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なんでギリシャ語の新約聖書をそのまま訳さないんだろう

前回書いたルカ5:10のように、「漁師」なんて言葉はその箇所にないのに「訳」してしまう人たちがいます。書いてないことを、無意識に聖書の他の箇所から「訳」してしまったと考えられます(※1)。過去の翻訳と比べてみるだけでも訳文のチェックになると思うのですが、見逃したのでしょう。

存在しない語を勝手に補ってしまう誤訳に対し、存在している語を無視して訳してしまう誤訳もあります。
一例ですが、ほとんどの日本語訳聖書で無視されている語がマタイ1:1にあります。

私が新約ギリシャ語を学び始めた頃、マタイ福音書の冒頭を見て驚きました。いきなりビブロス(本、書物)で始まるんです。手元にある日本語訳の新約聖書を片っ端から開いてみましたが、永井直治訳と田川建三訳以外、みんなビブロスを無視して訳してました。そして、田川氏以外みんな「イエス・キリストの系図」と訳してました。たしかにマタイ福音書は系図で始まりますが、マタイの全体が「系図の本」ではありません。「本」を無視すれば意味は通りますが、意味を通すために書いてある単語を無視していいのでしょうか?

英訳は?と思って見たら、たいてい、The book of … と、ちゃんと「~の本」を無視せずに訳してます。

マタイ福音書1:1は、
「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのゲネシスの書」
です。

系図から始まるのでそれにつられるのでしょうが、「ゲネシスの書」を「系図」と訳すからおかしくなるんです。田川さんは「創成の書」と訳しておられました。七十人訳「創世記」を意識して「創成の書」と訳されたのでしょうか。
ゲネシスは、発生とか生成とか、そういうことなのでしょうけれど、文脈によって誕生と訳されることもあります。誕生もたしかに発生ですけどね

おそらく「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのゲネシスの書」というのがマタイ福音書の本来の題名だったのでしょう。書き写される中で、いつの間にか題名が本文の冒頭に入ってしまい、どういういきさつがあったのかはわかりませんが、使徒マタイと結び付けられ、「マタイ伝」(「マタイによる」)と呼ばれるようになったのでしょう。「マルコ伝」や「ルカ伝」があるんだから、こっちは「マタイ伝」にしておこうか、くらいの感じだったのでしょうか。(※2)


欽定訳がマタイ1:1を正確に訳してました。

The book of the generation of Jesus Christ,the son of David, the son of Abraham.

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストのジェネレイション(発生、生成)の書」
( the generation は、世代じゃないですよ! 発生、生成です。)

翻訳は、新しければよいというものではありません。前回引用した明治元訳もそうですが、今の訳と昔の訳が違っているとき、昔の訳の方が正確という場合もあります。

昔の訳もふまえた上で、ギリシャ語の新約聖書をそのまま、正確に訳してくれればいいのに。なんでみんなそのまま訳さないんでしょう(田川建三氏は例外)。

先入観もそうですが、伝統的誤訳も、なかなか越えられないようです。「聖書翻訳には翻訳の伝統がある」なんて言う人もいますが、誤訳を踏襲するのも伝統でしょうか。誤訳は受け継ぎながら、古い訳が正確に訳しているのを踏襲しないのは何故?
マタイ1:1で「ゲネシスの書」を「系図」と訳したのは、伝統的誤訳の一つです。

(ビブロス(本、書物)と書いてあるのに無視したとか、「系図」と訳したとか、それで福音書のメッセージが大きく変わるわけではありませんが、多くの人は特定の一つの言語の訳で読んでいます。可能な限り正確に訳してほしいと思います。)

(伊藤一滴)


※1 無意識の誤訳はともかく、「信仰的にはこうです」とか「わかりやすく意訳すればこうです」とか言って、訳文を曲げる人たちがいます。これはわざとですから、聖書に書いてあることよりも自分の考えを上に置いて原文を曲げるわけで、聖書に対する冒涜です。聖書の「訳」を、その人やその人が属する団体の信仰(信仰という名の先入観や独自の理解)の表明にするのです。それは、訳ではなく、聖書の書き換えです。意訳の範囲を越えています。自分(たち)の解釈に都合のよい作文、自分(たち)の解釈による新たな聖典の制作です。「〇〇派の聖書注解」として出すならまだしも、聖書の訳としては、してはいけない行為です。

私は、「信仰的に」訳文を曲げる人たちや「わかりやすく」訳文を曲げる人たちに誠実さを感じません。
聖書翻訳の名のもとに聖書風の新たな聖典を作り、聖書と称するのですから、だましです。知らない人は聖書だと思って読むかもしれません。イエス自身やイエスに従った人たちの誠実さと反対です。


※2 古代の新約写本は大文字で書かれ、改行もなく単語と単語の間の空白さえありません。第何章・第何節という区切りも、中世~近世のもので、古代の写本にはありません。古代にはプロの写本家(聖書を書き写す専任の修道士)もいませんでした。識字率が低かった時代、読み書きのできる一部のクリスチャンがボランティアで書き写したのかもしれません。写本筆記のプロではないので、当然、写し間違いも多いのです。
マタイ1:1は、かなり古い段階で、題名が本文に混じったと考えられます。

「マタイ福音書の著者は使徒マタイです」
と頑張る人たちがいます。保守的な福音派や、「福音派」と自称するカルト思考原理主義者たちです。
私が、
「教育を受けていない一人のガリラヤ人が書いた文章とは思えませんよ」
と言っても、
「人にはできないことも神にはできます。マタイは神の霊感を受けて福音書を書いたのです」
と言い張って頑張るんです。
「あなた方の論拠は聖書のみですよね。聖書のどこに使徒マタイが福音書を書いたと書いてあるんですか?」
と聞くと、
「聖書に書いてなくとも、信頼できる伝承がマタイの著作であることを伝えています」って。

えっ、論拠は聖書のみじゃなかったの!
伝承を論拠にするカトリックを厳しく非難しながら、自分たちも伝承が論拠?
そのような二重基準の論法はおかしいと思わないのですか?

「カトリックは伝承を論拠にして聖書のどこにも書かれていないことを言っているから間違っている。我々も伝承を論拠にして聖書のどこにも書かれていないことを言うが、それは正しい」ということですか?

ルカ福音書のイエスは「人間を捕る漁師にしよう」とは言っていない

ルカ福音書では、イエスは、ペトロの召命のときに「人間を捕る漁師にしよう」とは言ってません(ネストレ・アーラント校訂本他参照)。

ルカ5:10に記されたイエスの言葉をそのまま日本語に訳せば、「恐れてはなりません。今から後、あなたは人々を生け捕りにする者になるでしょう」といった感じです。それなのに、どうして「漁師」という訳語が出てくるのでしょう。(口語訳、新共同訳、他)

異本の読みに従ったのでしょうか?
おそらく、そうではなくて、訳者がマタイやマルコの記述につられて原文にない言葉を「訳」してしまったのではないのかと思います。

写本はいろいろあるのでしょうが、かなり高い確率で、ルカ自身のオリジナルには「漁師」とは書かれていなかったと考えられます。写本記者が他の福音書と合致する箇所をわざわざ別の表現に書き換えるとは考えにくいからです。

天下の「口語訳聖書」や「新共同訳聖書」といえど、原文にない漁師という言葉を「訳」してしまう、その程度の訳なのです。
(新改訳聖書が正しく訳してました。なお、文語訳も、またRSVなどの英訳も「漁師」という訳語は使っていません。日本の口語訳聖書の訳者がうっかり「人間をとる漁師」と誤訳し、新共同訳聖書の訳者も同じように誤訳し、チェックした人たちも見落としたのでしょう。まだネストレ校訂本がなかった明治13年版だって「懼るる勿れなんぢ今より人を獲べし」ってちゃんと訳しているのに、より正確な底本を使った後の人たちが誤訳ですか。戦後間もない頃の口語訳はともかくとして、新共同訳まで同じように誤訳とは。)


これは想像ですが、ルカは、「漁師が魚をとったら魚は死んでしまう」と思ったのでしょうか。自分でそう思ったのか、誰かがルカにそう言ったのか、あるいは、ルカが属していた信者のグループの中でそういう話があったのか。

間違いなくルカはマルコ福音書を手元において「ルカ福音書」を書いているので、ルカ自身がマルコ福音書の記述を書き換えたと考えられます。

「聖書は原典において無誤である」と主張する人たちがいますが、原典において、原著者の手で、すでに書き換えがなされていたのです。

無誤の原典て、いったい何ですか?

(伊藤一滴)

イエスの処刑は過ぎ越しの食事の前か後か

「イエスの処刑は過ぎ越しの食事の前か後か?」と聞かれたら、どう答えましょう。
共観福音書(マルコ、マタイ、ルカ)を読むと、弟子たちと「最後の晩餐」をして、そのあとイエスは捕まり翌日に処刑されています(※)。ですから、処刑は過ぎ越しの食事の後になります。
ところが、ヨハネ福音書を読むと、イエスは過ぎ越しの祝いの食事の前日に処刑されています。だから、ヨハネには「最後の晩餐」も出てきません。

都合が悪いのか、教会も信者もこの話をしたがらないようです。私は自分で気づくまで、このズレについて聞いたことがありませんでした。


共観福音書では、イエスは弟子たちと過ぎ越しの食事をしています。その前日の処刑はありえません。

ヨハネ福音書だと、イエスは過ぎ越しの食事の前日に処刑されています。


これは、つじつま合わせのしようがない矛盾です。

「聖書には一切矛盾はない」人たちはどう説明するのかと思いました。まさか、「別のイエス様です、イエス様は何人もおられたのです」なんて言わないだろうし。

私も仰天した「説明」の一例です。
「天文学が発達していなかった当時、暦には誤差があり、同じ民族の中でも数日違うカレンダーが使われることがあったのでしょう。共観福音書の著者とヨハネは1日違うカレンダーを使ったと考えれば矛盾しません。だからどちらも正しいのです」
というものです。

びっくり。

神の子イエスが1日ずれた暦に基づいて最後の晩餐をやった?
または、
ユダヤの神殿当局が公式に1日ずれた暦を使っていた?

あなた方が言うように「ヨハネ福音書の著者は使徒ヨハネ」なら(私はそうは思いませんが)、使徒ヨハネも最後の晩餐の場にいたんじゃないの? だのにヨハネは暦のズレについて何も思わなかったの?

他の「説明」だと、
「イエス様の最後の晩餐は、正式な過ぎ越しの食事ではなく、前もって行なわれた食事です」
というのもありました。でも、「過ぎ越しの食事」って書いてありますよ。一字一句に至るまで無誤無謬の聖書に。

あとは、「イエス様は、ユダヤの暦の通りではなく、前もって独自に過ぎ越しを祝われたのです」
という「説明」もありました。
イエスが、そんな、独自のやり方で、大みそかに正月を祝うようなことをしたんでしょうか? その不自然さに弟子たちは何も言わなかったのでしょうか? もし前もって独自に過ぎ越しを祝ったのなら、共観福音書の著者による説明があってもよさそうなのに、何の言及もありません。


マルコが用いた資料では暦どおりの過ぎ越しの食事だったのでしょう。マタイとルカはマルコ福音書を見ながらこの箇所を書いたので似た内容となり、ヨハネだけマルコに従わず系統の違う資料を使ったようです。


原理主義者らのつじつま合わせの想像につきあっても真実はわかりません。

現実にどうだったのかは、もう、誰にもわからないのです。

可能性として、次のように考えることもできます。

1.イエスの処刑は過ぎ越しの食事の前日であったが、聖餐式の教義が形成される中で、最後の晩餐を描く都合上、共観福音書には実際の処刑の日とずれた記述がなされた。(ヨハネが歴史的事実を反映)

2.上記とは逆に、イエスこそ過ぎ越しの食事のために前日に屠られる小羊のようにいけにえとなったのだ、という主張に合わせ、ヨハネ福音書の著者は前日だと記述した。(共観福音書が歴史的事実を反映)

3.どちらも歴史的事実と違い、それぞれが、それぞれの神学の反映。

可能性としては、大きくはこの3つでしょう。

日が違うのに「共観福音書もヨハネ福音書もどちらも正しい」という「説明」は成り立ちません。どうしても説明しようとすれば、上に挙げた彼らの主張のような無理な「説明」になります。

聖書に矛盾はないとどこまでも言い張るのなら、しまいには、「イエス様は複数いてそれぞれ別の日に処刑された」とでも言うしかないでしょう。

「あなたには信仰がないからそんなことが言えるのです」と、私は何度も言われました。
信仰とは矛盾した内容を信じることですか?
聖書にない話を創作して話をつなぎ、強引につじつま合わせをすることですか?
両立しない話を、無理やり、屁理屈で両立させようとすることですか?

ある種のイデオロギーのマインドコントロール下に置かれることを「信仰」と呼ぶ人たちがいます。そうした「信仰」に入ってしまうと、独自の世界観になってしまい、ものを見るのも、文章を読むのも、正常な判断ができなくなってしまいます。先に自分たちなりの「正しさ」があり、その「正しさ」に合致するように、現実を見る目を曲げてしまうのです。そして、もしかしたら自分は間違っているのかもしれないとさえ思わなくなります。それはおかしいと指摘されても、「サタンの声だ」とか「自分は正しい信仰だから弾圧される」とか思ってしまうのです。注意が必要です。

(伊藤一滴)

(※)現代で言う「翌日」です。当時のユダヤでは日が沈めば翌日だったそうですから、夜に捕らえられ、私たちが言う意味での「翌日」に処刑されたのは、当時のユダヤ人たちにしてみれば当日の処刑です。

イエスと共に十字架につけられた犯罪人の矛盾

イエスと共に十字架につけられた2人の犯罪人の矛盾について、これまでもいろいろな方が指摘されておられます。佐倉哲氏の「聖書の間違い」にも書いてあります。
マルコとマタイはほぼ同じことを言い、ルカだけが違っているのです。(ヨハネは2人の犯罪人の態度や発言を何も記していません。)

口語訳聖書から引用します。(たまたま口語訳で読んでいただけで、深い意味はありません。)

マルコによる福音書より
15:27また、イエスと共にふたりの強盗を、ひとりを右に、ひとりを左に、十字架につけた。〔 15:28こうして「彼は罪人たちのひとりに数えられた」と書いてある言葉が成就したのである。〕 15:29そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「ああ、神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ、 15:30十字架からおりてきて自分を救え」。 15:31祭司長たちも同じように、律法学者たちと一緒になって、かわるがわる嘲弄して言った、「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。 15:32イスラエルの王キリスト、いま十字架からおりてみるがよい。それを見たら信じよう」。また、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

マタイによる福音書より
27:38同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。 27:39そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって 27:40言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。 27:41祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、 27:42「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。 27:43彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。 27:44一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。

ルカによる福音書より
23:39十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。 23:40もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。 23:41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。 23:42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。 23:43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。


原理主義者は矛盾はないと言います。
「最初のうち2人の強盗(ルカでは犯罪人)がイエス様をののしっていました。でも途中で1人が回心し、もう1人をたしなめたのです。ルカの書いた回心の話が、マルコやマタイでは省略されているだけで、矛盾はしていません」
そういった「説明」を何度も聞きました。

たしかに、そう「説明」すれば言葉としては矛盾しないのでしょう。しかし、言葉として矛盾しなくとも、新約聖書の思想として、福音のメッセージとして、矛盾はないのでしょうか。

「2人の強盗がイエスをののしったこと」と、

「2人のうちの1人が十字架の上で回心し、楽園行きを約束されたこと」と、

どちらが新約聖書の思想として、福音のメッセージとして大事なのですか?

マルコとマタイは、「2人の強盗がイエスをののしったこと」の方が大事だと思ったのでしょうか?

どんな犯罪人でも、また、たとえ死の直前でも、悔い改める者には救いが与えられるというのは、新約聖書の大切な教えではないのですか。
福音書を執筆するほどの信仰があったマルコやマタイは、この大事な教えを省略して平気だったのでしょうか?

「聖書に矛盾はない」という先入観に囚われると、つじつま合わせが優先され、大切なメッセージが見えなくなってしまうのです。本末転倒です。
このような本末転倒が、「正統的プロテスタントの、正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」たちにしばしば見られます。


マルコやマタイは犯罪人の1人が悔い改めた話を知らなかった、としか考えられません。
もし知っていたら、こんな大事な話を省略するのはあまりにも不自然だからです。

犯罪人の1人が悔い改めた話について、ルカは系統の違う資料を持っていたのか、あるいは、ルカ自身が悔い改めとはこういうことだという説明のためにこの話を書いたのか、あるいは何か別の理由があったのか、今となってはわかりません。

マルコやマタイは犯罪人の1人が悔い改めたという話を知らなかった、と考えれば、この食い違いを説明できますし、福音として伝えるべきことの優先順位がおかしくなることもありません。

聖書には、多くの矛盾があります。
そして、矛盾があるからといって、価値がないということにはなりません。

(伊藤一滴)

補注 便宜上、マルコ福音書の著者をマルコ、マタイ福音書の著者をマタイと書きました。マルコは、ペトロの通訳者(解説者?)であったというヨハネ・マルコなる人物なのかもしれません。マタイが何者なのかは不明です。12使徒の一人のマタイとは関係ないようです。

聖書の食い違い 会堂管理者の言葉 ユダの死

聖書の中には食い違う記述が多数あります。(※1)

食い違いは非常に多いのですが、今日は、私が子どもの頃から気になっていたヤイロの娘が生き返る話の矛盾点とユダの死の矛盾点について書きます。

「あなたが読んだ聖書は信仰的な訳ではないから食い違っているのです」なんて言われないよう、福音派が訳した新改訳(初版)から引用します。
実際に、小学生だった私が読んだのも「新約聖書 新改訳」(初版)でした。


まず、
「マルコの福音書」より

5:21イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。 5:22すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、 5:23いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」 5:24そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

(十二年間長血をわずらっていた女がイエスの服に触れる話がここに入る。省略)

5:35イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」 5:36イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 5:37そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。 5:38彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、 5:39中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」 5:40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。 5:41そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。) 5:42すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。 5:43イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。


次に
「マタイの福音書」より

9:18イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」 9:19イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。 9:20すると、見よ。十二年の間長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。 9:21「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。 9:22イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。 9:23イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、 9:24言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。 9:25イエスは群衆を外に出してから、うちにおはいりになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。 9:26このうわさはその地方全体に広まった。


小学生の私でも、この食い違いに気づいていました。

会堂管理者ヤイロがイエスの所に来たとき、娘は死にかけていたのか、いま死んだところだったのか。

ささいな違いではありません。自分の娘が死にそうなのか、すでに死んでしまったのかの違いです。
死にそうな娘を治してほしい、と言いに来たのか、死んだ娘を生き返らせてほしい、と言いに来たのか。

「聖書は一字一句に至るまで神の霊感によって書かれており、無誤無謬です」、「聖書に食い違いなどありません」、「聖書に矛盾点などありません」と言い張る人たちはどう説明するのかと思ったのですが、納得のいく説明を聞いたことがありません。

ウルトラCみたいな「説明」は、「マルコにはヤイロという名前が出てくるがマタイには名前が出てこない。別の会堂管理者だ」という話です。はあ? じゃあ十二年間長血(※2)をわずらっていた女も別の女?
そうか、マタイとマルコは別人の別の話を書いたのか。会堂管理者の父と娘も、長血の女も、マルコの話とマタイの話は別の場面の別の人。そんなふうに別の話だと言い張れば何でもありです。
じゃあ、イエスの最期だって、復活の場面だって食い違っているけれど、イエスは何人いたのですか?
それぞれ別のイエスの話ですか?


もう一つ、イエスを裏切ったユダの最期です。
これも、小学生のときから食い違いに気づいていました。

「マタイの福音書」より

27:1さて、夜が明けると、祭司長、民の長老たち全員は、イエスを死刑にするために協議した。 27:2それから、イエスを縛って連れ出し、総督ピラトに引き渡した。
27:3そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、 27:4「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。 27:5それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。 27:6祭司長たちは銀貨を取って、「これを神殿の金庫に入れるのはよくない。血の代価だから。」と言った。 27:7彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。 27:8それで、その畑は、今でも血の畑と呼ばれている。


「使徒の働き」(使徒行伝)より

1:15そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。 1:16「兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。 1:17ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。 1:18(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、まっさかさまに落ち、からだは真二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。 1:19このことが、エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなわち『血の地所』と呼ばれるようになった。) 1:20実は詩篇には、こう書いてあるのです。『彼の住まいは荒れ果てよ、そこには住む者がいなくなれ。』また、『その職は、ほかの人に取らせよ。』(※3)


ユダは首を吊って死んだのか、真っ逆さまに転落して体が裂けて死んだのか?
まさかユダは何人もいたって言うんじゃないでしょうね。
首を吊ったらロープが切れて転落したって? 
真っ逆さまに落ちて体が裂けるくらいなら、かなり高い場所から落ちたのでしょうが、畑にかなり高い場所があるのも、わざわざそんな高い場所まで上って首を吊るのも不自然です。
それに、畑の土の上に落ちて、体が真っ二つになるんでしょうか。
人にはできないことも神にはできる?
はあ?
神は矛盾することもできる? 同じ人を違う方法で何度も殺せる?

首を吊って死んだユダの死体は谷に捨てられ、そのときに腹が裂けたって? そういう、聖書のどこにも書かれていない話を持ってくるんですか? 人には「そんなことが聖書のどこに書いてあるんですか? 信仰の論拠は聖書に書いてあることだけです。あなたは聖書にないことを言っており、間違っています」って、やたらからんでくるのに。自分は聖書のどこにも書かれていない話でつじつま合わせをしていいんですか。それに、もし死体が谷に捨てられたと言うのなら、ユダは谷底に土地を買ったということになるでしょう(マタイの話だと、「祭司長たち」が土地を買ったのですが)。谷底に陶器職人の畑があった? 日当たりが悪そうな畑ですね。
えっ、陶器職人の畑というのは粘土の採取場のことで本当の畑ではないって。だから日当たりは関係ない? 農民が畑から作物を得るように、陶器職人は粘土の採取場から粘土を得ていた、だからその場所を「畑」と呼んでいたって? また、そういう、聖書のどこにも書かれていない話をする。遺体が捨てられるような場所から粘土を取って焼き物を焼いていたんですか? 血の穢れを気にするイスラエルの民が? えっ? その陶器職人は異邦人だったのだろうって? どんどん創作が広がりますね?

土地を買ったのは祭司長たちなのかユダなのか、「血の畑」あるいは「血の地所」と呼ばれるのは、イエスの血の代価だからかユダの血のゆえか。
「ユダのお金で買ったのだから、祭司長たちが買ってもユダが買ったことになる」と説明する人もいますが、ユダの死後に祭司長たちが相談して土地を買ったことを、「この男(ユダ)は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが」ってペトロが言うんですか? 
「祭司長たちが言った「血の代価」とはユダの血のことだ」と言う人もいますが、ユダは「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言ってますから、これも素直に読めばイエスの血のことでしょう。

聖書にない話を持ってきて屁理屈を重ねていけば何とでも言えるのでしょうけれど、矛盾点が出てくるたびにウルトラCみたいな「説明」ですか?
そんな無理な説明をしていたら、聖書は神の教えと言うより、人間がどんどん創作を加えてつじつま合わせをする教えになってゆきます。

そのような、人間の創作でつないだ話が無誤無謬なのですか?
「聖書に書いてある話」と「つじつま合わせのための人間の創作」とを継ぎはぎしたパッチワークみたいな話が信仰の論拠?

それでいいんですか?

(伊藤一滴)


※1 佐倉哲氏の「聖書の間違い」に、いろいろと指摘があります。
(http://www.j-world.com/usr/sakura/bible/errors.html)

※2「長血」と以前から訳れています。婦人病でしょうか。出血が続く病気のようです。

※3 18節~19節が( )でくくってある理由について、何の説明もありません。写本によってはこの箇所を欠くと言いたいんでしょうか。牧師によってはそう言うのでしょうか。
新改訳聖書の場合、有力な写本に食い違いがある場合は「異本」として欄外に指摘があるのですが、どういうわけか、この箇所には欄外の説明もありません。聖書写本は膨大な数ですから、中にはこの部分が欠落した写本もあるのかもしれませんが、たぶん、有力な写本ではないのでしょう。( )でくくっておきながら理由を説明しないのは、何か意図があってのことなのか、単なるうっかりミスなのか、私にはわかりませんが。
これまで見つかった新約聖書の写本は、多くは不完全で、ごく一部も含めて5千点以上。食い違う箇所は万単位です。数え方によって、食い違いは10万箇所、20万箇所、それ以上とも言われています!

念のため、ネストレ・アーラント校訂28版 Novum Testamentum Graece (NA 28)を見てみましたが、この箇所に括弧はありません。