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あれかこれかの二分法思考は危険(再掲)

これまでいろいろなクリスチャンと話をして感じたことの一つは、クリスチャンの中に、あれかこれかの二分法思考の人がかなりいる、ということです。

たしかに、聖書そのものに、あれかこれかのような発想もあります。光と闇、信仰と不信仰、救いと滅び、みたいな発想です。でも、聖書のすべてが二分法ではありませんし、二分法はこの世界のすべてに当てはまるわけでもありません。

私は、何でもかんでも二分法を当てはめるような考え方では駄目なんだとずっと言ってきました。

原理主義やカルトも「福音派」とか「聖霊派」とか自称しますが、彼らの宗教は最初から答えがあって個人の判断を許しません。そして、何でもそれが善なのか悪なのか、価値があるのか無価値なのか、救いなのか滅びなのかみたいに、2つに分けようとする二元論、二分法なのです。あれかこれかと2つに分けて自分たちは正しい側にいると思い込むんです。

この世界は白か黒かの碁石が置かれた碁盤じゃありません。碁石なら、白でなければ黒、黒でなければ白ですが、現実の世界には判別が難しいものや中間的なものがたくさんあるんです。どちらか2つに1つというのはわかりやすいんですけれど、そのわかりやすさで、2つに分けられないものを無理に分けてしまってはいけないんです。

そうした二元論の思考になってしまうと、何でも正か誤かに分けようとして、自分は正の側、救いの側だと思って、この正しい教えを伝道しないといけないという使命感に燃えるんです。でも、それって、単に、特定教派の特定牧師から植え付けられたイデオロギーですから、そこに客観性も普遍性もないんです。

真面目な人がからめとられてしまって、指摘しても、気づきません。自分の信仰を否定されたと思うのか、火がついたみたいになって怒るだけです。私は、キリスト教の信仰を否定したことなどないのに。
マインドコントロールされ、それが進んでしまうと、説得は難しいようです。

「救い」か「滅び」か2つに1つみたいな、二分法の思考から離れると楽なのに。
「この教会から離れたら、滅びる、地獄に行く、永遠に焼かれる」なんて考えていたら、恐怖による縛りで離れられなくなって心の平安なんてないです。

心に平安のない信仰って、イエスが教えた信仰ですか? あるべき信仰ですか?

キリスト教の否定ではありません。カルト思考では駄目なんです。自称「福音派」「聖霊派」の原理主義やカルトのイデオロギーに支配される生き方では、自分の人生を生きることができなくなるのです。


クリスチャンの中に、「その人は信者か未信者か」と、人のキリスト教信仰の有無をすごく気にする人がいます。どうもそういうクリスチャンたちは、頭の中で全人類を「クリスチャン」と「非クリスチャン」の2種類に分けて、「それ以外の人間はいない」と思っているみたいです。
そして、「クリスチャンだけが救われ非クリスチャンは滅ぶ」と考えているようなのです。
そんなふうに、すべての人をあれかこれかの2つに分けられるのでしょうか。

もしイエスの教えに基づいて全人類を2つに分けるなら、その人が「クリスチャン」として生きているのか「非クリスチャン」として生きているのかではなく、「天の父のみこころにかなう者」か「みこころに反する者」か、となるのではありませんか。しかも、中間的な状態だってかなりあるでしょう。

「天の父のみこころにかなう者」か、「みこころに反する者」か、と考えた場合、「天の父のみこころにかなう者」=「クリスチャン」とは言えなくなります。

私は、どうも、非クリスチャンに「天の父のみこころにかなう者」が多数いて、クリスチャンの中に「みこころに反する者」が多数いるように思えてなりません。


マタイ福音書にこうあります。

7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 7:22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 7:23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(新改訳初版)

「天におられるわたしの父のみこころを行なう者」とあり、「キリスト教の信仰を持つ者」とは書いてありません!

自称「福音派」は、『主よ、主よ』と呼びかけるのが大好きです。
自称「聖霊派」は、預言がどうだとか、悪霊追放や奇跡の業がどうだとか、大好きです。

そういった人たちが、さも自分たちは正しい信仰であるかのように語ることをマタイ記者は知っていたんですね。

もちろん福音派も聖霊派も、その多くは健全な信仰を持つ善良なクリスチャンだと思います。でも、「福音派」「聖霊派」を称する一部に原理主義者がおり、カルト化も見られるのです。


その人が、見える形でキリスト教の信者なのか信者でないのか、それがそんなに大事なことなのでしょうか。(まあ、教会が収入を得て運営を続けるためには大事でしょうけれど。)

私は、「天の父のみこころにかなう」ことの方がずっと大事だと思っています。そして、それは、「聖書にこう書いてあるからこうだ」とか「書いてあることをすべて文字通り信じないといけない」みたいな、現代版の律法主義の実践ではないと考えています。

今も、世のキリスト信者の中には、誰それが「信者」か「信者でない」かを区別したがる人がいます。しかし、それぞれ別な宗教ではないかと思えるほどキリスト教諸派には幅があるし、キリスト教を信じると言っても、いつの時代のどの派のキリスト教をどのように信じるのか、その立場は数えきれないように思えます。ですから、その人が「信者」か「信者でない」か、他者がどうこう言えることではないし、場合によっては、その人自身もはっきりと答えられないかもしれません。

特定のキリスト教の立場から見て「信者」か「信者でない」かなど、さほど重要なことでないように思えます。人生は決断の連続ですが、ひとたび聖書の教えに触れた人間が、決断の状況に立ったとき、どう決断するのか、それが問われるのではないかと思います。

(伊藤一滴)


(2022-11-30 掲載分に補足して再掲。その前に書いたこととの重複箇所もありますが、今も考えが変わらないのでまた同じことを書きました。)


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