« 2023年1月 | メイン | 2023年3月 »

紙の情報は冬の時代なのか

キリスト教系の出版や書籍の販売に限ったことではありませんが、紙の情報は冬の時代なのかと思えてなりません。


東京神田のキリスト教書店「友愛書房」が閉業すると聞いて、ショックでした。
若い頃から、上京するたびに寄っていたからです。山形県の山里で暮らすようになっても、東京に用があるときは寄っていましたし、近年は友愛書房のネット通販も利用していました。

では、西荻窪のキリスト教書店「待晨堂」(たいしんどう)は、どうなっているんだろうと思い、待晨堂のホームページを見たら、「いろいろ情報」にこう書いてありました。

出典
https://taishindo-books.jimdofree.com/
から、「いろいろ情報」に進む。
2023年2月20日閲覧

引用開始

1950年代から70年代は書店の出店ラッシュ、80年代から90年代は書店の改組の時代でした。2000年に入り倒産・廃業が多く出ました。

<書店・出版社の廃業・倒産>

・キリスト教古書店の友愛書房が2023年2月末で閉店します。

・キリスト教図書出版社が2022年3月に廃業しました。

・海竜社が2021年9月に倒産しました。

・オアシス仙台店、ライフセンター豊橋書店が2021年7月に閉店しました。

・徳島キリスト教書店が2020年12月末日をもって閉店しました。

・CLC(クリスチャン文書伝道団)が70年にわたる日本での働きを終え、2020年12月で解散しました。

 全国でお茶の水・名古屋・金沢・京都・岡山・広島の6店舗の書店運営をされていましたが、お茶の水と名古屋の2店舗はいのちのことば社直営店として、金沢・岡山・広島の各店舗は一般社団法人クリスチャン文書センターCLCこひつじ書店・岡山キリスト教書店・タラントメディアワークス(株)文書伝道部門 CLC BOOKS広島とそれぞれ独立店に、京都は閉店となりました。

・2017年に出版活動を終了してそのあと在庫の販売を続けていました創文社が、2020年3月をもって販売活動を終了しました

・聖公会出版が2016年3月末日をもって解散しました。

・カードのナルド社が2015年8月末日をもって廃業しました。

・書店の西宮聖文舎が2011年に倒産しました。

・書店の東京聖文舎が2008年に倒産しました。

・2006年に熊本キリスト教書店が営業を停止しました。

・出版社の㈲ヨルダン社が2003年に倒産しました。

・2002年に長崎キリスト教書店シオンが廃業しました。

・2001年に書店の東京ヨルダン社、福岡ヨルダン社、北九州ヨルダン社が廃業しました。

引用終了


残念です。

友愛書房が消える。
キリスト教図書出版社はすでにない。
ヨルダン社の倒産はあまりにもショックで、残念だった。
上記にないけれど、山本書店も惜しまれつつ消えていった。
創文社も、聖文舎も、いい本を出していたのに既にない。
他いろいろ、消えていった。
(海竜社はキリスト教専門の出版社ではないけれど、キリスト教系も含む多くの本を出していたのに。)


書店は「2000年に入り倒産・廃業が多く出ました」というのは、インターネットの普及でしょう。インターネットですぐ買えるので、書店まで行く必要がなくなったのです。
さらに、場所を取らない電子書籍も広がりました。

加えて、情報そのものがインターネットで手に入るので、わざわざ紙の書籍や雑誌や新聞を買わなくても済むようになったのです。そうなると、出版社・新聞社にとっても脅威です。

紙に記された情報は、今後減少し、やがて消滅に向かうのでしょうか?

消滅まではしなくとも、非常に高価になって、庶民には手が届きにくくなるのでしょうか?

レコード盤、カセットテープ、フイルムでの撮影なども、消滅はしていません。でも、使おうとすればデジタルより高くつきます。紙の情報もそうなるのでしょうか?

時代の変化なのでしょうけれど、どうも、文化のあり方が変わっていくようです。


ちなみに、待晨堂さんの待晨とは、あしたを待つ、よあけを待つ、ときを待つといった意味なので、いかにもキリスト教っぽい伝統を感じる名前です。
キリスト教系の新刊も古書も扱う書店です。私の記憶だと、無教会系で、以前は出版もなさっていたと思います。

紙の本は電源がなくても読めます。機器の損傷でデータが消えたりすることもないし、頭にも残ります。

どうか皆様、紙の本を扱う出版社、書店、古書店などを応援してください。そして有意義な紙の本は後の時代に繋いでください。

(伊藤一滴)

無関係なサイトや広告に注意

「ジネント山里記」で検索すると、私とはまったく関係ないサイトが表示されることがあります。日本語で書いてあっても海外から発信されたものもあるようです。(URL末尾の国別コードに注意)

古書等の物品販売(特に戦前の聖書の販売)のようなサイトが表示されることがありますが、私は一切関知しておりません。その物品を注文すると本当に送られてくるかどうかも、私にはわかりません。


本物の「ジネント山里記」は、日本の山形県内からの発信で、ic-blog.jp がついてます。物品の販売はしていません。

「ジネント山里記」と検索し、ic-blog.jp がついていない不審なサイトが出てきた場合は開かずに、可能ならブロックしてください。お願いします。


また、グーグルで検索すると広告が出てくることがありますが、広告の内容は私とは一切関係ありません。聖書やキリスト教について、私の考えとは正反対の広告が出ることもあります。

(伊藤一滴)

追記

海外から発信されていると思われる不審なサイトの例


大正時代の…新約聖書 (神戸 英国聖書協会)

【中古】主の祈り /教文館/レオナルド・ボフ 本 本

『明治16年版 訓點 舊約全書 上篇・下篇』+『明治15年版 ...

明治元訳聖書成立攷/吉野政治

鉄骨加工職人が作った【ロケットストーブ】


どれも私の関心分野なので、不審なサイトと気づかずに開いてしまったのでしょう。
私の端末はみなスキャンしました。ウイルスの被害などはありません。
しかし、迷惑な話です。

怪しいものはすべてグーグルに通報しました。

特に怪しいのは一般社団法人セーファーインターネット協会の「悪質ECサイトホットライン 通報フォーム」にも通報しました。

2023.3.1

劣等感商法

偏差値についての私の考えを書き、茂木健一郎氏が「MARCH」といった俗称を非難する見解を引用しました。

関連することを、もう一つ書きます。


「人が持つ劣等感をうまく利用し、物品を売ったりサービスを提供したりして利益を得る商法」があります。
私は、これを、劣等感商法とでも呼んだらいいんじゃないかと思っています。

劣等感商法。

これが世に蔓延しています。

電通の戦略十訓(※)には入っていませんが、十訓に「劣等感を煽れ」を加えたら資本主義の十一訓になりますね。もっとあるかな?

例を挙げればきりがありませんが、たとえば、日本では、英語が苦手だと感じている人が多いので、苦手意識を利用した種々の教材や機器の販売や講習の勧誘があります。もちろん、良心的な教育もたくさんあるのでしょうけれど、中には、まさに劣等感を煽って高額な教材等を売りつけたり、高額な講習に誘ったりする商法もあるのです。
音楽なら、きちんと楽譜を読めない劣等感や、楽器演奏が思うようにいかない劣等感を利用して、教材や楽器を売りつけたり、講習に誘ったり、みたいな。
ダイエットの宣伝や美容形成手術なども、多くは劣等感商法だろうと思います。

人の劣等感に付け込む商法が世に蔓延しているのです!

親の、「自分にはできなかったけれど、子どもにはもっと勉強させたい」とか「自分と同等か、それ以上のことをさせたい」といった気持ちを煽るのも、親の劣等感を刺激する劣等感商法でしょう。それがすべてだとは言いませんが、予備校や塾は、そうした親の気持ちもうまく使い、親に受講料を払わせるわけです。そうやって「MARCH」だの「大東亜帝国」だのと言って偏差値で輪切りにするから、大学の個性なんて見えなくなってしまうんです。

人の劣等感を煽ることで利益を得る商法なんて、おかしいんじゃないかと思うんですが、利益が上がればそれが通ってしまいます。そうやって、だんだん、社会は劣化してゆくのでしょう。
長期的には国家的な損失になっても、今儲かるのならそれをやる。資本主義とはそういうものなのでしょう。
それがわかっていても、資本主義に代わる理想の社会制度が見当たりません。実に歯がゆい思いです。

(伊藤一滴)


※電通の戦略十訓

もっと使わせろ
捨てさせろ
無駄使いさせろ
季節を忘れさせろ
贈り物をさせろ
組み合わせで買わせろ
きっかけを投じろ
流行遅れにさせろ
気安く買わせろ
混乱をつくり出せ

茂木健一郎氏の発言 原文

茂木健一郎氏が、「複数の大学をいっしょくたにして、「MARCH」だとか、「大東亜帝国」などということほど、くだらなくて失礼な話はないと思う」と、予備校などの教育界を批判した文章とそれに続く文章の原文です。(2023年2月13日~2月14日掲載)

出典:https://twilog.org/kenichiromogi

膨大なインターネットの海の中で簡単に探せなくなくなる前に、発言の原文をここに貼っておきます。


引用開始

2月13日

日本の教育界の愚かなところはたくさんあるけれども、複数の大学をいっしょくたにして、「MARCH」だとか、「大東亜帝国」などということほど、くだらなくて失礼な話はないと思う。ぼくは自らは<<絶対に>>使わないし、使っている人に出会うと心の中で<<軽蔑>>している。
posted at 07:13:05

予備校業界がもたらした弊害はたくさんあるけれども、特色あるさまざまな学校を「偏差値」なる頭空っぽの数値で決めつけ、あげくの果ては、全く異なる歴史、校風をもつ大学をまとめて「MARCH」などというくだらない名称で呼ぶ文化を広めたのは最低最悪の愚行と断ぜざるを得ない。
posted at 07:14:43

愚かな予備校業界が「MARCH」などと呼んでいる明治、青山学院、立教、中央、法政は、それぞれ独自のスクールカラーと誇りある伝統を持つ学校であって、それをなぜ予備校業界に適当にまとめてつけた語呂合わせみたいな名称で呼ばれなければならないのか、くだらなすぎて涙が出る。
posted at 07:16:16

偏差値や、MARCH、大東亜帝国などといったくだらない発想をふりまわして平気でいる時点で、予備校業界を始めとする日本の教育界の風習は最低最悪で、心あるひとたちはこのようなヤクザな文化をガン無視して良い。それぞれの学校にユニークな校風があって、多様性の中でにこやかに並び立てばよいのだ。
posted at 07:18:39

以上、連続ツイート3049回、「偏差値や、MARCH、大東亜帝国などといったくだらない発想をふりまわして平気でいる時点で、予備校業界を始めとする日本の教育界の風習は最低最悪」をテーマに4つのツイートをお届けしました。
posted at 07:19:34


2月14日

連続ツイート3050回をお送りします。文章は即興で書いています。本日は感想です。
posted at 07:10:00

昨日、予備校業界の「MARCH」などという呼び方に対して個性も文化も歴史も違う大学を十把一絡げにして失礼だと猛然と抗議したところ、色々お返事を頂いて、ネットニュースにもなったらしく、いわゆる「炎上」になった。しかし、私は全く気にしていない。
posted at 07:11:13

時々、「茂木さん炎上しても平気なんですか」と言われて、「別に」と答えるのは、書いていること、言っていることが、ほんとうに自分の信じていることで、私の価値観の根幹にかかわることだからである。炎上していろいろな意見が来ても、自分の考えが揺るぐことはない。
posted at 07:12:11

昨日の「予備校業界はMARCHなどと言ってひどい」という抗議に対しても、「大したことない」「受験生にとってわかりやすくていい」などと、ぼくから見れば調子っはずれの「反論」が来たけど、「ああ、この人たちは価値観が違うんだ」としか思わない。こっちだって、伊達や酔狂の思いつきじゃない。
posted at 07:13:43

前にも書いたけれども、日本における「炎上」の概念はおかしいのであって、「世間」というものがあって、それに対してとんがったことを言った人が炎上すると思っている。自分は世間の側にいて安全だ、と思っている人にはぼくは全く興味も関心もない。勝手にそうやって生きていればいいと思う。
posted at 07:14:45

「偏差値」とか、「MARCH」だとか、そういうのは当たり前だ、何が悪い、という人たちとは所詮価値観が全合わないのであって、別にこっちの価値観、思っていることに同意してくれとは思わないけど、逆に、こっちが、向こうに合わせるつもりも全くない。
posted at 07:16:05

そのあたりのことを、夜の街を歩きながら「ニヤリの人たちはきっと成長しないけど炎上するたびに大きくなると思っている」という街頭脳ラジオにして収録したので、あとでアップするから興味がある人は聞いて欲しい。
posted at 07:16:51

「偏差値」とか「MARCH」とかは、話にもならないくらい愚かで低レベルの価値観だとぼくは確信していて、そのような軽薄な風潮がこの国を停滞させているとも確信している。だから、ぼくの抗議申し立ては義憤であって、この国を良くしたいというぼくなりの表現である。世界はもっと広い。
posted at 07:18:34

以上、連続ツイート3050回、「「偏差値」とか「MARCH」とかは、話にもならないくらい愚かで低レベルの価値観」をテーマに7つのツイートをお届けしました。
posted at 07:19:13

引用終了


引用が長くなりましたが、私は、上に引用した茂木氏のこれらの発言に全面的に賛成です。

(伊藤一滴)

偏差値の正体は「もうかると思われるかどうかの指標」

茂木健一郎氏の以下の見解ををネットで読みました。

「複数の大学をいっしょくたにして『MARCH』だとか、『大東亜帝国』などということほど、くだらなくて失礼な話はないと思う」

「ぼくは自らは<<絶対に>>使わないし、使っている人に出会うと心の中で<<軽蔑>>している」

だそうです。

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202302130001227.html

すごく納得しました。


2017年、私は「ジネント山里記」にこう書きました。

引用開始

この国では、もうかればそれでよい人たちが力を持っています。子どもたちが、スマホ漬け、ゲーム漬けになってもいいのです。売れればもうかりますから。放射性廃棄物の処分法など決まらなくても、原発は再稼働させてよいのです。もうかりますから。

そして親たち。私が子どもの頃から「勉強は自分のためより親の見栄」と言われ、皮肉られていました。見栄のため、あるいは自分が出来なかったことを代わりに子どもにさせようとして(それも見栄か)、子どもの人格をゆがめるような「教育」をする親がいました。今も、いるのでしょう。教育は、「脅育」「狂育」などど書かれ、皮肉られました。私でさえ、自分が受験生の頃は「偏差値の高い学校は優秀な学校」だと思ってましたよ。あれっ?、と思ったのは、キリスト教系大学の神学部の偏差値が意外に低いのを見たときです。人数は多くありませんが、日本の神学や聖書学の研究水準が高いことは私も知っていました。超難関とされている大学を卒業後に神学部に入る人もいますし、先に神学部で学んでから、海外の名門大学・大学院に行く人もいます。学問の水準が高いのに、なんで偏差値が高くないのか。人数が少ないと偏差値が正確に出ないというのもあるのでしょうが、それより何より、「その学校のその学部を出るともうかる」と思われると、偏差値が高くなるということに気づきました。たしかに、神学部を出て、牧師や司祭、宣教師などになっても、もうかりません。偏差値って、学問の水準ではなく、将来もうかると思われるかどうかの指標だと気づいたのでした。偏差値主義というか偏差値中毒というか、どっちが上だの下だのと大騒ぎしている人たちがいますが、偏差値とは、しょせんその程度のものです。将来もうかると思われる評価であり、もうかる保証ですらありません。仮にもうかったとしても、そもそも、もうかることとその人の幸福とは比例していません。

引用終了

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/08/post-b1ad.html より


引用開始

私も建築の仕事をしているので、建築学科を例にしますが・・・・、

世の中がバブルに向かっていく頃、建築学科は人気があって他の工学系と比べれば高い偏差値でした。その後バブルがはじけると、建築学科の偏差値は信じられないくらい下落しました。トップクラスだった建築学科が、下から数えた方がはやいみたいになりました。同じ建築学科で、同じ先生が教えているのに・・・・。もうかると思われると偏差値が高くなり、もうからないと見なされると偏差値が下落するのです。偏差値は、その学科の教員たちの学問の水準によるのではありません。世間が、もうかると見なしているかどうかの指標です。

引用終了

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/09/post-1dd6.html より


就職活動も、世間がもうかると見なす会社や団体に人が殺到して倍率が上がります。
学校だと、「その学校のその学部を出ると将来もうかる」と思われると入学希望者が殺到し、高い点を取らないと合格できなくなって偏差値が上がるのです。思われてはいますが、絶対もうかる保証はありませんし、幸せになる保証もありません。それだけです。

創立の理念もそれぞれで、沿革もそれぞれ、得意分野も、教職員も、出身者の活躍もそれぞれの各学校を、ただ偏差値だけで測ってひとくくりにし、語呂合わせみたいに呼ぶって、それ、どうかしてますよ。おかしいですよ。なんでそんなおかしなことが、当然のようにまかり通るのでしょう。

茂木健一郎氏の上記の見解は、まったくその通りだと思います。

(伊藤一滴)

寿司テロ報道で、昔の回転寿司を思った

回転寿司で不衛生な行為をする金髪の少年の動画が拡散されて問題になっています。寿司テロと呼ぶ人もいます。

この少年を擁護するわけではありませんが、もし数十年前の回転寿司だったら、こんな事件は起きなかったろうと思いました。

昔の回転寿司はもっとレーンが小さく、中で寿司職人が握っていました。握りながら全体を見渡し、バランスよく補充していました。もし流れていないネタがあっても、中の職人に声をかければ目の前で握ってくれました。「サビ抜きで」とか「サビをきかせて」といった注文にも応えてくれていました。その頃は客と店とのコミュニケーションがありました。

合理化の追求なのでしょう。店舗は大型化して全体を見渡すこともできませんし、店員も減り、客と店員との会話もほとんどありません。寿司を握る人の姿も見えず、注文もパネル方式になりました。

廉価で、それなりにおいしくとも、雰囲気が味気ないのです。

もう昔には戻れないのかもしれませんが、昔の回転寿司には人間味がありました。そして、こうした犯罪の余地はなかったと思います。

報道に接し、なんだか、悲しく、寂しい気持ちになりました。

(伊藤一滴)

『詩的で超常的な調べ』 あの世の新曲??

はるか昔に世を去った作曲家たちが今もあの世で作曲を続けていて、あの世の新曲をこの世の人間に紹介してくれるなんて、そんなことがあるんだろうか?

「のだめカンタービレ」に影響されて、最近クラシック音楽を聴いている。
そして、前から気になっていたローズマリー・ブラウン著、早川富士男訳『詩的で超常的な調べ』(国書刊行会)を読んでいる。(原題は"Unfinished Symphonies: Voices from the Beyond"(未完の交響曲:あの世からの声)「交響曲」も「声」も複数形)

これは、実に不思議な本だ。


著者ローズマリー・ブラウン(Rosemary Brown 1916 - 2001)は小さいときから霊を感じる能力があったという。彼女はフランツ・リストの霊に導かれ、著名な音楽家たちの霊に次々に会ったのだという。どうも、リストが霊界の音楽家たちのまとめ役のようだ。

リストの他に、ベートーヴェン、ショパン、シューベルト、ブラームス、ドビュッシー、ラフマニノフ・・・といった霊が訪れ、無名の未亡人ローズマリー・ブラウンに新曲を伝えたのだという。

彼女は、以前少しピアノを習った程度で、専門的に音楽を学んだことがなかった。生活は豊かではなく、クラシック音楽を聴く趣味もなく、また、あまりクラシックの知識もなかった。楽譜の書き方さえよくわかっていなかった。
音楽家たちの霊から楽譜の書き方を教えてもらい、彼女は霊たちの新曲を譜面に書き取ったという。
ベートーヴェンの霊の場合だと、ブラウン夫人の手の動きが遅くて待っていられなくなったようで、直接彼女に乗り移って手を動かしたという。それは取材中の放送局の人たちの目の前で起きた。彼女は猛スピードでベートーヴェンの新曲だという楽譜を書いた。相当の熟練者でなければ書けない速さだったという。

あの世の音楽家たちから伝えられたというそれぞれの曲は、専門家が見ても、各作曲家の特徴がみられるという。

当時、音楽家の作風をまねて新曲を作るAIなどなかった。仮に、背後に音楽に詳しいゴーストライターがいたとしても、素人がクラシックの新曲を全部暗記して人前で猛スピードで五線紙に書くのは、無理ではないかと思う。一体どう考えたらいいんだろう。
やはり、本当に霊?


仮定の話だが、もし、本当に霊界があり、霊界の音楽家たちがリストのコーディネートによって出現し、ブラウン夫人に曲を伝えたとするならば、伝えられた曲がその音楽家の最高傑作とは言えないことの説明もつく。霊界の音楽家らは、この世の多くの人たちが理解できる水準の曲で、かつ、ブラウン夫人が筆記可能な曲を伝えたのだ。目的は、自分のあの世での最高傑作を伝えることではなく、「私たちは、死後も作曲してますよ」と伝えることだった。

この役割を現代のプロの音楽家に頼まなかったことの説明もつく。もしプロの音楽家なら、その人がクラシック音楽をまねて作曲したと思われたろう。たとえ猛スピードで楽譜を書いたとしても、誰も不思議に思わなかったろう。


栗原裕一郎氏がこの本の詳しい紹介を書いておられるので、関心のある方はどうぞ。ただし、氏自身は、霊の出現には否定的である。
「リスト、ベートーヴェン……霊界の楽聖たちの作品を代筆!? 音楽霊媒師が書き残した奇書を読む」
https://realsound.jp/2015/03/post-2796.html

(ちなみにこの栗原裕一郎氏は、小学校と中学校で登校拒否、東京都立日比谷高等学校中退、大検から駿台予備校を経て東京大学理科一類除籍(ウィキペディア)というから、なんか、すごい。〇〇卒の肩書なしの論客。)


何と、ローズマリー・ブラウンが霊から伝えられて書き取ったという曲の楽譜まで販売されている。
http://www.kamakura-musica.com/shopdetail/000000002952/

かつて、レコード、CDも出たようだが、現在は絶版で、デッドストック品や中古品はたいへん高価になっている。ネットで見たらCD1枚が数万円。復刻して2~3千円くらいで売ったら、けっこう売れると思うのだが・・・。英語版の解説もつけたら世界的に売れると思うが。
「ローズマリーの霊感~詩的で超常的な調べ」
作曲:ローズマリー・ブラウン、ピアノ演奏:ピーター・ケイティン、ローズマリー・ブラウン(霊の存在や霊との交流は科学的に証明されていないため、ローズマリー・ブラウンが「作曲」者となっている。霊たちは、本当は我々に著作権があるんだから印税を寄こしなさいなんて言わないだろうし。絶対言わないとは思うけど、もし万一言われたら、どうやって霊界に払うんだ?)

「ローズマリー・ブラウンはかなり上手にピアノを弾いている。少しピアノを習った程度だなんて、嘘だ」と言う人もいる。だが、ブラウン夫人によれば、彼女はリストやブラームスらの霊から曲を伝えられると共に、ピアノの指導を受け、指導に従って練習して上達したのだと言う。リストやブラームスらの霊から直接ピアノのレッスンを受けたって?! なんか、それ、うらやましい。


そう言えば、ターミナルケアの先駆者として知られるエリザベス・キューブラー・ロス博士が、霊たちと対話していたという話を思い出した。彼女は自伝などに、大まじめにそのことを書いている。

(伊藤一滴)

「のだめカンタービレ」 ネコのフンの歌

「♪フーン フンフン フーン フンフン ネコのフ~ン フーン フンフン フーン フンフン かたい」

マンガ版「のだめカンタービレ」で、のだめと千秋が出会う場面です。のだめはプリプリマート(コンビニ?)の袋を手に鼻歌を歌いながら歩いて来ます。
この歌、のだめが勝手に作詞したのかと思ったんですけど…。(ちなみにアニメ版だとベートーヴェン「悲愴」からの替え歌)


ネットで調べたら、次の影響が指摘されていました。
(しかし、まあ、マニアックに調べる人がいますね(私もか)。)

「奈良の春日野 青芝に 腰をおろせば 鹿のフン フンフンフーン 黒豆や フンフンフーン 黒豆や」
(作詞:佐伯孝夫、作曲:大野正雄。歌:吉永小百合「奈良の春日野」1965年)

芝の上に転がる鹿のフンが黒豆のように見える情景を歌ったもので、かの上品な吉永小百合さんが歌いました。あの~、吉永さんと言えば、とても清らかなイメージがあるんですけど…。

また、アニメ「ドラえもん」で、のび太が「フンフンフンフン ネコのフン~」って歌う場面があるんだそうです。私は見てませんが。


吉永小百合さんの「鹿のフン」の歌のオマージュとしてアニメ「ドラえもん」の中の歌が作られ、「のだめ」の作者二ノ宮知子さんは、のび太が歌った歌を意識して(あるいは両方意識して)この歌を作ったんでしょうか。

「のだめカンタービレ」にはいろんな仕掛けがあって、仕掛けを組み込んだ二ノ宮さんもすごいけれど、それに気づくマニアックな人たちもすごい。


ちなみに、猫は犬と違って、普通は土を掘ってフンをして埋めます。だから、室内飼いの猫はともかく、屋外では、めったに猫のフンは見つかりません。もし見つけたら、いいことあるかも。まれなウンとのめぐりあいですから。


ネコのフン ネコのフン
やわいぞ くさいぞ ネコのフン
古くなったら かたくなる
かりんとうに混ぜても わからない
誰かが知らずに食べちゃった
(作:伊藤一滴)

(伊藤一滴)

「のだめカンタービレ」 独自演奏と、福岡県大川市の川沿いの道

今、「のだめカンタービレ」をじっくり読み直してまして、曲目が出てくる箇所はその曲をYouTubeで聞きながら読んでます。便利な時代になりました。

音大4年ののだめは短期間の猛練習でピアノコンクールの最後まで残ります。
最後の曲がストラヴィンスキー作曲ペトルーシュカからの3楽章なんですが、指導した教員(あだ名はハリセン)は、失格になっていいから弾かずに舞台を降りるべきだと思っていました。練習が不十分なのに本番で弾くのは神への冒涜だと。

だのに、のだめはこの超難曲を弾き始めるのです、見事に・・・。

この場面は、むしろアルヴェーン作曲スウェーデン狂詩曲第1番「夏至の徹夜祭」の方がふさわしいんじゃないかとおっしゃる方がおられますが、どうなんでしょう?
(わかる人以外には意味不明の話ですみません。はっきり書くとネタバレになっちゃうんで。)

のだめのアニメかドラマでその箇所をすでにご覧になっている方は、YouTubeなどでスウェーデン狂詩曲第1番を聞いていただくと意味がわかると思います。


このコンクールの後、のだめは福岡県大川市の実家に帰省するんですが、そこで川沿いの道での名場面になるんです。あれは、インパクトが強かった。

そのあと「巴里編」になるんですが、「一体いつまで引っ張るんだ~っ。あんたら、早く結婚しろよ」って言いたくなりました。パリを中心に、海外での物語は続きます。それにしても、引っ張りますね。引っ張るから物語が続くんでしょうけど。

(伊藤一滴)