« 2009年4月 | メイン | 2009年6月 »

煉獄(れんごく)について

腰痛が続いています。あまり痛みが長く続くようならまた病院に行こうと思いますが、強い薬はいやだし、受診まで長時間待たされることを思うと、行くのがおっくうです。
工事現場に行くのは無理でもデスクワークならできるかと思ったのですが、書類や資料の持ち運びも楽じゃないし、なにより気持ちが集中できません。無理して田植えをしたのも悪かったみたいです。
仕方がないから、仕事を休み、腰を休めています。

休んでいる間、煉獄(れんごく)について考えていました。

私は、10代後半から20代はじめの多感な時期に、福祉や宗教やマルクス主義に触れました。賛成するかどうかはともかく、それらが自分のどこかに刻印されているようで、今でも時々頭に浮かんでくることがあります。

一般のプロテスタント教会は煉獄を認めません。これは煉獄の教義がカトリック教会の金もうけに悪用された歴史的事情によるものだと思います。

これは私の個人的な考えですが、煉獄をはじめ、死者のための祈りや旧約聖書の続編など、宗教改革で否定されたもの中には、神学的な理由というより、カトリック教会の堕落への抗議と今後の堕落防止を目的としたものがかなりあったのではないかと思われます。こんなことを言うとプロテスタントの人から叱られそうですが、あとから神学的な理屈をつけてつじつまを合わせたのではないか、と思うのです。

免罪符を買っておけば死後に苦しまずに済むというのは信仰の堕落ですが、こうした堕落を正そうとして、煉獄も、死者のための祈りも否定され、旧約聖書続編の「第二マカバイ記」に死者のための祈りが出てくるのでこれも否定されたのではないかと思います。「第二マカバイ記」だけを削除するわけにもいかず、「旧約聖書の聖典はヘブライ語で書かれたものだけ」と、あとから理屈をつけて旧約聖書続編をみな削除したのでしょう。今もカトリックとプロテスタントの旧約聖書の一部が違うのはこのためです。
これも私見ですが、死者のために祈るのは人間の自然な感情であり、この点に関してはカトリックの主張のほうに理があるように思えます。

煉獄は「死後の清めの場」と解されます。天国の一部という位置づけです。
「神の国(=天国)はここにある、あそこにあるというものではなく、実にあなたがたの内にある」という福音の言葉が示すように、この地上と天国とははっきり線引きされたものではなく、連続的なものとして解することができます。それは、浄土信仰における極楽浄土に似ています。
煉獄が天国の一部であるとすれば、この世と煉獄も連続的なものである、と言うこともできます。

私自身、若い時にはずいぶんむちゃをやりました。そのために、人を悲しませたり苦しませたり、さんざん迷惑をかけたりもして、若気の至りとはいえ、思い出すと本当に申し訳ない気持ちになります。
自分がやったことを申し訳なく思い、苦しくなる、そこに煉獄の予感のようなものを感じます。

煉獄は、刑罰や拷問の場ではありません。閻魔大王の法廷でもありません。清めの場です。人は清められ、天国の住人としてふさわしい全き者となる、そのような、天国の一部です。全き者となるのは、仏教で言う仏になるのと似ています。

煉獄は希望の場です。煉獄は存在するのか、しないのかに関しても、カトリックの主張のほうが人間の自然な感情に近いのではないか、理屈が通っているのではないか、と思えてきます。

余談ですが、煉獄は天国の一部、希望の場なのに、かなり誤解されています。識者とされる人の中にも、刑務所や閻魔大王の裁きと混同している人がいます。(伊藤)

腰痛をこらえて田植え

5月24日に田植えをしました。
その1週間前にギックリ腰をやってしまいまして、まだ痛みが残っていましたが、時期を逃すとせっかく育てた苗が劣化してしまう恐れがあり、病院で処方された貼り薬を腰に貼って、痛いのを我慢してやりました。
家族総出です。子どもたちに田植え機をおさえてもらい、妻と私で苗をセットしました。私は、腰に力が入らなくてエンジンを回せないので、妻にかけてもらいました。

田植え機のエンジンが動き出したらあとはもう夢中です。操作は私しかできないので、私が植えるしかないです。
腰痛を我慢しての田植えなので、不ぞろいは仕方ないし、田んぼの多少のデコボコも、もう、仕方ない。
植えなければ始まりませんから。

それにしても、ふだん何気なくやっていた動作がしんどいです。靴下をはくとか、トイレに行くとか、車に乗るとか、ふだん意識もしていなかったことがこんなにきついとは。

これも、経験です。(伊藤)

次の時代へ

産業文明は破綻に向かっていくだろうと、私は以前から申し上げておりますが、破綻は経済上のことだけではなくて、さまざまな分野で、それこそ総合的に進行しているように見えます。

でも、私はそれほど悲観しておりません。
何かが終わるというのは、次が始まるということです。
「おかしな時代になった」と言う人がたくさんいますが、違います。戦後の経済成長やバブルの日本が正しくて、その後おかしな時代になったのではなく、なるべくしてなったのです。現在の状況は、こうなる原因があってそのとおりになったのです。
私見では、産業文明が初めから持っていた矛盾が拡大し、制御が難しくなってきた、ということだと思います。

かつて多くの人は、産業文明の先にバラ色の未来を描いていました。マルクスも、ケインズさえも、条件が整えば、機械化が進むことで労働時間が短縮されると考えていました(驚き!)。でも現実は、現代の状況を見ればわかるとおり、まるで逆です。機械化が進めば進むほど、働く人は忙しくなり、余裕を失いました。
博識の経済学者たちでさえ、機械化でますます忙しくなると予測することができなかったのです。
機械化の延長線上で電子化です。パソコン、ケータイ、各種の電子制御化で「いっそう便利」になり、人はいっそう忙しくなりました。仕事は電子的な管理下に組み込まれ、つまらない仕事が多くなりました。道具や機械を使いこなす技術や、技術の伝承もいりません。電子制御ですから。人間は電子機器の下僕です。それに、どうせ覚えたってすぐ新製品に替わってしまいます。
今後、これ以上の技術革新で「さらに便利」なものが普及することになったら、生身の人間のほうがもたなくなることでしょう。

最近、うちの子どもたちに、バージニア・リー・バートン作『ちいさいおうち』[石井桃子訳、岩波書店]を読んであげたのですが、第二次大戦中に書かれたこの絵本の産業文明批判の鋭さに驚きました。それも、厳しい口調ではなく、おだやかな言葉で、じんわりと、産業文明批判が伝わってきます。
この絵本、古い住宅の再生に関心のある人にも是非おすすめの1冊です。

産業文明の時代は終わりに向かい、やがて、次の時代が来るのでしょう。
人類が次の時代を迎えることが出来たなら、次の時代には、たぶん、20世紀から21世紀初頭の急速な産業化の愚かさが語られることでしょう。(伊藤)

パンデミック

新型インフルエンザ報道の大騒ぎの中で、テレビを見ていた小学5年生の息子がポツリと言いました。
「ねえ、パパ。香港型もソ連型も最初は新型インフルエンザだったんでしょ。なんでみんなこんなに騒ぐんだろう」
マスコミや日本政府の大騒ぎより、うちの息子のこの一言が、ことの本質を突いているようです。

豚インフルエンザの感染は自然現象です。
私が恐れるパンデミック(伝染病の大流行)は別です。
それは、遺伝子組換えによる病原体の創出で、こっちのほうがずっと恐ろしいと思います。
遺伝子組換えの実験をしている研究機関で、故意または偶然に、それまでこの世に存在しなかった遺伝子を持つ強力な病原体が創り出され、それが、故意または偶然に外部に流出し、爆発的に流行したらどうなるか。
この遺伝子組換えによる強力な病原体に対し、人類はまったく免疫抵抗を持ちません。伝染病は世界に広がり、
豚や鳥のインフルエンザや、ペスト、コレラ、チフスの比ではない恐るべきパンデミックとなることでしょう。

人類絶滅の脅威は核兵器だけではありません。
核兵器はもちろん、私は、遺伝子組換えにも反対です。(伊藤)

田畑の理想

私の畑(家庭菜園)は、不耕起、無農薬、原則は無施肥(作物によっては若干の有機肥料を使用)なので、自然農法に近いです。
稲作のほうも、究極の理想は自然農法ですが、今のところ、耕作し、低農薬でやってます。田んぼは借り物だし、畑と違ってよその田んぼに隣接していますから、よそに迷惑をかけられないという事情もあります。

先日、トラクターで田起こしをしました。浅めにしました。雑誌「現代農業」によると、浅く田起こしをする半不耕起というやり方もあるんだそうです。完全に不耕起栽培にしてしまうと、ふつうの田植え機が使えません。1反くらいなら手植えも可能でしょうが、今後田んぼを広げることを考えると、なかなか稲の不耕起栽培には踏み切れません。
福岡正信さんのもとで学んだ岩澤信夫さんという方が農機具メーカーに働きかけて不耕起栽培用の田植え機を実現していますが、特殊な機械で値段も非常に高く、今のところ、一般的ではありません。
理想は、同志を募り、機械など使わないで手作業でやることでしょう。
祈りもそうですが、理想も必要なものだと思います。たとえ、すぐに実現できなくとも(あるいは自分の一生のうちに実現できなくとも)、理想を持って生きるのとそうでないのとでは、生きる姿勢が違ってくると思います。

田起こしや代掻きを浅くすれば、半不耕起に近くなり、ふつうの田植え機が使えるし、カエルやミミズをあまり殺さずに済みます。まだ2年目で、あまり冒険できませんが、少しでも、いいと思うことを試みてみたいです。

生きていく以上、食べないわけにはいきません。何かを食べるというのは、食べ物(動植物)の命をいただくわけで、自分が直接殺さなくとも誰かが殺してくれています。一切生き物を殺すことと無縁に生きるというのは不可能です。それを承知の上で、できるだけ殺生は減らしたいです。

これまで、そして今も、人間は自分たちの都合でたくさんの命を奪ってきました。食べるためとか、有効に使うためならやむを得ないといえますが、今日も捨てられてゆく多くの食べ残し、浪費される生物由来の材料等、殺す必要があったのかと思えるものも少なくありません。私は、自然との調和の中で、可能な限り生き物を殺さない農業をやっていきたいです。(伊藤)

稲作、その後

タネモミを蒔いたあと、なかなか気温が上がらず、ちょっと心配でしたが、やっと温かくなってきました。
かわいらしい苗たちが出てきています。今、私の小指くらいの長さで、青々していて、葉の先に露の玉がきらきら光ってきれいです。

モミの消毒は、農薬を使わないで自分でやりました。
万一、消毒が不完全で病気が発生したらどうしようかと心配していたのですが、今のところ病気の兆候はないです。こうして、苗が元気に育つのはうれしいです。育児に似ています。

中古のトラクターを買いました。14馬力のかわいいトラクターです。1970年代の、骨董品みたいなヤンマーディーゼルですが、電子制御化以前の製品で、堅牢さには定評があります。
トラクターに乗るなんて、生まれて初めてです。完全なオープンカーだし、もちろんマニュアルミッション車です。アクセルワークはジープ等の自動車運転からの類推で、なんとかなりました。
こうした製品が格安で出回っているのは、マニュアル操作の出来る人が少なくなってきたから、というのもあるのでしょう。カメラや自動車もそうですが、農機具も、マニュアル操作が出来れば、旧名機を格安で入手して使えます。

さわやかな5月の山里をトラクターで走る、こんな日が来るなんて、夢のよう。
まずは田起こしから。これも近所の農家の方々に教えていただきながらやってます。(伊藤)