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ほとんど本を読まない私

山里は雨です。
これで冷えれば大雪になるのでしょうが、雨が続き、積もっていた雪も融けました。
ふつう、初雪が根雪になることはありません。昨冬は例外中の例外でした。
去年の今頃、父の退院と自宅療養、生まれたばかりの娘の相手、そして戦後最大級の大雪で、私はてんやわんやでした。
最終的には、2階まで雪に埋まりそうになり、ちょっと怖かったですね。1階が埋まるのは覚悟していましたから驚きませんでしたが、とうとう雪が2階のひさしに達したときには怖くなって、必死で掘りました。
とにかく疲れた冬でした。
でも、そのうちに父の容態も安定し、娘も妻も落ち着いてきたので、私は毎週のように2人の息子をジープに乗せてスキー場に通いました。家の中で大騒ぎされるより、そのほうがよかったですから。
なんだか、あっという間の1年でした。

今の私はほとんど本を読みません。
平日は仕事をし、夜でも休日でも小さな子どもが3人いる暮らしですから、仕事に関係ない本を読む時間がほとんど取れません。今年読んだ本は、福岡正信、ガンジー、E・キューブラー・ロス、ローラ・インガルス、梅原猛など、わずかです。

小さな子どもがいると、本を置く場所にも困ります。一介の建築士に過ぎない私でさえ困っていますから、若い研究者や教師、その他、たくさんの資料を必要とする専門職の人で小さな子どものいる人は、どうやって自宅に文献を置いているのかと思います。
長男が幼かった頃、書籍類を守ることを考えていなかったので、だいぶ破られました。どういうわけか、高価な本や入手が困難な本にかぎって破るんです。同じ本棚に『こちら葛飾区亀有公園前派出所』や『ナニワ金融道』などが置いてあっても、目もくれずに。
山里に引っ越すときに、大事な本はダンボール箱に入れ、ガムテープで封しました。今もそのままです。簡単に取り出せないので、ますます読めません。

ほとんど本を読まない私ですが、今、内山節『戦争という仕事』[信濃毎日新聞社2006]を読み、大いに共感しています。
著者は哲学者で立教大学大学院の先生、「1年の半分近くを群馬県の山村で暮らし、自ら農業を営みながら思索を続ける著者」(朝日新聞2006.11.19の書評)だそうです。
いずれコメントします。

では、よいお年を。(伊藤)

宗教について

『梅原猛の授業 仏教』[朝日文庫2006]を読みました。
とてもわかりやすい仏教の入門書です。
こちらもかなり手厳しい一神教(キリスト教やイスラム教)への批判が出てきます。批判のある面は、当たっていると思いますが、基本的に私の考えは変わりません。

宗教がなければ文明はない、道徳もない、という主張。ドストエフスキーからの引用だそうですが、はっとしました。たしかに、宗教的な基盤をまったく持たずに成立した文明も、宗教色を排してうまくいった道徳も、聞いたことがありません。

宗教を含めた文化のあり方を、その地域の気候風土に求める考えは以前からありました。梅原さんはさらに進め、ある種の気候風土の要因を食文化に求めています。逆ではありません。
肉と小麦を食べる食文化が、森を切り開き、畑や牧草地を拡大させる。長期的には、大地が乾いてくる。やがて砂漠化する、という考えです。これが一神教の風土だそうです。
米を食べる民族は森を守り、森を水源とした水を確保する。自然との調和です。これが多神教やアジアの仏教の風土だそうです。

宗教の発生には、食文化や気候が大きく影響することを否定はしませんが、その後の展開は、さまざまな要因が関連すると思います。だから、そう単純に割り切っていいのかな、という気もするのですが、原因と結果について食文化を先に考えるというのも、はっとさせられた見解です。
実際のところ、宗教の発生はともかく伝播については、たとえばマレーシアとタイで気候が大きく違うとは思えませんが、一方は一神教のイスラム、一方は一神教でない仏教の文化圏を形成しているといった例もあります。

いささか乱暴に聞こえるかもしれませんが、私は、万物を「神の被造物」とするキリスト教の考えも、「草木国土悉皆成仏」という日本仏教の発想も、そう違わないと考えています。
専門化が検討すればいろいろな違いもあるのでしょうが、私のような一般人が素直に受け取るレベルでは大きな違いはない、と考えます。どちらの考えに立っても、万物は尊いのです。万物は尊いということが大事なのであって、それを仏性と言うか神のみわざと言うかは、表現の違いに過ぎないと思えるのです。キリスト教では、万物に神の霊が宿るとは言いません。また、人間や動植物や無機物が神になるという考えもありません。しかし、「万物に神の働きを感じる」という考えはあります。それは「万物は神の被造物」と考えるからです。
万物を人間に従わせるという人間中心の考えは、人間を神の座に置くことであり、キリスト教の理念からの逸脱です。一口にキリスト教といっても内部にいろいろな考えがありますが、大多数のキリスト教徒は「デカルト哲学はキリスト教の理念に反する」と考えることでしょう。
梅原猛さんが一生懸命非難する「キリスト教」は、実は、「逸脱したキリスト教」だと私は思います。

以前から思っていたのですが、その人が、どの宗教・どの宗派に属するかではなく、理念を追求していくと同じような所に行き着く人が出てくるのではないか、という気がします。
仏教の六波羅蜜・十善戒と、モーセの十戒や福音書の道徳観は、大きく違うとは思えません。

福祉の勉強をしていた頃、宗教思想が福祉にどう影響したのかを調べていて法然や親鸞の言葉に出会い、聖書の言葉と似ているのに驚いたことがありました。特に野間宏さん訳の『歎異抄』[当時、筑摩書房刊]は感動的で、読んでいて涙が出ました。中央公論社の日本の名著シリーズの法然や親鸞の著作も読みながら、法然や親鸞はイエスの教えを知っていたのではないかと、その時、本気で思いました。あとから、遣隋使や遣唐使が中国でキリスト教の影響を受けて日本に帰国し、キリスト教的な発想や概念が、何らかの形で日本仏教に受け継がれたのではないかという説があるのも知りました。それは興味深い想像で、可能性としてはゼロではないのでしょうが、むしろ、宗教は違っても、理念を追求していくと同じような所に行き着く人が出てくると考えたほうが説明しやすいと、今は思います。

学生に広く読まれていた倉田百三(くらたひゃくぞう)の名著『出家とその弟子』[岩波文庫、他]も、キリスト教と日本浄土教の多くの類似点を意識してを書かれたのでしょう。福祉を学んでいた学友の中には、「倉田百三の『イエスとその弟子』によれば・・・・・」なんて、間違えて言っていた人もいた程です。

違いは、唯一の神を信じるか否かです。仏教徒の究極の目標は、私の理解では、「自ら仏になること」だと思います。ふつう、仏とはブッダの音訳、仏陀のことで覚者と解されます。死者という意味に誤用され、今は誤用の方が広く使われていますけれど。この「仏」をどう定義するかという問題はありますが、仏教には唯一の神とか唯一の仏といった概念はありません。
キリスト教徒の究極の目標は、一概に言えないのかもしれませんが、しいて言えば「神に栄光を帰すること」でしょうか。これは「神に仕えること」です。いと小さき者ひとり一人の中にキリストの姿を感じるがゆえに、キリスト教は、貧しい人・弱い人の側に立って働く人を輩出させました。キリストによる十字架の贖いという他力的な面を持ちながら自力的でもある、両面を有する宗教です。唯一の神に仕えるのであって、自分が神になるという発想はありません。
仏教もキリスト教も、どちらも、実際はともかく原則としては、万物を大切にします。利己を捨て利他に生きようとします。道徳を重んじ自らを律し、弱者に心を配ります。「人は信仰によって救われるのであって、行ないによるのではない」という考えもあります。
やはり、似てきます。

自然を支配下に置こうとする発想はキリスト教の理念から逸脱した近代思想であって、それをもってキリスト教そのものを非難すべきではありません。キリスト教の限界はむしろ、「イエス・キリストの十字架の贖い」を唯一の救いと考える教義の絶対性にある、と私は思っています。この限界については、またの機会にお話しできるかと思います。(伊藤)

また冬

また、冬が来ました。
先日、30センチくらい雪が積もりましたが、ジープで蹴散らして家まで行きました。昔ジープに乗っていたという人の話だと、60センチくらいの新雪でもジープなら行けるそうです。私の車は、今では珍しくなった旧式の三菱ジープですが、雪の季節は活躍してくれます。

息子の友だちが遊びに来ると、土間、薪ストーブ、囲炉裏などに興味を示します。「昔の家みたいだね、すごいねー」なんて言ってます。外にジープがあるのを見つけ、「かっこいい」と言うのはたいてい男の子です。
私くらいの世代やそれ以下の人は、人にもよりますが、わりと古い家や古い車に好意的です。「いいですねー、いいですねー」とうらやましがる人もいます。
高齢者は、「なつかしいなあ。でも、大変でしょう」という感じです。見た目ほど大変ではないのですが、昔の苦労を思い出すのかもしれません。

11月の末に、娘が1歳になりました。トコトコ歩きます。まわりにあるものをいじるので、目が離せなくなりました。娘の初の誕生日、ふもとのお菓子屋さんにケーキをたのみ、ろうそくを1本立てて祝いました。本人は何のことだかわからなくとも、お兄ちゃんたちが大喜びして、ろうそくの火もお兄ちゃんたちが吹き消してくれました。
伝統に従い、1升のモチ米でおもちをついて、娘に背負わせました。立てないかな、と思ったら、立ち上がって1歩進みました。

もうすぐクリスマス。街の喧騒が嘘のように、山里の冬は静かです。庭の大きなモミの木に雪が積もって、電飾などなくとも、巨大なクリスマスツリーのように見えます。商業的なクリスマスとは縁のない山里ですから、この節目に、1年をふりかえっています。
やがて冬本番。さて、この冬はどうなるのやら。(伊藤)

梅原猛さんへの若干の反論

以前、朝日新聞に連載されていた梅原猛さんの「反時代的密語」が本になったので、ひととおり読みました(梅原猛『神殺しの日本』朝日新聞社刊2006、所収)。
こうしてネット上に文章を書いている私が言うのもなんですが、今の日本は情報過多で、情報の海は飽和するみたいにあふれかえっていて、何が本当か、何が重要か、わけがわからなくなりそうな状況です。そんな中で、梅原さんは毎回ポイントを押さえ、興味深いテーマを取り上げてこられました(注1)。

ただ、氏のキリスト教批判には賛成できない点があり、私の思うことを少し書いておきます。

「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という言葉に示されるように、アミニズムが日本の思想的伝統というのはわかるにしても、それを一神教であるキリスト教と対立させてとらえるのはいががなものでしょうか。

梅原さんによると、西洋の多くの思想家は、アミニズム、多神教、一神教という発展段階を考え、「一神教の精髄がキリスト教」と考えているそうです。キリスト教文明が優れたものとされ、多神教やアミニズムは遅れている、未開の時代の古い宗教とみなされるのは、私も不満です。多神教やアミニズムを環境との調和や共生という面から再評価すべきだというのもわかります。
しかしながら「・・・・・この一神教は、人間のみが神の似姿である理性をもつことによって他の動植物よりはるかにすぐれていて、動植物に対する生殺与奪の権を与えられているという考えをもつ」といった見解には賛成できません。たとえば、太陽や月を兄弟姉妹と呼び、、病や死さえも兄弟姉妹として受け入れようとしたアシジのフランシスコがそのような考えを持っていたのでしょうか。フランシスコに限らず中世ヨーロッパの人たちは梅原さんがおっしゃるような考えを持って行動したのでしょうか。

キリスト教が社会の基盤であった中世ヨーロッパの人たちは乱開発などしませんでした。西洋の中世は5世紀頃から約千年続きましたが、それほどの長い間、大局的に見れば西洋人は自然と調和した生き方をしてきました。もし乱開発をしていれば千年間も続かなかったことでしょう。昔だから技術がなくて乱開発できなかったわけではありません。もっと昔のギリシア文明の時代でさえ、大規模な森林伐採による環境破壊が行なわれています。それがギリシア文明を衰退させた一因とみる人もいます。しかも、ギリシア文明は一神教ではありません。

ヨーロッパ人が動植物に対し、また有色人種に対しても、ひじょうに傲慢にふるまうようになったのは、15世紀以降(特に17世紀以降)でしょう。
アジア、アフリカ、ラテンアメリカへの進出、先住民の弾圧や殺戮、アフリカ人の奴隷化、止むことのない産業化、そして最近のイラク侵攻に至るまで、ずっと傲慢は止まりません。

どうも近代の西洋人には、自分たちは歴史の最先端にいる、進んでいる、だから偉いという思いがあったようです。人類の発展段階は一つの道であるかのごとく考え、自分たちはその先頭にいる考えていたようです。その後明らかになったとおり、そうした歴史観には無理がありました。(注2)

近代ヨーロッパ諸国がやったことの起源を、一神教に由来するとみるのはどうでしょう。むしろ私は、キリスト教的伝統からの逸脱と考えます。ではなぜヨーロッパ諸国がそうなったのか。それは、歴史の諸条件によってそうなったとしか言いようがないのではないかと思います。

人間が自然界を支配する根拠として、よく旧約聖書「創世記」の冒頭が挙げられるのですが、この箇所を「(人間は)他の動植物よりはるかにすぐれていて、動植物に対する生殺与奪の権を与えられている」とすると、新約に示されている「空の鳥を見よ」といったイエスの教えと矛盾してきます(「マタイによる福音書」5章他)。私はむしろ、万物を「神の被造物」と考えるのは、日本仏教の「草木国土悉皆成仏」の発想に近いのではないかと考えています。人間を含めすべてのものは神に造られた存在で、みな尊い、みな大切なものだと考えるのは「草木国土悉皆成仏」とそう変わらないのではないでしょうか。
キリスト教は人間を特別な存在とみているといいますが、事実、人間は特別な存在です。高度な道具や言語を使う存在は地球上で他に類がありません。でも、だからといって「偉い」のでしょうか。
私は、この「だから偉い」という発想こそ、キリスト教的伝統からの逸脱だと思うのです。

自然界に存在するものにはみな役割があります。天の父(神)は蒔きもせず紡ぎもしない空の鳥を養い、野の百合はソロモンの栄華にまさるというなら、「だから人間は偉い」なんてことにはならないでしょう。人間は理性を有する特別な存在であるのは事実ですが、だから偉いというのではなく、自然界の構成員の一員、一つのパートの担い手と考えるべきでしょう。人間は、理性を持つ者として、理性を善用し天から授けられた役割を果たしたかどうかが問われるのだと思います。(伊藤)

(注1)
ご参考まで「反時代的密語」の目次というか、各タイトルだけ書いておきます。

理性の復讐招く靖国参拝
神は二度死んだ(明治維新後の廃仏毀釈と敗戦後の天皇の人間宣言の2つ。引用者)
民主主義道徳の創造
ムツゴロウは復讐する
理想の旗を高く掲げよ
日本の伝統とは何か
プラトンの憂慮

仏教の道徳
道徳を忘れた仏教
二種廻向と親鸞
円空の語るもの
円空の和歌

西田哲学はロマンティシズムか(核戦争や環境破壊による人類絶滅の危険さえある現代、西田幾多郎の哲学を発展的に継承する展望についての論考。引用者)
和辻哲郎『風土』について
東アジア文明の語るもの
柳田国男の二つの仮説(『遠野物語』と『海上の道』。引用者)
怨霊を志願した人間(千利休のこと。引用者)
田中哲学をどうみるか(田中美知太郎の哲学。引用者)
演劇と哲学

アミニズムと生物学
なぜ、縄文文化か
天台本覚論とアイヌ思想
金田一理論の光と影(おなじみ金田一京助氏のアイヌ研究の業績と限界。引用者)
何かが語っている

(注2)20世紀の文化人類学の業績は大きいと思います。ちなみに私が福祉学生だった1980年代半ばでさえ、人類の発展段階を西洋史の型にはめてとらえようとする人が少なからずいて、では日本の「古代奴隷制社会」とはいつのことなのかと議論になったりしていました。
人類はこれまで進歩してきており未来に向かってさらに進歩していくという「歴史の法則」を信じる人たちは、自分たちが信じている「法則」に反する言動に対して「反動的」というレッテルを貼りたがりました。でも、現実の歴史は諸条件によって左右され、また偶然によっても左右され、モデルケースの通りになど進みません。そもそも「歴史の法則」があるのかどうかさえ疑問です。想像で「法則」をつくってそれを科学と呼ぶのは非科学です。

補足:無駄なものをつくる

前回の話にもう1つ補足すると、「無駄なものをつくる」というのもあります。

たとえば洗剤を、お風呂用、レンジまわり用、換気扇用なんて分けることに意味はないんです。どれも油脂の汚れなので、石鹸水をかけてしばらく置けばよく落ちるのですから。単にイメージで売っているだけです。ささいなことのようですが、その総量は膨大です。
抗菌も、はやりですが、無菌室の病人じゃあるまいし、一般家庭では有害無益と考えていいでしょう。これも何となくイメージで売っているんです。そうやって、何も悪いことをしていない菌たちを薬剤で殺します。

家庭用の洗剤や抗菌製品から、必要性の疑われるダムに道路、干拓事業に河口堰・・・・・、大小さまざま、無駄なものをつくって経済を動かす。生き物たちはその場限りの人間の行為で殺戮されます。先人が大切にしてきた里山を産廃の山にし、空気を汚し川や海を汚し、人間自身が住みにくい、生きにくい状況をつくりながら、借金を未来に残す。これが産業立国、今日の日本資本主義の姿です。

「そんなことを言っても、みんな生きていかないといけないんだから」と言われそうですが、自然環境も社会環境も悪化させながら、みんなでお互いを食い合う消耗戦です。みんなで自分たちや、自分たちの子孫を葬るに等しいことをしています。

現代日本の産業文明の正体が見えているのでまとめてみます。
1.他社の売り上げを減らすことで自社の売り上げを伸ばす
2.画期的な新製品を装いながらたいして意味のないモデルチェンジや多機能化で売る
3.海外に対しては、現代の帝国主義を方針とする
4.役に立つように思わせ、まるで意味のない、無駄なものをつくる(2とも関連)

人のことも地球のことも考えない。資源も人間も使い捨て。人間は短期間で使い捨てるか(臨時)、長く酷使して消耗するまで使い切るか(正社員)。どっちを選んでも人間は使い捨て。いっときの利益のために今を生きる人間を食いつぶし、過去の遺産も未来の可能性も食いつぶす。そうやって経済を動かし、住みにくく、生きにくくし続けています。
公共機関や、医療・福祉・教育などの分野で働く人たちはこうした産業から独立しているように見えますが、そうでもありません。さまざまな形で産業に組み込まれていますし、そもそも、こうした人たちを支える資金の元は産業です。

私は、未来の悪夢を見ました。
日本経済は破綻し、貿易も破綻。食料も石油も入ってこなくなって、餓死者や凍死者が続出。葬ることさえ出来なくなり、野山や廃墟に、たくさんの遺体が放置されている光景です。そんな中でも人はどこまでも競争し、互いに協力しようとはしません。
そんな悪夢は、大ハズレだといいんですが・・・・・。

未来を担う子どもたちに、どう理想を語ればいいのか、私も困っています。
今の世の中、みんな競争、競争です。特に都会の子どもたちは小さいときから過酷な競争です。かわいそうです。私のいる田舎はまだのんびりした雰囲気がありますが、ここで育った子どもたちだって、やがて相当数が都会に出て行き、熾烈な競争に巻き込まれるのでしょう。
いったい、どう、理想を教えればいいのでしょう。
産業日本は何を目ざし、どこへ行こうとしているのでしょう。
日本だけでなく、世界の産業文明は、いったいどこへ行こうとしているのでしょう。(伊藤)