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「日本でキリスト教が普及しないのはなぜでしょうか?」

たまたま、ネット上の「ガールズちゃんねる」という掲示板で見つけた「日本でキリスト教が普及しないのはなぜでしょうか?」という問いと、それに対する多くの答えを、興味深く読んでいました。

それで感じたのは、日本社会の健全さです。

多くの人が、キリスト教の中に危険なものを感じています。危険な要素を危険と感じるのは、とても健全な感覚だと思います。
また、キリスト教の必要性を感じない人も多くいます。必要性を感じない宗教に、「必要ない」と言うのも、また、健全な感覚だと思います。

一神教に感じる不寛容、独善性、排他性。血生臭いにおい。おどろおどろしい感じ。歴史の中に見られる(そして今も続く)キリスト教徒による流血の数々。プロテスタントも含めての教会の汚点の数々。キリスト教を名乗る団体の一部のカルト化など。多くの人が気づいています。そして、日本の多神教的な風土や形だけの仏教のほうが他者に寛容であり、平和的であり、ここちよいと感じる人が多くいるのです。
「多くの日本人は正しい信仰がわかっていない」と考え「無知な日本人に啓蒙しないといけない」などと思うのは、一部のクリスチャンたちの思い上がりです。あなた方が思っている以上に、一般の日本人は、キリスト教史やキリスト教会やキリスト教徒の問題点をよく知ってます。

あとは、とにかくみんな忙しくて、時間がない。毎週教会に行くなんて、とても無理という感じもあります。

もう一つはお墓の問題です。お墓を受け継いで守らないといけないから、他の宗教になれない、という答えです。

私が、この「日本でキリスト教が普及しないのはなぜでしょうか?」という問いに対する答えで、なるほど、と思った中から引用して紹介します。

出典:https://girlschannel.net/topics/2944503/



引用開始


面倒だから

肌に合わない

仏教で間に合ってるから

なんか怪しいから。

八百万の神様の懐の大きさがあるから
キリストも神様の1人にしかすぎない。

神道で充分でしょ。800万も神様いるんだよ?
キリスト教なんて流行らないわ

よく知らんから

お墓問題

毎週日曜日に早起きして教会なんか行きたくない。
価値観は自分で決めたい。

日曜日教会行ってる余裕ない

なんか血の匂いがするから

育てられ方じゃない?
親が信仰してなきゃねえ…
カトリック系の大学行っていたけどキリスト教学科の子たちは小さい頃から親と教会通いとかしていたらしいよ
信じるものは救われるとかガチで言ってたよ

なんとなく野蛮な感じがするから
悪魔の存在が受け入れられないから

キリスト教に限らず宗教に関心ないから
神社に参拝するのも信仰とかではなくただの行事

日曜日も働いてるから。

プロテスタントはわからないけどカトリックは聖書の勉強の為にに1年間くらい教会へ通ってからでないと洗礼を受けられない。信者になるハードルが高すぎる。

色々やることがめんどくさい

日曜日に家から出なきゃならん。

歌ったり祈ったり話聞いたり、続く気がしない

一神教は排他的で、グイグイくるし、ウザすぎるからなー
八百万の神々がいて
海外の文化を受け入れまくってきたお国柄だし
ええーっ!お前だけ特別扱いすんの?
押し付けがましい神様だなってなるから

キリスト教もイスラム教もユダヤ教も、
一神教ってみんな極端。

信じるものしか救わない

土着の宗教じゃないし、キリスト教は基本的に他の宗教は認めないから。(キリストを通して祈る創造主のみが唯一の神であり、他の神とされるものは全てニセモノとされる。)よって八百万の神がいる日本とは相入れない。

日曜日くらいゆっくり寝たいから

変なカルト宗教がキリスト教のふりしてるから

八百万の神がいて、ご先祖様もいる。
こんだけ神社仏閣がゴロゴロあるのにキリストもどうですか?って言われても困るんだよね。

だってみんな仏教だし、墓とかいまさらどーすんのー

いままでずっと八百万の神様や神社・仏閣の手を合わせてきた。
そこに何の不満もないから他の神様にすがる必要がないんじゃないかな?

日本のハロウィン見たらわかるじゃん。
宗教とか頭にない

他の神様の話すると異端認定されちゃうのがなぁ
日本は大切に長く使い続ければ道具にも神様が宿っちゃう国だから

日本人は気弱めな人が多いから疲れるんじゃないかな
日本の神はあちこちに宿る寄り添う系

アッラーもキリストも強いよね、求心型って印象

キリスト教は隣人愛があるのに信仰していても戦争をするし、そこに矛盾を感じる。

忙しいからそれどころじゃない。

ちょっと興味があってキリスト教の布教活動参加したことあるけど、合わないなって思た。
どの宗教もだろうけど、やっぱり極端に信仰してる人はちょっと怖かった。
讃美歌を歌うときに手を広げてユラユラ揺れながら熱唱したり、布教者の話のときに色んなところからアーメンアーメン聞こえてきてちょっと異様な世界だったわ。

キリスト教が一番戦争するもんなぁ

神の御心を理由に虐殺しまくった宗教はキリスト教に限らずみんな嫌い

キリスト教は信じないものは絶対に救わないからね。
隣人を愛せと言うくせに、懐は驚くほど浅い。

一言で言ってしまえばめんどくさいから。

風土があってない
荒野や砂漠の厳しい絶対神と違って温暖湿潤な土地だと八百万の神々のほうがしっくりくる
あと安息日は仕事=罰という考えからくるもので、日本人の仕事に対する考え方と合ってない

逆になんであんなにキリスト教信仰できるのか聞きたい
聖書の奇跡とか本当に信じてるの?

他の宗教に厳しい態度とるとか心が狭くて嫌だ

キリスト教だけじゃないよ
宗教そのものが定着しない
何故なら、平和だから

他の宗教を認めない姿勢

一神教が文化に合わないからかな?
土着信仰との相性が悪い気がする。

第4次十字軍知った時、ダメだこいつらって思った

教会は信者を食い物にしてるイメージがあります

不倫してて~でも愛してるからやめられない~みたいなくだらない懺悔から、レイプした盗んだ殺した等ガチな犯罪までウンウン聞いて最終的には神はおゆるしになりますってしめるんでしょ
神がゆるしても被害者ゆるさんわ

結局のところ色々綺麗事並べるけど口先だけって印象を拭えない

アニミズムと、哲学に近い思想の方が、受け入れやすい土壌はあると思う。神道はアニミズム、仏教は哲学で、神道と仏教は親和性が高い。
だから「神が世界を作った」とかっていう、『唯一絶対の存在が力を持っていて、委ねるしかない』という考え方はあんまりしっくりこない。
あとは、そもそも日本人は無意識のうちに、(皆さんのコメにあるように)八百万の神々の中の一柱としてキリスト教の神もカウントしてるとこある。

キリスト教にまつわる血なまぐさい出来事を歴史で習ってるからなー。
素直に受け入れられない。

今の日本は無宗教のが多いのでは?
法事や葬式などは家の宗派にそってやると思うけど、宗派の違いが分かる人なんてほとんどいないし、自分ちが何宗か分からない人も多いよ。家でお経唱えるなんてのも高齢の方くらいじゃない?

いちいち罪だなんだうるさいから

イエスご自身が最後の晩餐で「私の肉」ってパンを配り「私の血」ってワインを配ってるし。
例え話って分かってても、
「肉か…血か…」
と意識してしまい、日本人だからか、どうしても嫌だった。
うちの実家は代々キリスト教で、生まれた時から聖書の教えに沿って育てられているけど、それでも本能が嫌だった。
他にも色々疑問点があり過ぎて、やめた。

キリスト教同士で争ってるのに隣人を愛せよなんて矛盾受け付けられないよ

多神教は一神教に『いてもいいよ』って言えるけど、
一神教は他の神様に『あなたたちは異端』て言う。
自分が『いいよ』って言える側で良かったと思う。

引用終了


もっと紹介したいコメントがたくさんあるんですが、非常に多いので、これくらいにします。


日本のクリスチャンたち、こうした声が、あなた方の耳に届いていますか?
もし耳に届いたら、どう答えます?

(伊藤一滴)

【十字架上のキリストへの祈り】

私の好きな祈りを引用します。

・・・・

【十字架上のキリストへの祈り】

主よ 私があなたを愛するのは
あなたが天国を約束されたからではありません。
あなたにそむかないのは
地獄が恐ろしいからではありません。

主よ 私をひきつけるのは
あなたご自身です。
私の心を揺り動かすのは
十字架につけられ、侮辱をお受けになったあなたのお姿です。
あなたの傷ついたお体です。
あなたの受けられた辱めと死です。

そうです。主よ。
あなたの愛が私を揺り動かすのです。
ですから たとえ天国がなくても
主よ 私はあなたを愛します。
たとえ地獄がなくても
私はあなたを怖れます。

あなたが何もくださらなくても
私はあなたを愛します。
望みが何も叶わなくても
私の愛は変わることはありません。

(フランシスコ・ザビエル)

・・・・

ザビエルの祈りと伝えられるこの祈りの言葉に、キリスト教の精髄が表明されていると思います。

天国や地獄があってもなくても、イエス・キリストの愛を感じ、イエス・キリストを愛する。報酬など何も望んでいない、ただキリストを愛する。
これこそが信仰の精髄でしょう。

「死んでから天国に行きたいのです。地獄に行きたくありません。だからイエス様を信じます」みたいなクリスチャンが、今も、何と多いことか。
それって、
「天国に行きたいのです。地獄には行きたくありません。だから免罪符を買います」というのと、何が違うのですか?

(伊藤一滴)
 

キリスト教 寛容派と不寛容派 原理主義の本質

キリスト教を名乗る団体はたくさんあり、言い分はいろいろです。
キリスト教の見解は、分類するのがちょっと無理なくらい細かく分かれています。

西方教会と東方教会、カトリックとプロテスタント、プロテスタントの主流派と福音派、福音派には穏健派から極端な原理主義まであって、一部はカルト化・・・・、みたいな分類もありますが、同じ教派内でも意見が分かれていたりするので、厳密な分類はまず無理です。

しかし、大きく、キリスト教を分ければ、
寛容派と不寛容派、
この2派だけではないのですか?

極端な原理主義は別として、たいていの教派に寛容な人と不寛容な人がいます。
だから、キリスト教には、寛容派と不寛容派の2派しかないと考えることもできるのです。
もちろん、ある面は寛容だけれど別の面では不寛容ということもあるでしょうから、すべてはっきり白黒分かれるわけではありません。でも、どちらかと言えば寛容、どちらかと言えば不寛容と分ければ、やはり、寛容派と不寛容派の2派しかないように思えます。

イエス自身は、もちろん寛容派です。
ファリサイ派や律法学者は、例外もいますが、不寛容派として描かれています。
混同している人がいますが、不寛容と熱心な信仰は違います。

さて、クリスチャンは、どちらの道を行くのでしょう?

「罪の意識」と「地獄の恐怖」に日々おびえながら、そして、自分がおびえるこの2つで人を脅しながら、どこまでも聖書に出てくるファリサイ派や律法学者のように不寛容に生きることが「正しい聖書信仰」?

私はやっと、福音派と称する中のキリスト教原理主義の本質がはっきり解りました。
その本質は「罪の意識」と「地獄の恐怖」です
前から、うすうす気づいてはいましたが、野原花子著『聖書はもういらない』を読んで、もう間違いないと思いました。
神の愛も、キリストの贖いも、みな、罪の意識と地獄の恐怖から自分を救ってくれるためにあるのです。
イエスが教えた隣人愛の実践さえも、「罪の意識と地獄の恐怖から解放され、死んでから天国に行きたいから」という、そのための隣人愛に矮小化されるのです。

キリスト教原理主義者にとっての「信仰」は、免罪符の購入と何が違うんですか?

免罪符を買った人たちも、「罪の意識と地獄の恐怖から解放され、死んでから天国に行きたいから」買ったのでしょう。

免罪符なら毎週買う必要はないでしょうが、「正しい聖書信仰」の「正統的プロテスタント」の「福音的な教会」に所属すれば、毎週、ずっとそこに行かなければならなくなります。「罪の意識」と「地獄の恐怖」で、その派の教会から離れられなり、奉仕や伝道に参加し、収入がある限りそれ相応の額を献金し続けなければならなくなります。罪の意識と地獄の恐怖によるみごとな支配構造です。その人の精神を人質にされたような、抜け出せない支配ですから、それは一種のマインドコントロールでしょう。
支配からの解放を解いたイエスの教えが、正反対に使われるとは!

福音派と称する人たちの一部の中世化、悪い意味での中世的カトリック化ではありませんか!

やはり、と言うか、その発想も中世的です。
「人は神によって創造されました。進化などしていません。進化論は間違っています」
「他の説もありますが、聖書の年数を計算すると天地創造は紀元前4004年頃ですから、それ以前の歴史はないと考えるのが、聖書的に有力です。何万年も前の遺跡や、何億年も前の化石などありません。まだ地球がなかったのですから、そうしたものが存在するはずがありません。それらは何かの間違いか捏造です」
「ノアの箱舟のときの洪水で地球全体が水没し、この水没で恐竜が絶滅したり、グランドキャニオンができたりしたのでしょう。地球には約46億年の歴史があるとか、何億年も前に恐竜がいて人類の発生より先に滅んだとかいうのは反聖書的な無神論の考えです」
「聖書に書いてあることはみな事実です。もし古生物学や考古学の発見と聖書の記述に食い違いがあれば、それは古生物学や考古学の方が間違っているのです」
etc.

もう、「はやく目を覚ましてください」としか言いようがありません。

野原花子氏の場合、目を覚ますことで聖書やキリスト教から離れ、救われたのです。
(聖書やキリスト教から離れて救われた、というのは、何とも逆説的です。)

野原花子著『聖書はもういらない』には、著者が訪れたイスラエルの風景写真が何枚も載っています。本文とは関係のないイスラエルの写真です。
「聖書はもういらない」と言いながら、野原氏は、かつてイエスが生きて活動した場所の写真を大切にし、歴史の中に本当にいたイエスを求めているのではないのでしょうか? これまで自分の所属教会で教えられてきたイエス様ではなくて。

(伊藤一滴)

誰に従うのか、何に従うのか・・・最終的には「自分」が、そこにいる。

また、「metanoiaxの日記」から引用します。

引用開始

2017-07-19
誰に従うのか、何に従うのか・・・最終的には「自分」が、そこにいる。


クリスチャンの方は、神様に従いたい、イエス様の教えに従いたい、と思っていらっしゃる方が殆んどなのだと思います。


そう思った時・・・・
はて?・・神様は何とおっしゃているのだろう・・
イエス様は何を教えていらっしゃるのだろう・・・
と、思うのは自然な流れだと思います。


そして次に、・・・
イエス様が何をおっしゃているかを知るために、聖書を読む、司祭や牧師の方の話を聞く、聖書について書かれているものを読む・・・などの行動を、大抵の方が起こされるのだと思います。


しかし、聖書を読んでみても、いまいち書いている内容が良くわからない・・・
よし、それなら聖書に書いている事を解説してくれる司祭や牧師の方や聖書学者のお話を聞こう❗・・・・となります。

ところが!

司祭と牧師の方のおっしゃる事が違う・・・
牧師の方と、聖書学者のおっしゃる事が違う・・・
こちらの牧師の方と、あちらの牧師の方のおっしゃる事は180度違う・・・

いったい、どの解説が本当なの?
どの解説が、イエス様の教えなの?
・・・・と、なります。


「これがイエス様の教えです」
「聖書に書いてある事はこうです」

と、いうプロの方の教えが、おびただしい程にあるのが、今のキリスト教の現状です。
こちらのキリスト教と、あちらのキリスト教では、全く違う正反対の教えをしているのが、現在のキリスト教です。


こうなると、信徒側としては、自分で納得出来る教えを「自分」で、選ぶしかありません。

仕方ないから、自分でアレコレ調べて、納得がいく解説を探さなくてはなりません。

どの牧師の方も、聖書学者も、自分達の解釈が正しく、他の牧師の方や聖書学者の解釈は間違えている・・・と、おっしゃるのですから、「判断」は信徒がするしかありません。

「自分の考えでなく神様の教えを・・・」
「自分中心の判断でなく神様中心の価値基準を・」
と、言ったところで、その神様の教えが、これだけプロによって言われる事が違うならば、最終・・・

「自分の考え」で、納得のいく解説を選ぶ。
又、当たり前ですが・・・
「自分中心の判断」でしか納得するものは選べない・・と、いう事になります。


そうしなければ、イエス様の教えを知る事さえも出来ないのです。

私は、自分が腑におちた解説やお話の中の、
「イエス様の教え」にしか従いたくありません。

おそらく、皆様も、そうなのだと思います。


と、いうことは、つまり・・・
最終的には、

「自分の納得」
「自分の意志」
「自分の考え」

どこまでもいっても、そこには、

「自分」があるのだと思います。
(脅しがない限りは・・・)


そして、それは、とても素敵な事だと・・・
私は思っています。

引用終了

出典:http://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/07/19/022508



私、伊藤一滴も、何が正しいキリスト教なのか、ずっと考えてきました。
考えに考えて、たどり着いた結論を、このブログにも何度か書きました。

「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。
これに反する主張を「間違ったキリスト教」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。ですから、世には無数の正しいキリスト教があります。

「自分が属する教派の教会の主張」も、自分でそれを選んだのなら「自分の見解」です。
「metanoiaxの日記」にあるとおり、「最終的には「自分」が、そこにいる」のです。
どうすることが神の御心にかなうのか、判断をせまられる自分が、決断する自分が、そこにいるのです。

(伊藤一滴)

「聖書に書いてあるから」というクリスチャン

ワイン氏の「metanoiaxの日記」から引用します

引用開始

2017-04-23
「聖書に書いてあるから」というクリスチャン


「どうして❓」
・・・と、聞くと、
「聖書に書いてあるから」と、くる。


全然、説得力が無い。


せめて、
「私が勉強した範囲の聖書知識において、それが今の自分は納得がいって、正しいと思うから」

・・・・と、いって貰えないだろうかと思う。
贅沢なお願いだろうか❓
面倒でも、せめてそう言って貰えれば、会話をつなげる事が出来る。


「どういう風に❓どういう理由でその翻訳に納得いってるの❓」と・・・。

聖書といっても、色々な翻訳がある。
メジャーなものから、個人訳迄、沢山ある。
訳によっては正反対の意味になったりする。

貴方が何故、その聖書の翻訳に納得がいったのか、そこから聞かせて貰わなければ納得なんて出来る筈もない。

ましてや、貴方が、貴方の持っている聖書しか読んでいないのであったなら、「聖書に書いてあるから」は、何の意味も持たない。

「こちらの聖書には、こう書いてあるけれど・・」
という会話さえ出来ない。


定本と呼ばれる原典も、写本学者の研究により更新が続き、改定されるなら、「今」わかっている研究においての翻訳において・・・という条件付きの納得しか出来ないのは、誰が考えたってわかる。


今、現在の翻訳に納得していても、10年後、100年後には、写本学者の研究によって、全く正反対の、又は違う意味の訳になっているかも知れないのである。


ユニコーンが良い例である。(引用者注:聖書の中でかつて「一角獣」と訳され箇所が現在は「野牛」と訳されている。)

切り捨て御免の如く、「聖書に書いてあるから」
と、言われたって、私には、「私、考えるの面倒だから、そういう事でいいでしょう」

・・・・・と、言っているようにしか聞こえない。


だって、話の接穂がないんですもの・・・

「聖書に書いてあるから」という言葉は、聖書に対して、とても不誠実な向き合い方だと私は思う。

「聖書」は、水戸黄門の印籠じゃない。

引用終了

出典:http://metanoiax.hatenablog.com/entry/2017/04/23/021812


この「metanoiaxの日記」のように、気づいておられる方は、ちゃんと気づいておられます。そういう人は、「聖書に書いてあるから~です」とか「聖書的には~です」なんて、簡単には言いません。ある聖書の訳の一部から安易に断定したりできないことを知っているからです。
「聖書に書いてあるから~」なんて言ったら、それこそ「聖書にはユニコーンが出てきますから、昔は本当にいたのです。今いないのは、ノアの箱舟の洪水のときに全滅したからでしょう」みたいな話になってゆくんです。

「聖書は聖霊の働きによって正しく読めます」なんて簡単に言わないでくださいよ。そんなことを言ったら、それこそ、学者たちの血のにじむような本文(ほんもん)校訂の歴史が、意味を失ってしまいます。(保守的な福音派の訳だって学者の最新の校訂本を使っているのです。)
「聖霊の働きによって正しく読める」人たちは、その「聖霊の働き」で、聖書写本の万単位の食い違いの正誤を判定し、正しく読めばよろしい。(私は若い頃、聖書写本によって百箇所くらいは違うのだろうかと何となく思っていたのですが、食い違いは万単位でした。)

キリスト教原理主義者、あるいはカルトのような人たちが、ネットに盛んに書き込みをしていて、その、あまりにも排他的で攻撃的な言葉の数々に嫌な気持ちになることがありますが、「metanoiaxの日記」は、そんなときの私の清涼剤のようです。

「metanoiaxの日記」の執筆者はワインさんという方で、葡萄の美酒のようにきらめく言葉の数々を残し、ネットから去って行かれました。健康上の理由でしょうか、ずっと書き込みがありません。ワインさん、どうしておられるのか。可能であれば復帰していただいて、また、あの心に響く言葉を聞かせていただきたいものです。あなた様の言葉の数々は、私にとって、慰めであり励みです。

metanoiaxとは何かの説明がなくて(私が探せないのかもしれませんが)、メタノイアクスという造語かと思いました。でも、もしかすると、metanoia x なのでしょうか。だとすると、「回心・エックス」です。

十分に回心(悔い改め)をしていると思える人が回心しようとし、回心が必要な人がそのことに気づいていないように思えます。
それがキリスト教界なのでしょうか?


私は「metanoiaxの日記」の大ファンです。
敬愛するワインさん、是非また、あなた様の言葉を聞かせていただきたいのです。

(伊藤一滴)

創作 あるクリスチャンの告白2

実は私も、保守的な「福音派」のクリスチャンホームの出身なんです。

福音派と名乗る教会は、いろいろですね。教会によってはおだやかで善良な人たちも多くて、そうした人たちとは今もおつき合いがありますが、私の一家が所属していたのはとても排他的な教会でした。今思えば、それは、社会に対して閉ざされた独自の世界で、他派のキリスト教にも閉ざされた世界でした。

私が高校生のときでした。クラスの仲間の一人が交通事故で亡くなりました。雨の夜、オートバイでカーブを曲がり切れずにガードレールに突っ込んだのです。
牧師先生にお話しし、お祈りしたいと言ったら、
「すでに死んだ未信者のために祈っても無意味です。生きているうちにイエス様を信じなければ救われないのです。それに、正しい聖書信仰に立てば、死者のための祈りは否定されます」
と言われました。
後日、高校の友人たちと事故現場に行って花を添えながら、私は「正しい聖書信仰」の冷たさを思いました。クリスチャンでなければ救われないと言われ、切り捨てられるんですね。
信徒会長さんにその話をしたら、
「人間的な弱さに負けてはいけません。聖書的な価値観に立つべきです。あなたは花を供えに行ったそうですね。偶像崇拝の疑いがあります。よくないことです」
と言われました。
亡くなった人を悼むことが人間的な弱さだと言われ、花を添えれば偶像崇拝の疑いがあると言われるのが「聖書的な価値観」なんです

私の妹には知的障害があります。自分で聖書を読むことはできませんし、キリスト教の教義を説明してもほとんど理解できません。いくつになっても知能は2歳児くらいです。うちの親が、妹へのバプテスマ(洗礼)を教会にお願いしたら、牧師先生から、
「自分で信仰を告白できない人にバプテスマを授けることはできません」
と言われ、断られました。
障害のある妹のことで地域の民生児童委員さんが家に寄ってくれました。お寺の家の奥さんで、仏教徒です。親身になって話を聞いてくださり、いろいろ教えてくださいました。いい人でした。妹も、この民生児童委員さんが好きで、お帰りになるときにずっと手を振っていました。教会でその話をしたら、
「仏教徒がどんなにいい人でも、その人は救われません。キリストを信じる信仰以外、他に救いはありません。仏教徒の福祉活動なんて、しょせん、罪びと同士の傷の舐め合いに過ぎないのです。この世の価値観に惑わされてはいけません。聖書の教えだけが正しいのです」
と言われ、叱られました。

大学に進んでから、リベラルな教会の牧師の息子さんと知り合いになりました。その教派名を聞いたとき、最初は警戒しました。「その教派はリベラル派だから、気をつけないといけない」と思ったのです。でも、その学生もとてもいい人で、いろいろ話をするうち仲良くなりました。私は彼に、高校生だったときに同級生が事故死したこと、妹に障害があること、お寺の奥さんのこと、自分の教会で言われたことも話しました。
彼は、
「他の教派を否定するわけではないけれど、もしよかったら、うちの教会に来てみない? 僕の父と会って、話をしてみたら」
と言いました。

かなり緊張してその教会に伺いました。その派は正しいキリスト教ではないと聞かされていたので、異教の寺院に行くような気分でした。私はけっこう身構えていたのですが、お父さんの牧師先生は優しい感じの人で、私の話をよく聞いてくださいました。亡くなった同級生の話や所属教会で言われた話をしたら、
「つらい思いをされたのですね。亡くなった方がどうなるのか、人は、誰も断定などできません。神様は愛なのですから、愛である神様にその方の魂をお委ねしましょう」
とおっしゃってくださいました。
私は、
「事故現場に花を添えに行ったのは偶像崇拝でしょうか」
とお聞きしました。牧師先生は、
「故人を悼むことや故人に敬意を表することは偶像崇拝ではありません」
と、はっきりおっしゃいました。
キリスト教の人からそんなふうに言われたのは初めてで、新鮮な驚きでした。さらに、
「妹さんのことですが、うちの教会なら、知的障害のある方にも洗礼を授けることができますよ」
とおっしゃるのです。
家に帰って、両親にその話をしました。別な教会に行ったことを叱られるかと思ったら、叱られませんでした。それどころか、私の話を聞いて、うちの両親もその教会に相談に行くようになりました。

それまで通っていた「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会」は、あれもだめ、これもだめと、律法に縛られたファリサイ派のようでした。「間もなく世の終わりが来るのですから、世にかかわっても意味がありません」みたいな感じで、社会の問題や政治の問題にもまるで無関心でした。それはまるで、この世の現実からも人の心からも離れた機械仕掛けの神様を信じているようでしたし、信者は人間らしい感情を殺して従うロボットのようでした。「神は愛です」と言われても、ちっとも愛を感じません。信仰の喜びもありません。人間らしい感情を示そうとすれば、「それは聖書的ではありません」とか「世の誘惑に負けてはいけません」とか言われ、叱られたのです。
私は思いました。あの機械仕掛けのような神様は、人間が聖書の言葉をつないで頭の中で作り出した「神様」ではなかったのかと。そう思ったとき、今まで教えられてきた「正しい教会」と「正しくない教会」が、実は、逆だったのではないかと思えてきたのです。
パウロの回心ではありませんが、私は、目からウロコが落ちるような思いでした。

なぜ人は、頭の中で「神様」を作り出し、本気で信じ、維持してしまうのでしょう? 信じ込んでしまった人は、それを正しい聖書信仰だと思い、すべてがその価値観となり、その色眼鏡を通してしか物を見ることができなくなってしまうのです。「人はみな罪びとです」、「信じない者は罪に定められます」、「罪から来る報酬は死です」、「死後さばきにあいます」等々、いつも頭に浮かんできて、やたら自分を責めたり、他者を責めたりしながら、自分たちなりの正しさで人を支配しようとするのです。「聖書にこう書いてあります」と、何の悪意もなく、自分たちの読み方を絶対視して、それが正しい聖書理解で、自分は正しい教えに従っているのだと信じて・・・・。

私たちは、一家で教会を替えました。
そして妹は、移籍した教会で洗礼を授けてもらいました。
洗礼式のあとに信者さんたちと教会の前で記念写真を撮りました。
妹もにこにこ笑っています。

私たち一家は、やっと人間の感情を取り戻し、やっと人間らしくなれました。

牧師先生の息子さんと親友になりました。
エキュメニズムの活動に参加するようになりました。
カトリック教会の人たちとも、お寺の人たちとも、仲良くおつき合いしています。
私たち一家は、イエス様の教えに従って生きる道を選びました。

良心に従って生きようとするすべての人たちに感謝します。

神様! ありがとうございます!

(伊藤一滴)


追記:今回も創作です。架空の、あるクリスチャンが語った話という形の創作です。
ただし、今回もみな、キリスト教の中に実際にある見解を書いています。

野原花子著『聖書はもういらない』に答えないクリスチャンたち

野原花子著『聖書はもういらない』に対するキリスト教の側からの答えを探しているのですが、インターネット上ではほとんど見つかりません。

牧師の富田正樹氏が、「気の毒としか言いようがないが、キリスト教会は警告の書として厳粛に受け止めなくてはいけない。」として、真剣に答えておられます。その全文は以下のとおりです(ぜひ、お読みください)。
https://ichurch.me/2021/2021/03/13/no-need-bible/

富田牧師のように見解を表明された方は例外的で、クリスチャンの側からはほぼ無反応というか、無視を決め込んでいるようです。

まさか、「当教会では誰一人この本の出版を知りませんでした。読んだ人は誰もいません」なんてことはないでしょうに。
朝日新聞の第一面に広告が掲載され、その後しばらく入手が困難になるくらい売れたのに。
キリスト教系メディアも完全にこの本を無視しているようです。
クリスチャンたちは、この本のことを話題にしたくないのか、ネットに見解を載せたりもしません(富田正樹牧師は例外)。

著者の、血を吐くような言葉に、まったく答えないというのは、つまり、答えられないということなのでしょう。野原氏の主張に反論できず、答えようがない、ということではないのですか。つまりそれは、自分たちの敗北を認めたということではないのですか。

そうでないと言うなら、世のクリスチャンたち、ぜひ答えてください。ネット上の書評でもツイッターでもいいんで。

私の意見、ですか?

以前から書いていることと、最近何度か書いている「創作」が、私の答えです。


さらに言えば、私は福音派を嫌っているのではありません。
福音派の牧師先生や信者さん方は私の恩人でもあります。
福音派の信仰は、たとえて言えば高性能スポーツカーのようなものです。並の人がついていけないくらい能力を発揮することもありますが、操作を誤れば大きく暴走し、その被害も大きいのです。暴走の危険はどの教派にもあるのでしょうが、聖書を文字通り信じようとする福音派は、特にその性質が顕著です。キリスト教における一部の原理主義化、カルト化は、福音派特有の現象であり、プロテスタント主流派(リベラル)やカトリックの教会では、まず見られません。

(伊藤一滴)