました。そうしたものは文の書き換えで(つまり改竄で)、聖書の翻訳というより聖書風の作文でした。底本どおりでもなく、独自に本文校訂したわけでもなく、自分たちの好みで適当に書き換えて「訳」と称したのです。
比較的信頼できる訳文(口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳、新改訳など)と比較し、全体的にあまりにも違う訳があれば気をつけたほうがいいです。
「新約聖書 共同訳」(旧共同訳)もひどいのですが、もっとひどい「訳」もありました。まともな訳と比較すればわかります。特に、他教派の見解を否定するためにあちこち書き換えた「訳」など、論じるにも値しません。
昔は、「聖書を翻訳した罪」によって処刑された人までいたんです。聖書の本文校訂に従事した人たちや、一語一語を大事に翻訳した人たちの血の滲むような努力を思うと、「何がナイダ理論だ、ふざけるな」と言いたくなります。

もう少し、詳しく書きます。
ナイダ理論を言う人は、たとえば「雪のように白くなる」を南国の言語にそのまま訳したら、雪を見たことのない人には理解できなくなるが、「乳のように白くなる」と訳せばわかる、みたいなことを言うのです。原文に「乳」なんてなくても。
でも、乳と訳したのでは、雪の冷たさや透明感、そこから感じられる清らかさといった言葉の感触が失われてしまいます。
やはり、雪は雪と訳し、欄外に注をつけて、雪についての説明を書けばいいのにって、私は思いますけど。

「雪」を「乳」と置き換えても、それくらいはまだ、意訳の範囲内として許されるかもしれません。でも、原文に「霊において貧しい人たち」とあるのを、たとえば「心の貧しい人」とか「自分の貧しさを知る人」とか「謙遜な人」とか「神により頼む人」みたいに置き換えるのも意訳の範囲内なのでしょうか? 「霊において貧しい」では意味がわからないから、わかるように意訳すべきだと言いたいのでしょうが、それは訳者の解釈による意味の限定です。いろいろな解釈ができるのに、ある1つに絞り込むのです。それも、訳者の好みで。原文には、いろいろな含みがあるのです。そうした含みの幅を無視していいのかって思うんです。1つの意味に置き換えられた訳文しか知らない人は、幅のある含みを知らぬまま、1つの意味で覚えてしまうことでしょう。この箇所はこう解釈できるという注解を、本文の「訳」でやってしまっていいんでしょうか。注解書なら複数の解釈を併記することもできますが、「訳」ではそれもできません。
もう1つの例ですが、原文に「月に冒されて」とあった場合、これを「てんかん」と訳していいんだろうかって思います。聖書を書いたのは古代人です。古代の世界観の中で生きていた人たちです。病気の原因が科学的に解明されておらず、月の作用で体や心に不具合が生じる場合があると本気で考えていた人たちです。田川建三さんは「月化」と造語をつくって訳しておられましたが、これは、みごとです。月の病なんて訳すと婦人病や五月病と勘違いされるといけませんが、月化はみごとですね。月光病といった訳も可能かと思います。
てんかんも古代人にとってこの病気の1つでしょうが、月の作用と考えられた病気のすべてがてんかんではないのです。てんかんと訳すことで意味が限定されてしまいます。月の作用だとわかる訳語にした上で、注に「当時の人たちは月の作用で体や心に不具合が生じる場合があると考えていた」と書けばいいだけではないのですか?
ちなみに、「中風」(ちゅうぶ)は中風でいいと思います。中風は脳卒中の後遺症などによる身体の麻痺で、病名を限定しているのではないし、脳卒中という言葉だって、厳密な病名ではありませんから。


※2 他にも、マタ、マル、ルカ、ヨハ、使徒、ローマ…、とか、歌詞にいくつかのバージョンがあるようです。
私は、1983年、仙台市内の福音派の教会の牧師先生から教えていただき、覚えました。おかげで、旧約も新約も、題名を全部暗記できました。牧師先生、ありがとうございました。
先ほど、「聖書 鉄道唱歌」で検索したら、YouTubeに歌がありました。
https://www.youtube.com/watch?v=Er_eTFCoJ4g
旧約は私が習ったのとまったく同じ、新約は少し違うバージョンです。
なんだか、なつかしい。


※3 デイヴィド・ダニエル著、田川建三訳『ウィリアム・ティンダル ある聖書翻訳者の生涯』

Textus Receptus(TR、受け入れられたテキスト、公認本文)のこと(再掲)

私が言うようなことでもないのでしょうが、Textus Receptus(TR)についてどう思うのか聞かれたので答えます。

聖書の原典は残っていません。写本しかありません。
長い歳月に渡って書き写された聖書は、歴史の中で不正確になってゆきました。中世の小文字写本は、参考程度にはなっても、現代の本文校訂(正文批判)の基本には使われていないとのことです。

「改竄された聖書」といった言葉はあまり使いたくないのですが、書き写す際のうっかりミスだけでなく、中世のカトリック教会の見解に沿う形で、写本への書き加えや書き換えもあったようです。
また、写本の筆記者が、解釈や感想を欄外にメモしたりすると、次の筆記者がそのメモを本文の一部だと思って本文に組み込んでしまうこともあったようです。ペンで手書きしていた時代、うっかり行を飛ばしたりすると、そのページを全部書き直すのは大変なので、抜けた行を欄外に書くこともあったのだそうです。そうすると、欄外に何か書いてあれば、それも本文の一部かと思われることもあったのでしょう。

想像ですが、たとえば、マタイ伝の主の祈りを書き写していた人が、この祈りに感動し、神を讃えて、欄外に「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものだから」と書いたとします。次にその写本を書き写す人が、欄外の書き込みを見て、前の人が写すときにうっかり飛ばしてしまった行を後から気づいて欄外に書いたのだと思い、本文に書き入れてしまう、といったことが起きたのかもしれません。想像ですけれど、十分にあり得る話です。それなら悪意のない書き加えですが、結果は聖書への書き加えです。「国と力と栄えとは、限りなくあなたのものだから」は、古代の、どの写本にもありません。明らかに後代の書き加えです。

このような不正確な小文字写本に基づいて出されたかつての新約聖書校訂本が、いわゆるTRと呼ばれるものです。16世紀のエラスムス版の流れにある Textus Receptus(受け入れられたテキスト、公認本文)の略です。
TRが使われていた時代、入手・閲覧できる写本も限られていましたし、写本の系統や年代もよくわかっていませんでした。

その後、学者らは、写本の系統をふまえ、古代の大文字写本やパピルスも検討し、新約聖書のオリジナルの復元に努めました。
今日の新約聖書校訂本の最高峰は、ドイツ聖書協会のネストレ・アーラント版です。これが世界標準で、今、キリスト教界では、福音派からカトリックまでこれを使っています。現在(2022年)、最新版は28版です。

なお、新共同訳の新約の底本になった聖書協会世界連盟「ギリシア語新約聖書修正第3版」は「ネストレ・アーラント校訂第26版」と本文が全く同じだそうです。じゃあなんで「ネストレ・アーラント」と書かなかったのでしょう。何か事情があるんでしょうね。私にはよくわかりませんが。


素人が考えても、TRとネストレのどちらが優れているのかすぐにわかります。

・TR聖書:中世の不正確な小文字写本に基づいて出された校訂本。古くても12世紀の写本で、校訂者が参照できる写本の数も限られていた。使われた小文字写本には、中世のカトリック教会による書き加えや書き換えも見られる。

・ネストレ・アーラント版:古代の大文字写本もパピルス片も可能な限り参照し、あらゆる可能性を検討し、新約聖書のオリジナルの復元に努めた最高峰の校訂本。


TRを底本にした過去の名訳もあり、TRに不正確な箇所があることは承知の上で、私も参照しています。英訳では欽定訳(KJV AV)の新約、日本語訳では明治元訳、永井直治訳などです。
なお、ルター訳(独)、ティンダル訳(英)の新約なども、私は持っていないし読みこなす能力もありませんが、底本はTRのもとになったエラスムス校訂版です。

明治元訳がTRに基づくのは、明治初めという時代の制約です。欽定訳や漢訳を見ながらの訳だったのでしょうが、欽定訳も当時の漢訳も、もとはTRです。
「新契約聖書」の永井直治先生にしたって、TRがいいと思っていたわけではありません。ステファヌスからネストレに至る新約聖書校訂本の流れ、修正、その変化を一覧にしようしていたのです(※)。まず、ステファヌス第三版を日本語に訳して出版しましたが、日本はアジア太平洋戦争に突入し、永井先生は大戦末期に亡くなりました。もし、そんな時代ではなく、永井先生に時間も資金も十分にあれば、予定どおりネストレまで、どこがどう違うのかを訳し終え、歴史的な新約聖書校訂本の総括的な変化の一覧を作ったことでしょう。その大きな計画が、最初の1冊で終わってしまったのが何とも惜しまれます。

一部に出回っているネストレを不正確に(というか、でたらめに)訳した翻訳より、TRを正確に訳した翻訳の方が、ずっと参考になります。もちろん、底本に不正確な箇所があることを承知の上で使う必要がありますが。


もう一点。
19世紀のウェストコットとホートやその後の校訂本の校訂者らの中に、仮に、問題のある人物がいた場合(問題のある人物がいたかどうか私は知らないので仮定の話ですが、もし、いた場合)、だからその校訂は正しくないという話にはなりません。誰が校訂しても、その校訂が正しければ正しいのです。たとえピタゴラスが極悪人でも、だからピタゴラスの定理は間違いだとはなりません(これも仮定の話で、ピタゴラスが悪人だったわけではありませんが)。

聖書の本文校訂の正しさは、その人が入手・閲覧できた写本の精度や、その人の校訂の能力によるのです! 
その人の人格や信仰や行ないによるのではありません!!

「現行のネストレ・アーラント版の校訂には非クリスチャンも加わっていますから、使うべきではありません」みたいなことを言う人がいますが、本文校訂の正確さと信仰の有無とは何も関係ありません。


さらにもう一点。
田川建三訳『新約聖書』は、ネストレに従っていない箇所がありますが、それは田川先生がご自分で本文校訂(正文批判)をなさったからです。「田川訳はネストレと違う箇所があるからTRからの訳でしょう」みたいなことを言う人がいて、びっくりしました。無知から来る誤解とはいえ、そこまで誤解するのは、ちょっとねえ…。田川建三先生は、はじめからTRなど相手にしてません。


おすすめの日本語訳聖書についても聞かれているんですが、近いうちに答えます。

(伊藤一滴)


※「新契約聖書」の「小引」で、永井直治先生はこう書いています。

引用開始
 併しステハヌスを學び、またそれを仔細に和譯することが、私の研究の主眼ではありません。私の主眼とする處は、等しくステハヌスを基本としまして、ベザやエルゼビル、ミルやグリスバッハ、尚ほその他の多くの學者等を經て、ラハマン、ツレゲレス、チシェンドルフ等の學者に傳はり、遂にヱストコットやワイス等よりネストレに落ち込みました。その流、その修正、またはその變化を一見して明らかなる樣、一册のテッキストに歴史的に總括することでした、本書はその基礎であり、またその一部分であります。
引用終了

永井先生は、ティシェンドルフも、ウェストコットも、ヴァイスも、ネストレも、否定していません。
ティシェンドルフ版、ウェストコットとホート版は、写本の系統や古代の写本類の検討で近代的な本文批判の道を拓きました。またヴァイスはQ資料の研究でも知られるドイツの新約学者で、ブルトマンや、日本の波多野精一もヴァイスに学んでいます。


付記:「ジネント山里記」または「ジネント」で検索すると広告が表示されることがありますが、広告は私とは一切関係ありません。当然、広告に出てくる見解は、私の考えとは一切関係ありません。
(ただし、田川建三訳の新約聖書のように、私もおすすめの本が広告に出てくることもあります。)


参考文献

田川建三著『書物としての新約聖書』
バート・D・アーマン著、津守京子訳『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』
(B.M.メツガー著、橋本滋男訳『新約聖書の本文研究』 も有名です。事情があって、私は未読ですが。)

(伊藤一滴)

2022-01-21 掲載 そのまま再掲

追記:B.M.メツガー著、橋本滋男訳『新約聖書の本文研究』を古本屋で安価で見かけ、買おうと思って次の日に行ったら売れてました。ネットで探したら非常に高価で、買ってません。田川建三著『書物としての新約聖書』におおよそのことが書いてあるんで(これも高価)、ま、いいか。
なお、『書物としての新約聖書』は、新約ギリシャ語の本文(ほんもん)についてはともかく、過去の新約聖書の日本語訳に関しては不正確な記述が見られます。たとえば、ギュツラフ訳に協力した日本人の漂流者たちは漁民だとか(実際は千石船と呼ばれた当時の貨物船の乗組員)。ラゲ訳のラゲ神父はフランス人だとか(実際はベルギー人、フランスのパリ宣教会から派遣されて日本に来た宣教師だが、フランスから派遣されたからといってフランス人ではない)。
田川さんの専門は新約学で、聖書翻訳史が専門ではないから仕方ないのかもしれませんが、人の間違いにはやたら厳しいのに自分も間違ってます。キリスト教系の出版社から出た本にも「漁民」なんて書いてあったりするんで、「貨物船の乗組員」と「漁民」の区別なんてどうでもいいんですかね。(2023.6.1)

もう1つ、追記
「ネストレは間違っている、TRが正しい」と言う人たちがいますが、それ、「地球が丸いというのは間違っている、地球は平たい」みたいな話です。地球は平たいと信じる人にとってはそれが真実で、丸い地球が写った写真を何枚見せて説明したって、「そんなのはみな改竄された写真だ」とか言うんでしょう。TRが正しいと信じ込んでいる人に、それは中世の不正確な写本をもとにした校訂本だとどんなに説明しても通じないようです。近代的な本文校訂(正文批判)は、TRが正しいという先入観との戦いだったとも言えます。(2023.6.19)