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「福音派にはどんな問題点がありますか?」と、AIに聞いてみたら

「福音派にはどんな問題点がありますか?」と、AIに聞いたところ、次のように答えました。
(2023年4月26日のAIの答えをそのまま引用)


ChatGPTの答え(パソコン版)

引用開始

福音派は、聖書の中心的な教えである「福音」(救い)に焦点を当てた、プロテスタントの一派です。福音派は、聖書の信仰、個人的な信仰の関係性、神の恵み、信仰生活の規範に基づいているため、その信仰は非常に強固であり、多くの人々に影響を与えています。

しかしながら、福音派にはいくつかの問題点も指摘されています。以下にいくつか挙げてみます。

1. 性的マイノリティへの不寛容:福音派には、LGBTQ+の人々を受け入れないという考え方があります。多くの福音派の教会では、同性愛者やトランスジェンダーの人々がリーダーシップの地位に就くことはできず、性的マイノリティに対して排除的であるとされています。

2. 女性の役割に関する問題:福音派には、女性の役割に関する伝統的な解釈があります。多くの福音派教会では、女性の牧師に対する反対意見があり、男性がリーダーシップの地位に就くことが多いです。

3. 社会問題への取り組みの限界:福音派は、個人的な信仰に重きを置くため、社会問題に取り組むことが少ないとされています。例えば、環境問題や社会的不平等など、社会的な問題に対する取り組みが弱いとの批判があります。

4. 政治的な活動への関与:福音派は、しばしば政治的な活動に参加しています。一方で、政治的な発言が過激化し、論争を引き起こすこともあるとの指摘があります。

これらの問題点は、すべて福音派の信仰や伝統的な価値観に基づいているため、解決することは容易ではありません。ただし、これらの問題に対して、福音派の信徒たちが積極的に対話を行い、より寛容な社会を目指すことは、より良い社会を築くために重要であるとされています。

引用終了

ChatGPT風の AI Chat の答え(スマートフォン版)

引用開始

福音派には多くの異論、批判、問題点があります。以下は一部です。

1. 公正さの欠如:福音派はしばしば、他の宗教的伝統や信念、あるいは異なる性的指向や生活スタイルを持つ人々を非難します。これは、公正さの欠如と見なされている。

2. 完全主義:福音派は、律法主義的な立場を取ることがあるため、完全主義的なものが強調されることがあります。これは、神の完全な力を信じ、態度や行動にも完全主義の価値観を持ち込むことが影響する場合があります。

3. 偏狭さ:福音派は、異なる思想や信念に耳を傾けることが少ないという批判を受けることがあります。これは、典型的には、保守的な解釈や教義、性的指向に対する偏見や反応、科学に対する反感に現れます。

4. クリエーション主義:福音派は、地球が短期間で創造されたと信じるクリエーション主義の解釈を持つことがあります。これは、進化、地球の年齢、遺伝子の解析などの科学的根拠と矛盾することがあります。

これらは、福音派の一般的な問題点のいくつかですが、提起される問題の種類やその人々の信仰の形式によって、様々な批判があることに留意する必要があります。

引用終了


まったく同じ質問をしたのに、AIによって回答が違っています。
(でも、どっちも合ってるような・・・)
別の日に聞いたら、また別な答えかもしれません。


Microsoft の Bing にも同じ質問をしたら、こう答えました。

引用開始

福音派には、聖書を最終権威とする信仰の姿勢によって、リベラルが人間理性を最終権威とするエキュメニカル派とは異なる信仰の姿勢があります1。また、福音派は、保守的な政治的立場を取ることが多く、そのために社会問題に対して保守的な見解を持つことが多いです2。ただし、福音派の中にも、社会問題に対してリベラルな見解を持つ人々もいます2。

以上のような特徴があるため、福音派には批判的な意見もありますが、一方で、福音派の信仰の姿勢や保守的な立場を支持する人々もいます2。

詳細情報:
1. ja.wikipedia.org
2. ja.wikipedia.org

引用終了

「福音派は、保守的な政治的立場を取ることが多く、そのために社会問題に対して保守的な見解を持つことが多いです」って言いながら、「福音派の中にも、社会問題に対してリベラルな見解を持つ人々もいます」って、どっちなの? 明日は晴れますが所により雨が降るでしょう、みたいな話です。
政治的な保守性はアメリカではそうでしょうが、日本では当てはまらないでしょうし。
それでも、「福音派の問題点」と言った話は有名なんで、わりと正確に出るんでしょう。


これがマイナーな話だと、大ウソも出ます。

「ジネント山里記とは何ですか」と Bing に聞いたら、答えはめちゃくちゃでした。

引用開始

‘ジネント山里記とは’ を検索しています

回答を生成しています…

「ジネント山里記」とは、ドイツの神学者ヴォルフハルト・パネンベルクが著した著作の一つです1。この著作は、神学的な視点から、人間と自然との関係について考察しています1。

詳細情報:
1. ja.wikipedia.org

引用終了

何というハッタリ。パネンベルク先生に失礼ですよ。
だいたい、ウィキペディアにそんなこと書いてある訳ないし。出典まで嘘。

(伊藤一滴)

追記:現在(2023年5月)、正規の ChatGPT はパソコン版だけで、スマホ版はないそうです。スマホ版にいろいろあるのはどれも ChatGPT風の類似品です。知らなかったんで、そうした紛らわしいアプリを、スマホ仕様の ChatGPT だと思ってました。訂正します。
でも、類似品だから駄目だとも言えません。類似品を使ってみると、正規の ChatGPT とはまた別の、的を得た回答をしてくることがあります。

聖母マリアを崇敬する「聖書的根拠」(再掲)

「神父の放言」というおもしろいブログがあった。
書いていたのはたぶん、本当の神父さんだと思う。もし神父でない人が神父のふりをしていたのなら、神父になりすませるくらい、かなり学んだ人だったのだろう。

読んでいて、「なるほど、カトリックはこう考えるのか」と、とても参考になっていた。


久しぶりに「神父の放言」を見ようとしたら全部消えていた。理由はわからない。
コピーしておけばよかった。残念だ。


かつて、この「神父の放言」に、聖母マリアを崇敬することの「聖書的根拠」も載っていた。
こういう考え方もあるのかと思った。
もっとはやく、紹介しておけばよかった。

(一滴がいつも言うように、聖書の言葉は理屈のつけようで何とでもなる。聖書を引用して、まったく正反対の主張ができる箇所も多い。だから、対立する教派がそれぞれに「聖書的に正しいのはこうです」と相容れないことを言い合ってきた。)


放言神父がおっしゃっていた聖母マリア崇敬の「聖書的根拠」について、思い出せることを記憶で書いてみる。


ヨハネ福音書に、十字架につけられたイエスが死を前に言った言葉が記されている。
「19:26イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。 19:27それからこの弟子に言われた、「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。」(ヨハネによる福音書 口語訳)

イエスは母マリアに、愛弟子のことを、「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」と言っている。
愛弟子にはマリアのことを、「ごらんなさい。これはあなたの母です」と言っている。
もし、自分の死後に母のことを頼みたいなら、弟子に「私の母をよろしく頼む」と言うのが自然だろう。
イエスは、「よろしく頼む」ではなく、「これはあなたの母です」と言っている。

ヨハネと思われるこの愛弟子だけが特別だというのではない。マリアと愛弟子には血縁関係はないだろうに、イエスは「子です」「母です」と、はっきり言ったのだ。
イエスを信じる者すべてにとって、マリアは母であり、マリアから見れば、すべて子なのだ、ということだろう。

クリスチャンホームの人なら自分の母親の信仰に敬意を持ち、母親に、これこれのことで祈ってほしいと頼むのは自然なことだ。
信じる者すべてにとっての母であるマリアに、祈ってくださいとお願いするのは自然なことであり、聖書解釈としても成り立つ。

「カトリックは聖書的根拠のないことを言っているから間違っている」と非難する人たちがいるが、このように理屈をつければ、マリアへの祈りには聖書的根拠がある、ということになる。


なお、これは一滴の補足だが、カトリック教会や東方教会で行なわれる「マリアへの祈り」というのは「共に祈ってください」というお願いであり、神に対する祈りとは違う。

それと、カトリック教会のマリアの像は象徴的なものであって、像に霊が宿っているといったものではないという。

マリア像に向かって祈る(正確には、マリアに対して「神に祈ってください」とお願いする)のを偶像崇拝だと言うのなら、聖書を前に祈るのも聖書への偶像崇拝、教会の屋根に十字架を掲げるのも十字架への偶像崇拝になるのではないか。
それ以上に、自分たちの先入観に合うように聖書の言葉を改変したり独自に解釈したりする方がよっぽど偶像作り・偶像崇拝だろう。

見方を変えれば、何が偶像崇拝なのか、違って見えてくる。

(伊藤一滴)


付記
別に、カトリックに媚びているのではありません。カトリック信者を名のる人たちの中にも、極端な原理主義者がいるようです。

参照:カトリック信者と称する原理主義者たち
http://yamazato.ic-blog.jp/home/2019/06/post-c3a6.html

私は、一般の福音派も含めて、どのキリスト教の教派の人たちにも敬意を持っています。(ただし原理主義者やカルトは別です。彼らには、目を覚ましてほしいと思っています。憎んでいるのではなくて。)

2022-07-07 掲載、そのまま再掲

そして二人は一つの肉となる

マタイ福音書にこう書いてあります。

19:3さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。 19:4イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、19:5そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。 19:6彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。(口語訳)

「一体」と訳されていますが、原文は σάρκα μίανですので、直訳すれば「一つの肉」です。

イエスは、旧約を引用し、καὶ ἔσονται οἱ δύο εἰς σάρκα μίαν (そして二人は一つの肉となる 5節)と言っています。

また、ὥστε οὐκέτι εἰσὶν δύο ἀλλὰ σὰρξ μία (それゆえ、もはや彼らは二つではなく一つの肉です 6節)とも言っています。

欽定訳をはじめ多くの英訳も one flesh (一つの肉)と訳しています。

 新約聖書に記されたイエスの発言は、伝承された言葉が後に編集されたものですから、どこまでがイエスの口から出た言葉なのか、厳密にはわかりません。ただ、こうした発言がイエスの言葉として記されている以上、イエスには、性をタブー視する発想はなかったのではないかと察せられます。

おそらく、イエスは、「結婚した二人は合体して一つの肉になるんだよ」といった発言を、人前でしていたのではないでしょうか。だとすれば実におおらかであり、性を罪悪視するような感覚は感じられません。

 今も、教会の中やクリスチャンの間では、性をタブー視する雰囲気があると聞いています。「教会の人には恋愛の相談もできない」といった声も聞こえてきます。そうした雰囲気はイエスの姿勢と違うと思います。

(伊藤一滴)

今日は、イエス・キリストが十字架につけられたという受難の日です。
キリストの十字架を思い、キリスト教の負の歴史を思い、また、今もこの世界には苦しんでいる人たちが多くいることを思いながら、讃美歌136番「血しおしたたる」を聞いています。

「血しおしたたる 主のみかしら、 とげにさされし 主のみかしら、 なやみとはじに やつれし主を、 われはかしこみ きみとあおぐ。」