福音書を素直に読むと、イエスもイエスの弟子たちも正統主義にはこだわっていません。
むしろ、「~と言われてきたのをあなたがたは聞いています。しかし私は言います」というのがイエスの姿勢です。
「当教会はこう解釈してきたからこうです」、「牧師先生はこうおっしゃっているからこうです」と、無批判に言われたことに従うことがイエスに従うことではありません。
イエスがそうであったように、是は是、否は否と判断して進むことが、イエスに従うことであろうと私は思うのです。
その話をしたら、ある「クリスチャン」から、「『しかし私は言います』というのはイエス様だから言えることで、一般の人がそんなことを言ってはいけません。教会や牧師先生に従うべきです」と厳しく叱られたことがありました。
いや、違います。自分で判断して進むことがイエスに従うことです。
先に書いたとおり、聖書を引用してまるで正反対のことも言えます。実際、教派によって、教会によって、指導者によって、かなり違うことが言われています。キリスト教と言ってもそれぞれ別の宗教ではないかと思うくらい違います。両立しない主張が、どれも「正しい信仰」でしょうか。最後は自分で判断して行動するしかないだろうと、私は思います。
これも、福音書を素直に読めば、イエスの教えには律法主義の束縛からの解放の主張があります。イエスは、律法を破壊も否定もしないで、律法主義からの解放を主張しました。
当時の人たちは、律法主義に支配され、神殿税を取られ、地方の領主やローマ帝国からも支配され、幾重にも支配されていました。そうした人たちに、イエスは、神は父であること、神は愛であることを教え、神の国の到来を告げ知らせ、解放を説いたのです。
正統主義にこだわり、律法で人を縛るような教えは、イエスの教えとは方向が逆です。
この、方向が逆の人たちが、「私たちは正統プロテスタントです」とか「福音的な教会です」とか「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会です」とか称するのを私は見てきました。それは、現代の律法主義、現代のファリサイ派(パリサイ派)のようでした。
レイチェル・ヘルド・エヴァンズ(Rachel Held Evans)氏の『解明された信仰』(Faith Unraveled)を読み終えて、思いました。
真のクリスチャンは「正統主義」にこだわらない。
異なる宗教を信じる人たちに寛容である。
異なる文化の中に生きる人たちに寛容である。
性的少数者や社会的弱者の理解者になろうとする。
さまざまな分野を幅広く学んでいこうとする。
等々。
異なる考えや立場は否定すべきものですか? 理解者になってはいけないのでしょうか。理解者になろうとするのは間違った信仰や偶像崇拝への協力ですか? 反聖書的ですか?
広い視野を持たず、広く学ばず、自分たちは正しいのだと、自分たちのグループの狭い世界観にこもることが純粋な信仰?
何をもって真のクリスチャンと言うのでしょう。
私は、イエスに従った人たちが真のクリスチャンだと思います。律法主義・ファリサイ主義の人たちではなくて。
たとえば、
アシジのフランチェスコはイスラムの指導者と話し合いをするために決死の覚悟でエジプトまで行きました。
マザーテレサは瀕死のヒンズー教徒の手を握り、ヒンズーの祈りを唱えながら看取りました。
中村哲氏は最後までイスラム教徒の理解者であり隣人でした。
これらはイエスの教えに反するのでしょうか?
聖書に反するのでしょうか?
彼らは偶像崇拝に協力したのでしょうか?
私はこうした人たちこそが、真のクリスチャンであったと思います。
見えてきました。
真のクリスチャンとは、イエスに従う人たちのことです。
イエスがそうであったように、是は是、否は否と判断し、決断して進む人たちです。
正統主義・律法主義に縛られない人たちです。
逆に言えば、イエスに従わない人たちは真のクリスチャンではない、ということになります。
(伊藤一滴)
以下は補足です。関心のある方はお読みください。
イエスに従う人とはどういう人なのか突き詰めれば、正統主義・律法主義(あるいは教条主義)に縛られず、良心に従い、是は是、否は否と判断し、決断して進む人でしょう。カール・ラーナーの指摘にあるように、自分はキリスト教徒だという自覚を持たない真のクリスチャンもいる、と考えることもできます。(「知られざるキリスト者(無名のキリスト者)」論、Anonymous Christian 参照)
狭義の「キリスト教信仰」の有無とその人の救いは、単純に結びつかなくなります。
自分はキリスト教徒だという自覚を持たない真のクリスチャンもいるなら、逆に、自分はクリスチャンだと思っている非クリスチャンもいるでしょう。
「キリスト教を信じているから救われています、救われているから天国に行けます」などどいう、そんな単純な話ではないのです。
マタイの福音書 7:21~23
7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 7:22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 7:23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(新改訳初版)
これはなかなか興味深い箇所です。「『主よ、主よ。』と言う者」がいわゆる「クリスチャン」とされる人で、「天におられるわたしの父のみこころを行う者」には他宗教の信者や無神論者が多数いるのかもしれません。
長いのですが、もう1箇所引用します。
ルカの福音書 16:19~31
16:19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 16:21金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 16:22さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 16:24彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 16:25アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 16:26そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 16:27彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 16:28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 16:29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 16:30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 16:31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』(新改訳初版 ハデス=陰府、引用者)
これも興味深い箇所です。
「ラザロには信仰があった」とはまったく書かれていません! 苦しんで死んでいったことが書かれているだけです。また「金持ちには信仰がなかった」とも書かれていません。ラザロが全身の出来物と空腹で苦しんでいるのを知りながら、自分はぜいたくに遊び暮らし、ちっとも助けようとしなかったことが書いてあるのです。
私は以前、上記を引用し、「人の救いはキリスト教信仰の有無ではありません」と言ったら、例の「クリスチャン」たちからうんと叱られました。「何を馬鹿なことを言うんですか。ラザロには信仰があったんです! 信仰がなければ救われません!」って。本当に私は「正統プロテスタントの福音的な教会」の人や「教派ではなく真のキリスト教」の人からすいぶん叱られてきました。何しろ彼らは「正しい信仰」ですから。
私は、今、難民・移民を拒絶する「クリスチャン」、壁を作ろうとする人やその支持者の「クリスチャン」、イスラム文化圏の人たちを平気で抑圧する「クリスチャン」のことを思います。彼らは、自分たちは正しいキリスト教を信じているとしながらイエスを拒絶しています。イエスを拒絶する「正しい信仰」! そのことに気づいてほしいと思います。
『解明された信仰』(Faith Unraveled)に出てくる公開処刑された女性のことを読んだとき、このラザロのことが頭に浮かびました。もちろん殺人は悪いことです。でも、この女性は夫に暴力を振るわれ続け、夫を殺すほどに追い詰められていたのでしょう。彼女がそこまで追い詰められたことに、彼女の側に落ち度があったとは思えません。誰も助けてくれる人がいない状況で、苦しみ、そして苦しみながら死んでいった、そのような人が、きっと、世の中にはたくさんいるのでしょう。
「神よ、どうか、そうした人たちのたましいを、アブラハムのふところに迎え入れてください」と願うことが、どうして間違った信仰とされるのでしょうか。