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フィリピンのハンセン病患者施設で出された菓子の前で思ったこと

1989年にキリスト教団体の旅に同行してフィリピンに行ったとき、ハンセン病患者の施設を見学しました。マザー・テレサが設立した修道会がフィリピンで運営している施設でした。

見学後、施設の職員さん(シスター)から、お茶でもどうぞと応接室のような部屋に案内され、お茶やお菓子を出してもらいました。修道会の施設ですから、裕福でないことは知っていました。日本から来た私が、ここで菓子を食べれば、食べた分だけ患者や職員の分を減らしてしまうのではないかと思いました。日本の感覚だとたかが菓子一つですが、スラムやゴミの山で暮らす人たちにも会った私は、フィリピンの人たちの菓子を一つ減らすのをためらったのです。でも食べないと、ハンセン病の施設だから食べないのかと思われそうで、そんなふうに思われたら嫌で、迷ったんです。

で、私は、菓子を取って食べました。

それが私の気持ちでしたから。

そこで茶を飲み、菓子を食べる。それが私の気持ちでしたから。

(伊藤一滴)

ハンセン病への「空気」と「牧人権力」 武田徹『「隔離」という病い』に思う

武田徹『「隔離」という病い』は、考えさせられる一冊です。

途中から神谷美恵子のことも出てくるのですけれど・・・・。

なにより私は、近年話題の、「空気」(その場の雰囲気や時代の風潮)だの「空気を読む」だのに不気味なものを感じます。著者の武田氏が空気という言葉を使っているわけではないけれど、それって、つまり空気だな、と私は思います。

かつて、ハンセン病は危険な病気だから患者を隔離すべきだという、医学的な客観性を欠いた空気があり、その空気を煽り、強制隔離を推進した人たちがいて、患者は著しく人権を蹂躙されました。やがて空気の風向きが変わり、伝染病患者を隔離すること自体が間違った考えであり危険な考えだという空気が広がり、今は、過去の隔離政策に協力した人や反対しなかった人を非難しないといけないような空気です。

空気の流れを作り出す人もいれば、それに乗るマスコミも大衆もいます。

客観的な検討より、空気が力を持つ世の中って、何でしょう? 不気味です。

かつて、それが善だと信じて、今日の人権感覚からすればかなり問題のあることをした人もいました。でもその人はその時代の空気の中で生きた人です。

もともと善意から出発し、その後も悪意などみじんもなかったであろう光田健輔(みつだ・けんすけ)にしても神谷美恵子にしても、かつての空気の中で世間から称賛され、その後の空気の中で非難されているように思えます。

武田氏によれば、フーコーが論じた牧人権力(注)が光田健輔らに当てはまるのだそうです。フーコーの著作を多数翻訳した博識の神谷美恵子まで、まさにそのフーコーが指摘した牧人権力の側に加わっていたとしたら、何とも皮肉な話です。

敬愛する神谷美恵子先生を悪く言いたくないのですが、もう少し考えたいです。(未完)

(伊藤一滴)

注:牧人権力(まきびとけんりょく):羊の群の牧人がそれぞれの羊に心を配るように、各個人を内面からとらえて常に監視するような権力のあり方を言う。このあり方は、キリスト教会における罪の告白を原型として近代国家に継承されたという。

補足:フーコーは、牧人権力を、国家が臣民を支配する権力のありかたの一つとみるのですが、国家と臣民のみならず、医者と患者、教師と生徒、もちろん牧師と信徒にも当てはまる場合があるようです。自分を牧人と思う側は、かよわい羊たちに手を差し伸べ、それぞれの羊に心を配るのです。もちろん悪意などありません。導こうとする側は善意で、こうあるべきだと決めて、それに少しでも反する者には厳しいのです。

光田健輔は冷徹な「隔離の鬼」でしたが、ただの弾圧者ではなく、勤務する施設の患者全員の名を覚え、心を配る人でもあったそうです。相反するような氏の両面について、彼は牧人権力をふるった人であったと考えると説明がつきそうですが・・・・。

上記の話を妻にしたら、こう言うのです。

「神谷美恵子さんはともかく、光田派のみんながそんなにキリスト教の影響を受けていたのかなあ? それって、キリスト教の影響っていうより家父長制みたいなものじゃないの。子どもは黙って父親の言うことをききなさい、子どものことは父親が一番わかっているんだ、父親の言うことをきいていれば間違いないんだ、みたいな。患者は黙って医者の言うことをききなさいっていう時代だったんじゃないの」

キリスト教の影響の有無にかかわらず、牧人権力のような権力があるなら、キリスト教会における罪の告白が原型とも言い切れなくなります。違う文化圏で、互いの影響がなく、似た考えになってゆくことがあるのです。封建社会という社会のあり方が似ているのだから、そこで成立した考え方も似てくるのだ、と考えることもできるでしょう。

 

「続・沈黙」 吉次郎との対話 その2

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/05/post-4b3d.html

神父様、神父様。吉次郎です。こんな夜中にすみません。

吉次郎さん、ですね。私はかまわないのですが、あなたは大丈夫ですか。幽閉されている私と、夜中にこっそり会っていたなんて人に知れたら、お咎めを受けてしまいますよ。

今夜も、番人にはお金を渡しておきました。黙認してくれるでしょう。神父様のことを役人に通報したときに銀三百枚の報酬を受け取ったのです。賭博や酒にだいぶ使ってしまいましたが、なにせ三百枚ですから、まだ残っています。その一部を、わいろに使えば、役人たちは知らんぷりしてくれます。

銀三百枚、ですか。ユダがイエスを裏切ったときに受け取った報酬は銀三十枚でしたから、その十倍ですね。ははは、私にはずいぶん高い値がついたものです。

本当に申し訳ありませんでした。

いえ、あなたを責めるつもりはありません。外国人の司祭一人を差し出せば銀を三百枚も支払うくらい徳川幕府は切支丹の弾圧に躍起になっているのですよ。それに、密入国した私が貧しい切支丹農民にかくまわれて生活するには限界がありました。あなたが通報しなくとも、いずれ私の潜伏は発覚したことでしょう。

・・・・神父様。前回お会いしたとき、もっとお話ししたかったのですが、時間がせまっていてできませんでした。あのときの神父様のお言葉に納得できなかったから、今日、こうしてまた来たのです。今日はもう少しお話ししたいのですが、よろしいですか。

はい。

あのときの神父様のお話だと、神様は沈黙していたのではなく共に苦しんでおられた、ということになるのでしょうが、共に苦しまなくていいから天の軍勢を送ってほしかったのです。島原の信徒らが命を懸けて決起し、結果、幾万とも知れぬ人たちが死んでいっても、神様は何もしてくださらなかった。万軍の主と呼ばれる神が何もなさらないとはどういうことでしょう。信じる者たちの祈りに応えてくださらないとはどういうことでしょう。全能の神なら、千人隊どころか万人隊、百万人隊の神軍を送ることだって出来たろうに。百万人の援軍があれば、島原軍は圧勝し、圧勝どころか関東に攻め上って徳川様とその手下らをみな制圧し、日本全土を解放してキリスト教国を打ち建てることだって出来たろうに、どうして、そうしてくださらなかったのか、納得できないのです。多くの血が流されて島原は鎮圧され、全国で切支丹は固く禁じられ、それでも信じる者は弾圧され、このとおりです。納得できないのです。

吉次郎さん、神は、人類の個々の歴史に武力で介入したりなさらないのです。旧約の時代ならともかく、イエス・キリスト以降、神の働きの中心は、人の心に対するものなのです。私たちの主キリストが十字架につけられたときも、神は天の軍勢を送ったりしませんでした。もし、そんなことをしていたら、十字架の贖罪は成就されなかったことでしょう。最後には、愛である神が、導いてくださるのです。

愛、ですか。そんなことを言われても、まるで実感がわきません。

分かりやすく言えば、相手をねんごろに扱うこと、本当に大切にすること、それが愛です。神は愛であると、教えの中にはっきり書いてあります。

神様は私たちを本当に愛しておられるのでしょうか。ではいったい、この迫害は何ですか。神父様、今の日本のどこに愛があるのですか。切支丹禁制の日本は、まるで地獄です。

いいえ、地獄ではありません。地獄とは、愛も希望もない世界です。以前、私が何度も何度も読んで暗記したコリント前書の十三章に、パウロはこう書いています。「たといわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。これが新約に記されたパウロの言葉です。いいですか、吉次郎さん。信仰と希望と愛、この中で、いちばん大切なものは愛なのです。

ですから、神父様。いったい、今の日本のどこに愛があるというのですか。

愛がないと嘆くより、まず私たちが、愛の実践者になるべきです。私は踏絵を踏みました。私たちの最も大切なお方を踏みました。でもそれは、私にとって、本当につらい愛の実践だったのです。もし私が踏絵を踏まなければ、私の身代わりに拷問されている切支丹農民が虐殺されるところでした。それでも踏まなければ、次の人が拷問されて殺され、また次、また次と、いったい何人の犠牲者が出たかわかりません。フィリピンや中国やインド、あるいはヨーロッパの安全な場所にいる教会の指導者らは、私を裏切り者と責めるかもしれませんが、あの場にいなかった彼らに、私の思いがわかるものですか。私自身は、自分がどんな拷問を受けても屈しないで死ぬ覚悟でしたが、私の代わりに、ほかの人が死ぬまで拷問され続けるのは耐えられませんでした。私が踏絵に足をかけようとしたとき、「踏むがよい」と、踏絵のあの人が言ったのです。いや、「踏みなさい」と言ったのかもしれません。あの人は、「私はあなたがたに踏みつけられ、殺されるためにこの世に来たのです。あなたがたの苦しみをこの身に背負うために十字架にかかったのです」と言ったように感じたのです。目の前に十字架のキリストが見えました。私は、ここで踏むことが、みこころであると思い、踏絵に足を乗せたのです。

私はどうすればよいのですか。私のような、どうしようもない臆病者が、どうすれば、今のこの日本で、愛を実践できるのですか。

神はすべての人が救われることを望んでおられます。そのために出来ることがあるはずです。

神の救いについても、前回、納得できませんでした。あのときの神父様のお話だと、その人が切支丹であろうがなかろうが、良心に従って生きようとする人はみな救いのうちにある、ということになります。信仰がなくても救われるということになります。それでは十字架のあがないの意味は何ですか、いったい何のために信仰が必要なのですか、何のためにイエス様の教えが必要なのですか。何のために信者は弾圧され、苦しんで死んでいったり、売られたりしたのですか。まったく、納得できないのです。

私もうまく言えないのですが、救いのうちにある自分を知り確かな道を歩むために、信仰は必要だと思います。

信仰がなくても救われるのに、それでも信仰が必要なのですか。

自分が、神によって造られた者、神の愛の中に生きる者であるとわかれば、自分というものがわかってきます。人はいつも、決断の状況の中で生きているのですが、そのときの自分の置かれた状況のもとで、どう判断し、どう行動するのか、それが問われるのだと思います。

では苦難の意味は何ですか。人を向上させるための試練といった程度のものでなくて、前回、神父様がおっしゃっていたような、家族を殺され、自分も拷問されたり、殺されたり、売られたりするような、耐えがたい苦しみです。なぜそれほどの苦しみがこの世にあるのですか。しかも、心から神を信じる者が、なぜこれほど苦しむのですか。

私も幽閉中、苦難の意味についてずいぶん考えました。前回あなたとお会いしたときは、踏絵を踏んだ直後で、私も混乱していて、福音伝道の意味も、苦難の意味も、答えられないというか、やや、自暴自棄的なところがありました。幽閉され、時間はたっぷりありますから、あれから落ち着いて考えてみたのです。本来なら、苦難というものは、みんなで少しずつ負うはずの重荷なのに、ある人たちが集中して負ってしまっているのではないかと思えてきました。特定の地域、人種、民族、宗教、家系、性別、病気や障害の有無、思想信条等々で、人と人とが分断され、ある人たちに苦難が集中するのはおかしいのです。人はみな神によって造られた者、神のもとに平等であるはずなのに、ある人たちにばかり苦難が集中し、そうでない人は知らん顔というのは神の義に反します。私は、苦難の中にある人に接したら、自分はああならなくてよかったと思うのではなくて、あの人が私に代わって重荷を負った、と思いたいのです。私は、苦難の中にある小さき人の一人ひとりの中に、私たちの代わりに苦しみを負ったキリストを感じるのです。

神父様。まだわからないことがたくさんあって、もっともっとお聞きしたいのですが、もう夜明けがせまっています。また来ます。どうか、お元気でいてください。

あなたこそ。

(伊藤一滴)

なぜ、ふんどしが人気なのか

 

今年も暑くなってきたので、またふんどしの話です。

私も愛用していますが、なぜ、ふんどしが人気なのかというと、

晒(さらし)や木綿の手ぬぐいで簡単に作ることができる。ゴムによる締めつけがなく着用に違和感がない。動きやすい。西洋式の下着に比べて蒸れにくく高温多湿の日本の夏も快適。

また、締めつけや蒸れから解放されることで健康効果もあるようで、ネット上でも、冷えやむくみが解消されたとか、生理不順が改善したとか、いろいろな証言も多数あります。

代表的なのは「越中ふんどし」と「もっこふんどし」ですが、形状に男女差はありません。江戸時代、もともとは男性用の下着でしたが、そのままの形で女性も使えるので、今日、男女を問わず用いられます。「六尺ふんどし」も男女兼用ですが、これはお祭り用(昔は水泳用)のようで、普段使うと用便が不便です。試したら、トイレで外してそのあと締めるのがとにかく大変でした。「黒猫」ふんどしもありますが、これはは男性用です。私は使ったことがありませんが、「黒猫」は男性のその部分を押さえるふんどしなので、その部分を持つ人(つまり男性)用です。これも昔、水泳用に使われたと聞いています。まさか女性用の「黒猫」なんてないだろうと思って念のため検索したら、何と、女黒猫という名称で販売されていました。世にはそういう商品もあるんですね。うーん、私の知らない世界でした。(※)

ネットで見ると、ふんどしとパンツの中間のような下着もありますが、そうした折衷型の下着をふんどしと呼んでいいのか、私は、ちょっと疑問です。

ふんどしは下着ですが、「越中ふんどし」や「もっこふんどし」は別に性を強調するものではありません。(※※)

一般には、おすすめは「越中ふんどし」と「もっこふんどし」です。男女兼用です。簡単に自作できます。「ふんどし 作り方」で検索すると、いろいろ載っています。下着は男女をはっきり分けるのが当然と思っている人もいるようで、女性用とか男性用とか書いてあるのもありますが、伝統的な「越中ふんどし」と「もっこふんどし」に関しては、形状に男女差はありません。「越中ふんどし」は、病院で使うT字帯みたいな形のもので基本はフリーサイスです。色や柄、素材の質感などは好みの問題でしょう。

普段は「越中ふんどし」がおすすめで、農作業や運動などで特に体を動かすときには「もっこふんどし」がおすすめですが、好みもあるでしょうし、厳密な使い分けはありません。トイレは、「越中ふんどし」の方が楽です。洋式に腰掛ける、または和式にしゃがむときは、前垂れを抜いて腹に乗せるか背中にまわして肩にかけるかすれば、ヒモをほどく必要もありません。前垂れを水洗トイレの水の中に落としてしまったという人もいますが、上記のように外し、使用後は、洋式ならトイレにフタをしてからふんどしをしめなおせばいいわけで、和式でも、前垂れを肩にかけるか手に持つかして、立ち上がってから戻せばそんなことにはならないと思います。男性の小用のときはふんどしのわきから出せばいいので、立ったままできます。

「もっこふんどし」はトイレで腰掛ける(またはしゃがむ)ときはヒモをほどき、終わったらまた結ばないといけないのですが、これを面倒と感じるかどうかです。男性の小用のときは「越中」同様に立ったままできます。

自作して試すのであれば、ネットや書籍に書いてある作り方を参考に、まず、作りやすい「越中ふんどし」がお勧めです。私は、市販の晒(さらし)で作っています。もちろん純綿です。前垂れは、私は1メートルくらいでちょうどですが、1メートルで長すぎると感じる人なら、あとから切って調整もできます。ヒモの幅は、1センチかそれ以下にしたほうが結びやすいし、結び目が大きくならず邪魔になりません。(参考「越中ふんどし 作り方」検索)

「越中ふんどし」を着用し、前垂れを折り返す位置がわかれば、それが自分のサイズですから、そのサイズの「もっこふんどし」を作れば自分用に最適です。「越中ふんどし」はフリーサイズですが、「もっこふんどし」は、自分に合うサイズで自作するのがいいと思います。この「もっこふんどし」は日本手ぬぐいで作ることもできます。手ぬぐいは、素敵な絵柄も多く、比較的安価で、よい材料です。「越中ふんどし」も手ぬぐいで作れますが、前垂れが少し短くなります。「もっこふんどしは少し小さめがよい」と言う人もいますが、どうでしょうか。せっかくの、開放感のあるふんどしですから、あえて小さめにすることはないと思います。別に小さめにしなくても動きやすいですし。幅は、晒や手ぬぐいの幅で使っています。標準的な大人の場合それでいいと思いますが、かなりスリムな人や子どもの場合だと、少し幅をつめてもいいかと思います。(参考「もっこふんどし 作り方」検索)

今年も暑い季節になりました。ふんどし生活は実に快適です。

(豪雨災害の被災地の方々に、心からお見舞い申し上げます。山形県村山地方は、同じ日本とは思えないような明るい夏の空です。申し訳ないような思いでいます。) 

(伊藤一滴)

※ふんどしセレクトショップTeRAYAが女性用の「黒猫」を製作することになったいきさつが以下に書いてあります。現在は女黒猫という名で販売されています。

https://ameblo.jp/kanokonb/entry-12075989749.html

(もともと「黒猫」は男性のものを押さえるふんどしなので、男性専用です。TeRAYAさんの女黒猫という製品はこれを模したものですが、女性用に作られています。さすがに「黒猫」は、男女で兼用出来そうにないですね。)

なお、TeRAYAさんのネット販売の商品はこちらにあります。女性用、男性用、子ども用、いろいろ載ってます。家族でふんどし、健康生活って、いいですね。

http://teraya-fundosi.com/

※※ただし、「六尺ふんどし」と「黒猫」は、性を強調しているように見えなくもないです。まあ、性も含めての人間ですけれど・・・・。

「辞めろ」「帰れ」の大合唱

東京都議選挙の自民党の歴史的大敗北は、なるべくしてなったというか、身から出たサビというか。自民党は、気づいたかな?

秋葉原での首相の街頭演説の光景をネットで見たら、「辞めろ」「帰れ」の大合唱がすごかった。首相は、自分が裸の王様であることに気づかないんだろうか?

首相や自民党への批判は新聞やネットに出尽くした感じがします。もう私が何か言う必要もないでしょう。

自らの驕りによって転落した者に、マスコミはもう忖度などしないでしょう。

「逆風」の中で、首相とその「お友達」が目を覚ますよう、自分たちのどこが悪かったのか気づくよう願っています。私は個人を憎んだり呪ったりしたくありません。ただ目を覚ますよう祈るだけです。人は憎まないようにしていますが、許してならないのは彼らのやり方です。反知性による知性の圧殺や立憲主義の否定は、絶対に許してはなりません。こうした勢力を、二度と台頭させてはならないのです。

「辞めろ」「帰れ」の声に対し、安倍首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と叫んだそうですが、「負けるわけにはいかない」という言葉は、あなたに代表される反知性主義・反立憲主義にお返ししましょう。

伊藤一滴