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「怖れに根ざした信仰」 その源流はカルヴァンたち?(再掲)

herem=killer氏が、ネット上で公にした「聖書信仰を問い直す」を読んでます。
これはすごい。
こちらのサイトです。

http://herem-killer.com/index.html

氏は「怖れに根ざした信仰」という論文を公にし、特に「(1)聖書に名を借りた支配」の箇所で、完璧なくらいキリスト教原理主義・聖書カルトを批判し尽くしています。
これを読んでいて、私が書いたキリスト教原理主義や聖書カルトへの批判など生ぬるいと思いましたよ。

かなり詳しいので全部読むには覚悟がいりますが、キリスト教原理主義や聖書カルトのどこがどう問題なのか、徹底的に論じていますから、関心のある方は是非ご覧ください。


私(一滴)も感じていますが、原理主義化・カルト化の源流にあるのは、16世紀の宗教改革の思想、特にカルヴァンの主張とその解釈なのかもしれません。

もちろん、カルヴァンらの業績を否定するわけではありませんが、原理主義者やカルト信者の主張の源流を探ると、どうも、カルヴァンやその後継者たちの見解に行きつくことが多いように思います。

原理主義者やカルト信者と思われる人が、聖書的根拠がはっきりしないことを言い張るので、
「聖書のどこにそう書いてあるのですか?」
と聞くと、
「神様がお決めになったのです」
とか、
「プロテスタントは伝統的にそう信じてきたのです」とか、答えるんですね。

「聖書に書いてないのに神様がお決めになったと、どうしてわかるのですか?」
と聞くと、
「聖霊の働きによって明らかです」
みたいな答えです。

聖書のどこにも書かれておらず、証明も、理論的な説明もできないことを「聖霊の内的なあかしによって明らかである」という話に持って行くのはカルヴァンの論法です。

「聖書は66巻である」とか、「聖書は誤りなき神の御言葉である」とか、聖書のどこにも書かれていません。「聖書はすべて神の霊感によるもので~」と書いてありますが、「聖書は誤りなき神の御言葉」とまでは書かれていません。
それに、テモテヘの第二の手紙の著者は、「聖書はすべて神の霊感によるもので~」(3:16)という箇所の「聖書」とは何を指すのか書いていません。何を聖書と言うのか示していないのです。
書かれた時代を考えれば、おそらくこの著者が言う「聖書」とは七十人訳ギリシャ語聖書(旧約聖書のギリシャ語訳)だったのしょう。だとすれば旧約聖書続編(アポクリファ)も含めて「聖書」です。続編も誤りなき神の御言葉であるが新約聖書は「聖書」に含まれない、という話になってしまいます。あるいは、シナゴーグで朗読される聖書を思い浮かべていたのかもしれませんが、当時はどこまでを正典とするのか、聖書の範囲が確定していませんでした。どちらにしても、新約聖書は含まれていません。
2テモテ3:16を忠実に読むなら、新約聖書は「聖書」に含まれないということになり、「旧新約聖書66巻はすべて神の霊感による」といった主張の根拠にはなりえません。


「プロテスタントは伝統的に~と信じてきた」と答える人もいますが、それはプロテスタントの聖伝です。

「それはつまり聖伝ですね」
と聞くと、
「違います。信仰の論拠は聖書のみです。聖伝は一切認めません。私たちは正しい伝統を受け継いでいます」
みたいなことを言うんです。

それって、単なる言葉の言い換えです。自分たちなりの聖伝を「正しい伝統」と言い換えているんです。聖書のどこにも書かれていない伝統的な見解は、聖伝です。カトリックの聖伝は認めないが自分たちは自分たちなりの聖伝を受け継いで信じるという二重基準です。


今もカルヴァンの見解を受け継ぐクリスチャンは多数います。
その大多数は健全な信仰を持つクリスチャンだと思いますが、一部に(特に「福音派」と称する中の一部に)原理主義化・カルト化がみられます。彼らは、律法主義的で、とても熱心に、とても強く主張するので、そうした人が多数いるような気がしてしまうのですが、実際は少数派です。それを言うと「正しさは数の問題ではありません」と言い返されます。具体的な数値を挙げても、理論的に説明しようとしても、すべて鋼鉄の甲冑で跳ね返すようなその姿勢はエホバの証人や統一協会とよく似ています。

同じカルヴァンを受け継いで、なぜ「健全な信仰者」と「原理主義者やカルト」に分かれてしまうのでしょうか。

もう少し、考えたいです。

(伊藤一滴)

2023-07-27 掲載、そのまま再掲


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正しいキリスト教(再掲)

キリスト教には多くの教派がありますが、どの教派の教えが正しいのでしょうか。あるいは、正しくないのでしょうか。
いろんな人がいろんなことを言いますが、何が「正しいキリスト教」で、何を間違いと言うのか、答えは出ています。

「自分が属する教派の教会の主張、および、それを受け入れた自分の見解」
これが正しいキリスト教です。
これに反する主張を「間違ったキリスト教」と言い、自分(たち)が容認できないくらい見解が違う場合には「異端派」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。
ですから、世には無数の「正しいキリスト教」があります。

「正しい聖書解釈」も同じことです。
いろんな人がいろんなことを言いますが、これも答えは出ています。

「自分が属する教派の解釈、および、それを受け入れた自分の見解」
これを正しい聖書解釈と言います。
これに反する主張を「間違った聖書解釈」と言い、自分(たち)が容認できないくらい見解が違う場合には「異端派の解釈」と言います。
逆から見たら逆に見えるだけです。
ですから、世には無数の「正しい聖書解釈」があります。

キリスト教は宗教ですから、その主張に科学的な証明が求められるわけではありませんが、少なくとも、理屈の通った主張をする必要はあるでしょう。

矛盾だらけの主張や二重基準の主張をする「教会」や「キリスト教団体」には近寄らないほうがいいでしょう。
他宗教や他教派などの異なる立場の人たちに、罵詈雑言を浴びせて自分たちを正当化する「正しいキリスト教」も警戒したほうがいいでしょう。

良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。その「教会」や「キリスト教団体」がどんな実を結んでいるのか、広い視野でよく見てください。

(伊藤一滴)

2020-09-01 掲載、そのまま再掲


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信仰と歴史修正、信仰と陰謀論

ChatGPTが出始めた頃は頓珍漢な答えが多くて笑ったが、わずかな間にどんどん進歩したようで、今、答えがかなりの水準になっている。
「信仰と歴史修正、信仰と陰謀論」についても、またChatGPTに聞いてみた。



プロテスタントの福音派を名乗る人たちの中に進化論否定論者がいます。また、多くはないのでしょうが地球が丸いことを否定して平面であると主張する人たちもいるようです。そうした進化論の否定や地球が球体であることの否定は信仰なのでしょうか? それとも歴史修正の一種なのでしょうか?

ChatGPT
プロテスタントの福音派の中には進化論を否定する人々が存在し、また地球平面説を支持する少数の人々もいます。これらの見解が信仰に基づくものか、あるいは歴史修正の一種であるかについては、複数の要因が絡み合っています。

1. 信仰に基づく否定

進化論の否定:
多くの福音派キリスト教徒が進化論を否定する理由は、聖書の創世記に記された創造の物語を文字通りに解釈することにあります。彼らは神が世界を6日間で創造したと信じており、この信仰が進化論を受け入れることと矛盾すると考えます。このような立場は「創造論」と呼ばれ、特に「若い地球創造論」(Young Earth Creationism)は地球の歴史を数千年程度と考える立場です。これらの信念は科学的証拠よりも宗教的信念に重きを置くため、信仰に基づく否定といえます。

地球平面説:
地球平面説を信じる人々の多くも、その主張を聖書に基づけています。彼らは聖書の特定の箇所を文字通りに解釈し、地球が平面であると信じます。この立場もまた、信仰に強く根ざしていると言えます。

2. 歴史修正の側面

進化論の否定:
進化論の否定には、しばしば科学的コンセンサスへの反発が含まれます。これは科学界の主流に対する不信感や、教育システムや政府が推奨する科学的見解に対する懐疑心から来ることがあります。このような反発は、ある意味で歴史修正の一環とも捉えられますが、主な動機は信仰に根ざしています。

地球平面説:
地球平面説もまた、現代科学の主流に反する主張であり、従来の科学的理解を修正しようとする意図が含まれることがあります。しかし、これも主に信仰や陰謀論に基づいている場合が多いです。

結論

進化論や地球が球体であることを否定するこれらの見解は、主に宗教的信仰に基づいていますが、科学的コンセンサスに対する反発や懐疑心といった歴史修正的な側面も含んでいます。しかし、基本的には信仰が主導していると言えるでしょう。これらの見解は、信仰と現代科学の間の緊張関係を反映しており、単純に一方が正しい、もう一方が間違っているという問題ではなく、複雑な文化的・宗教的・社会的背景が絡み合っている問題です。



なるほど。では、聖書を文字通り信じようとすることと陰謀論はどう違うのでしょうか?

ChatGPT
聖書を文字通りに信じようとすることと陰謀論の信奉にはいくつかの共通点がある一方で、根本的に異なる点も存在します。以下に両者の違いを説明します。

共通点
権威への疑念:

聖書を文字通りに信じること:
福音派の多くは、科学的な主流説や政府、教育機関に対して懐疑的です。彼らは聖書を最も信頼できる権威とみなし、それ以外の情報源に対して批判的な姿勢を取ることが多いです。

陰謀論:
陰謀論者も政府、メディア、科学者などの公式な権威に対する深い不信感を持ちます。彼らはこれらの権威が意図的に情報を隠したり、歪めたりしていると考えます。

一貫した信念体系:

聖書を文字通りに信じること:
聖書の文字通りの解釈に基づく信念体系は、創造論や他の宗教的教義と一致する形で一貫性を保っています。

陰謀論:
陰謀論もまた、一貫した信念体系を形成し、複数の出来事や現象を一つの大きな陰謀として説明しようとします。

相違点

根拠と出発点:

聖書を文字通りに信じること:
この立場は宗教的な信仰に根ざしています。聖書を神の言葉とみなし、その内容を文字通りに解釈することが信仰の基盤となっています。

陰謀論:
陰謀論は特定の出来事や状況に対する不信感や恐怖から生まれ、具体的な証拠や事実の捻じ曲げ、または誤解に基づくことが多いです。科学的根拠や証拠を軽視し、自分たちの主張を支持する証拠のみを選択的に採用する傾向があります。

目的と動機:

聖書を文字通りに信じること:
信仰に基づく解釈は、宗教的教義や個人の霊的成長、神との関係を深めることを目的としています。宗教的信仰はコミュニティや個人のアイデンティティの一部であり、道徳的・倫理的な指針を提供します。

陰謀論:
陰謀論の信奉者は、しばしば不安や不信感から動機づけられ、真実を暴くという使命感や自己の知識を他者より優れていると感じたいという欲求を持つことがあります。陰謀論はしばしば社会の分断や対立を引き起こすことがあります。

社会的影響と受け入れ:

聖書を文字通りに信じること:
これは特定の宗教コミュニティ内で広く受け入れられ、支持されている立場です。信仰の一環として尊重されることが多いです。

陰謀論:
陰謀論は社会的に広く受け入れられることは少なく、むしろ批判や懐疑の対象となることが多いです。社会的な対立や混乱を引き起こすことがあるため、危険視されることもあります。

結論
聖書を文字通りに信じることと陰謀論の信奉は、共に権威への疑念や一貫した信念体系を持つという共通点がありますが、根拠や動機、社会的影響においては大きな違いがあります。前者は宗教的信仰に基づき、個人やコミュニティの霊的な側面に焦点を当てているのに対し、後者は特定の出来事や状況に対する不信感や恐怖から生まれ、社会的な対立を引き起こすことが多いです。



聖書信仰と陰謀論が混じり合うこともあると思います。自分が体験した出来事や自分が置かれている状況に対する不信感や恐怖から聖書を文字通りに信じようとして、具体的な証拠や事実の捻じ曲げ、または誤解に基づき信仰し、科学的根拠や証拠を軽視し、自分たちの主張を支持する証拠のみを選択的に採用する傾向があれば、それは信仰という名の陰謀論ではないのでしょうか?

ChatGPT
確かに、聖書信仰と陰謀論が混じり合うことはあります。以下のように、いくつかの要因がそのような状況を引き起こす可能性があります。

1. 不安や恐怖からの反応
自分が体験した出来事や置かれた状況に対する不安や恐怖は、人々が安心感や意味を求める動機になります。これが聖書の文字通りの解釈に結びつくことがあります。困難な状況に直面したとき、聖書を文字通りに信じることで確固たる基盤や解決策を見出そうとすることがあります。

2. 証拠の選択的採用
科学的根拠や証拠を軽視し、自分たちの主張を支持する証拠のみを選択的に採用することは、信仰と陰謀論の両方に見られる特徴です。このような行動は、確証バイアス(confirmation bias)と呼ばれ、既に信じていることを支持する情報を探し、矛盾する情報を無視する傾向があります。

3. コミュニティの影響
特定の宗教的コミュニティやグループの中では、共通の信念が強固に支持され、異なる見解や証拠が排除されることがあります。このような環境では、陰謀論的な考え方が広がりやすくなります。コミュニティ内のリーダーや影響力のある人物が特定の見解を強く主張すると、それがグループ全体に影響を与えます。

4. 信仰と陰謀論の融合
聖書を文字通りに解釈する信仰と陰謀論的な考えが融合すると、以下のような形で現れることがあります。

世界観の一貫性:
聖書の預言や物語を現代の出来事に関連付け、これが大規模な陰謀の一部であると信じることがあります。例えば、終末論的な預言を現代の政治や社会の出来事と結びつけることがあります。

科学への不信:
科学者や教育機関が「真実を隠している」と主張し、科学的な説明を陰謀として拒否することがあります。進化論や地球の形状に関する科学的コンセンサスを否定することが例として挙げられます。
自己の正当化:自分たちの信仰が特定の陰謀によって攻撃されていると感じることで、信仰をさらに強化し、自分たちの立場を防衛することがあります。これにより、外部の批判を一層拒絶する傾向が強まります。

結論
聖書を文字通りに信じることと陰謀論的な考えが混じり合う場合、それは確かに「信仰という名の陰謀論」と言える側面があります。特に、証拠の選択的採用や科学的根拠の軽視が顕著である場合、その信仰は陰謀論と区別が難しくなることがあります。これは信仰の純粋な側面が、恐怖や不安から来る陰謀論的な要素と結びついた結果と考えられます。このような状況では、信仰と陰謀論の区別を明確にすることが重要です。

引用終了


AIが答えてくれる。
すごい世の中になった。
(ただし、問いを立てたのは生身の人間の私、一滴です。)

そのうち、AI牧師が出てきて、礼拝説教をするんだろうか?
もうすでに、生身の牧師の中にAIを使って説教を考える人もいるという。

翻訳などにもAIがかなり使われているようだが、今後、学校の授業もAIが主流、病気の診断もAIが主流、なんてなったら、人間が学んだり思考したりする意味って、何?

(伊藤一滴)


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キリスト教信仰において、信じる内容が史実でなくてもよいのか?

キリスト教信仰において、信じる内容が史実でなくてもよいのか?

ブルトマンによれば、信ずべきは十字架につけられて復活した(と信じられた)キリスト、すなわち宣教されたキリストであって、史実のイエスではない、ということになる。
史実のイエスは我々の信仰には無関係だ、とまで言う。

ブルトマンの主張だと、「史的イエス」を信じるのではなく「ケリュグマ(宣教)のキリスト」を信じる、ということになる。

「史的イエス」と「ケリュグマのキリスト」の両者は峻別すべきであるし、もはや史的イエスの復元は不可能だ。それはわかる。
だが、信じる内容が史実でなくてもよいのか?という疑問が、当然生じる。


近代科学が発達する中で、聖書には史実と異なる記述が多数あることがわかってきた。
これを認めず「聖書の記述はみな事実です」と言う立場もあるが、これはかなり苦しい主張である。

聖書の各文書を記した人たちは、史実をそもまま記録しようといった意図はなかった。彼らが述べようとしたのは、神とはどういうお方で、人とはどういう者なのか、神と人とはどういう関係にあるのかだった。

科学が発達した時代に、それでもキリスト教を信じようとすれば、「聖書の記述が史実通りでないことを認めてよい」、「史実がどうだったのかは、信仰には関係ない」ということになるのか。


キリスト教に限らず、原理主義でない宗教一般について言えることだが、信仰の内容が史実と一致するかどうかは重要ではないようだ。
信仰は精神的な要素が大きく、証明できないことを信じる部分もかなりある。事実と確認されたことだけを信じても、それを信仰とは言わない。

信仰は、信じる人を支えるものである。それは、何かに依存するのとは違う。信仰はその人に決断を迫る。信仰的な決断は、希望であり安心であり、時に慰めとなる。たとえ後から判断を誤ったと思っても、自分で決断したことに対して、あの時点のあの状況でこう考えたのだと省みて、改めるべき点を改めてゆくことができる。

聖書の言葉で作ったマニュアル本も世にはあるが、マニュアルを作ってその通りにしようとするのは現代の律法主義である。また、罪や地獄の恐怖をやたら煽る人たちもいるが、恐れに縛られて信じるのはマインドコントロールの一種である。こうした「信仰」モドキが、自称「福音派」に多くみられる。あるべき信仰からの逸脱である。
言うまでもないが、律法主義も恐れによる支配もイエスのメッセージとは異質のものだ。そうした異質の「信仰」の人たちが「私たちは聖書に書いてあることを書いてある通りに信じています。私たちが信じている内容はすべて事実です」などと言い張って他教派を攻撃し、他者を否定することで自分たちを正当化している。自分たちは事実を信じ真理の中にいると思っているから、問題点を指摘されても改めない。「真理」だから、改める余地などないのである。指摘されると、せっかく指摘してくれた人をサタン呼ばわりし、火がついたように怒るだけである。そうやって、改善のチャンスを自分たちで排除する。どこまで行っても救われない。自分たちは救われていると思い込んで、救いのチャンスを拒絶する。
私は若い頃、自称「福音派」は地獄に向かって歩んでいると思った。

本来の信仰は、信仰者に決断を迫るものであり、その人にとっての希望、安心、慰め等となる。また、個人的な面のみならず、社会性を有するものである。決断には、社会的な行動も含まれる。それは、家庭、地域、信者共同体、そして、国家にまで広がってゆく。
私も言われたが、「福音の光に照らして判断する」ことになる。どうも、その際のその決断は、指針となる教義が史実であるかどうかには関係しないようだ。

2千年前の過去のその時点でどうだったのかではない。今の私にとってどうなのか、なのだ。今、この私が、今の人や今の社会に関わるときに、それがどういう意味を持つのか、なのだ。
イエスの十字架を自分の救いと信じるなら、十字架(正確には処刑杭)の形状はどうだったのかとか、奇跡の話はどこまで事実なのかとか、もはや、関係ない。
信じる内容の史実性は問われない。


「福音の光に照らして判断する」なら、当然、政治的、社会的な発言や行動も出てくる。
「クリスチャンは神の国と神の義を第一にすべきであって、この世の政治や社会の問題に口出しすべきではありません」などと言っている自称「福音派」は、頓珍漢な方向を見て「信仰」している。彼らは、困っている人たちのために指一本動かさない。イエスの姿勢とまるで違う。指摘されると「人は信仰によって義とされるのであって、行ないによるのではありません」などと言い、何と、イエスに逆らう自分たちを聖書の言葉で正当化してくる。


信仰は、それを信じる個人や、その個人が属する共同体、社会と関わってくる。まともな信仰ならば、それは個人にも社会にも有益なものとなる。(ひどく歪んだ国なら信仰者は迫害を受けるかもしれないが、やがてはその国を変えてゆく原動力となるわけで、長期的に見るなら、社会にとって有益だと言える。)

社会派と教会派、リベラル派と福音派といった呼び方がある。社会派とリベラル派は完全に重なるわけではないが、どちらかと言うと、社会の問題に積極的に関わろうとする信者はリベラルなことが多いようだ。聖書の言葉を文字通り信じるより、聖書の理念、その精神性に従おうとしている。文字通り信じると称する自称「福音派」の原理主義者は、文字の細部にこだわるわりには根本理念がイエスの方向とずれている。(もちろん、一般の(原理主義でない)福音派の中に社会の問題に積極的に取り組む方々がおられるし、中間的、例外的な人たちもいるから、あれかこれかとはっきりとは分けられない。)
信仰の有益性から考えた場合でも、聖書の記述を史実と信じる必要はない。


だが、ここでまた疑問が出てくる。信仰の内容が史実であるかどうかは重要でないなら、それは「歴史修正主義」とどう違うのか?

ChatGPTに聞いてみた。
ChatGPTの答えをそのまま引用する。



信仰の内容が史実であるかどうかは必ずしも重要でないなら、個人や団体や国家が都合よく歴史を書き換えてしまう「歴史修正主義」とどう違うのか?

ChatGPT
信仰の内容が史実であるかどうかが必ずしも重要でないという観点と、「歴史修正主義」は異なる概念です。以下に、その違いを詳しく説明します。

宗教信仰と歴史修正主義の違い

目的と動機の違い

宗教信仰:宗教信仰の目的は、精神的な支えや倫理的な指針、文化的な一体感を提供することです。宗教的な物語や教義は象徴的な意味を持ち、個人や共同体に対して内面的な充実や道徳的な教訓を与えることが多いです。信仰の内容が史実であるかどうかは、これらの目的を達成するための手段として二次的な問題となります。

歴史修正主義:歴史修正主義は、政治的、社会的、またはイデオロギー的な目的のために歴史の記録を意図的に変更し、特定のナラティブを強調または隠蔽する行為です。この動機はしばしば、権力の維持、特定の集団の正当化、または他者の抑圧にあります。

影響範囲の違い

宗教信仰:宗教的な教義や物語は、主にその宗教を信じる人々の内面的な世界に影響を与えます。信仰は個人やコミュニティの倫理観や精神的な健康に寄与しますが、通常は歴史的な記録や客観的な事実を変更するものではありません。

歴史修正主義:歴史修正主義は、公共の歴史認識や教育に直接影響を与えます。これにより、社会全体の歴史理解が歪められ、特定の集団や出来事に関する誤った認識が広がる可能性があります。

証拠の扱い

宗教信仰:宗教的な物語や教義は、しばしば証拠の有無にかかわらず信じられます。これらは象徴的な真実を伝えることを目的としており、科学的な検証や史実とは異なる基準で評価されます。

歴史修正主義:歴史修正主義は、歴史的な証拠を意図的に歪めたり無視したりすることで成り立ちます。これは、歴史的な事実を再解釈するのではなく、偽造や隠蔽といった手段を用いて特定のナラティブを強制する行為です。

倫理的および社会的な影響

宗教信仰:宗教は、多くの場合、信者にとって肯定的な影響を与えます。信仰が内面的な平和や共同体の結束を促進する場合、それは個人および社会にとって有益です。

歴史修正主義:歴史修正主義は、社会的な分断を引き起こし、過去の不正を隠蔽することで和解や正義の追求を妨げる可能性があります。これは、被害者やその子孫にとって深刻な影響を及ぼし、社会の公平性や透明性を損ないます。

結論
宗教信仰と歴史修正主義は、その目的、影響範囲、証拠の扱い方、および社会的な影響の点で大きく異なります。宗教信仰は象徴的な意味を重視し、精神的および倫理的な目的に奉仕する一方、歴史修正主義は歴史的事実を歪めることで特定のイデオロギーや権力構造を維持しようとする行為です。このため、宗教的な信仰の内容が史実であるかどうかが必ずしも重要でないことと、歴史修正主義がもたらす問題とは、根本的に異なる性質のものです。

引用終了


やはり、「実を見れば木はわかる」ということのようだ。
良い木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。


ChatGPTは、宗教信仰を良いもの、歴史修正主義を悪いものとして答えたが、世には信仰と称する陰謀論のような主張もある。

たとえば、
「米軍機が絶えず空に薬を撒いて、日本の天気を完全にコントロールしている」とか、
「東日本大震災は、アメリカが核兵器を使って起こした人工地震だ。その時に拡散した放射能を隠蔽するために、福島の原発をわざと壊した」とか、
「クリスチャン」たちが大真面目に言っているのを聞いたことがある。

クリスチャンの多数意見ではないだろうが、たとえ一部であれ、宗教信仰に陰謀論が入り込んでいる現実がある。
これをどう考えたらいいのか。(続く)

(伊藤一滴)


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番外編・非神話化は正しい聖書解釈なのか

非神話化は正しい聖書解釈なのか、という問いが出てくる。

ブルトマンは、正統とされる教義のある部分を批判し、別な部分は受け継いでいる。
それに対し、私は、以下の点で疑問を感じる。

ある部分を批判し別な部分は受け継ぐその判別は、恣意的・主観的にならないのだろうか。また、過去の自由主義神学がそうであったように、時代の風潮や研究者自身の価値観・理想が入り込むことはないのだろうか。
そして、そもそも、ブルトマンによる判別は正しいのだろうか。

なお、ブルトマンの見解を、正統的な信仰に反するとか、異端の神学であるとか非難するのは当たらない。
ある時代に「正統とされていた教義のある部分を批判し、別な部分は受け継ぐ」のは、ルターやカルヴァンがまさにそうだった。
その後プロテスタントは細分化されていったが、それはまさに「正統とされていた教義のある部分を批判し、別な部分は受け継ぐ」「そして、その時代の研究成果もふまえ新解釈を加える」諸教派が乱立したからに他ならない。
教義のある部分を批判するのは異端だと言うのなら、自分が属するグループ以外はすべて異端になってしまう。歴史的に見ても、キリスト教にはかなり幅がある。


ブルトマンの解釈が「正しい」かどうか、何とも言えない箇所もあるけれど、私は、逆に、正しい聖書解釈とは何かを問いたい。
教派の数だけどころか、牧師の数だけ、信者の数だけ「正しい聖書解釈」があるのではないか。

「正しい」かどうかの判別は、時代の状況もそうだが、主観がかなり混じる。
その解釈が「正しい」かどうか、どの立ち位置から見るのかによって違ってくる。それよりも、その解釈が「良い」かどうかが問題ではないのか。

ある聖書解釈が良い結果をもたらし、そう解釈する人自身や周りの人たちを良い方に導くなら、それは良い聖書解釈と言えるだろう。
逆に、ある聖書解釈が、自分や他者に悪い影響を与えるのなら、それは悪い聖書解釈だと言える。

「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」

非神話化が良い結果をもたらすのなら、それは良い解釈だと言えるし、悪い結果をもたらすなら悪い解釈だと言える。


聖書解釈の中には、聖書のその箇所の執筆者の意図とはかなり違うと思えるものもある。新約聖書の中にさえ、旧約の意図とはかなり違うと思える解釈が多数見られる。

問われるのは、正しいか、正しくないかではなくて、良い結果をもたらすか否かであろう。


私が子どもの時だった。「大草原の小さな家」というテレビ番組を見ていた。50年近く前の記憶だから、細部は不正確かもしれないが、おおよそ、こんな内容の話があった。

ローラのお父さんのチャールズは、狩りか何かで1人で出かけて怪我をした。歩けず、近くに人もおらず、助けを呼ぶこともできない。やがて傷が化膿して熱も出てきた。苦しい中で、チャールズは聖書の言葉を思い出した。
「もしあなたの体の一部があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい」
意を決し、チャールズはナイフを取り出し、化膿した傷口を切った。切ったことで膿が出て、傷は快方に向かった。
あとからチャールズを診たベーカー医師が言った。
「切ったのは適切な判断だった」

聖書の執筆者の意図とはかなり違うだろうが、これを、「間違った聖書解釈だ」と言えるだろうか。

考えようによっては、ときに神様は聖書のその箇所の執筆者の意図とはかなり違う聖書解釈で人を助けてくださるとも言えるだろう。


極端なな原理主義者やカルトは別として、一般の(原理主義でない)福音派の聖書解釈を、「間違っている」とは、私は言わない。
私とかなり考えが違っていても、たとえ聖書学的に成り立たないような解釈であっても、その解釈でその人自身や周りの人が良くなってゆくのなら、それでいいと思う。
そういう意味で、私は、福音派の聖書信仰を尊重したい。

また、リベラルな立場の非神話化がその人自身や周りの人に良い結果をもたらすのなら、私は、非神話化を尊重したい。

もう一度言う。
「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」

(伊藤一滴)


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非神話化11・現在のことである十字架と復活

キリスト教信仰において、「イエスはキリストであること、キリストは十字架で殺されたこと、キリストは復活したこと」、これらを切り離すことはできない。
そして、イエス・キリストの十字架の死による救済を信じるのがキリスト教だ。

私はずっと「イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を贖(あがな)うためだった」と、人類の罪の贖いの死を信じるのがキリスト教の信仰だと思っていた。だからこのブログにもそう書いたことがある。だが、聖書の学びを続ける中で、罪の贖いという贖罪論は、新約聖書の一貫した思想とは言えないと思うようになった。
たしかに、福音書やパウロの書簡から、「十字架による罪の贖い」という論を導くことは可能である。だが、たとえばヘブル書は、十字架の意味を、民の罪に対する「なだめ」と論じ、贖罪を全面に出していない。ヘブル書は贖罪論に対する反論の書なのかもしれない。新約聖書の各文書の主張はそれぞれ違っていて、各著者の考え方は一致していない。

「キリストの十字架によって救われる」という見解と、
「キリストの十字架によって贖われる」という見解は、
似て非なる概念である。よく混同されるが、分けて考えた方がよい。

ちなみに、ブルトマンは、「十字架と復活」を救済の出来事としながら、罪のあがないという考えを神話論的解釈とし、つき従ってゆけないとまで言っている。
贖罪論はキリスト教の中に見られる見解ではあるが、贖罪論を信じなければキリスト教ではないとは言えない。

「十字架と復活」は救済の出来事だという。
しかし、実際にイエスに出会ったのはおよそ2千年前の人たちである。その後の人たちや今を生きる私たちは、どうすればイエスに出会えるのだろう。

ブルトマンは、「十字架につけられた甦りたもう者たるキリストは、宣教の言(ことば)においてわれわれに出会い、その他のいかなるところにおいても出会わない」と言い、また「宣教の言は、われわれがそれに対して認知証明の問(とい)を提出しうるようなものでなくして、われわれがそれを信ずることを欲するか、それとも欲しないかという問をわれわれに発しているところの神の言として、われわれに出会うのである」と言う(『新約聖書と神話論』)。

我々は、ただ宣教(ケリュグマ)の言葉だけからイエス・キリストに出会う、他からの出会いはない、となる。親や師や先輩や友人などに導かれたにしても、そこに宣教の言葉があったからだ、ということになる。導かれた人は、じかに聖書に記された宣教の言葉に触れ、イエス・キリストとの出会いを確かなものとした、ということになる。

まあ、中には、目の前にイエス様が現れたといった証言もあり、そうした証言はすべて嘘だなんて言えないけれど(※)、「宣教の言葉からイエス・キリストに出会う」のが、キリスト教の大原則だと私も思う。
認知証明など、しようがない。それが出来たら信仰とは言わない。すでに証明された科学の法則を信じても、それを信仰とは言わない。

信仰は、人間の認知証明を超えている。まさに「われわれがそれを信ずることを欲するか、それとも欲しないかという問をわれわれに発しているところの神の言(ことば)」なのだ。

ただし、理解は必要だ。人は、自分がまったく理解できないことを信じたりできない。
信仰は、科学的な証明が求められるものではないが、理解できる範囲での理解と、それを自分はこう信じるという説明は求められる。理解も説明もできないのに信じたら、それは狂信と同じだ。

信じるか信じないか、宣教の言葉に触れた人は決断を迫られる。だがそれは、原理主義やカルトのような狂信的・盲信的な「信仰」ではない。信じなければ地獄に行くと、脅され、脅し、日々恐れの中に生きるような「信仰」は新約聖書の使信とは相容れない。そのような「信仰」は人の精神を殺す。
新約聖書の宣教の使信を信じる信仰は、キリストと共に葬られよみがえり、新しいいのちに生きる信仰である(ロマ6:4)。
我々は、キリストと共に十字架につけられ共に復活した新しいいのちを生きている、ということになる。

十字架と復活は過去に終わった出来事ではない。過去から今に至り、今も我々と共にある出来事である。
十字架と復活はこの私と共にあり、これを私にとっての救済の出来事だと信じ、受け入れるのが信仰なのだ。2千年前の出来事が史実であったかどうかは問われない。

20世紀の科学の時代、論考に論考を重ね、このように考えればキリスト教信仰は成り立つし、キリスト教信仰を受け入れることができると論じたのが非神話化だったのだ。


※たとえば、マザー・テレサは、第二次大戦後、ダージリンに向かう小さな列車の中で、突然、十字架につけられたイエス・キリストが現れ、「私は渇く」とおっしゃったのを聞いたという。十字架のイエスの渇きにどう応えるのか、それが、その後のマザー・テレサの活動となっていった。

(完)

(伊藤一滴)


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非神話化10・洗礼

ブルトマンは、我々が洗礼を受けるのはイエス・キリストの十字架の死への参与であり、復活への参与だと言う。パウロの見解から導かれる主張である。「 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」(ロマ6:4)
洗礼を受けた者の生活は、イエス・キリストの復活に参与し新しいいのちに生きる喜びの生活となる。

では、いつも疲れているクリスチャン、教会に行くとエネルギーを吸い取られるみたいになってますます疲れるクリスチャンが存在することをどう説明すればいいのだろう。
ブルトマンがそう言っているわけではないが、「エネルギーを吸い取られるだけの教会にイエス様はいない」と考えるべきだろう。信者のエネルギーを吸い取り金銭も吸い取る「教会」が世にはある。そうやって信者の人生を吸い取ってしまう。そうした「教会」が「正しい聖書信仰」だの「福音的な教会」だの「福音派」だのと称していたりする。誠実な福音派の信仰を持って誠実に生きているクリスチャンにとって実に迷惑な話である。

意義を感じないことをすれば、重い疲れだけが残る。
それが大変なことであっても、意義を感じるのなら、心に重い疲れが残ったりはしない。

重い疲れだけが残るような場からは、離れた方がよい。それが学校であれ、職場であれ、また教会であれ。
そこから離れて、別の居場所を探した方がよい。


洗礼に関して思うのだが、多くの教派のそれぞれの主張の中で、有効な洗礼とは何なのだろうか?
他教派の洗礼は?、幼児洗礼は?、原理主義者の洗礼は?、極端な教派の洗礼は?、異端的な団体の洗礼は?
どこまで有効な洗礼なのだろう。
場合によっては洗礼を受け直す必要があるのだろうか。複数回の洗礼を受けてもよいのだろうか。

違う話だと言われそうだが、過去に再洗礼派は過酷な弾圧を受けている。拷問されて処刑された人もいる。プロテスタントも再洗礼派を異端として弾圧している。


今日なお洗礼については教派間による見解の相違が見られるが、多くの教会で共通するのは次のような見解である。

1.父と子と聖霊の御名によって水で洗礼を授けること。

2.洗礼を授ける者が、父と子と聖霊の御名による洗礼を授ける意図を持って行なうこと。(これを満たせば授ける者が信者かどうか問われないこともある)

教派によっては、「信仰を自覚し告白した者だけが洗礼を受けることができる」とする見解もある。この立場だと、幼児洗礼は行なわれない。
信仰の自覚と告白を条件とするのは、一見もっともな主張であるけれど、では知的障害者は洗礼を受けられないのか、受けられるならどのレベルの障害までなのか、といった問題も生じる。
福音書のイエスは幼児(おさなご)を受け入れているが、イエスが受け入れた幼児に信仰の自覚や告白があったのか、という問いも出てくる。

また、無教会のように、洗礼、聖餐といった聖礼典(サクラメント)を行なわない立場はどうなるのか?
形としての聖礼典は行なわないが、精神的な聖礼典があるということになるのだろうか。
ちなみに無教会の創始者内村鑑三自身は洗礼を受けている。


洗礼は、イエス・キリストの十字架の死への参与であり、復活への参与だというのは、神学的にはそうなのだろが、教派間の見解の相違をどう考えるべきかという課題は残る。

(続く)

(伊藤一滴)


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