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食前の祈りは、いいことなんだろうか?(再掲)

今は、コロナ禍で控えていますが、聖書好きの私は、聖書についての話を聞きたくて、誘われるとキリスト教の集会に参加することがありました。遠くの集まりだと、教会やキリスト教団体の宿泊施設に泊めていただくこともありました。そんなときは、他の宿泊者の方々とお話ししながら一緒に楽しく食事をしました。

食事の前に、食前の祈りがありました。
感謝して食事をいただくのはいいことだと、私は素朴に思っていたのですが・・・・。

アーマン著『破綻した神 キリスト』を読みながら「食前の祈り」について考えました。

食事を神様に感謝するのは、果たしていいことなのか、と。


考えながら、頭に浮かんだのはルカ福音書の次の箇所です。

こうあります。

18:9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。18:10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。18:11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 18:13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください。』 18:14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(新共同訳)


もし、現代の人がこんなふうに祈ったら、どうでしょう。
「神様。私はこうしてあなたから食事を与えられています。感謝します。私はあなたから守られて生きています。感謝します。私が、途上国の貧民のような、飢える者、教育を受けられない者でないことを感謝します。紛争地域の住人でないことを感謝します。また、在留外国人のような、法的に国民として守られない者でないことを感謝します。病人でも障害者でもないことを感謝します。福島県民のように放射能の不安に怯えることもなく沖縄県民のように米軍基地の負担に苦しむこともないのを感謝します。私は仏教徒でもイスラム教徒でも無神論者でもなく、洗礼を受けたクリスチャンであることを感謝します。私は聖書を読み、日々お祈りし、毎週教会に通い、献金し、維持費を払い、教会の奉仕に参加し、月に一度は聖餐を受けています。だから、天国行きが保証されています。ありがとうございます。ハレルヤ!」

もちろん、こんな祈りは聞いたことがありませんし、まさか、こんな祈りを捧げるクリスチャンはいないでしょう。でも、食事は神からの恵みと考えて感謝し、自分たちが日々守られて生きていることに感謝するというのは、つきつめると、上記の祈りのようになるのではないでしょうか。

考え過ぎかもしれないし、あまりにも斜(はす)に構えた見方かもしれないと思いながらも、それでも私は考え込んでしまったのです。


「天のお父様、日々の食事をありがとうございます」って?
十分に食べられない人たちがいるんです。

「天のお父様、今日も守っていただきありがとうございます」って?
守られていない人たちがいるんです。

何の悪意もない人たちを責めるようなことは言いたくないのですが、何の悪意もなく感謝の祈りを捧げるクリスチャンたちは、この同じ時代の同じ地球上に、飢えている人たち、危険にさらされている人たちがいることを考えて祈っているのでしょうか。


「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言い切った宮沢賢治のほうが、よっぽど、真の宗教者だったのではないかと思えてきたのです。

(伊藤一滴)

2021-07-08掲載、そのまま再掲


2025.6.2 追記

紛争や弾圧や飢餓にあえぐ世界の人々のためにお祈りください。
特に、パレスチナのことを覚え、お祈りください。


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ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

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過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

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