« 2024年6月 | メイン | 2024年8月 »

ヘブル書における十字架の意味は「あがなうため」より「なだめるため」

以前、私は、ヘブル書には贖罪説が出てこないという意味のことを書きましたが、まったく出てこないわけではありません。私の勇み足でした。すみません。

ヘブル書は十字架の意味を「あがなうため」より「なだめるため」としている。と、訂正します。

ヘブル書では、十字架のあがないよりも、十字架によるなだめが前面に出てきます。


次の訳は不適切です。

2:17そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。(ヘブル人への手紙 口語訳)

2:17それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。(ヘブライ人への手紙 新共同訳)


ギリシャ語の、εἰς τὸ ἱλάσκεσθαι τὰς ἁμαρτίας τοῦ λαοῦ をどう訳すかです。

英訳も見てみましたが、欽定訳が「民の罪の和解のために」という意味に、RSVが「民の罪をあがなうために」という意味に訳していました。

この箇所のギリシャ語の文は、「なだめるため」とすべきでしょう。(田川建三訳参照)

口語訳やRSVのように「民の罪をあがなうために」としたのでは意味が違ってしまいます。意訳のしすぎです。

この箇所は、田川訳もそうですが、新改訳もみごとに訳しています。

2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(ヘブル人への手紙 新改訳)

この箇所の新改訳の訳文は実にみごとです。
「民の罪のために、なだめがなされるため」と正確に訳しています。
また、「みまえ」も原文にはなく、「神のことについて」ですから、新改訳が正確です。


「あがなうため」と「なだめるため」では、ずいぶん意味が違います。
ヘブル書の著者は旧約聖書のギリシャ語訳(七十人訳)をかなり読んでいたようで、旧約からの引用が多く、それもほとんど七十人訳からです。
著者は、旧約を念頭に、「イエスは自らを、神に対し、民の罪のための宥めの供え物とした」と考えたのでしょう。

原文から逸れて意訳された訳文を根拠に「ヘブル書も贖罪説を強調している」なんて言えません。

この箇所もそうですが、新改訳はときどき、はっとするくらい見事に訳しています。どうせ福音派の訳だろうと低く見る人もいますが、とんでもない。中には口語訳や新共同訳より遥かに優れていると思える訳文も見られます。
(逆に、口語訳、新共同訳が優れていると思える箇所もありますから、読み比べてみるといいと思います。)


(注)ヘブル書、ヘブル人への手紙、ヘブライ人への手紙、と、表記はいろいろですが、新約聖書の同じ文書です。どうでもいいんですけれど、「ヘブル人」は「ヘブルびと」と読み、「ヘブライ人」は「ヘブライじん」と読むのが慣わしです。こんなの、本当に、どうでもいいと思いますけど。
うちの息子が「この読み分けがきちんとできる人は、クリスチャンホームの出身か信仰歴の長い人だね」と言ってました。

(伊藤一滴)


グーグルをお使いの場合、次の検索で確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

創作 あるクリスチャンの説得(再掲)

人はみな罪びとだと教えられ、罪から来る報酬は死だと教えられ、そうした教えがいつも頭から離れず、苦しんだのですね。
さぞ苦しかったことでしょう。ずいぶん、おつらい思いをなさったのですね。

確かにキリスト教には、人はみな罪びとだという考えがあります。しかし、人がみなそうだということは、それは万人が持つ性質だとも言えるのです。

生まれつき万人に備わっている性質ゆえに地獄に行くというのは、はたして、筋の通った説明でしょうか。
アダムとエバの罪を受け継いでいるから人はみな罪びとだというのは、人間とはどういう者かを説明するための神学上の話です。あなたの先祖のネアンデルタール人の1人がやったことの責任が今のあなたにもありますか。そのためにあなたは死刑になるのですか。

いったい、誰が地獄に行けるのでしょう。地獄に行けるほど大きな罪を、誰が犯すことができるのでしょう。
私たちは、ちっぽけな人間に過ぎません。ちっぽけな、一般の庶民が、地獄に行けるほど大きな罪を犯す能力を持っているのでしょうか。
ゼロだとは言いませんが、地獄に行くほどの能力があり、その力をふるうことができる人なんて、ごく少数だと思います。少なくとも、あなたや私には当てはまらないでしょう。

「聖書にこう書いてあります」と言われ、脅されたのですね。大変でしたね。聖書は、古代人が、古代人の世界観で書いた書物です。矛盾する箇所もありますし、歴史的事実に反する箇所も多数あります。そのままでは現代に通じないのです。でも、だから意味のない書物だということにはなりません。神様は、古代人の表現や神話も使って、人に大切なことを示しておられるのかもしれません。

聖書にこう書いてあるといっても、解釈にはかなり幅があります。聖書の御言葉を引用し、まったく、正反対の主張だってできるのです。
有名なのは奴隷制です。かつてアメリカ南部ではアフリカから連行された黒人奴隷が酷使されていましたが、奴隷使用者のほとんどは白人のクリスチャンでした。聖書は、読みようで、奴隷制を肯定しているとも読めるんです。奴隷を使っていた人たちもクリスチャンでしたが、奴隷制に反対して奴隷解放を主張した人たちもクリスチャンでした。聖書の御言葉を使い、奴隷制を肯定することも、非難することもできるのです。戦争もそうです。聖書の御言葉を使い、戦争を肯定することも、非難することもできるのです。

旧約の律法は今も有効なのか、
豚肉を食べることの是非は、
真の安息日は土曜か日曜か、
死刑は認められるのか、
女性は教会で発言していいのか、
女性は牧師になれるのか、
幼児洗礼は有効な洗礼なのか、
教会は同性愛者にどう接すべきか・・・・。

聖書を引用して正反対の主張ができる例は、いくらでも挙げられます。

また、かつて当然のように言われた聖書の解釈が、ある人々を苦しめてきた例もあります。
よく知られているとおり、旧約聖書には、神は人を「男と女に創造された」とあります。ここから、人は男か女かどちらかだとされ、男でなければ女、女でなければ男と、当然のように考えられてきました。性同一性障害などの障害を持つ人たちは、クリスチャンたちから奇異な目で見られ、苦しんだのです。性同一性障害の人が教会に相談したら「汚らわしいと言われた」という証言もあります。かつての神学校では、性的少数者にどう対応すべきかの教育がまったくなかったのでしょう。
また、長い間、聖書は同性愛を厳禁していると解釈されてきました。今もそう考えている人も少なくありません。1980年代に私がこの耳で聞いた話ですが、比較的リベラルな教会の人さえ「同性愛は病気ですから、治療を受けて治すべきです」と言っていました。また、ある「福音派」の牧師は、「同性愛は大罪です。同性愛を改めなければ地獄に行きます」と言っていました。生まれつきの性的指向ゆえに責められるのは、生まれつきの盲人が責められるような話です。

さすがに今は、多くの教会が性的少数者の苦しみに寄り添う姿勢を示してはいますが、中には、過去の差別と同じような差別を繰り返しているクリスチャンもいます。

聖書を解釈するのは人間です。
聖書にこう書いてあるからこうだというのは、その教派や、その教会や、その牧師の、その時代の主張に過ぎません。別の教派の教会に行けば、別の牧師から、かなり違う説明を聞くでしょう。まったく正反対の話を聞くかもしれません。ある程度学んだ人なら「聖書的にはこうです」なんて、簡単に断定しません。

聖書が描く死後の世界や終末論も、実は、よくわかりません。
旧約の人たちは死後の世界についてあまり語っていません。旧約だけを読めば、死後の世界は存在しないと考えることもできます。
新約も、死後や終末については、読みようによってどうにでも読めるような表現です。さまざまな解釈が成り立つ新約の御言葉を、ある特定の解釈で、人は死んだらこうなるとか、世の終わりはこうだとか断言し、審きの恐怖で人を脅すことが、はたして、正しい聖書信仰なのでしょうか。そして、日々、恐怖におびえて生きることが、クリスチャンにふさわしい人生なのでしょうか。

福音を信じてイエス様に従うというのは、喜びではないのですか。
よくわからない死後や終末の記述をこうだと断定し、おびえて生きるべきではありません。イエス様のメッセージに従いこの世の人生を誠実に生きることのほうが、ずっと大切です。

イエス様は、権力を持つ人たちに厳しい非難の言葉を向けておられます。しかし、一般の庶民に恐怖を与えて脅す箇所など一箇所もありません。イエス様の非難は、人を脅す牧師や教会のリーダーたちにこそ向けられるのではありませんか。

「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。(マタイ7:21)」というイエス様の御言葉はよく御存知でしょう。イエス様に向かって、「主よ、主よ」と言う者は、つまり、クリスチャンたちです。天の国に入るのは「父のみこころを行なう者」で、キリスト教の信者とは書いてありません。仏教徒、イスラム教徒、無神論者らが、「父のみこころを行なう者」として天の国に入るとき、イエス様に従わなかったクリスチャンたちは、イエス様から、「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け」(同7:23)と言われるのかもしれません。

ドイツの神学者カール・ラーナーの論文にもありますが、持って生まれた人間の良心に従って生きようとする人たちは、たとえその人が自分はキリスト教徒であるという自覚を持っていなくとも「知られざるキリスト者」とでも言うべき真のクリスチャンであり、神の救いの内にある、と考えることもできるのです。(カール・ラーナー「知られざるキリスト者」『日常と超越』所収 「無名のキリスト者」とも訳される)
この、良心に従って生きようとする人たちの中に、他宗教の人や無神論者もいる、という考えなのです。

人は、神によって、神の似姿として創造されました。神の似姿ですから、生まれつき、神から与えられた良心を持っています。この良心に従っているのなら、その人は、神に従っていると言えるのです。その人は無意識に「父のみこころを行なう者」となっているのです。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます」(Ⅰテモテ2:4)と、聖書に書いてあります。神様が、全く可能性のないことをお望みになるはずはありません。神様はすべての人の救いを望んでおられるのですから、すべての人に救いのチャンスがあると考えるべきでしょう。その人が他宗教の信者でも、無神論者でも、あるいは、陰府に下った霊であっても。

私のことを万人救済論者だと言う人がいますが、違います。私は万人救済とは言っていません。
聖書の御言葉で人を脅し、支配し、コントロールするような人たちは、はたして、救いの中にいるのでしょうか。聖書を熟読しながらイエス様のメッセージに学ばないどころか、逆方向に進む人たちに、救いがあるのでしょうか。

あなたは、聖書66巻は神の御言葉だと教えられたでしょう。
仮に、聖書に書いてあることはすべて正しく、無誤無謬だとしますよ。
仮にそうだとしても、人間は無誤無謬ではありません。神様は全能であっても、人間は全能ではありませんから、神様の言葉を完全に理解する能力などないのです。私たち不完全な人間に、それはできないのです。
ということは、人間の聖書理解には常に誤謬がつきまとうと言えます。もちろん私自身も人間ですから、私の聖書理解だって、思い違いもあるかもしれません。ただ、福音書に記されたイエス様のメッセージが示している方向に向かおうとするなら、そう大きく外れはしないのではないかと思います。

いったい誰が、その聖書解釈は正しいと証明したり断定したりできますか。
もう一度言いますよ。人間の聖書理解には、常に誤謬がつきまとうのです。
誤謬かもしれないある種の聖書解釈に日々おびえ、そのおびえの中で一生を過ごすのが健全な信仰生活なのですか。

人はみな罪びとだといっても、それも含めて人間です。神様は、そういう限界を持つ私たちの限界を知りながら受け入れてくださるのです。

もう、おびえることはありません。
特定の教派の特定の聖書解釈を乗り越えましょう。

あなたのために祈ります。
全能の神があなたを強め、導いてくださいますように。
私たちの主、イエス・キリストの御名によって。
アーメン。

(伊藤一滴)

追記:前回もそうですが、これも創作です。「これは異端の信仰だ」なんて言うのは、なしですよ。架空の、あるクリスチャンが語った話という形の創作ですから。
ただし、私がこれまで直接聞いた話や読んだ話などをもとにしています。そして、上記はみな、キリスト教の中に実際にある見解です。創作と言っても、私が頭の中ででっち上げた話ではありません。

(伊藤一滴)


グーグルをお使いの場合、次の検索で確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

創作 あるクリスチャンの告白2(再掲)

実は私も、保守的な「福音派」のクリスチャンホームの出身なんです。

福音派と名乗る教会は、いろいろですね。教会によってはおだやかで善良な人たちも多くて、そうした人たちとは今もおつき合いがありますが、私の一家が所属していたのはとても排他的な教会でした。今思えば、それは、社会に対して閉ざされた独自の世界で、他派のキリスト教にも閉ざされた世界でした。

私が高校生のときでした。クラスの仲間の一人が交通事故で亡くなりました。雨の夜、オートバイでカーブを曲がり切れずにガードレールに突っ込んだのです。
牧師先生にお話しし、お祈りしたいと言ったら、
「すでに死んだ未信者のために祈っても無意味です。生きているうちにイエス様を信じなければ救われないのです。それに、正しい聖書信仰に立てば、死者のための祈りは否定されます」
と言われました。
後日、高校の友人たちと事故現場に行って花を添えながら、私は「正しい聖書信仰」の冷たさを思いました。クリスチャンでなければ救われないと言われ、切り捨てられるんですね。
信徒会長さんにその話をしたら、
「人間的な弱さに負けてはいけません。聖書的な価値観に立つべきです。あなたは花を供えに行ったそうですね。偶像崇拝の疑いがあります。よくないことです」
と言われました。
亡くなった人を悼むことが人間的な弱さだと言われ、花を添えれば偶像崇拝の疑いがあると言われるのが「聖書的な価値観」なんですね

私の妹には知的障害があります。自分で聖書を読むことはできませんし、キリスト教の教義を説明してもほとんど理解できません。いくつになっても知能は2歳児くらいです。うちの親が、妹へのバプテスマ(洗礼)を教会にお願いしたら、牧師先生から、
「自分で信仰を告白できない人にバプテスマを授けることはできません」
と言われ、断られました。
障害のある妹のことで地域の民生児童委員さんが家に寄ってくれました。お寺の家の奥さんで、仏教徒です。親身になって話を聞いてくださり、いろいろ教えてくださいました。いい人でした。妹も、この民生児童委員さんが好きで、お帰りになるときにずっと手を振っていました。教会でその話をしたら、
「仏教徒がどんなにいい人でも、その人は救われません。キリストを信じる信仰以外、他に救いはありません。仏教徒の福祉活動なんて、しょせん、罪びと同士の傷の舐め合いに過ぎないのです。この世の価値観に惑わされてはいけません。聖書の教えだけが正しいのです」
と言われ、叱られました。

大学に進んでから、リベラルな教会の牧師の息子さんと知り合いになりました。その教派名を聞いたとき、最初は警戒しました。「その教派はリベラル派だから、気をつけないといけない」と思ったのです。でも、その学生もとてもいい人で、いろいろ話をするうち仲良くなりました。私は彼に、高校生だったときに同級生が事故死したこと、妹に障害があること、お寺の奥さんのこと、自分の教会で言われたことも話しました。
彼は、
「他の教派を否定するわけではないけれど、もしよかったら、うちの教会に来てみない? 僕の父と会って、話をしてみたら」
と言いました。

かなり緊張してその教会に伺いました。その派は正しいキリスト教ではないと聞かされていたので、異教の寺院に行くような気分でした。私はけっこう身構えていたのですが、お父さんの牧師先生は優しい感じの人で、私の話をよく聞いてくださいました。亡くなった同級生の話や所属教会で言われた話をしたら、
「つらい思いをされたのですね。亡くなった方がどうなるのか、人は、誰も断定などできません。神様は愛なのですから、愛である神様にその方の魂をお委ねしましょう」
とおっしゃってくださいました。
私は、
「事故現場に花を添えに行ったのは偶像崇拝でしょうか」
とお聞きしました。牧師先生は、
「故人を悼むことや故人に敬意を表することは偶像崇拝ではありません」
と、はっきりおっしゃいました。
キリスト教の人からそんなふうに言われたのは初めてで、新鮮な驚きでした。さらに、
「妹さんのことですが、うちの教会なら、知的障害のある方にも洗礼を授けることができますよ」
とおっしゃるのです。
家に帰って、両親にその話をしました。別な教会に行ったことを叱られるかと思ったら、叱られませんでした。それどころか、私の話を聞いて、うちの両親もその教会に相談に行くようになりました。

それまで通っていた「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会」は、あれもだめ、これもだめと、律法に縛られたファリサイ派のようでした。「間もなく世の終わりが来るのですから、世にかかわっても意味がありません」みたいな感じで、社会の問題や政治の問題にもまるで無関心でした。それはまるで、この世の現実からも人の心からも離れた機械仕掛けの神様を信じているようでしたし、信者は人間らしい感情を殺して従うロボットのようでした。「神は愛です」と言われても、ちっとも愛を感じません。信仰の喜びもありません。人間らしい感情を示そうとすれば、「それは聖書的ではありません」とか「世の誘惑に負けてはいけません」とか言われ、叱られたのです。
私は思いました。あの機械仕掛けのような神様は、人間が聖書の言葉をつないで頭の中で作り出した「神様」ではなかったのかと。そう思ったとき、今まで教えられてきた「正しい教会」と「正しくない教会」が、実は、逆だったのではないかと思えてきたのです。
パウロの回心ではありませんが、私は、目からウロコが落ちるような思いでした。

なぜ人は、頭の中で「神様」を作り出し、本気で信じ、維持してしまうのでしょう? 信じ込んでしまった人は、それを正しい聖書信仰だと思い、すべてがその価値観となり、その色眼鏡を通してしか物を見ることができなくなってしまうのです。「人はみな罪びとです」、「信じない者は罪に定められます」、「罪から来る報酬は死です」、「死後さばきにあいます」等々、いつも頭に浮かんできて、やたら自分を責めたり、他者を責めたりしながら、自分たちなりの正しさで人を支配しようとするのです。「聖書にこう書いてあります」と、何の悪意もなく、自分たちの読み方を絶対視して、それが正しい聖書理解で、自分は正しい教えに従っているのだと信じて・・・・。

私たちは、一家で教会を替えました。
そして妹は、移籍した教会で洗礼を授けてもらいました。
洗礼式のあとに信者さんたちと教会の前で記念写真を撮りました。
妹もにこにこ笑っています。

私たち一家は、やっと人間の感情を取り戻し、やっと人間らしくなれました。

牧師先生の息子さんと親友になりました。
エキュメニズムの活動に参加するようになりました。
カトリック教会の人たちとも、お寺の人たちとも、仲良くおつき合いしています。
私たち一家は、イエス様の教えに従って生きる道を選びました。

良心に従って生きようとするすべての人たちに感謝します。

神様! ありがとうございます!

(伊藤一滴)


(架空の、あるクリスチャンが語った話という形の創作です。ただし、今回も、キリスト教の中に実際にある見解を書いています。)


グーグルをお使いの場合、次の検索で確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

キリスト教史の諸問題 「教会はいらない、信仰もいらない」(再掲)

まず、どう聖書を読んでも、旧約と新約には主張にズレがあります。
イエスの教えとパウロの見解にもズレがあります。
福音書も、それぞれに出来事の記述の食い違いもありますし、著者の考え方の違いもあります。
「使徒行伝が描くパウロ」と「パウロの手紙」には食い違いがあります。
パウロの手紙とヤコブの手紙など、まるで考え方が違っています。
他にも、多くの食い違いがあります。

私は、そうした食い違いを認めていいと思っています。矛盾点など一切ないと頑張れば、無理な説明になってしまい、おかしな方向に走ることになります。実際、「正しい聖書信仰」と称し、変な方向に走っている人たちがいます。


キリスト教成立の初期には、指導的な女性たちがいて、かなり活躍していたようです。我々は、パウロのローマ書の末尾の挨拶などから、それを察することができます(ローマ16:1以下参照)。
ジネント山里記: ヘブル書の著者は女性? 優秀な女性使徒もいた? (ic-blog.jp)

キリスト教は、弾圧の時代を経て、4世紀にはローマ帝国から公認され、その後ローマ帝国の国教となりました。弾圧に屈せずに活動を続けた教会は、ローマ帝国の宗教となり、帝国の権力と結びつきました。天上の栄光を求めた人々は地上の力を得て、聖権と俗権が癒着したのです。

キリスト教の持つ、戦闘的性格、男性中心主義、上意下達の教会組織など、こうして形成されたのでしょう。

4世紀の末に、ローマ帝国はキリスト教以外の宗教やキリスト教の異端派を禁じ、弾圧するようになりました。弾圧されてきた側が、今度は弾圧する側になったのです。アメリカの建国や(現代の)イスラエルの建国に、似たものを感じます。これは、聖書に記された唯一のヤーウェ(ヱホバ)を信じる価値観と関係ありそうです。

新約聖書27巻が成立したのも4世紀の末です。パウロの真筆と考えられる手紙の中にも女性差別的な記述がありますが、そうした記述は男性中心主義者たちが書き加えた可能性もあるのです。ローマ書の末尾には活躍する女性たちへの高い評価と謝意が書かれています。そのパウロが、一方で女性を著しく差別していたとは考えにくいからです。

「アレクサンドリア」という映画にもなったヒュパティア(370-415)の名を聞いたことがありますか? 中高の歴史教科書などには出てこないので、知らない方も多いかと思います。彼女は哲学、数学、天文学、医学など、幅広い分野に通じた名高い学者で、遠方からも多くの人が学びに来ていました。神秘主義を排し、科学的な検討を重んじた彼女は、当時の教会から危険視される学者でした。
ギボンの『ローマ帝国衰亡史』にこうあります、「四旬節のある日、総司教キュリロスらが馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した」(※1)。

キリスト教徒の手によって、教会の建物の中で、彼女は惨殺されました。女が学問を教えるのは反聖書的だという思いも、この事件につながったのかもしれません。四旬節になるたびに、私はヒュパティアのことを思います。

その後、中世の教会は、カタリ派やワルドー派など、異端と見なした派に対し、容赦なく、残虐な弾圧を加えました。異端とされた人たちの活動は、正統教会の腐敗に対する抗議として、新約聖書に示された清貧の理念に立ち返ろうとした動きと見ることもできます。「異端」の指導者たちのほうが、ずっと清貧の中に生きていたのです。
正統教会は、最初は説得を試みたのですが、あまり効果が上がらず、「異端」に対し徹底的な武力弾圧を加えるようになりました。無抵抗な女性や子どもまで次々に殺害する殲滅作戦で、その結果、カタリ派は全滅し、ワルドー派は迫害から逃れた少数の人たちが何とか宗教改革の時代まで生き残りました。生きのびたワルドー派は福音主義信仰の一派としてプロテスタントに合流しています。

中世の十字軍派遣や、中世末期から近世にかけて激しくなった異端審問や魔女狩りも、キリスト教史の大きな汚点です。こうした暴挙によって、多数の無辜が殺されてゆきました。

十字軍の蛮行については既に多くの指摘があり、日本語で読める本やネットの記事も多数出されていますから、関心のある方はお読みになってください。
私が言うまでもないのでしょうが、知らないクリスチャンが多いので、一つだけ書いておきます。
十字軍がイスラム教徒の町に攻め入ると、女性、子ども、高齢者といった非戦闘員も含めて住民を殺害するのが常でした。旧約のエリコの戦いを思わせます。それに対し、イスラム教徒の軍がキリスト教徒の町に攻め入っても、原則として、非戦闘員は殺さない方針であったようです。例外もあったかもしれませんが、一般的には、イスラム教徒のほうが人道的でした。

キリスト教徒にとっては「イエスを信じる」ことだけが救いであり、人道的であることは救いとは関係なかったようです。カトリックの場合、善行も重んじられていましたが、この善行は一般的なヒューマニズムではなく「教会に従うことが善行である」と矮小化されていました。
この時代、教会が異教徒の殲滅を命じれば、非戦闘員も含めて殲滅するのが善行になってしまっていたのです。

今も「イエスを信じる」と称する一部の人たちに、ヒューマニズムの否定が見られます。さすがに今のカトリックではヒューマニズムの否定はないと思いますが、「福音派」を称する人たちの中に、「救いはイエス様を信じることだけで、ヒューマニズムは救いとは無縁の人間的価値観だからだまされてはいけません」といった主張があるのです。中世のカトリックの悪い面が今の自称「福音派」に受け継がれているようです。十字軍と似たもの、そして、エリコの戦いと似たものを感じます。

ジネント山里記: 善行もヒューマニズムも救いとは一切関係ない? (ic-blog.jp)

魔女狩りについて言えば、これは、教会による無辜(多くは女性)の大量虐殺でした。14世紀から約400年もの間、おびただしい数の無関係な人たちが魔女の疑いをかけられ、殺されています。
魔女狩りはカトリックで下火になってからもプロテスタントによって続けられ、アメリカにまで飛び火しました。マサチューセッツ州で起きたセイラムの魔女裁判(Salem witch trials 1692-1693)が有名です。(これを知らない「正しい聖書信仰」のクリスチャンが多い! 「魔女狩りをやったのは悪いカトリック、正しいのは福音主義」という、あれかこれかの二元論! 実際は、新旧両派とも盛んに魔女狩りをやっています。そして、最後まで続けたのはプロテスタントの側です! ※2)

ユダヤ人差別、女性差別、人種差別、先住民差別、性的マイノリティー差別・・・と、キリスト教徒による差別は続きます。

「宗教改革でキリスト教は正しくなった、それ以前は間違っていた」みたいな、あれかこれかの二元論じゃないんです。

ルター(1483-1546)の宗教改革に刺激され、抑圧されていたドイツ農民が決起すると、最初同情的だったルターは農民軍を非難する側に転じました。トマス・ミュンツァー(1490?-1525)率いる農民軍は宗教改革者から弾圧され、またカトリックからも弾圧され、ミュンツァーはカトリックの軍に捕えられて拷問され、斬首されています。
一方のカルヴァン(1509-1564)も、スイスのジュネーブで、一種の恐怖政治のような強権支配をしています。当時、セルヴェトス(1511-1553)という思想家で医学者で神学者でもあった知識人がいました。ハーベイより先に血液の循環に気づいていたようです。彼は、カトリックから異端者とされて捕えられ死刑を宣告されましたが、脱出し、各地を転々とした後、ジュネーブに逃れました。ところが逃れた先のジュネーブでカルヴァン派から捕らえられ、カルヴァンの賛同のもとに異端の罪で火刑に処されています。セルヴェトスは首に幾重にも縄を巻かれた上、火刑台に鉄鎖で括りつけられ、とろ火でゆっくりと焼かれたとのことです。見ていた人は苦しみもだえる姿を見かねて、火に枯草を投じて火力を上げ、死を早めさせてやったと伝えられています。カルヴァン派は「異端者」を焼き殺すことで、正統信仰に反する者はこうなるのだという見せしめにしたのでしょう。
今も多くのプロテスタントはカルヴァンの影響を受けていますが、そのカルヴァンは「異端者」を火あぶりにする人だったのです。(これも知らない「正しい聖書信仰」のクリスチャンが多い!)

その後のキリスト教の歴史もひどいものです。
聖バーソロミューの虐殺事件や三十年戦争が有名ですが、新旧両派は戦いを続け、また新教徒同士の争いも続きました。キリスト教徒による内ゲバのような同士討ちの時代でした。

エラスムス(1466?-1536)やカステリョ(1515-1563)のように、平和や寛容を求めた人もいるにはいました。しかし、残念ながら、動乱の16世紀に寛容な主張が多数意見になることはありませんでした。

キリスト教徒は世界の各地に進出して先住民に疫病をもたらし、収奪、搾取、殺害を繰り返しています。キリスト信者以外は人間ではないと思っていたのでしょうか。さらにキリスト教徒はアフリカ人を奴隷としてアメリカに連行して働かせました。その子孫の人たちへの差別は今も残っています。

ざっと歴史を見ても、感じるのは、ものすごい不寛容です。キリスト教の歴史は不寛容の歴史であり、不寛容に基づく争いの歴史だとも言えます。


クリスチャンにとって、三位一体の神だけが、唯一の神なのです。

聖書だけが、唯一の正典です。

イエス・キリストだけが、唯一の救い主です。

みな、唯一で、自分たちだけが正しくて他は間違いなのです。


過去を省みて謝罪や反省を表明した教派もありますが、今でも、特にプロテスタントの中に、その中でも特に福音派系に(その中でも特に「福音派」と称する原理主義者らに)、「自分たちだけが正しくて他は間違い」という人たちがけっこういます。


前にも言いましたが、プロテスタント(特に福音派系)が強く主張する、
「聖書は66巻である」
「信仰の論拠は聖書のみ」
「聖書は誤りなき神の御言葉」
「聖書の権威」
「日曜は安息日」
といった言葉は、聖書のどこにも書かれていません。
どこにも書かれていないのですから、もちろん、イエスはこういったことを教えていません。

「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、聖書のどこにも出てこないことを言い張る矛盾をどう考えたらいいのでしょう。(そしてこの「信仰の論拠は聖書のみ」という言葉自体、聖書のどこにも出てきません。)


私たち現代人が、無理な解釈などしないで、どこまでも、ただイエスの教えに従おうとして進むならどうなるのでしょう。この世における不寛容と争いの教会に縛られるべきではない、となりそうです。

私は、聖書に書かれていないことでもそれが伝統的に受け継がれてきたことで、かつ、常識的に考えて悪くないことであれば、否定はしません。でも、教会の教えの中に、イエスが人々に伝えたメッセージに明らかに反する点があるなら、それに縛られるべきではないと考えています。

万人向けの考え方ではないかもしれませんが、突き詰めれば、最終的には、「教会はいらない、(教会が言う意味での)信仰もいらない」となるのかもしれません。

イエスが生きて活動した時代に、教会というものはありませんでした。教会というものがなかったのだから、「教会の教え」もありませんでした。

たぶん、どこまでも突き詰めて行けば、こうなるのでしょう。

「我もなく世もなく ただ主のみいませり」
(讃美歌529番)

黙示録のイメージです。
自分もなく、キリスト教やキリスト教会といったものを含めて世もなく、ただ主だけがおられる!

(伊藤一滴)

※1 
『ローマ帝国衰亡史』からの引用はウィキペディアの「ヒュパティア」の項からの再引用(孫引き)です。
これもウィキペディア情報ですが、「カキの貝殻」という語は「タイル」または「屋根瓦」とも訳せるそうです。昔のギリシャで、カキの貝殻が建築物の屋根などに使われていたので、窯業によって作られたタイルにも同じ語が使われたのでしょう。仮に、「カキの貝殻」ではなく「タイル(または屋根瓦)」だったとしても、「タイル(または屋根瓦)で生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した」とギボンは述べているわけで、残虐な殺害であったことに変わりありません。
なお、ヒュパティアの遺体はバラバラにされて見世物にされた後、市の門外で焼かれたそうです。


※2 
「魔女狩りは,カトリック,プロテスタントを問わず,集団ヒステリーとして広がり,アメリカ新大陸にまで持ち込まれ 18世紀まで続いた(→セーレムの魔女裁判)。魔女狩りは 17世紀末から 18世紀初頭にかけて終焉に向かったが,強者が弱者を,また多数者が少数者を裁く異常な社会心理は,1950年代アメリカ合衆国のマッカーシズムにみられるように,現代にもその根を残している。」(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「魔女狩り」)

「14世紀以降4世紀間にわたり,おびただしい犠牲者が“魔女”として裁判で血祭りにあげられ,特に宗教改革が起こった16〜17世紀,新旧両派によって行われ最盛期となった。しかし,1692年アメリカのマサチュセッツ州の「セーラムの魔女事件」を最後に,魔女狩りは急速に衰えた。」(旺文社世界史事典 三訂版 「魔女狩り」)


魔女狩りは、中世よりも、宗教改革が起こった16~17世紀に激しくなり、カトリック、プロテスタントを問わず広く行なわれています。プロテスタントによる魔女狩りやプロテスタントによる「異端者」の処刑も知らない程度の歴史認識で、他教派を非難するようなことは言わないでほしいですね。

魔女狩り以外にも、カトリックがやめた後もプロテスタントの一部が続けたものに、進化論否定や他宗教否定があります。
今日、カトリックや主流派のプロテスタント(リベラル)で、進化論を否定する人はまずいません。私が知る限り、進化論否定論は福音派系の教派(全員ではありませんが)と異端派の中に残りました。

第二バチカン公会議以降のカトリックは他宗教の価値を認めて尊重しつつ対話するようになっていますし、プロテスタント神学においても、有名なところでは晩年のカール・バルトやモルトマンなどに、また、パネンベルク、カブ、マーコリーをはじめ、多くの神学者に、キリスト教以外の教えの中にも真実性や救いを見出そうとする方向性があります。つまり、他宗教を否定した過去を乗り越えようとしているのです。

「キリスト教だけが正しく、他には一切救いはない」という考え方は、福音派の中の特に保守的な人たちや、自称「福音派」のカルト思考原理主義者らに残っています。

ジネント山里記: 福音派の謎・反カトリックと反進化論 (ic-blog.jp)

(伊藤一滴)


グーグルをお使いの場合、次の検索で確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

聖書を用いるカルト宗教の特徴(再再掲)

若い頃、日本基督教団のある牧師から、聖書を用いるカルトの特徴を教えていただいた。


イエス・キリスト以外に教祖的な人物(先生)がいる。
(今もその人物が指導している。または少し前まで指導していた。)

高額な献金を要求される。そして、そのお金が何に使われるのか、経理が不明朗。

教祖的人物や指導的な幹部が異性問題を起こしている。


「教祖、お金、異性」がポイントだ、と。
3つがそろわなくても、2つでも、1つでも、こうした特徴があればカルトを疑った方がいい、と。
(1980年代、その牧師さんは異性問題と言っておられたが、相手が異性とは限らないので、「性的な問題」と読み替えてください。)


さらに、その後、自称「福音派」や自称「教派ではなく純粋なキリスト教」といったカルトじみた人たちから何度もからまれ、私は気づいた。

キリスト教系カルトの場合、聖書を書き換えている。または、特異な解釈で意味を変えている。

読みようによって、聖書はそうも訳せる、そうも解釈できるというのなら、賛成しなくても、そういう理解の仕方もあるのかと思う。だが、カルト的な団体は、そもそも成り立たない読み方をしている。
教祖(先生)や教祖の指導を受けた人物が、単語も文法も無視した「解釈」をする。批判されても、「わかりやすく意訳したのです」「わかりやすく解説しているのです」と主張する。それは聖書の学問的な検討ではないと言うと、「聖書は学問的に検討すべきものではなく、信仰的に読むものです」と言い返される。

都合よく「訳」した独自の聖書を使うカルトもあるが、聖書カルトの多くは一般のキリスト教会と同じ訳の聖書を使っている。日本聖書協会や新日本聖書刊行会の訳を使っているからといって、その団体は安全だとは言えない。

信仰の喜びでつながっているというより、罪や悪魔や地獄をひどく恐れ、この教会から離れたら永遠の地獄に落ちて永遠に焼かれるかもしれないという恐怖で離れられなくなっている。「信仰」の中心にあるのは「罪の意識と地獄の恐怖」だ。それは、審かれるという恐怖心を植え付けるマインドコントロールの手法だ。

他の教派と交流したがらない。交流し対話すれば自分たちの問題点が知れるといけないから指導者は交流を嫌う。信者たちは「私たちの教会は真理の側だ」と思い込んでいるので、間違った教会の人たちから話を聞く必要はないし学ぶ点もないと考えている。「真理の側にいる」ので、他者の指摘を受けて考えや態度を改めることもない。正しいから迫害を受けていると思うだけだ。

ものごとを客観的に検討するのではなく、「自分たちは正しく、外の世界は間違いだ」というあれかこれかの二元論的な先入観を当てはめようとする。現実の世の中には、中間的なもの、どちらとも言えないもの、分類が難しいものも多数あり、簡単にあれかこれかと言えないのに、簡単に二つに分けて、自分たちを正しい側とする。

信者や家族の人格や生活を破壊する反社会的な活動をしている。それを非難されると、「私たちは正しい聖書信仰(正しい福音主義の信仰)に立つから弾圧されている」と言う。


さらに、もう1つ聞いた。
カルトは、learn を重んじ、study を禁じるという。
learn も study も、どちらも「学ぶ」だが、learn は、習って学ぶ、覚える、習得するといったニュアンスが強く、study は、よく調べ、検討し、研究して学ぶというニュアンスがある。
つまり、「教えられた通りに学びなさい。自分で検討してはいけません」ということだ。この姿勢は、たしかに、キリスト教系カルトの中にある。


つまり、こうなる。

聖書を用いるカルト宗教の特徴は、

教祖的人物がいる(特別な「先生」の存在)
多額のお金が要求され、何に使われるのか不明朗
性的な問題を起こしている
聖書が書き換えられたり、独自の解釈で違う意味になったりしている
信者はマインドコントロールを受け、恐怖心に支配されて離れられなくされている
他教派との交流や対話が禁じられたり制限されたりしている
客観的に検討しようとせず、あれかこれかの二元論の考えに立つ
信者自身や家族の人格や生活を破壊する反社会的な活動をしている
learn を重んじ、study が禁じられる

なるほど。
エホバの証人、自称「福音派」、統一協会などに、かなり当てはまる。

さらに付け加えると、キリスト教原理主義やキリスト教系のカルトには、聖書に根拠がないことを強く言い張り、守らない人を断罪するという特徴も見られる。


日曜礼拝への参加義務
絶対禁酒
性に関することのタブー視(その割には指導者が性的な問題を起こしたりしているが)

聖書にないことまで牧師や先輩信者が指示を出し、指示がなければ動けない人になってゆく、という特徴もある。
つまり、自分の頭で考えて行動することが出来ない人になってゆく。そのため社会(学校や職場など)で孤立し、ますますカルト教会に依存してゆくという悪循環だ。
当人は、社会から孤立を、「この世はサタンの影響下にあるから、サタンから離れ正しい場に身を置いている」とか、「正しい信仰を貫くための試練だ」とか、「救われて天国に行くためにこの艱難を耐えなければならない」とか、思い込んでいるようだ。
そのような「信仰」は、救いではなく、救いにつながるものでもなく、間違った考え方を植え付けられたことによる苦しみなのに。

(伊藤一滴)


2024年7月5日付記

(本来の教えと違うから駄目だと言うのではない。正典執筆者の意図とは違う解釈でも、その解釈による結果がいいのなら、歴史の中で検討されて教えが発展した、展開したとも言える。悪い結果が現れているから問題なのだ。)

2022-08-19 掲載、
2024-01-15 一部を修正し再掲
本日、付記を加えて再再掲


グーグルをお使いの場合、次の検索で確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html

「信仰の論拠は聖書のみ」なのだろうか?

キリスト教において「信仰の論拠は聖書のみ」と仮定した場合、いろいろ、つじつまの合わないことが出てくる。

1.多くの教会で次のような「使徒信条」(信仰告白、信仰宣言)が唱えられているが、「使徒信条」はそのままの形では聖書に出てこない。

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン

(日本のプロテスタントでは「生ける者と死にたる者とを審きたまわん」という訳と「生ける者と死ねる者とを審判(さばき)たまわん」という訳があり、それで福音派系か主流派系か分ったりする。どっちでも意味は同じなのに、こうしたささいな箇所が別になっていて、それぞれに唱えている。)

この「使徒信条」は古カトリック教会が唱え出し、今に至る信条の訳である。
つまり、聖書からの引用ではなく、古カトリック教会の信条を受け継ぐものである。
「そのままの形では聖書に出てこない信条(カトリックから受け継いだ信条)を唱えること」と「信仰の論拠は聖書のみと主張すること」との整合性はどうなるのか?


2.「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感によって記された」とする主張には、聖書的根拠がない。そんな記述は、聖書にない。

たしかに新約聖書には「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です」と書いてある(2テモテ書3:16)。だが、2テモテ書の著者は、ここで「聖書」とは何を指すのか示していない。当たり前だが「旧新約聖書66巻は~」などと書いていないし、そんな考えはなかったろう。まず、この書が書かれた時代に新約聖書はまだ成立していない(新約聖書27巻の成立は4世紀の末)。まだないものに言及できるはずがないし、まだないものを読むようにテモテに勧めるはずもない。パウロを称する著者が普段読んでいたのは七十人訳ギリシャ語聖書(旧約聖書のギリシャ語訳)だろうから、たぶん、これが頭にあったのだろう。だとすれば旧約聖書続編(アポクリファ)も含めて「聖書」である。あるいは、シナゴーグで朗読される聖書を思い浮かべていたのかもしれないが、どちらにしても、新約聖書は含まれていない。
2テモテ書3:16を忠実に読むなら、新約聖書は「聖書」に含まれない、ということになる。この箇所は、「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感による」といった主張の根拠にはなりえない。

また、「聖書は66巻である」とは、聖書それ自体のどこにも書かれていない。
つまり「聖書は66巻である」という主張にも聖書的根拠がない。

「正典と外典では質が違う」と言う人がいるが、それは、これは正典だ、これは外典だと、先入観を持って読むからだ。正典だと思って読むから有難く思えているだけだ。聖書を全く知らない人に読み比べてもらったら、正典か外典か区別がつくだろうか。「どちらが正典か、外典か、分かります。正典と外典では明らかに質が違います」なんて言うだろうか。


3.「聖書は原典において誤りがない」とする見解は、最初から破綻している。
私が以前書いた「シカゴ声明」批判を参照していただきたい。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/04/post-e9aa.html

または「ジネント山里記 「シカゴ声明」批判」で検索 


4.「父と子と聖霊は三位一体である」とする主張も、聖書に明記されてはいない。これも、古カトリック教会の神学から受け継いだものである。カトリックの神学を一切参照せず、「信仰の論拠は聖書のみ」として聖書だけ読めば、三位は一体であると気づくのだろうか?


5.「イエス・キリストは完全な神であり完全な人である」という主張も、聖書に明記されていない。これもまたカトリックから受け継いだ神学である。
「私と父とはひとつです」(ヨハネ10:30)といった言葉が聖書にあるが、「私は完全な神であり完全な人です」のように、イエスがはっきり述べた箇所はない。
「私と父とはひとつです」が根拠なら、父なる神も「完全な人」なのか?

カトリック神学をかなり受け継ぎながら「カトリック教会は異端です」などと言う人たちがいるが、それは「私たちは異端派の神学を受け継いでいます」と言っているのと同じだ。


6.「イエス・キリストは十字架で罪を贖った」という主張と「イエス・キリストを信じる者は救われる」という主張はどちらも聖書から導かれる見解であるが、この2つは両立するのだろうか。
キリストが十字架で罪を贖い、そして、その贖いが完全なものならば、信仰の有無にかかわらず全ての罪は贖われていることになり、救いを「信じる者」に限定できなくなるのではないか。もし「信じる者だけが救われる」なら、十字架の救いはすべての人に及ぶものではなく、信じる人だけに有効な限定的な救い、不完全な救いになるのではないか。

信じなければ救われないのなら、「キリストの十字架の救い」と「キリストを信じる信仰」と、その両方があって、はじめて救いは完全なものとなる。つまり、キリストの十字架だけでは救われない、キリストの十字架による救済は不完全なものだ、ということになる。


7.「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ」(エフェソ4:4)といった言葉を引用し、「教会は一つです」などと言いながら、エキュメニズム(教会再一致運動)に背を向け、さかんに他派を非難し、対立を繰り返す人たちがいるのはなぜ?
つまり、彼らは、口では「教会は一つ」などと言いながら、心の中では「私たちの教会が正しく、他はみな間違いだ」と思っているのではないか。
聖霊の働きによって正しく信じていると言うのなら、聖霊は諸教会が対立し合うように導いているということになるのか?
「信仰の論拠は聖書のみ」と言いながら、「信仰の論拠は自分たちの考えのみ」になっていないか。


まだまだあるけれど、「信仰の論拠は聖書のみ」では説明のつかないことが多い。

旧新約聖書のどの文書にも「信仰の論拠は聖書のみ」と書いてある箇所はない。
私は何度も繰り返して福音書を読んだけれど、イエスが「信仰の論拠は聖書のみ」と考えていたとは思えない。

パウロの言葉に「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考える~」(ロマ3:28)とあるが、この箇所は「義とされる」ことについて述べており、「信仰の論拠」についての見解ではない。また、「聖書のみ」とも言っていない。

つまり、「信仰の論拠は聖書のみ」という主張には、聖書的根拠がない。

「信仰の論拠は聖書のみ」という主張は、宗教改革時代の歴史的な主張であって、これを普遍の真理と見なしたり、イエスの言葉と同列に置いたりすべきではない。

イエスが人々に伝えようとしたメッセージを最上とするのなら、現代において、「信仰の論拠は聖書のみ」とする主張を再検討する勇気が必要ではないのか。

(伊藤一滴)


グーグルをお使いの場合、次の検索で確実に私の書いたものが表示されます。

ジネント山里記 site:ic-blog.jp(検索)

過去に書いたものは、こちらからも読めます。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/archives.html