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山形県 豪雨

昨日(2020.7.28)、山形県は大変な大雨で、道路があちこち冠水し、川の近くでは洪水も起きました。
私の住む集落も、避難勧告が出ました。

私の家は山里の高い場所にあるので洪水の被害はありませんが、土砂崩れが起きて、家の前の道が通れなくなってしまいました。
今月はずっと雨続きでしたから、地盤もゆるんでいたのでしょう。
知らずに人が来たら危ないので、取り急ぎ、カラーコーンを置きました。

仕方がないので迂回しています。

町役場に電話して、事情を説明しました。
あちこちで土砂崩れが起きているようです。

迂回がちょっと不自由なのですが、家は大丈夫です。
電気、ガス、水道、ネット回線、全部大丈夫です。

避難勧告が出ているのに、郵便局員さんが迂回して郵便物や荷物を持ってきてくれて、ありがたいやら、申し訳ないやら。
日本の郵便局はすごい。

(一滴)

福音派の熱狂 異言

福音派のことをもう少し書きます。

どちらかと言えば主流派(リベラル)は、冷静沈着で、静かに祈ります。伝道熱心でないため、教勢は伸びません。学問研究や教育、社会的な活動などで知られています。
どちらかと言えば福音派(保守)は、感情がこもっていて、力強く、時に激しく、熱狂的になります。伝道熱心で、かつて急速に拡大しました。

カルトも「異端」も熱狂的になりますから、
熱狂的になることが正しさの証しではありません。
でも、逆も言えません。
激しいから、熱狂的だから、だから間違っているということにもなりません。

信仰にかかわらず、人は正しいと信じれば、時に熱狂的になる場合があります(デモなど)。
それとは別に、スポーツやゲームなどの勝負や、大勢が集まる祭りやコンサートなども、人々を熱狂的にします。
日常、我慢の多い暮らしをしている人が、何かに熱狂してストレスを発散することもあるでしょう。
複数の要素が混じり合うこともあるようです。

福音派の場合は、
自分たちの教義を正しいと信じる確信、
この世の悪・誘惑との勝負(人によってはリベラル派の聖書学や神学との勝負、進化論との勝負)、
集まって共に祈ったり大声で賛美したりすることによる、祭りの要素、
この世の現実の中で感じているストレスの発散、
他もあるかもしれません。

参加者は「聖霊の働き」を感じているのかもしれませんが、私は、デモや、勝負や、祭りやコンサート、日常のストレスの発散等と共通の熱狂を感じました。そうした熱狂はカルトや「異端」の熱狂とも共通します。
熱狂してはいけないとは言いませんが、熱狂は「聖霊の働き」を証明するものではありません。


今も、「聖霊の働きによって異言を語る」人たちがいます。聖霊派と呼ばれる人たちで、大きく分ければペンテコステ派とカリスマ運動があります。どちらも、原理主義が台頭した20世紀初頭のアメリカで始まりました。(当てはまらない場合もありますが、一般には広義の福音派に、聖霊派も含まれると考えてください。私は、「極端になった原理主義から分かれた人たちが福音派を形成した」と考えていますが、聖霊派こそが福音派の源流と考える人もいます。なお、自称「福音派」の一部が、聖霊派を異端視して攻撃してくることもあります。)

以前、私は、ペンテコステ派やカリスマ運動の人たちからお話を伺ったことがあります。限られた経験なので断定的なことは言えませんが、少なくとも私がお会いした人たちは、排他的でない穏健なクリスチャンに見えました。
「知らないはずの外国語で話した人もいた」という話も聞きましたが、それは話に聞いただけで、目の前で見たわけではありません。
ペンテコステ派の礼拝は、だいたいは普通のプロテスタントようですが、目の前で異言を語って祈る人もいました。真剣に信じて祈る人に対して不謹慎かもしれませんが、私は、タレントのタモリさんの「ハナモゲラ語」(タモリの「外国」語)を思い浮かべていました。
異言は、自分にも出来そうな気がして、家に帰ってから誰もいない部屋で真似してみました。少しやってみたら、それっぽい「異言のような言葉」が口から出てきました。タモリさんでなくとも、異言を人為的にやろうとすれば似たことができます。

カルト問題への取り組みで有名な村上密牧師も聖霊派の方ですし、私が接した聖霊派の方々も温和な感じで、聖霊派に対して何ら悪い印象はありません。聖霊派はキリスト教の中のあり方の一つだと思います。(聖霊派の一部のカルト化はまた別の問題です。)
ただし、異言もまた「聖霊の働き」を証明するものではありません。

(伊藤一滴)

福音派とされる連続体 大きくは2つ

キリスト教に、西方教会、東方教会があり、
西方教会に、カトリック、プロテスタントがあり、
プロテスタントに、主流派、福音派があります。

プロテスタントの主流派は16世紀の宗教改革の流れを汲み、その後の近代科学の発展の中で、科学的な研究成果を踏まえた上で聖書学研究や神学的な論考を重ね、現代に至っています。
一方、聖書を近代の科学的な研究方法で検討したりすれば信仰が脅かされるのではないかと感じた人たちがいて、特に20世紀初頭のアメリカでキリスト教原理主義(Fundamentalism)が台頭してゆきました。根本主義とも訳されます。原理主義は、初期には自由主義神学・高等批評の行き過ぎと思われる見解を批判してキリスト教の原理(根本)に立ち返ろうとする動きでしたが、やがて極端になってゆき、ついていけなくなった人たちが、より穏健な新福音主義の流れを興しました。福音派のすべてではありませんが、福音派と称する人たちの多くはこの新福音主義の系譜です。(その後、「新」をつけずに単に福音主義とも呼ばれ、ルターの福音主義と言葉が重なっています。福音主義という言葉がどちらの意味で使われているのか注意が必要です。一部には意図的に混同させているのではないかと思える人たちもいます。)
福音派は、極端化した原理主義の批判的克服だったはずなのに、この福音派の穏健な流れに満足できない人たちもいて、中には先祖返りのように原理主義に向かう人たちが出てきました。だから福音派と称する中に原理主義寄りの人たちがいるのです。原理主義的精神性が濃く表れた人たちとも言えます。やや原理主義寄りくらいならともかく、自称「福音派」の中には原理主義者(fundamentalist)そのものやカルト化した人たちもいて、そもそもそうした人たちをキリスト教と呼んでいいのか疑問ですから、いくら彼らが「正統的プロテスタント」とか「正しい聖書信仰に立つ福音主義」とか「福音派」とか「福音的な教会」とか名乗っても、私は(原理主義者でない一般の)福音派とは分けて考えています。
「福音派の中の原理主義寄りの人」と「自称「福音派」の原理主義者やカルト」と、どこで線を引くのかは難しいのですが・・・・。

整理すると、
伝統的なカトリック(西方教会)と正教会(東方教会)、
16世紀に西方教会から派生したプロテスタント、
19世紀末から20世紀初頭にかけてさらにプロテスタントから派生した原理主義(初期にはキリスト教の原理・根本に立とうとする信仰運動、やがて極端化)、
原理主義から分かれた福音派、
福音派の一部の再原理主義化(先祖返り)、さらに一部はカルト化、
となります。
(わかりやすいようおおまかに書いたので、実際はもっと細かく分かれます。)


唯一の神を主張しながら、教会はいろいろです。
クリスチャンたちは自分が所属する教派をキリスト教の中心と考えがちですが、実は、それぞれにいろいろです。
教派もいろいろ、福音派とその周辺もいろいろです。

所属は主流派だが、考えが福音派寄りの人たち、
所属は福音派だが、リベラルな感覚の人たち、
穏健で善良な一般の福音派、
人はいいがやや保守的な福音派、
きわめて保守的な福音派、
原理主義に近い福音派、
明らかな原理主義者、
カルト化した人たち、
狂信的な聖書カルト、
狂気に憑かれた人・・・・。

福音派と名乗る人やその周辺の人たちの例です。もっといるでしょう。

間にはっきりとした線引きはないと思います。
連続体のイメージです。
白い色がいつの間にか黒になるような、間にうすい灰色からうんと濃い灰色まであって、色むらもあるイメージです。

私は、福音派と名乗る人たちはいろいろだと感じていますが、それは、細かくはっきり分類できるということではなくて、間にはっきりとした線引きはないけれどいろいろだということです。

日本の福音派の団体は加盟を希望する教会を厳格に審査していないようで、穏健な福音派も、原理主義者も、カルトまで、団体に加盟している状態です。

教派・教会でも分けられません。同じ教派・教会に、穏健な福音派と原理主義者が混在することがあります。

福音派と称される人たちに「狭義の福音派」と「聖霊派」がありますが、どちらにも穏健な人も原理主義者もいて、一部にカルト化もみられます。
教派・教会で分類してもあまり意味がありません。

ネット上に危険な教会のリストもありますが、多くは個人の主観的な見解か、自分が所属する教派の立場から見て、違う考えの教会を「危険な教会」として載せているだけです。原理主義者がエキュメニズム派を危険な教会呼ばわりしているものもありますし、原理主義者が別の原理主義者を攻撃しているリストもあって、使い物になりません。逆から見たら逆に見えるだけです。原理主義者も一枚岩ではないのです。

エキュメニズム(教会再一致運動)を敵視する教会やグループには近寄らない方がいいでしょう。(原理主義者の側からは、それこそ、「それはあなたの主観的な見解」「逆から見たら逆に見える」と言われてしまうかもしれませんが。)

もし教会で話を聞いてみたいのなら、エキュメニズムを方針とする主流派(日本基督教団など)かカトリックの教会をお勧めします。正教会でもいいのですが、日本では少数です。エキュメニズムの側は日本聖書協会の聖書(新共同訳、聖書協会共同訳など)を使っている人たちです。できれば複数の教会の話を聞いたほうがいいでしょう。(リベラルの代表のように言われる日本基督教団ですが、もともとプロテスタント諸教派が合同した大きな団体で、今も内部には福音派寄り、聖霊派寄りの人たちもいます。たまたま行った教会がそうした教会に当たるかもしれません。日本基督教団にはカルト教会はないと思いますが、中には問題のある牧師もいるかもしれません。)

福音派と名乗る教会(新改訳聖書を使っている人たちが多い)の中に、原理主義者やカルトの集団もみられます。ただし、福音派には穏健で善良な信者も多数いますから、福音派だから駄目だとは言えません。
カルトじみた人たちは、すぐにはカルト色を出さず、笑顔で迎えてくれたりするので、いい人たちのように見えてしまいます。非クリスチャンはもちろん、クリスチャンだって、すぐに見分けるのは難しいでしょう。
福音派の教会に行くのなら信頼できる人の紹介か、信頼できる人と一緒に行くのがいいと思います。

「リベラルなプロテスタント(主流派)やカトリックの教会を訪問するときに新改訳聖書を持って行ったら叱られるでしょうか?」と言っていた人がいましたが、杞憂です。叱られたりしません。エキュメニズムの側は、違う訳の聖書を持ち込んだからといって叱るような人たちではありません。(リビングバイブルやこれと似た「訳」はやめたほうがいいでしょう。叱られはしないでしょうが、聖書が原形をとどめないくらい書き換えられています。わかりやすく訳したのではなく、書き換えたのです。聖書についての話をするなら、訳として使えるものが必要です。)
福音派と名乗る教会の一部に、新共同訳や口語訳聖書などを持ち込むと、「それは学者の訳で信仰的な訳ではありません」「福音的な訳ではありません」みたいなことを言う人がいますが、逆はないです。
私もかつて、中部地方や関東地方にいた頃に、新改訳聖書を持って主流派やカトリックの教会を訪問しましたが、叱られたことなんて一度もありませんでした。「それは原理主義者の訳で学問的な訳ではありません」なんて言われませんから、ご心配なく。

新改訳聖書(初版)も、努力が感じられる訳であり、駄目な訳というわけではありません。私は今も使っています。

新改訳2017は、読者をある種の解釈に誘導しようとする意図が感じられ、個人的には好きになれません。でも、それも訳の範囲内というならそうなのでしょう。私の好みはともかく。
リビングバイブルやこれと似た「訳」は、聖書の全体的な書き換えであり、翻訳と言うより翻訳風の作文ですから、聖書の訳としては使えません。


ひじょうに大雑把な分け方ですが、福音派と名乗る人たちの中に、「聖書を信じ、穏健で善良で、愛の心で人に接する人たち」と、「聖書を自分たちの先入観に合わせて解釈する、独善的、排他的、不寛容、攻撃的な人たち」がいます。その段階はいろいろで、はっきりここだと線引きはできません。

私は前者を福音派とか穏健な福音派と呼び、後者を自称「福音派」の原理主義者やカルトと呼んで区別しています。
ただし、両者の境目ははっきりせず、白がいつの間にか黒になっているイメージです。

これまで何度か、福音派と原理主義者の区別を書きました。
はっきりここだと線は引けませんが、方向が違うのです。
どこかに分水嶺がありそうですが、ここだとは言えません。
でも、両者は違うのです。


日本語版ウィキペディアの聖書やキリスト教関係の用語説明の中には、特定の立場から書かれていて客観性に欠けるものもありますが(その理由は前回書いた通り)、「宗教右派」の項に以下の記述を見つけました。これは当たっていると思うので、以下に引用します。


日本語版ウィキペディア「宗教右派」より(2020年7月20日現在、注は省略)

引用開始

福音派と原理主義の考えには大きな違いがある。飯山雅史によると、福音派は楽観主義であり人間が努力すれば、社会はよくなっていくとし、社会と積極的に関わっていくことを選択した。一方、原理主義者は悲観主義であり人間がいかに努力してもイエスによる救済まで世界は救われないとして、政治・社会から背を向けてきた集団であったという。

(略)

飯山雅史「米国における宗教右派運動の変容―2008年米国大統領選挙と福音派の新たな潮流―」 (pdf) 『立命館国際研究』第20巻第3号、立命館大学、2008年、 337-363頁、2017年5月18日閲覧。

引用終了


福音派(穏健な福音派)は世に関わり人に関わるので他者を大切にします。「愛の心で人に接する人たち」です。「人間が努力すれば、社会はよくなっていく」と考え、イエス様が示された理想に、自分も、自分の周りも含む社会全体が近づいていくことを願って、祈りながら活動しているのです。
この人たちは相手の立場に配慮しながら、相手の話を親身になって聞いてくれますし、一方的に相手を非難したりしません。
彼らの祈りは、「天のお父様、より良き世界のために私たちを用いてください!」という感じです。
私は、そうした福音派の方々に助けられてきました。私が苦しい思いをしていたときに、親身になって話を聞いてくださり、祈り、励まし、助言をくださいました。私は、個人的には、主流派(リベラル)よりも福音派に助けられてきました。福音派の牧師先生や信者さん方は私の恩人です。
そうした人たちは、アシジのフランチェスコやモロカイ島のダミアン神父、マザーテレサらを尊敬していました。信仰を持って社会的な実践に取り組んだ人たちは教派を超えて敬愛されるのです。
福音派内にみられる聖書無誤論や進化論否定論には賛成できませんが、私は、福音派的な信仰に対して何ら悪い感情はありません。
(私自身は多くを知り過ぎてしまい、福音派の信仰に加わることはできませんが。)

なお、教義が原理主義に近くとも「人間が努力すれば、社会はよくなっていくとし、社会と積極的に関わっていくことを選択した」人たちもいます。私はそうした人たちを福音派と呼び、原理主義者(ファンダメンタリスト)とは言いません。

原理主義者やカルトも自分たちを「福音派」と自称していますが、彼らは政治にも社会にも無関心で、「まもなく世の終わりが来るのですから世の中に関わっても無意味です」みたいな感じです。人の言葉に耳を傾けず、ひたすら自分たちの先入観を優先する「独善的、排他的、不寛容、攻撃的な人たち」です。
私はある原理主義者から、「救いも神の国の実現も神の御業であって、人間の側が神様に協力するなんてできません」と言われたことありますが、それって、自分は困っている人のために何もしないってことですよ。自分は指一本動かそうとせずによく言うよと思いました。まあ、言葉どおりの人でしたね。現代のファリサイ派(パリサイ派)を見るようでした。
その人の仲間が、仏教団体の社会活動を、「そんなのは罪びと同士の傷のなめ合いで、救いには至りません。唯一の救いはキリストの贖いを信じることです」なんて言ってましたね。そうやって社会への取り組みを鼻で笑って小馬鹿にするんです。クリスチャンによる福祉活動や人権擁護運動、平和運動まで馬鹿にしていました。「あの人たちは信仰より社会活動を重視する社会派ですから、正しい信仰態度とは言えません」みたいなことを言って。そう言う原理主義者にとっての「信仰」って何でしょう。キリストの十字架の贖いは自分が地獄に行かずに済むための免罪符ですかね。それが「正しい聖書信仰」?

原理主義者らは一般に政治や社会に無関心ですが、例外は、進化論反対、妊娠中絶反対、同性婚反対などで、これらに関しては政治や社会に介入してくることもあります。でもそれは、科学への関心や人命尊重ではなくて、社会をよりよくしたいという思いでもなくて、単に自分たちのイデオロギーを守りたいだけのように見えます。彼らの社会的な無関心は重症です。
自称「福音派」の原理主義者の中に、「私たちは原理主義とは沿革が違います」と言う人もいますが、かつての原理主義とほぼ同じ主張をしているので、いくら自分たちを「福音派です」と言っても原理主義者です。自分たちを福音派と言い張るのなら、福音派という言葉の定義に「キリスト教原理主義や聖書カルトを含む」と付け加えないといけなくなります。
(福音派とは何か、については、日本語版ウィキペディアには福音派の側の見解(それも福音派内でも保守的と思える見解)が載っているだけなので、コトバンクをご覧ください。「知恵蔵」の記事が載っています。「コトバンク 福音派」で検索)

原理主義者の宗教は、治療効果のない鎮痛剤(あるいは麻薬)のようです。鎮痛剤で心の痛みをごまかし、感じにくくするうちに、傷はますます悪化してゆきます。そんな宗教は滅びそうな気がするのですが、鎮痛剤を求めてやって来る人たちが絶えないのでいつまでも続いてしまうのでしょう。それは、それだけ世の中に苦しみが多いからでしょう。

プロテスタント主流派やカトリック(エキュメニズム派)は、エリート教育や聖書学研究などには熱心だけれど、世の苦しみにきちんと答えてきたのでしょうか。苦しむ人にとって、原理主義はわかりやすく、自分を受け入れてくれると感じられ、そちらに流れていったのではありませんか。

苦しいときに宗教にすがってはいけないとは言いませんが、アヘン的な宗教に手を出すべきではありません。アヘン的な宗教は一時の心の鎮痛で、傷は癒えません。だんだん強い薬が必要になって、しまいには心をひどく傷めてしまいます。


原理主義者でない一般の福音派(穏健な福音派)と自称「福音派」の原理主義者やカルトはかなり違うのですが、ここまでは福音派でここからは原理主義者だと簡単に線は引けません。
でも、福音派と名乗る人たちを大きく見れば、この2つがあって、向かっていく方向がまるで違っているのです。

以前、「平和島」という詩を引用しました。
あの詩を使って譬えると、こんな感じです。

平和島には王であるイエス様がおられると聞いて、平和島に行きたいと思いました。
港に大勢の人がいたので「平和島はどっちですか?」と聞きました。
カトリック、正教会、プロテスタント主流派、穏健な福音派、みんな「あっちです」と答えました。
わずかな違いはあっても、みんなほぼ同じ方向を指していました。
原理主義者・カルトだけが、まったく違う方向を指していました。彼らは「私たちだけが正しいのです。他はみな間違っています」と言いました。そっちに行ったら、平和島からどんどん離れ、見えなくなってしまうのに。

平和島:http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/11/post-e773.html

(伊藤一滴)

キリスト教の教派

このブログをどなたがお読みなのか私の側からはわかりません。

どの記事が特に読まれているのかも、はっきりとはわかりません。

グーグルでこのブログを検索すると、キリスト教関係の記事が上位に出るので、キリスト教系が多く読まれているのではないかと思います。

世に出回っているキリスト教系の情報は限られています。
発信される情報は多いのですが、そのほとんどが教会の案内や個人的な見解など、特定の立場からのキリスト教の紹介です。
どの教派も、自分たちの教派を紹介するときに、悪いことは言わず、いいことしか言いません。
「キリスト教年鑑」なども、教派側の言い分をそのまま載せています。
本当はどうなのか、知りたい話に行きつくのが難しいのです。知っている人には常識的な話も、まったく知らない人はなかなか知るチャンスがないのです。

事実だから言います。
今日、「カトリックとプロテスタント」という分け方はあまり意味がありません。
「カトリック」と「プロテスタントの主流派」は対立していないからです。

むしろ、
プロテスタントに主流派(mainline、リベラルな立場)と福音派(evangelical、保守的な立場)があって、この両者は別の宗教ではないかと思えるくらい違っています。この両者の違いの方が重要です。(福音派は、福音派と言えば通るのですが、主流派の呼び名は統一されていません。片仮名でメインラインと書く人もいますし、伝統派と呼ぶ人もいます。以前は、日本キリスト教協議会(NCC)系とも呼ばれました。ここでは、mainlineを訳して主流派と書きます。)

一部に重なる部分もありますが、ほぼ、きれいに教会も団体も出版社も2つに分かれています。
それにしても、まあ、どっちもプロテスタントのキリスト教を名乗りながら、使っている聖書の翻訳も、聖書辞典も、聖書注解も、キリスト教系の雑誌まで、まるで対称のように2つに分かれているとは!

現代のカトリックはリベラルになってきていますから、リベラルなプロテスタント主流派とは対立関係にありません。両者は共にエキュメニズム(教会再一致運動)の側に位置しています。両者を総称してエキュメニズム派と呼ぶこともあります。この両者は、日本では多くの場合、日本聖書協会の新共同訳聖書を使用しています。

それに対し福音派には反エキュメニズムの主張がみられます。でも中にはエキュメニズムに理解を示す福音派の人もおりますから、福音派と言っても一枚岩ではありません。
なお、新改訳聖書は福音派の独自の訳です。初版~第3版、そして新改訳2017と改訂され、私見では改訂されるたびごとに悪くなっていくように感じられます。

カトリックは福音派を嫌ったりしませんが、福音派の一部(あるいは自称「福音派」)がカトリックを嫌って噛みついてくることがあります。そのほとんどが的外れな非難で、非難されたカトリックの側は戸惑います。「カトリックはマリア像を拝んでいるから偶像崇拝です」とか「聖書に出てこないリンボ界を主張しているから間違っています」といった非難です。あとは、戦前の本からの孫引きみたいな、昔のカトリックの問題点の攻撃です。説明しても聞く耳を持ちません。対話しない人たちですから、現代の現実のカトリック教会を批判しているのではないのです。現代の一般のカトリック信者が知らないような昔の話と正式な教義ではない一部の神学説を混ぜて、誤解や先入観も混ぜて、自分たちが頭の中で作り出したカトリックを攻撃してくるのです。「自分たちは正しい聖書信仰に立っているので、間違った人たちの話を聞く必要はない」ということのようです。そういう「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」に、「相手の話を聞きもせずに非難するのはおかしいですよ」と私が言ったら、「いいえ、カトリックの話は聞いています」と言うんですね。でもよく聞いてみたら、一人のカトリック信者から一度話を聞いただけでした。司祭でもない一信徒からたった一度話を聞いたくらいで「カトリックの話は聞いています」って、何を言っているのかと思いましたよ。他の「正しい聖書信仰」の人たちも似たり寄ったりでした。

ほとんどのカトリック信者は、プロテスタントの教派の見分けなどつきません。「プロテスタントもいろいろですね」みたいな感じです。

こうした福音派の一部(あるいは自称「福音派」)は、プロテスタント主流派(リベラル)に対しても攻撃的で、「自由主義神学」というレッテルを貼って噛みついてきます。この場合の「自由主義神学」というのは、「自分たちの神学(つまり原理主義的な考え)以外の神学」のことであり、一般に言う19世紀の自由主義神学のことではありません。彼らは、カトリックもリベラルも異端派もみな一緒くたにして攻撃してきます。
どうも自分たちだけが正しい聖書信仰に立っていて他は全部間違いだと思っているようです。
「福音主義」という言葉も「自分たちとその仲間」という意味で使っていて、ルターが言った福音主義(聖書中心主義、プロテスタント)という意味とはちょっと違います。
まあ、そういう教会やグループには近づかないことです。イエスの姿勢とは違いますし、聖書の勉強にもなりませんから。

福音派はいろいろです。他教派の見解を聞きに行く人もいるし、カトリックと仲の良い人もいます。私が知っているある福音派の信者はカトリックととても仲が良くて、修道院に泊まったり、一緒に祈ったりしていました。
最近は、福音派のいのちのことば社なども、他の教派に配慮した物品を扱うようになってきました。映画のDVD「ローマ法王になる日まで」、「夜明けの祈り」、「マザーテレサからの手紙」なども扱っていました。(昨年末のカタログを見ています。品切れになっていたらすみません。)
いろいろですから、福音派はこうだとレッテル貼りはできません。

東方教会(正教会)は日本では少数です。現在、正教会の指導的な人たちは、カトリックやプロテスタント主流派と対立はしていません。

歴史的沿革としては教会の東西分裂があり、ローマを中心とした西方教会とコンスタンティノープルを中心とした東方教会に分かれ、やがて西方教会(ローマカトリック)からプロテスタントが生じました。

ですから、
東方教会と西方教会がある(少数ですが、他もあります)、
西方教会に、カトリックとプロテスタントがある、
プロテスタントに諸派がある、
となります。

プロテスタント諸派は沿革が近ければ考えも近いかというと、そうでもないんです。沿革が近くて名前も似ているけれど考えがかなり違うこともあります。

プロテスタントの考え方を大きく分ければ、主流派(リベラル、エキュメニズム)の側と、福音派があります。
大きく分ければ、主流派と福音派の2派しかない、とも言えます。
両者はかなり違います(一部、中間的な立場もあるようですが)。
主流派は普通「私たちは主流派です」なんて言わないので、「おたくの教会は主流派ですか?」と聞いても「はい、主流派です」とは答えないかもしれません。福音派かそうでないかを聞いた方が話が通じるでしょう。福音派は、「私たちは福音派です」と名乗っています。福音主義とか、福音的な教会といった言葉が使われることもあります。その場合、「福音主義」や「福音的な」の「福音」は、「福音派と名乗る自分たちやその仲間にとっての福音」という意味です。そういう意味なので、「カトリック教会は福音的ではありません」「日本基督教団は福音的ではありません」「口語訳聖書は学者が学問的に訳したもので、福音的な訳ではありません」といった言葉が出てくるのです。
例外もありますが、日本のプロテスタント主流派は日本聖書協会の聖書(特に「新共同訳」)を使うことが多く、福音派は「新改訳」を使うことが多いので、使っている聖書の訳でだいたい見分けられます。
主流派は「キリスト者」という言葉を好み、福音派は「クリスチャン」という言葉を好みます。祈りもそれぞれに特徴があります。「キリスト者」と「クリスチャン」が対立するのではなく、対話を深めてほしいと、私は思うのですけれど・・・・。
主流派の学生が言ってました、「僕たちが福音派に対話を呼びかけても福音派は応じない。僕たちは福音派を排除しないのに、福音派が僕たちを排除する」って。

主流派は、リベラルな立場であり、知性・理性を重んじる人が多いようです。牧師は宗教家と言うより学者や教師のような感じです。実際に大学や高校などで教えている牧師もいます。人との関係もあっさりした感じで、熱烈な伝道活動もなく、教勢も伸びません。彼らには、現代の世界観を感じます。

福音派は、信仰的には保守です。聖書の記述を文字通りに信じようとする熱い信仰を感じます。信者同士の人間関係は濃く、伝道熱心です。
全員がそうだとは言いませんが、超自然的な現象を強く信じている人たちが多いようです。聖書を文字通りに信じようとすればそうなるのでしょう。天使も悪魔も奇跡もみな具体的な現実だと信じられていた古代・中世のような世界観を感じます。
聖書に書いてあるかどうかをとても気にする人が多く、「そんなことが聖書のどこに書いてあるんですか?」と、ことあるごとに言う人もいます。なんか、カルヴァンを極端にしたような印象を受けたこともありました。

何度も言いますが、福音派もいろいろです。
知的で穏健な人たちもいますが、かなり保守的な人もいます。
極端に保守的で、原理主義寄りの人もいます。
さらに、「福音派」と称する人たちの中に明らかな原理主義者や狂信的な聖書カルトまでいます。(『「信仰」という名の虐待』(いのちのことば社)参照)

私は、福音派と原理主義者(一部はカルト)は、分けて考えるようにしています。
原理主義者やカルトも「福音派」と名乗り、福音派の団体に加盟していることもありますから、団体に加盟しているから安全というわけではありません。

カトリック教会や主流派のプロテスタント教会のカルト化は聞いたことがありません。
知性・理性を重んじる現代的な感覚の人たちはカルト化しません。
福音派的な信仰を否定するわけではありませんが、古代・中世のような世界観で唯一の神を熱っぽく信じると、時に脱線し、暴走し、カルトに走ることもあるようです。
(ただし不祥事は、自称「福音派」の原理主義やカルトだけでなく、一般の福音派でも、主流派のプロテスタントでも、カトリックでも起きています。どちらかと言うと不祥事は、自称「福音派」の場合は教会全体の暴走、他は指導者の個人的な逸脱の場合が多いように思えます。)

福音派の中には強く進化論を否定する人たちがいます(福音派の全部ではありません)。これも、聖書の記述を文字通りに信じようとするからでしょう。

聖書を「文字通り」信じ、聖書に根拠を求めるなら、
太陽ができるより先に地球があり、地球には光があり、地上には植物が生えていたことになる。
それに、地球は丸いなんて、どこも書かれていないし、地球は太陽の周りを回っているとも書かれていない。神はまず地球をお造りになり、地球の周りを回る太陽と月をお造りになったと考えるのが聖書的だろう。
悪霊に憑かれた人の話はたくさん出てくるが、細菌やウィルスが原因で病気になるなんて、どこも書かれていない。病気の多くは悪霊の仕業と考えるのが聖書的だろう。
人間の皮膚に生じる「らい病」も、衣服や家屋に生じる「らい病」も、同じ単語が使われている。人間の場合は皮膚病で、衣服や家屋に生じるのはカビであると分けて考える聖書的根拠はない。聖書が同じ単語を使っているのだから同じものとするのが聖書的だろう。
食物の話もいろいろ出てくるが、ジャガイモやトマトを食べてよいかどうかも、どこにも書かれていない。聖書がはっきりと認めているもの以外は食べないのが聖書的だろう。
・・・・疑問はどんどん湧いてきます。

疑問点の数々を適当にごまかしながら進化論否定だけは譲らないって、変ですよ。


私が思うに、進化論否定は聖書から導いた人間の考えの一つであり、イエスの教えではありません。
過去に、聖書から導いた人間の考えによる科学への介入の数々がありました。その結果、科学が負けたことはただの一度もありませんでした。教会の科学への介入は全戦全敗でした。(ホワイト著、森島恒雄訳『科学と宗教との闘争』(岩波新書 赤)参照)
ホワイトが神学ドグマと呼ぶ「聖書から導いた人間の考え」の方が訂正を迫られたのです。多くの教会の指導者らは、そういう導き方をしてはいけなかったと気づいたのです。

進化論だけは例外ですか?

あなた方はまだ気づかないのですか?
聖書から導いた人間の考えの中の一つに過ぎない進化論否定に固執してイエスの教えがないがしろにされたなら、現代のファリサイ主義(パリサイ主義)ですよ。実際私はそういう人たちを見てきました。イエスの教えより神の愛より進化論否定が大事みたいな人たちを。進化論否定と進化論を認めるクリスチャンを攻撃することに夢中になって、それが自分の「信仰」の中心のようになっている人たちを。
私は現代のカトリック信者や主流派のプロテスタント信者が進化論を否定するのを一度も聞いたことがありません。一度も。
今日、進化論否定は福音派の中だけの話です。しかも福音派の全員ではありません。
「キリスト教はみな進化論を否定している」なんて思わないでください。


ネット上に、教会に行ってみたらこんなことを言われて疑問を感じた、といった書き込みが多数あります。
ああ、あの手の人たちの教会だと私は察しますが、教派の特色を中立的に整理したものは、書籍でもネットでもあまり見ません。

学者さんたちは、自分の専門分野はマニアックに詳しいのですが、守備範囲が限られています。
牧師さん神父さんや勉強家の信者さんたちは、自分が所属する教会の見解が正しいという前提で語り、守備範囲も、所属教派の話が中心になります。その人自身がある派に属しているので、なかなか中立的・客観的になれないのです。牧師や司祭、勉強した信者が先入観なしにキリスト教全体を網羅するのは難しいのです。

おすすめは、これです。
八木谷涼子『なんでもわかるキリスト教大事典』 (朝日文庫) 
紙の本です。

日本語でキリスト教の教派を解説した本の中で、私が知る限り最高峰です。
著者は学者でも牧師でもありません。非クリスチャンだそうです。だからこそ、これだけ網羅できたとも言えます。
八木谷氏の本は、各教派に関してバランスがとれており、詳しく、読みやすく、わかりやすく書かれています。

欲を言えば、牧師と司祭の違いについてもう少し踏み込んでほしかったと思います。牧師も聖職者のように書かれていますが、一般に牧師は教職者です。司祭が聖職者です。
原理主義的な「福音派」が出てきますが、穏健な福音派もあるので、そのあたり、もう少し書いてほしかったと思います。
聖書やキリスト教のマニアの私が熟読しても、上記の2点くらいしか指摘することがありません。良書です。


誤解されるといけないのですが、私は福音派の信仰を否定するのではありません。
私は、福音派と原理主義者を分けて考えています。

原理主義者や聖書カルトも「福音派」と自称しますが、穏健な福音派とは違い、独善的・排他的・不寛容・攻撃的な人たちです。「聖書に書いてあることを文字通り信じています」などと言いながら、イエスやイエスに従った人たちと似ても似つかぬ人たちです。彼らはイエスに従おうとしません。困難な状況のときに、困難な役割を人に押し付けて自分はするりと逃げたりします。普段は「罪から来る報酬は死です」などと言って聖書の言葉で人を脅しておきながら、今この状況でこうすべきだというときに、自分はするりと逃げるのです。そして、「人は信仰によって義とされるのであって、行ないによるのではありません」などど言い、イエスに従わないことを正当化する理由にも聖書の言葉を使うのです。でも、そうした人たちは正常な判断力を失っているのかもしれませんから、彼らを責めようとは思いません。目を覚ましてほしいと思います。

福音派の中に、イエス・キリストに従って生きようとする善良で誠実なクリスチャンがいます。他者に優しく、特に苦しんでいる人や困っている人に優しく、困難な状況のときには自分から困難な役割を引き受けてくれるような人たちです。私も親切にしていただき、助けられてきました。ありがとうございました。
そうした善良で誠実なクリスチャンの中にも進化論に否定的な方がおられました。ですから、進化論をキリスト教信仰の踏絵にはできません。進化論についてどう思うかを、その人がまっとうなクリスチャンかどうかの判定には使えないのです。
上に進化論否定論に対する自分の考えを書きながら、私に親切にしてくださった心優しいクリスチャンの顔が浮かんできて、書くのがちょっとためらわれました。
でも、私は自分の思いを偽りたくないので、仕方ないです。

いずれは福音派の方々からお世話になった話も書きたいと思っています。

キリスト教について書きだすと、心にいろいろ浮かんできて、つい長い文章になってしましました。
すみません。

誤字などあれば訂正しよと自分で読み返しているうちに、補足したいことがいろいろ出てきてますます長くなってしまいました。どうもすみません。ここまで長くなったついでに、もう一点だけ補足します。

日本語版ウィキペディアのキリスト教関係の用語執筆に、福音派の保守的な信仰を持つ人が多数関わっているようです。信仰を持つ人が執筆してはいけないわけではありませんが、その場合、客観的な論述と自分の信仰上の立場は切り離すべきです。そんな当然のことが分かっていない人たちがいて、ウィキペディアのキリスト教関係の用語の中には福音派の中でも特に保守的な(つまり原理主義的な)考えの反映がみられることがあります。用語によっては、保守的な(原理主義的な)信仰を「福音主義」とし、主流派を自由主義神学とみなして、執筆者の信仰の立場を正当化しようとする意図まで感じられます。参考文献にも、福音派の中の特に保守的な人たちの間でしか通じないような、学問的にはまったく相手にされないものも載っています。ご注意願います。

(伊藤一滴)

こうの史代『夕凪の街 桜の国』を読む

3つの短編漫画が収められた『夕凪の街 桜の国』はかなり売れたようですし、映画やドラマにもなったのでご存知の方も多いでしょう。

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「夕凪の街」の舞台は、昭和30年(1955年)、原爆投下から10年後の広島です。
建設会社の会社員(女子事務員)と思われる平野皆実(ひらの・みなみ)は、子どもの時に被爆しました。父、姉、妹を原爆で失い、生き残った母と共に、粗末な家でつつましく暮らしています。

被爆から10年、好意を寄せてくれる男性がいても皆実はためらいます。はっきり書いてあるわけではありませんが、多くの人が死んでいった中で生き残った自分が幸せになっていいんだろうか、死んでいった人たちに申し訳ない、という思いが伝わってきます。
それでも、好きな男性から「生きとってくれて ありがとうな」と言われ、心の思いを吹っ切って幸せに向かって歩みだそうとしたそのとき、皆実は原爆症と思われる病気を発症し、それがたちまち悪化していきます。
読んでいて、つらくなる話です。

「このお話は終わりません」とあります。
「桜の国(一)」「桜の国(二)」につながります。
そのつながりは、すぐにはわからないのですが、読んでいくとだんだんに、これは皆実の弟の旭(あさひ)とその家族の物語だとわかります。
旭は、親戚宅に疎開していて被爆を免れました。そのまま親戚の家の養子になっていたのですが、やがて故郷の広島に帰り、実の母と暮らすようになります。大学を卒業した旭は就職し、やがて結婚し、妻と母と共に東京に移り住み・・・・、糸をつむぐように話がつむがれてゆきます。

旭は被爆者ではありませんが、被爆者の思いを背負いながら生きてゆきます。その思いを、旭の子どもたちは感じます。
注意深く読むと、いろいろわかってきます。
たとえば、皆実が何歳で被爆して何歳で死んだのか、「夕凪の街」のどこにも出てきませんが、「桜の国(二)」で旭が墓参りに行く場面があって、平野家の墓石に死んだ家族の没年と年齢が刻まれており、そこから家族がいつ何歳で死んだのか分かるのです。よく読むといろいろ気づきます。

これは、みごとな作品です。

被爆直後の広島の情景は、皆実の回想の中に少し出てくるくらいで、中沢啓治の漫画『はだしのゲン』とはまた違う描き方です。(『はだしのゲン』も非常に優れた作品です。こちらは長編。)

『夕凪の街 桜の国』は、声高に反戦を叫ぶのではなく、残虐な場面を強調するのでもなく、つつましく生きる庶民のささやかな日常を描きながら、戦争の深い深い傷を感じさせます。

一度読んだだけでは気づかなかったことも、何度も読むうちに、ああそうだったのかと判ってきます。
短編なのですぐ読めます。作者がいろいろな工夫を凝らしているのは、何度も読み返して気づいてほしいからでしょうか。繰り返して読むうちに、ジグゾーパズルのピースのように話がつながってきます。読み取るのに少し時間がかかるかもしれませんが、何度読んでも心に響く作品です。

(伊藤一滴)

ジネント山里記を最初から読む2020

ジネント山里記は2005年3月にスタートしたので、15年続いています。

最初は本当に「山里記」だったのですが、だんだんキリスト教のこと(特に原理主義や聖書カルトの問題)を書いたり、政治問題(特に安倍政権批判)を書いたりするようになりました。そうした思いも含めて、私です。

それにしても、よくまあ15年も続いたものだと思います。

最初から読むには、ここからです。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2005/03/

あとは、このように続きます。

2006年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2006/01/

2007年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2007/01/

2008年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2008/02/

2009年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2009/01/

2010年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2010/01/

2011年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2011/01/

2012年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2012/01/

2013年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2013/01/

2014年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2014/03/

2015年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2015/01/

2016年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2016/01/

2017年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2017/01/

2018年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2018/01/

2019年 http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/01/

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(伊藤一滴)