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「皇太子さまの会見発言 憲法への言及 なぜ伝えぬ」

先ほど載せた記事に補足します。書いたときに、まだ、今日の新聞を読んでいませんでした。

今日の朝日新聞(2015.2.27)を今読んでいます。なにしろ雪の山里に住んでいて、新聞配達は道路沿いの車庫までです(自宅から車庫までは雪の山道を100mと少し歩きます)。夏ならともかく、雪の季節は、朝、新聞を読んでいる余裕がないのです。

今、朝日新聞を開いたら、池上彰さんの「新聞ななめ読み」に皇太子殿下の会見発言について書いてありました。見出しは「皇太子さまの会見発言 憲法への言及 なぜ伝えぬ」です。朝日、毎日、読売、日経、産経の中で、憲法への言及を報じたのは毎日新聞だけだったそうです。

池上さんは毎日新聞の記事を引用した上でこう書きました。

引用開始

 皇太子さまは、戦後日本の平和と繁栄が、日本国憲法を基礎にしていると明言されたのですね。以前ですと、別に気にならない発言ですが、いまの内閣は、憲法解釈を変更したり、憲法それ自体を変えようとしたりしています。そのことを考えますと、この時点で敢えて憲法に言及されたことは、意味を持ちます。

(略)宮内庁と相談しながらのギリギリのコメントだったのではないかという推測が可能です。

 こんな大事な発言を記事に書かない朝日新聞の判断は、果たしてどんなものなのでしょうか。(以下略)。

引用終了

朝日新聞は誤報問題もあって、政権与党に遠慮しているのでしょうか? ネットの報道に比重が移る中で、紙の新聞の将来をあきらめているのでしょうか? 自主規制で書かないなら、言論の死です。しっかりしてください、紙の新聞!

(伊藤一滴)

皇太子殿下のおことば

皇太子殿下は2月23日に、55歳の誕生日を迎えられました。これに先立ち、記者会見が開かれ、殿下は次のようにおっしゃいました。しかし、マスコミはほとんど報道していません。新聞には、殿下のご発言のごく一部が小さく載っただけでした。

政権与党は、皇太子殿下のご発言が報道されると都合が悪いのでしょうか? マスコミは与党の顔色をうかがって自主規制しているのでしょうか? それとも国民の側が無関心だから、ほんの少ししか報道しないのでしょうか?

できれば、全文を、それが無理でも主要な点は載せてほしかったと思います。皇太子殿下は若い世代のことを気にかけておられます。経済や社会の問題、武力紛争、テロ、難民、環境、国際交流、象徴天皇制、先の大戦の被害と今後の課題等々について、広く語っておられます。

特に印象に残った箇所を引用します。

皇太子殿下のおことばより、引用開始

・・・・技術革新により新たな経済活動が生まれる一方で、世界経済は、先進国、開発途上国の双方が、所得格差や若年者の失業などの課題を抱え、通貨や石油価格の変動などの問題に直面しています。国際情勢に目を向ければ、この1年も中東などで武力紛争が続きました。特に我が国国民を含め市民を巻き込むテロの事件が様々な場所で発生したことに深く心を痛めています。昨年11月にお会いしたグテーレス国連難民高等弁務官から子供を含め難民を取り巻く環境は深刻であるとのお話を伺いました。また、・・・・環境保全や水の問題の解決などを通じ持続可能な社会をいかに実現するかは喫緊の課題です。このように世界の平和と繁栄をいかに将来にわたり実現していくかが今改めて問われているように思います。

 ・・・・若い世代が、積極的に海外を訪れ、海外の青年と交流し、各国の社会や文化を正しく理解するなど、国民の一人一人が各国との友好を深めていくことを望んでおります。・・・・

 今年我が国は、戦後70年を迎えます。この機会に改めて戦争で亡くなられた多くの方々に深く思いを致し、平和を心から願い、世界各国との友好を確かなものとしていくことが大切であると考えています。 ・・・・私は、常々、過去の天皇が歩んでこられた道と、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致すよう心掛けけております。そして、これまで、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けてこられた天皇陛下と陛下をおそば側でお支えになっておられる皇后陛下のお姿に学びながら、これからも努力していきたいと思っています。

・・・・若い世代が社会の問題に関心を持ち、高齢者や障害者など弱い立場にある人たちを大切にし、思いやりのある寛容な社会を築いていくことも重要だと思います。これからも、このような社会をつくっていくために努力されている多くの方々のお話を伺いながらいろいろと考えていかれたらと思っています。・・・・

先の大戦において日本を含む世界の各国で多くの尊い人命が失われ、多くの方々が苦しい、また、大変悲しい思いをされたことを大変痛ましく思います。広島や長崎での原爆投下、東京を始め各都市での爆撃、沖縄における地上戦などで多くの方々が亡くなりました。亡くなられた方々のことを決して忘れず、多くの犠牲の上に今日の日本が築かれてきたことを心に刻み、戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう過去の歴史に対する認識を深め、平和を愛する心を育んでいくことが大切ではないかと思います。そしてより良い日本をつくる努力を続け、それを次の世代に引き継いでいくことが重要であると感じています。

・・・・私は、子供の頃から、沖縄慰霊の日、広島や長崎への原爆投下の日、そして、終戦記念日には両陛下とご一緒に黙祷(もくとう)をしており、その折に、原爆や戦争の痛ましさについてのお話を伺ってきました。また、毎年、沖縄の豆記者や本土から沖縄に派遣される豆記者の人たちと会う際に、沖縄の文化と共に、沖縄での地上戦の激しさについても伺ったことを記憶しています。

 私自身もこれまで広島、長崎、沖縄を訪れ、多くの方々の苦難を心に刻んでまいりました。また、平成19年にモンゴルを訪問した際に、モンゴルで抑留中に亡くなられた方々の慰霊碑にお参りをし、シベリア抑留の辛苦に思いをはせました。

 私自身、戦後生まれであり、戦争を体験しておりませんが、戦争の記憶が薄れようとしている今日、謙虚に過去を振り返るとともに、戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に、悲惨な体験や日本がたどった歴史が正しく伝えられていくことが大切であると考えています。・・・・ 

 我が国は、戦争の惨禍を経て、戦後、日本国憲法を基礎として築き上げられ、平和と繁栄を享受しています。戦後70年を迎える本年が、日本の発展の礎を築いた人々の労苦に深く思いを致し、平和の尊さを心に刻み、平和への思いを新たにする機会になればと思っています。

・・・・個々のことについてお話しするのは差し控えたいと思いますが、両陛下からのお話の中で、やはり本当に戦争がいかに悲惨なものであるか、こういったことを本当に二度と繰り返してはいけないものだということが、お話の節々で感じ取られ、本当に両陛下の平和を尊ぶお気持ち、それから諸外国との友好関係を大切になさるお気持ち、そういうものが私にも非常にひしひしと伝わってきて、そういったことが私にとっても非常に強く印象に残っております。

引用終了

(全文はこちら http://www.asahi.com/articles/ASH2L5VB7H2LUTIL03Y.html

(伊藤一滴)

出生差別

著名な作家のA氏が全国紙に書いたコラムが人種差別にあたると問題になっています。外国人の労働者を受け入れるべきだとした上で、20~30年前の南アフリカを例に「居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい」としており、こうした主張がアパルトヘイト容認ともとれるため、問題になっているのです。

A氏のコラムは、どう考えても人種差別そのものとしか言いようがありません。私は、人種差別コラムが全国紙に堂々と載る日本の現状を悲しく思います。差別だという批判に対し、A氏が見苦しい「反論」をするのも悲しいです。それ以上のコメントはありません。

それより気になったのは、ネット上でA氏を非難する人の中に、氏の「生まれ」を問題にしている人が少なからずいることです。A氏は、大物右翼の隠し子である、顔も似ている、あの親だからあの子なのだ、といった非難です。

それが事実であってもガセネタであっても、そのような非難は、非難としておかしいです。それはA氏が書いた人種差別コラムと同じ、出生差別です。人は、自分がどの国のどの地域に生まれるか、どの人種・民族に生まれるか、自分では選べません。どの親から生まれるかも選べません。あとから努力して自分の「生まれ」を変えることもできません。本人が選ぶことも変えることもできない「生まれ」を理由に相手を非難する発想が、そもそも差別です。これは、その人の見解に反対するやり方としてもおかしいです。「生まれ」に優劣をつけようとするのはヘイトスピーチと同じ絶対悪です。言論に値しません。言論活動では、絶対に使ってはいけない反則なのです。

A氏の人種差別コラムに反対する人が、A氏の「生まれ」を攻撃すれば、自分も同じ差別をしていることになるのに、おそらくその人は、それが差別だと気づいていないのでしょう。とても残念に思います。

(伊藤一滴)

それは怒りよりも深い悲しみだった(後藤健二さんの訃報)

後藤健二さんが殺害されたようだというラジオのニュースを聞いたとき、どうしてそんなことになったのか、と思った。彼はイスラム教の敵ではないし、自称「イスラム国」の敵でもないはず。それなのに、なぜ? わけがわからなかった。

首相は、「イスラム国」を挑発するような発言を繰り返していた。この人は、なんでまた不適切なことを言いまくるのだろう。

もし本当に神様がいて、本当に天国というものがあるのなら、もう後藤健二さんのために祈る必要はない。後藤さんは天国の人なのだから。神様のもとに行った人なのだから。むしろ、日本の首相やその仲間たちのためにこそ祈るべきだ。彼らは、一歩また一歩、滅びへの道を歩んでいく。日本を道づれにして。彼らのためにこそ祈るべきだ。そんな思いだった。

数日が過ぎた。後藤健二さんの業績がいくつも報じられた。著書も売れているという。でもきっと彼は、自分の業績が讃えられることより、多くの人に世界の現実を知ってもらうことを望むだろう。新聞やネットが報じる後藤さんの言葉の数々から、平和への願いが伝わってくる。その願いを、私たちも共に願うなら、彼は私たちと共にある。そういう意味で、後藤健二さんは、永遠の命の人となった。神様が、いても、いなくても。

人が死ぬ場面など、見たくもないし、実際、私は、後藤さんが死に臨む姿を見てはいない。そのような映像をシェアしてはいけない。ネットの画像を見たのではなく新聞報道で読んだのだが、後藤さんは目を閉じて、祈るように殺されていったという。

取材の時はいつも聖書を持ち歩いていたという後藤さんは、死を前に何を祈ったのだろう。「主よ、私の魂を御手にゆだねます」と祈ったのだろうか。「主よ、この人たちをお赦しください」と祈ったのだろうか。日本に残してきた妻や幼い娘たちのことを思ったのだろうか。

それは怒りよりも深い悲しみだった。天国の人のために祈る必要はない、本当に神がおられるなら、神は後藤さんの家族を守ってくださるだろう、そう思いながらも、祈らずにはいられなかった。

後藤健二さんのために。残されたご家族のために。関係者の方々のために。後藤さんが紛争地帯で出会った人たちのために。苦しみの中にあるすべての人のために。そして、こんなことを言うと誤解されるかもしれないが、後藤さんらを死に追いやった人たちのために。無理解な人たちのために。祈らずにはいられなかった。

後藤健二さんは羊飼いについてゆく小羊のようにキリストに従う道を歩んだ。彼は、一粒の麦となって地に落ちた。願わくはこの一粒の麦が芽を出し、数多くの実を結びますように。平和の実を結びますように。

私は、両手で机を叩いて、声をあげて泣いた。

(伊藤一滴)

鬼さんたちとは仲良くなれないの?

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節分の日、娘(小3)が言いました。

ねえ、パパ。鬼さんたちとは仲良くなれないの? いい鬼だっているのに。「おにたのぼうし」のおにたとか、「ないた赤おに」の赤鬼とか、いい鬼だよね。どうしてみんな仲良くなれないの?

私が答える前に息子(中2)が言いました。

鬼はね、見た目が怖そうだから嫌われるんだ。話をする前から悪いやつだろうって思われて、損だよね。

娘が言いました。

ひどいねえ。鬼さんたちと仲良くできればいいのにね。

(伊藤一滴)

敵を殺せば平和になるのか

「殺されたから殺して 殺したから殺されて それで本当に最後は平和になるのか」

これは「機動戦士ガンダムSEED」というアニメ作品に出てくる言葉だそうです。

私は、アニメには疎くて、その作品を見ていませんが、この言葉の問いは重いです。

新聞で読んだのですが、中国人の日本語作文コンクール最優秀賞受賞作の冒頭にこの引用があるのだそうです。私は、引用を引用した記事からさらに引用ですが、強く印象に残った言葉なもので、ここに紹介します。

もう一度書きます。

「殺されたから殺して 殺したから殺されて それで本当に最後は平和になるのか」

この受賞者(20歳の中国人女性)のおかげで、私はこの言葉を知りました。感謝します。

この言葉を、国や組織の指導者たちに聞かせたい。

さらに、私は思うのです。

相手の抹殺は言うまでもなく、たとえ言論や表現であっても、相手に激しく怒りをぶつけ、相手を圧倒すれば平和になるのだろうか。怒りのパワーに満ち満ちた発言や行動が、平和な未来につながってゆくのだろうか。

(伊藤一滴)

「テロとの戦い」?

「テロとの戦い」という言葉が大好きな人たちがいます。もしそれが、軍事力による戦いという意味であれば、愚かな発想としか言いようがありません。力づくで抑え込めばテロはなくなるとでも言うのでしょうか。きっと相手は「テロとの戦い」に報復し、それがエスカレートしてくることでしょう。事実アメリカは、軍事的に「テロとの戦い」を続けてきましたが、テロはなくならず、巧妙になってきています。

理由もなくテロ行為をする人は、まずいません。テロの根本原因を取り除かない限り、次から次に発生することでしょう。

「テロとの戦い」という言葉が、テロの温床となる極度の貧困や差別の解消や歪んだイデオロギーからの解放という意味であれば私も賛成です(言うまでもありませんが、「歪んだイデオロギー」と「宗教」は別です)。この地球上のほんのひと握りの人たちが巨万の富を手にし、一方でどんなに努力しても貧困から抜け出せない人たちがいます。外国企業の管理下で著しく人権を抑圧されている人たちもいます。こうした現実を放置しておけば、平和的な行動で状況を変えるのは不可能だという考えも広まり、その中に、テロに走る人も出てくるのでしょう。

さて、日本の与党政治家は、「テロとの戦い」という言葉をどちらの意味で使っているのでしょうか。よく意味を考えて使っているのでしょうか。覚悟はあるのでしょうか。

2年ほど前、私は「暴力・非暴力」という題で、以下の文を書きました。

http://yamazato.ic-blog.jp/home/2013/04/post-63ab.html

今の私は、この時と全く同じ気持ちです。付け加えることも、削ることもありません。

(伊藤一滴)

政治とは非情なものだ

政治とは非情なものだ。

私は真珠湾攻撃のことを思う。断定はできないが、「アメリカは日本の艦隊の動きを事前に察知しながら、それを将兵に知らせず、あえて日本に攻撃させたのではないか」とも言われている。日本と戦う世論を盛り上げるため、奇襲攻撃による犠牲者がでた方がいいという判断も、政治的にはありうる話だ。政治とはそういうものだ。

自国民が危機的な状況でも、政府はあえて助けない、ということがありうる。

海外で日本人が人質となり、日本政府はどう判断したのだろう。

人質が殺害されれば、世論は軍事的な「テロとの戦い」を認める方向に動くだろう。海外での邦人保護を名目に自衛隊の活動をさらに広げ海外での武器使用規定を緩和しても、国民の理解を得られるだろう。

助けるチャンスがあったのに、政府はあえて助けなかったとは思いたくない。しかし、その可能性も否定できないという思いが、私の心の内のどこかにある。

(伊藤一滴)