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意義変遷と無責任 東京オリンピック

今回の東京オリンピックの「意義」やあり方について、政治家たちが過去から今までどういう発言をしてきたのかネットで調べているうちに、その移り変わりに嫌気がさし、引用したくもなくなりました。

ある催しを実施する「意義」等は、その時々で、猫の目のように、カメレオンの皮のように変わっていくものなのでしょうか。


引用したくもないのですが、意義変遷の証拠ですから、少し引用すると、


震災からの復興を示す(石原慎太郎氏、野田佳彦氏、猪瀬直樹氏、竹田恒和氏、他多数 2011〜2013年頃)

観戦に来た人が京都や東北の被災地などにも足を運べば、観光で日本各地が潤う(舛添要一氏 2014年9月9日・読売新聞)

レガシーを構築する(小池百合子氏 2016年 何度かこの発言)
(レガシー? 負の遺産? 一滴)

「復興五輪」に加えて、「もったいない」「アスリートファースト」の理念(小池百合子氏 2016年12月1日)
(弁当を大量に廃棄し、選手を炎天下にさらしましたけど 一滴)

人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証(安倍晋三氏、菅義偉氏、小池百合子氏、他 2020年)
(打ち勝った? 一滴)

世界が一丸となってコロナ禍という難局を乗り越え、人類がその絆をさらに強めた象徴となり、人々にとって希望の灯りとなる(小池百合子氏 2021年3月11日)

呪われたオリンピックって、マスコミの好きそうな言葉でしょ。でも現実はそうですよ。40年ごとに問題起きたんだから。事実でしょうが(麻生太郎氏 2021年3月18日)
(麻生さん、相変わらず言ってくれますね 一滴)

このコロナ禍で分断された人々の間に絆を取り戻す、大きな意義がある(丸川珠代氏 2021年5月11日)
(「新型コロナウイルスに打ち勝った証」と言わなくなった 一滴)

世界が新型コロナという大きな困難に立ち向かい、世界が団結してこれを乗り越えることができた、そうしたこともやはり世界に日本から発信をしたい(菅義偉氏 2021年6月9日)
(乗り越えることができた? この時期にまだそんなことを言ってたんですか 一滴)

──極めて政治的な意図を感じざるを得ませんね。彼ら(東京オリンピック開催に反対する人たち 引用者)は、日本でオリンピックが成功することに不快感を持っているのではないか。共産党に代表されるように、歴史認識などにおいても一部から反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の開催に強く反対しています。朝日新聞なども明確に反対を表明しました。(安倍晋三氏 月刊誌『Hanada』2021年8月号)


なんか、これまで造られてきた多目的ダムという「無目的ダム」建設と似ていると思いました。
発電にも農業用水の確保にもなるダムと言いながら、過疎化が進んでそれほど電気もいらないし農業用水も不足していない。それを指摘されると、治水対策のためにも必要とか言い出す。目的が変遷するダムが造られました。
オリンピックも似ていて、本当の目的は業者を動かす経済効果でしょうが、それにもっともらしく理由をつける。取り繕うとするけれど、時々ゆがんだ本音も飛び出す。
表向きの意義は変遷し、さかんに言われた「震災復興を世界に示す」が消え、「新型コロナウイルスに打ち勝った証」になって、それも言わなくなりました。そして今度は「絆」ですか。選手を隔離状態にして、絆ねえ。
オリンピックは業者を動かす経済効果が第一の目的ですって、正直に言ったらどうですか。


選手は何も悪くないし、現場の第一線で一生懸命働いている人たちも悪くないのですが、
それにしても、

次々に発覚する関係者の不祥事

危機管理はどうなっているのか

もうこれは、負のレガシーか

コロナ禍で公正な選手選考が行なわれたのか疑義があり、
コロナ感染で欠場した選手もいて、
メダルの価値さえ疑われてしまうオリンピック

責任の所在が不明確で誰も責任を取ろうとしない日本的無責任ぶりを世界に示すオリンピック


無謀なアジア太平洋戦争に突き進みながら誰も責任を取ろうとしなかった日本の無責任体質と変わらないじゃないですか。

特に安倍晋三さん、あなたはよほど自分の任期中に東京オリンピックをやりたかったのか、2年延期論を押し切ってコロナ禍でのオリンピックに突き進んだA級戦犯級の人です。モリカケサクラその他の諸問題をうやむやにしたまま、オリンピック開催に慎重な考えの人たちを反日呼ばわりするなど、反省のカケラもないようですが、あなたの責任はとりわけ重大です。

(伊藤一滴)

野原花子著『聖書はもういらない』に対する青木保憲氏の書評

クリスチャンたちが 野原花子著『聖書はもういらない』をことごとく無視する中で、「クリスチャントゥデイ」(Christian Today)が書評を載せていました。(※)

青木保憲 (あおき・やすのり)氏は、『聖書はもういらない』は、「タイトルや内容にとらわれず、信仰歴の長いクリスチャンが謙虚に読むべき問題の書」だと言います。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/29428/20210504/seisho-ha-mou-iranai-book-review.htm


青木氏の書評から引用します。

引用開始

本書『聖書はもういらない』は、幻冬舎メディアコンサルティングから昨年(2020年、引用者)11月に発刊された。そのストレートなタイトルに、聖書を「飯の種」としている私としては、足を止めて手に取ることしかできなかった。そして「まえがき」の数行を読んだだけで、「この本は買うべきだ」と思えた。それくらい、文章がリアリティーに満ちていた。そして同じく「教会生まれ、教会育ち」で、これまたかなり激烈なキリスト信仰者である親(私の場合は母親)によってしつけられた者として、この本は私にとってとても心に刺さる一冊であった。

従来の教会においては、こういった類の本は「禁書」扱いとなるはずである。特に福音主義を標榜する教会では、「聖書を否定するとは何事ぞ」という雰囲気は今でも十分感じられる。そのような雰囲気になじめず、この手のプレッシャーに耐えてきた者が大人になって(本書の著者の場合は大人になっても真剣に頑張っていた様子)、公開処刑的な復讐(ふくしゅう)をしたくなる、というのはよく分かる。

本書は、著者の野原花子さんが半世紀にわたる信仰生活の中で、ためにため込んできた鬱屈(うっくつ)とした思いを、一気に吐き出した「告白録」である。ここで語られている内容のリアリティーを理解しつつ、かつこれを受け止められる存在は、そう多くないだろう。正直、私にもそれができるという自信はないし、そんなことを著者は願っていないだろう。だが、真摯(しんし)に相手の話を聴こうとする姿勢を持つなら、本書は現在の日本のキリスト教界が耳を傾けるべきコンテンツが満載である。そして、信仰継承というプレッシャーにさいなまれ、「最近、子どもたちが何を考えているのかよく分からない」と本音では思いつつも、教会では笑顔で「クリスチャンらしく」歩むことにこなれてしまった人にとって、自らが与え得る家族や周囲への影響について、謙虚に考える機会を与えてくれるものとなろう。

引用終了


あとは内容の紹介です。
第1部について、
「その論の張り方も稚拙なら、取り上げられているトピックスも決してアカデミックなものではなく、おおよそ伝聞や教会の「学び会」で各教派が護教的に取り上げた内容に対して突っ込んでいるだけである。だから第1部から何か新しい知識や教えを得ようと思ってはいけない。」
とありますが、
こういう書き方は、どうでしょうね。青木氏のような、複数の大学院で専門に学んだ人が、キリスト教史の素人が精一杯書いた文章に対して言う言葉なんでしょうか。
野中花子氏は学術論文として書いたのではありません。
私は、「各教派が護教的に取り上げた内容に対して突っ込んでいる」ことにも、大いに意義があると思います。


最後にこうあります。

引用開始

本書は、「聖書の必要性を説く立場」にある者として、私にとって忘れられない一冊になるだろう。だから「著者の叫びが私に向けられているとしたら」という視点で読むことができた。全国の牧師の方々には、ぜひ勇気を持って本書に向き合ってもらいたい。あなたの教会の信徒がこういうことを感じているとしたら、あなたは(そして私は)どう向き合うか――。そんなことを思わされたビターエンドな一冊である。

引用終了

クリスチャンたちが無視を決め込む中で、これはなかなかの書評です。「その論の張り方も稚拙なら云々」といった、あまりにも上から目線の箇所以外は。

それと、「公開処刑的な復讐」ですか。言ってくれますね。
なるほど。インターネット上に満ち満ちる「福音派」非難の大合唱の中には公開処刑的な復讐も混じっているのかもしれませんね。

「福音派」と称する方々、あなた方が、なぜ、公開処刑的な復讐を受けるのかわかりますか?
「私たちは正しい信仰に堅く立つから弾圧されている、イエス様もそうだった」ではありませんよ。

(伊藤一滴)


※ クリスチャントゥデイの経営陣に対し、複数のキリスト教団体やキリスト教系メディアが異端カルトを疑い注意喚起をしています。経営陣に対してであり、記事の執筆者や編集者に対してではありません。注意喚起をした側とクリスチャントゥデイの側とで、まるで言い分が食い違い、真相が分かりません。キリスト教界の闇のようです。闇。
もちろん青木保憲氏は経営側ではないし、この書評とは関係のない話ですが。

追記:伊藤一滴本人ではありませんが、一滴が創作したあるクリスチャンが、野中花子氏に答えています。
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2021/03/post-e130.html

思案中 なぜ神様は、ある人たちには豊かな恵みをお与えになり、別の人たちには与えてくださらないのか

もし私たちが、毎日の食べ物や安全な暮らしを神様からのお恵みと考えて感謝の祈りを捧げるなら、今、飢えている人たちはどうなるのか、危険な目にあっている人たちはどうなるかと、ずっと考えていました。

なぜ神様は、ある人たちには豊かな恵みをお与えになり、別の人たちには与えてくださらないのでしょうか。

何の落ち度もない人が、たまたま生まれた国や地域や民族などによって、学校に行けなかったり、飢えたり、紛争に巻き込まれたり、迫害されたり、殺されたりしています。

たまたまそのように生まれただけで、自分で選んだのではありません。
まったく、当人の落ち度ではなく、避けようもありません。


私たちが、「神様、日々のお恵みをありがとうございます」と祈るとき、「お恵みを受けていない人たち」のことをどう考えればいいのでしょう。


私たちが豊かに暮らしているとき、ある人たちが苦しんでいるのは、苦しむ人たちの罪の結果ですか?

違います。

私たちが豊かなのは、「正しい信仰」の結果ですか?

違います。

クリスチャン多数の中南米やフィリピンやアフリカ諸国には、真剣にキリスト教を信じて祈っている人も多いでしょうに、その貧困をどう説明すればいいのでしょう。
また、クリスチャン少数の日本の経済的な豊かさを、どう説明すればいいのでしょう。

「苦しみは、その人を向上させる」と言う人もいますが、それは、ある程度までの話です。
たとえば、ルワンダというクリスチャン多数の国で起きた大規模な殺害をどう説明するのですか?


そもそも人は何のためにキリスト教を信じるのでしょう?

神の審きが怖いからですか?
地獄に行きたくないからですか?
救われて天国に行きたいからですか?
永遠の命がほしいからですか?

それって、結局、自分のためですね。

自分が救われたいからキリスト教を信じるという、御利益(ごりやく)信仰のようなクリスチャンがけっこういると思います。
それを言うと、
「それで何が悪いのですか?」
と言われそうです。

そういう人たちに、どう語ればいいのでしょう。

私は、今、思案中です。

(伊藤一滴)

「福音派」・エホバの証人・統一協会は似ているという

「福音派」・エホバの証人・統一協会は似ているという仁保裕介氏の見解を引用します。
(出典は仁保裕介氏のブログ「真実なクリスチャンライフを求めて~自由な祈りのために」です。なお、私は福音派と原理主義を分けて考えていますが、仁保氏は広い意味で福音派という言葉を使っておられるようで、私が原理主義と呼んでいるものも福音派としています。)
2016年07月21日付で、
「終末の神の裁きが近い」と人集め
というタイトルです。

引用開始
(略)キリストのからだではない、カルト的な傾向を見せるグループの誘いをよく耳にします。既存の教派教団の制度的な教えの中にも、入って来ています。
現に私が40年前に受けた福音派の信仰教育と、エホバの証人の子供教育はよく似ていたようですし、統一教会のように自論を曲げずに論破した気になる熱心さも似ていました。また、客観性を受け入れず、自分の家族に対しても社会生活でも、他人の人生を聖書で責めて否定し、独善的になって人を傷つけているのに、その加害性や当事者意識が無いところが同じです。
根底に他者否定があり、それで成り立っているところが共通です。そもそもの成り立ちが、伝統的教会への批判や否定から始まり、自分の立場の確認のために伝道しているところがあります。(以下略)
引用終了
出典:http://blog.livedoor.jp/chlife/archives/52309914.html?ref=popular_article&id=1436590-316500

私も、かつて、自称「福音派」や自称「純粋なキリスト教」の人たちから嫌なことを言われたり、いろいろ嫌な目にあわされたりしました。仁保氏が上記でおっしゃることは、私の経験からも、一つ一つ当たっていると思います。
「福音派の信仰教育と、エホバの証人の子供教育はよく似ていたようですし、統一教会のように自論を曲げずに論破した気になる熱心さも似ていました。」
氏がおっしゃる福音派(私が言う自称「福音派」の原理主義者)とエホバの証人は、たしかに似ています。

原理主義者は、マインドコントロールのような手法を使います。この教えから離れたら地獄に行くと思い込まされ、抜けられなくされるのです。
客観性を受け入れません。そして持論を曲げません。「聖書は最初から66巻です」「聖書は無誤無謬です」「進化論は間違っています」みたいに最初から答えがあるのです。ものごとを客観的に考えるのではなく、自分たちの答えに合致するように事実を解釈します。時には、事実をねじ曲げます。
家族に対しても、家族以外に対しても、聖書の言葉で人を責めます。聖書は救いの言葉というより人を責めるための道具のようです。「それは罪です」「そういう考えの人は地獄に行きます」「罪から来る報酬は死であると聖書に書いてあります」といった言葉がしょっちゅう口から出てきて、聖書を引用しながら罪や地獄で人を脅します。
自分がどれほど独善的なのか、人を傷つけているのか、まったく気づいていません。自分の言葉や行動が周りを困らせている原因なのに、自分が加害者だ、当事者だと思っていないのです。それを非難されると、「私は正しい聖書信仰に立つから非難されている。預言者たちもイエス様も使徒たちも正しいから迫害された。私もそうだ」なんて思ってしまうのです。
「地の塩、世の光」と、向いている方向が逆です。 根底に他者否定があるようです。この他者というのは人間だけでなくて、自分たちなりの「信仰」の外にあるものすべてです。社会活動、文化、科学、教育・・・・、外はみな「この世」属するもので、否定すべきものなのです。
社会活動に参加するのは神の国と神の義を第一にしていないからクリスチャンにふさわしくない。この世の文化には異教や無神論の影響があるからクリスチャンにふさわしくない。科学の中には進化論などの間違った考えが入り込んでいるからクリスチャンにふさわしくない。地上の価値観を教える教育はクリスチャンにふさわしくない。
徹底した他者否定です。自分たちの「信仰」以外の否定です。たとえキリスト教であってもエキュメニズム系(リベラルなプロテスタントやカトリック)に否定的で、憎悪むき出しの罵詈雑言を浴びせる人もいます。自分たちの解釈による「聖書信仰」の外の世界は価値がない、否定すべきだと思っているのです。
「そもそもの成り立ちが、伝統的教会への批判や否定から始まり、自分の立場の確認のために伝道しているところがあります。」これも、その通りです。
彼らは「福音的な教会」、「福音派」、「福音主義」、「正しい聖書信仰」、「正統的プロテスタント」などど自称します。自分たちを正しいプロテスタントを受け継ぐ教会だと思っているのです。
16世紀の宗教改革が伝統的教会への批判や否定から始まっている以上、プロテスタント(自称も含めて)に既存教会への批判や否定の精神があるのは当然と言えます。さらにキリスト教の起源まで遡れば、キリスト教の発生そのものが、古代ユダヤ教の律法による束縛の批判的克服を目指したものであったと言えますから、当然、キリスト教は最初から批判的宗教だったのです。
福音派の場合、特に、19世紀~20世紀初頭の自由主義神学・高等批評学の行き過ぎと思われる見解への批判が出発点だったのでしょうが、それこそ、批判が行き過ぎて、硬直化した原理主義に堕してしまった人たちがいます。私は、それはもう福音派とは呼べないカルト思考だと思うので、「福音派」と自称する原理主義者と呼んでいます。原理主義者の中には、キリスト教と呼べるのかどうかも疑問なカルトもいます。原理主義者は「自分の立場の確認のために」批判的伝道をし続けるのです。批判のための批判ですから、批判する相手がいなくても批判し続けるのです。対話すれば、それ以上批判できなくなるかもしれないので、対話しません。対話の呼びかけや説得に聞く耳を持ちません。批判こそが自分たちの存在意義なのです。エキュメニズムに対しては「否定あるのみ」です。狭い世界の中にいて、「カトリックは聖書にないリンボ界を教えているので間違っています」「マリア像を拝んでいるので偶像崇拝です」といった嘘まで言って非難するのです。嘘です。一般のカトリック信者は、リンボ界を信じているどころかリンボ界という言葉さえ知りません。マリアに対し「共にお祈りください」とお願いはしても、それは「お願い」であって像そのものを拝んだりしていません。対話しない人たちですから、実際のカトリック教会ではなく自分たちが頭の中でこしらえたカトリック教会を非難するのです。「悪口満載のお説教をする牧師達」が本当にいました。私も嫌な目に遭いました。ほとんどが自称「福音派」で、一部、他の人もいました。

「伝統的教会への批判や否定」がすべて悪いわけではありませんが、批判や否定をするのであれば客観性が必要になります。つまり、井の中の蛙が生半可な知識で外の世界を批判・否定するのではなく、外の世界を客観的に見る必要があるのです。それが出来ないのなら、批判は慎むべきでしょう。
また、そもそも自分たちの出発点はどこにあったのか、その団体の初期の理念から逸脱しないためには、出発点の確認も、常に必要となるでしょう。
(伊藤一滴)

追記 仁保氏は統一教会と書いておられますが、私はこの団体を教会と呼ぶのをためらっており、統一協会と書いています。変換ミスではありません。また、カルト思考原理主義者のことは、かぎ括弧をつけて「福音派」と書いたり自称「福音派」と書いたりして、一般の福音派と区別しています。一般の福音派には善良な人が多く、私も親切にしていただき、お世話になってきました。私は両者を分けて考えています。

追記2 キリスト教系の異端とカルトについて、ふみなる氏のサイトにある「カルト化する教会」が参考になります。
https://note.com/fuminaru/n/nf753d3854511

追記3 仁保裕介氏とふみなる氏の見解はパソコンで検索しました。
スマートフォンやタブッレットだとうまく検索できないことがあるので、それぞれ、

「終末の神の裁きが近い」と人集め 仁保裕介

カルト化する教会 ふみなる

で検索してみてください。

食前の祈りは、いいことなんだろうか?

今は、コロナ禍で控えていますが、聖書好きの私は、聖書についての話を聞きたくて、誘われるとキリスト教の集会に参加することがありました。遠くの集まりだと、教会やキリスト教団体の宿泊施設に泊めていただくこともありました。そんなときは、他の宿泊者の方々とお話ししながら一緒に楽しく食事をしました。

食事の前に、食前の祈りがありました。
感謝して食事をいただくのはいいことだと、私は素朴に思っていたのですが・・・・。

アーマン著『破綻した神 キリスト』を読みながら「食前の祈り」について考えました。

食事を神様に感謝するのは、果たしていいことなのか、と。


考えながら、頭に浮かんだのはルカ福音書の次の箇所です。

こうあります。

18:9自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。18:10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。18:11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。18:12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 18:13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人(つみびと)のわたしを憐れんでください。』 18:14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(新共同訳)


もし、現代の人がこんなふうに祈ったら、どうでしょう。
「神様。私はこうしてあなたから食事を与えられています。感謝します。私はあなたから守られて生きています。感謝します。私が、途上国の貧民のような、飢える者、教育を受けられない者でないことを感謝します。紛争地域の住人でないことを感謝します。また、在留外国人のような、法的に国民として守られない者でないことを感謝します。病人でも障害者でもないことを感謝します。福島県民のように放射能の不安に怯えることもなく沖縄県民のように米軍基地の負担に苦しむこともないのを感謝します。私は仏教徒でもイスラム教徒でも無神論者でもなく、洗礼を受けたクリスチャンであることを感謝します。私は聖書を読み、日々お祈りし、毎週教会に通い、献金し、維持費を払い、教会の奉仕に参加し、月に一度は聖餐を受けています。だから、天国行きが保証されています。ありがとうございます。ハレルヤ!」

もちろん、こんな祈りは聞いたことがありませんし、まさか、こんな祈りを捧げるクリスチャンはいないでしょう。でも、食事は神からの恵みと考えて感謝し、自分たちが日々守られて生きていることに感謝するというのは、つきつめると、上記の祈りのようになるのではないでしょうか。

考え過ぎかもしれないし、あまりにも斜(はす)に構えた見方かもしれないと思いながらも、それでも私は考え込んでしまったのです。


「天のお父様、日々の食事をありがとうございます」って?
十分に食べられない人たちがいるんです。

「天のお父様、今日も守っていただきありがとうございます」って?
守られていない人たちがいるんです。

何の悪意もない人たちを責めるようなことは言いたくないのですが、何の悪意もなく感謝の祈りを捧げるクリスチャンたちは、この同じ時代の同じ地球上に、飢えている人たち、危険にさらされている人たちがいることを考えて祈っているのでしょうか。


「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言い切った宮沢賢治のほうが、よっぽど、真の宗教者だったのではないかと思えてきたのです。

(伊藤一滴)

神は全能である 神は愛である この世には苦しみがある

聖書の中の矛盾点についてわかりやすく書いてある本はないだろうかと探していて最近見つけたのが、アメリカの新約学者バート・D・アーマン(Bart D.Ehrman)氏の著作です。(『捏造された聖書』、『破綻した神 キリスト』、『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』等)

今、アーマン著『破綻した神 キリスト』(松田和也氏訳)を読んでいるのですが、非常に読みごたえのある本です。

この本の中に、
「神は全能である 神は愛である この世には苦しみがある」という、
この3つが3つとも成り立つのかという問いが出てきます。

2つなら、成り立つでしょう。

1.神は全能である 
2.神は愛である 
3.この世には苦しみがある

仮に、1をバツにしてみましょう。
「神は愛であるが、神は全能ではない、だからこの世には苦しみがある」
矛盾のない文が成り立ちます。ただし、キリスト教の説く神は全能なので、1をバツにはできません。

仮に、2をバツにしてみましょう。
「神は全能であるが、神は愛ではない、だからこの世には苦しみがある」
恐ろしい神様です。これも文としては矛盾なく成り立ちますが、愛でない神もキリスト教の教えに反します。

仮に、3をバツにしてみましょう。
「神は全能であり、神は愛である、だからこの世に苦しみはない」
これも文としては成り立ちますが、事実ではありません。この世には多くの苦しみがあります。「苦しみはその人を向上させるための試練」といった理解が成り立たないような、大変な苦しみもあります(※1)。


私なりの考えで4を付け加えてみます。

1.神は全能である 
2.神は愛である 
3.この世には苦しみがある
4.そして神は無力である

当然、1と4は両立するのか、と問われることでしょう。
「聖書にこう書いてある」といっても、解釈のしようで何とでも言えます。聖書を引用してまるで正反対のことも言えるのですから。聖書から導く見解は、理屈のつけようでどうにでもなるのです。
私は、次のような理屈も可能ではないかと思います。


キリスト教における神の全能とは、神のいつくしみにおける全能のことである。神は、全能のいつくしみで人の心に働きかけてくださる。私たちは、その働きかけに応えるのかどうか、応えるならばどう応えるのか、それが問われている。
旧約の昔、神は天から声を発したり、預言者を用いたりして直接的に民に語りかけておられた。また、世に対し、人に対し、直接の行動をなさっておられた。しかし、イエス・キリストの受洗以降、父なる神からの直接の語りかけや直接の行動はほぼなくなった。
キリスト以降の神の全能とは、政治や社会や軍事等における全能ではなく、病気や怪我やさまざまな事故や困難から人を守ってくれるような全能でもない。そういった面で、神は無力だ。キリスト以降の神の全能とは、超自然的な全能ではなく、いつくしみにおける全能であり、いつくしみを感じた人間に決断をせまるものなのだ。人が神に従うとは、超自然的な力にたよることではなくて、神の働きかけに対し、イエスのメッセージに聞き従うという形で、日々、決断し、応えていくことなのだ。

神にどこまでも従うなら、排除されたり、仕事を失ったり、場合によっては命を失うかもしれない。
神に従うには、その覚悟がいる。そうやって、神に従うことが信仰なのだ。

神は無力だ!

キリスト教信仰は、豊穣、金運、繁栄、安全、無病、試験合格、良縁などを招くものではない(※2)。現世の御利益(ごりやく)とは凡そ無縁である。また、キリスト教信仰は、天国行きを目的としたものでもない。天国に行きたいから信仰するというなら、天国に行くことが信仰の目的となる。天国に行くという御利益を目的とした信仰になってしまう。それは、天国に行きたいから免罪符を買うのと変わらない。
キリスト教信仰は、御利益のための信仰ではない、神の全能のいつくしみへの日々の応えである。

神の国を、救われた人が死後に行く別世界のように考える人が多いが、神の国は別世界ではなく、神の全能のいつくしみへの日々の応えである。「ここにある、あそこにある」というものではなく、まさに「内にある」ものなのだ。

どうですか、これで。

(伊藤一滴)


※1 20世紀になってからだって、アーマン氏も述べておられるナチスの大量虐殺をはじめ、数々の無辜の死がありました。今だって、この世界には深刻な問題の数々があり、飢餓に瀕したり、むごく殺されたり、深い傷を負ったり、重い病や障害で苦しんだりする人たちがいます。「その人を向上させるための試練」なんて言えない苦しみもたくさんあります。

※2 ただし、場合によっては良縁を招くこともあります。教会やキリスト教の集まり、キリスト教系の学校、ボランティア活動などで出会い、結婚なさった方々もおられます。カルト思考原理主義者(自称「福音派」やエホバの証人等)は別として、一般のキリスト教系の団体や集まりで出会い、幸せな家庭を築いた方々は多数おられます。まあ、そういう夫婦の多くは、儲かる人生ではないでしょうけれど。


追記:日本語訳が出ているバート・D・アーマン氏の著書『捏造された聖書』を読み終え、『破綻した神 キリスト』と『キリスト教成立の謎を解く 改竄された新約聖書』を読書中です。どれも、すこぶる読みごたえがあります。
著者のアーマン氏が自分で言っておられますが、かつて氏は熱心なキリスト教原理主義者で、原理主義の教えをかたく信じていたそうです。聖書の無誤無謬を信じ、ムーディ聖書学院で学んだ後に福音派の大学に進んだ筋金入りの人でした。そのアーマン氏が徹底的に聖書を学ぶ中でどのように目を覚ましたのか、上の3冊はその記録でもあります。もちろん、どれも学問的な検討を踏まえたものです。

氏は、福音派と称する中でも特に保守的な原理主義者でしたから、徹底した聖書研究で聖書の成立と写筆の真実を知り、それまで信じてきたこととのギャップに苦しんだのです。それ以上に、神は全能で愛だというなら、なぜこの世に耐え難い苦しみの数々があるのか、答えられなくなってしまったのです。もし、もっと柔軟で穏健な福音派だったら、リベラルな主流派だったら、カトリックだったら、果たして、信仰を捨てたでしょうか?
氏が拒絶したのは、聖書の文字面をを文字通り信じ「罪の意識」と「地獄の恐怖」で人を縛る硬直化した原理主義的「信仰」ではなかったのでしょうか。

氏ははっきりと「信仰を捨てた」とおっしゃるのですが、福音書に記されたイエスの隣人愛の教えが、氏の著作からひしひしと伝わってくるのを感じます。アーマン氏は良心的で、隣人愛を重んじる人なのでしょう。だからこそ、「罪の意識」と「地獄の恐怖」で人を縛る「信仰」を捨てたのでしょう。
聖書の文字から「罪の意識」と「地獄の恐怖」導きだして人を脅し、人を縛るのは、まさに、文字による束縛です。それは現代の律法主義、現代のファリサイ派(パリサイ派)です。

追記2:誤字、語の重複、変換ミス、その他の変な表記や不適切な箇所は、気づいたときに直してます。載せたばかりの時だと、何箇所もミスがある場合もあって、どうもすみません。今回もミスが多くて、自分で気づいた箇所は一通り直しました。お恥ずかしい。(2021.7.6)

追記3:アーマン氏が信仰を捨てたのは「なぜこの世に耐え難い苦しみの数々があるのか、答えられなくなってしまった」からです。聖書の学問的な研究で信仰を捨てたのではありません。うっかり、アーマン氏は学問的な聖書研究で事実を知って信仰を捨てたかのように書いてしまった箇所がありました。すみません。訂正します。(2021.7.10)