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「弱い虫」のことを考えていました

稲刈りが終わり、一休みです。

「弱い虫」のことを考えていました。(「鉄拳 パラパラ漫画 弱い虫」または「馬場俊英 弱い虫」で検索できます。)
4分半くらいで見られる動画です。

このパラパラ漫画の主人公は心が優しいものだから、いじめられたり、ひどい目にあったりして、しまいには冤罪で有罪判決を受けて連行されるという、あまりにも不条理な作品です。

ただ、家族は理解してくれたようですし、最後の場面で、主人公を連行する刑務官が泣いているように見えるのです。刑務官は冤罪に気づいていて、どうすることもできなくて、泣いていたのかもしれません。

わかる人にはわかる、と、いくらか救いを感じます。

人を押しのけた方が勝ち、黙らせた方が勝ち、力づくで抑えつけたほうが勝ち、そんな世の中になってきました。そうやって「勝った」側が出世したり政治家になったりして、多数がそっちについて行くのはおかしいです。
たとえその時は得をするように思えても、おかしいことはおかしい。

そんなことを考えていました。

(一滴)

パラパラ漫画 弱い虫

次男から紹介され、鉄拳さんのパラパラ漫画「弱い虫」を見ました。
(「鉄拳 パラパラ漫画 弱い虫」で検索)

馬場俊英さんの歌に合わせて作られた作品です。
馬場さんは、宮沢賢治や坂本九や、いろんなものを意識して歌っています。

1992年ですからだいぶ前の作品ですが、芸能には疎いもので、最近次男に教えてもらうまで知りませんでした。

歌に合わせて進むこのパラパラ漫画を見て、考えました。


誰かを困らせてまで強くなる必要があるのかと、私も思います。
誰かを困らせ、苦しめて、強くなる、勝者になる、豊かになる。
それでいいんだろうか、そうやって勝ち進んだ側が幸せなんだろうかと思います。

しょせん人はみな虫のようなものかもしれません。
はるか上空から見たなら、虫と人の違いってどれほどでしょう。

高収入の人だって、誰かの下で働いて、やりたくないことをさせられたり、上から嫌なことを言われたりしているのかもしれません。
その人が組織のトップだって、トップでいることのさまざまなストレスがあるでしょうし、別の組織の人の顔色をうかがっているのかもしれません。
それこそ、独裁国家の最高権力者にでもならない限り上がいます。でも最高権力者だって、謀反を恐れ、他の国を気にして、びくびくしているのかもしれません。

しょせん人は弱い虫程度の者で、それでいいのではないかと思いました。

幸せって、何でしょう。強くなることでしょうか。競い合い、戦い続け、勝ち続けることでしょうか。

何が幸せだと、人は思うのでしょう。
そして、何のために生きるのでしょう。

山里で質素に生きる私は、十分に幸せです。
さて、明日からは稲刈りです。

(一滴)

脆弱な現代社会

千葉県内の停電が長引いて、深刻な事態になっているという報道を聞き、一刻も早い完全復旧を祈りながらも、これは起こるべくして起こった事態だと思いました。

ひとつは、日本全体が、あまりにも電気に依存しているということです。

もし、これが50年前だったら、たとえ電気が止まっても水道もガスコンロも使えたでしょう。電話も、電話線が切れていなければ停電のときも使えました。トイレも汲み取りが多かったし、水洗トイレでも電化されていなかったから、停電していても流せました。

80年前だったらどうでしょう。台風の被害はあっても、停電の被害は少なかったと思います。人々は、台風被害の片づけをしながら、いつものように井戸の水を汲み、かまどに火を焚いて調理し、お風呂も火を焚いて沸かし、普段とそれほど変わらない暮らしをしていたのではないかと思います。「今日も電気(照明器具)がつかないから、早く寝よう」なんて言いながら。

一般に、リスクヘッジと言われ、予期される危険は分散すべきなのですが、日本は、分散ではなく、あれもこれも電気の使用に集中させてきました。

今は、台所も火を使わない電化、水道も電気でくみ上げ、トイレの水も電気で流す。あれも電気、これも電気。電気が止まればみな止まる。

まるで、ガラス細工の機械の上に築かれた高度な文明のようです。
ガラスの歯車が一つ欠ければみな止まる。

もうひとつ、林業の衰退の問題です。
外国産の木材に押され、日本の林業は衰退してきました。
林業者は激減し、森林の保全が行き届かず、それも、倒木による電線切断の被害を大きくしたのでしょう。しかも、倒木を撤去してくれるプロの林業者が少ないのです。
自衛隊も出て懸命に作業をしているようですが、自衛隊員はプロの林業家ではありません。怪我人がでないといいのですが。

(一滴)

明日のことを思いわずらうなと言われても

明日のことを思いわずらうなと言われても、思いわずらってしまうのが人間です。

未来に対する漠然とした不安もそうですが、現代を生きるための種々の所有もまた、思いわずらいの原因になっているのではないかと思います。(不安があるから所有するのかもしれませんけれど。)

お金であれ、土地であれ、物品であれ、更新が必要な資格などもそうですが、それを持つから、把握し、管理し、維持しないといけなくなるのです。
所有が少なければ、所有に対する思いわずらいも少ないのに、所有が増えれば手間も増えて、思いわずらいも増えるのです。

たとえば、多くの衣服を持っていれば、それらをクリーニングし、収納し、季節ごとに出し入れする手間も増えます。どの服をどこにしまったのか把握した上で、防虫対策やカビ対策などの維持管理も必要です。収納場所も考えないといけないですしね。

「 6:28なぜ着物のことで心配するのですか。 」(新約聖書 新改訳 初版 「マタイの福音書」)

お金もそうです。私はあまり持ってませんが、多く持てば幸せだとは思いません。
多くを持てば多くの手間が必要です。複数の銀行に預けるとか、株を買うとか。
どこにどれくらい預けたか投資したかを把握し、管理し、セキュリティ対策を、と、手間も増えます。資産運用やいろいろな勧誘があったりして、対応しないといけないわずらいも増えるでしょうしね。お金を多く持つ人の暮らしは、どうも、大変そうです。相続の時に親族が対立したら嫌ですしね。

「6:19自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。 6:20自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 6:21あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(同)

私、小学生の頃から、こういうのを読んでいたんですよ。親に隠れて、こっそり。

何を宝だと思うかですね。
自分が宝だと思うものの方向に自分の心が向かってゆく。


生活を維持するために、ある程度の所有は必要でしょう。
それに、ただ食べるだけでなく、文化的な営みも必要ですしね。

でも、過度の所有は思いわずらいを増やしてしまう。

現代の暮らしをする上で、そのあたりのバランスをどうするのか、ですね。

所有から自由になって、思いわずらいのない暮らしがしたいです。
でも、ヤマギシ会みたいなのは、ちょっとね(高田かな『カルト村で生まれました。』他)。

福音書に記されたように、思いわずらいから解放され、自由に生きていけるなら、それが理想です。

(伊藤一滴)

つつましく生きていきたい 空の鳥のように

聖書を引用します。

「 6:26空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 6:27あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」(「新約聖書」新改訳 初版 マタイの福音書)

最初に読んだのは小学校3年生のときですが、小学3年でも、こうした言葉に心を打たれました。(引用は、最初に読んだ新改訳初版)

その数年後だと思いますが、テレビのロードショーで、映画「ブラザーサン シスタームーン」をやってたんで、見てました。
その中で、またこの言葉に出会いました。アシジのフランチェスコ(フランシスコ)はローマ教皇に謁見し、教皇の前でこの箇所を引用するのです。

当時小学生だった私が、あの映画をどれだけ理解できたんだか。でも、「一修道士のフランチェスコが教会のうんと偉い人に向かって説教するようなことを言っちゃった、ありゃ~、まずい」ってわかって見てたんだと思います。

いい映画でしたね。
見てたら父に叱られました。そんな、特定の宗教に偏った作品を見るのはよくないって。うちは宗教嫌いで、そういう家でした。
あの頃、家族に見つからないよう隠れて聖書を読んでいました。

この「空の鳥を見よ」は、有名な箇所ですね。文学作品やいろんな引用に出てきます。
だから、日本のようなクリスチャン人口が1%程度の国でも広く知られています。キリスト教文化圏の人なら、ほとんどみんな知っていることでしょう。
でもそのわりに、この精神の実践者は少ないようです。

多くの人が、明日のことを思いわずらいながら生きています。

修道者や僧侶といった人ならともかく、みんなが蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めもしなければ、社会が成り立たなくなってしまいます。誰かはそうした作業をしないといけません。祈りに専念できる人たちがいるのは、誰かが生産をしたり管理の事務をしたりして、社会を維持しているからです。

それはわかっていますし、自分も労働するのを否定したりしませんが、明日のことを思いわずらわない暮らしに憧れます。

空の鳥は、この地球上からささやかな食物を得て、自由に空を飛んでいます。必要以上に食べたりしません。他の国と争ったりもしません。

私もそんな風に、地上からささやかな恵みの糧を得て、平和に、つつましく暮らしていきたいと思いました。

そもそも、人はなぜ競い合わないといけないのか。
なぜ、どんどん開発を進め、どこまでも発展を目ざさないといけないのか。
それが過度になっても、止まりません。

そうやって人類全体が幸せに向かっているのならともかく、多くの人は余裕がなくて、疲れて、それでもゴールのないマラソンのようなことをしています。

つつましく生きていきたい。

もし、イエスが「天の父」と呼んだ神様が本当におられるならば、鳥のようにつつましく生きても、神様は人を養ってくださるのでしょう。

自然の恵みの中で、労働と、読書と、思索と、沈黙と、祈りと、対話と・・・・。
余分なものをそぎ落としていけば、人の必要は、そう多くないのかもしれません。

アーミッシュのような質素な暮らしが私の憧れです。
つつましく生きていきたい。本気でそう思います。

(伊藤一滴)