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「募ってはいるが募集はしていない」

久しぶりに政治ネタです。
ネットのヤフーニュースで昨日(2020.1.29)見たデイリースポーツの記事から引用します。


引用開始

(略)
 安倍首相の地元事務所名で、桜を見る会を含むツアー参加者を募る文書が地元有権者に送られていた問題で、共産党の宮本徹議員が募集時期をいつ知ったかと質問したところ、首相は「幅広く募っているという認識でございまして、募集しているという認識ではなかった」と回答した。

 宮本氏は「私は日本語を48年間使ってきたが、『募る』というのは『募集する』というのと同じです。募集の『募』は『募る』っていう字なんですよ」と、日本語の意味を総理大臣に説明するという場面が展開された。

 ツイッターでは「流行語狙い?」「(言語学者)金田一秀穂先生の見解が待たれる」「芥川賞候補の小説の題名になりそうな台詞」「『募集(ボシュウ)』と『募る(ツノル)』の意味は全く違います。って、閣議決定するんじゃないの」といった投稿が相次いだ。また、政権への皮肉を込めた「書き換えはしたが、改ざんはしていない」をはじめ、「腹は減っているが、空腹ではない」「歩いてはいるが、歩行はしていない」「酒を飲んでいるが、飲酒はしていない」「馬から落ちたが、落馬はしていない」などといった使用例の書き込みも続いた。

 一方で「ネタじゃなくて本気で言ってる(本気で別の概念だと思ってる)としか思えない」と首相の日本語力を気遣う声や、「募る」と「募集」にはぐらかされて質問の核心部分である「募集時期」がうやむやになったという声もあった。
(以下略)

引用終了


私がコメントするまでもないのですが、上記の反応はどれも傑作です。特に「『募集(ボシュウ)』と『募る(ツノル)』の意味は全く違います。って、閣議決定するんじゃないの」など、実にお見事です。これまでも安倍内閣は、くだらないことを次々に閣議決定してきましたから。

実際は、「ネタじゃなくて本気で言ってる(本気で別の概念だと思ってる)としか思えない」というのが正解でしょうか。これまでも安倍晋三氏とその仲間たちは、筋の通らない発言、噛み合わない答弁を繰り返してきましたから。それを非難もせずに追従する国民も国民です。アメリカのトランプ氏やその支持者もそうですが、筋の通らないことを言って強引に通すのは「指導力がある」ことなのでしょうか。

めちゃくちゃなことを言い張る人たちに、これ以上この国の未来を委ねたくはありません。

(伊藤一滴)

真のクリスチャン

福音書を素直に読むと、イエスもイエスの弟子たちも正統主義にはこだわっていません。
むしろ、「~と言われてきたのをあなたがたは聞いています。しかし私は言います」というのがイエスの姿勢です。

「当教会はこう解釈してきたからこうです」、「牧師先生はこうおっしゃっているからこうです」と、無批判に言われたことに従うことがイエスに従うことではありません。
イエスがそうであったように、是は是、否は否と判断して進むことが、イエスに従うことであろうと私は思うのです。

その話をしたら、ある「クリスチャン」から、「『しかし私は言います』というのはイエス様だから言えることで、一般の人がそんなことを言ってはいけません。教会や牧師先生に従うべきです」と厳しく叱られたことがありました。

いや、違います。自分で判断して進むことがイエスに従うことです。

先に書いたとおり、聖書を引用してまるで正反対のことも言えます。実際、教派によって、教会によって、指導者によって、かなり違うことが言われています。キリスト教と言ってもそれぞれ別の宗教ではないかと思うくらい違います。両立しない主張が、どれも「正しい信仰」でしょうか。最後は自分で判断して行動するしかないだろうと、私は思います。


これも、福音書を素直に読めば、イエスの教えには律法主義の束縛からの解放の主張があります。イエスは、律法を破壊も否定もしないで、律法主義からの解放を主張しました。

当時の人たちは、律法主義に支配され、神殿税を取られ、地方の領主やローマ帝国からも支配され、幾重にも支配されていました。そうした人たちに、イエスは、神は父であること、神は愛であることを教え、神の国の到来を告げ知らせ、解放を説いたのです。

正統主義にこだわり、律法で人を縛るような教えは、イエスの教えとは方向が逆です。

この、方向が逆の人たちが、「私たちは正統プロテスタントです」とか「福音的な教会です」とか「正しい聖書信仰に立つ福音主義の教会です」とか称するのを私は見てきました。それは、現代の律法主義、現代のファリサイ派(パリサイ派)のようでした。

 
レイチェル・ヘルド・エヴァンズ(Rachel Held Evans)氏の『解明された信仰』(Faith Unraveled)を読み終えて、思いました。

真のクリスチャンは「正統主義」にこだわらない。
異なる宗教を信じる人たちに寛容である。
異なる文化の中に生きる人たちに寛容である。
性的少数者や社会的弱者の理解者になろうとする。
さまざまな分野を幅広く学んでいこうとする。
等々。

異なる考えや立場は否定すべきものですか? 理解者になってはいけないのでしょうか。理解者になろうとするのは間違った信仰や偶像崇拝への協力ですか? 反聖書的ですか?
広い視野を持たず、広く学ばず、自分たちは正しいのだと、自分たちのグループの狭い世界観にこもることが純粋な信仰?
 
何をもって真のクリスチャンと言うのでしょう。
私は、イエスに従った人たちが真のクリスチャンだと思います。律法主義・ファリサイ主義の人たちではなくて。

たとえば、
アシジのフランチェスコはイスラムの指導者と話し合いをするために決死の覚悟でエジプトまで行きました。
マザーテレサは瀕死のヒンズー教徒の手を握り、ヒンズーの祈りを唱えながら看取りました。
中村哲氏は最後までイスラム教徒の理解者であり隣人でした。

これらはイエスの教えに反するのでしょうか?
聖書に反するのでしょうか?
彼らは偶像崇拝に協力したのでしょうか?

私はこうした人たちこそが、真のクリスチャンであったと思います。

見えてきました。
真のクリスチャンとは、イエスに従う人たちのことです。
イエスがそうであったように、是は是、否は否と判断し、決断して進む人たちです。
正統主義・律法主義に縛られない人たちです。

逆に言えば、イエスに従わない人たちは真のクリスチャンではない、ということになります。

(伊藤一滴)


以下は補足です。関心のある方はお読みください。

イエスに従う人とはどういう人なのか突き詰めれば、正統主義・律法主義(あるいは教条主義)に縛られず、良心に従い、是は是、否は否と判断し、決断して進む人でしょう。カール・ラーナーの指摘にあるように、自分はキリスト教徒だという自覚を持たない真のクリスチャンもいる、と考えることもできます。(「知られざるキリスト者(無名のキリスト者)」論、Anonymous Christian 参照)

狭義の「キリスト教信仰」の有無とその人の救いは、単純に結びつかなくなります。
自分はキリスト教徒だという自覚を持たない真のクリスチャンもいるなら、逆に、自分はクリスチャンだと思っている非クリスチャンもいるでしょう。
「キリスト教を信じているから救われています、救われているから天国に行けます」などどいう、そんな単純な話ではないのです。


マタイの福音書 7:21~23
 7:21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。 7:22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』 7:23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(新改訳初版)

これはなかなか興味深い箇所です。「『主よ、主よ。』と言う者」がいわゆる「クリスチャン」とされる人で、「天におられるわたしの父のみこころを行う者」には他宗教の信者や無神論者が多数いるのかもしれません。

長いのですが、もう1箇所引用します。

ルカの福音書 16:19~31
16:19ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
16:20ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 16:21金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 16:22さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 16:24彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』 16:25アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 16:26そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』 16:27彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 16:28私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 16:29しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 16:30彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 16:31アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』(新改訳初版 ハデス=陰府、引用者)

これも興味深い箇所です。
「ラザロには信仰があった」とはまったく書かれていません! 苦しんで死んでいったことが書かれているだけです。また「金持ちには信仰がなかった」とも書かれていません。ラザロが全身の出来物と空腹で苦しんでいるのを知りながら、自分はぜいたくに遊び暮らし、ちっとも助けようとしなかったことが書いてあるのです。

私は以前、上記を引用し、「人の救いはキリスト教信仰の有無ではありません」と言ったら、例の「クリスチャン」たちからうんと叱られました。「何を馬鹿なことを言うんですか。ラザロには信仰があったんです! 信仰がなければ救われません!」って。本当に私は「正統プロテスタントの福音的な教会」の人や「教派ではなく真のキリスト教」の人からすいぶん叱られてきました。何しろ彼らは「正しい信仰」ですから。

私は、今、難民・移民を拒絶する「クリスチャン」、壁を作ろうとする人やその支持者の「クリスチャン」、イスラム文化圏の人たちを平気で抑圧する「クリスチャン」のことを思います。彼らは、自分たちは正しいキリスト教を信じているとしながらイエスを拒絶しています。イエスを拒絶する「正しい信仰」! そのことに気づいてほしいと思います。


『解明された信仰』(Faith Unraveled)に出てくる公開処刑された女性のことを読んだとき、このラザロのことが頭に浮かびました。もちろん殺人は悪いことです。でも、この女性は夫に暴力を振るわれ続け、夫を殺すほどに追い詰められていたのでしょう。彼女がそこまで追い詰められたことに、彼女の側に落ち度があったとは思えません。誰も助けてくれる人がいない状況で、苦しみ、そして苦しみながら死んでいった、そのような人が、きっと、世の中にはたくさんいるのでしょう。

「神よ、どうか、そうした人たちのたましいを、アブラハムのふところに迎え入れてください」と願うことが、どうして間違った信仰とされるのでしょうか。

エヴァンズ『解明された信仰』読了 聖書は解釈のしようでどうにでもなります

レイチェル・ヘルド・エヴァンズ(Rachel Held Evans)氏の『解明された信仰』(Faith Unraveled)を読みました。
すごいな、エヴァンズ氏。


エヴァンズ氏には『霊感によるもの』(Inspired、つまり「聖書」のこと(※1))や『聖書的な女性らしさの一年』(A Year of Biblical Womanhood(※2))といった著書もあります。
(日本語の題名は私の勝手な訳なので、著書を検索する場合はかっこ内の英語の原題でお願いします。それと、これら2冊は未読です。すみません。早く読みたいのですが、英語の本をかたっぱしから読むような語学力は私にはありませんので。)

ネット上のレビューで読んだのですが、『霊感によるもの』には、聖書の中には読みようによってどうにでも解釈できる箇所が多数あり、正反対の主張もできるという意味のことが書いてあるそうです。私と同じ意見です。
『聖書的な女性らしさの一年』は、これもレビューによると、1年の間「聖書的な女性らしさ」を徹底して実践しようとした話だそうです。彼女は、それは不可能だと気づきました。なぜなら一貫した聖書的な女性らしさなど存在しないからです。聖書的に女性はどうあるべきかなんて、箇所により、解釈により、どうとでも取れるからです。

私も感じていますが、
戦争、
奴隷制、
死刑、
女性の指導者、女性の教会内での発言、
豚肉を食べること、
異文化への対応、
性的マイノリティへの対応・・・・
他にもいろいろありますが、
聖書を引用して、まったく正反対の見解を述べることもできるのです。

解釈のしようで正反対のことが言えるのですから、「正しい聖書解釈」とか、「正しい聖書信仰」といったものは、「自分が属する教派やグループの見解」か「その人が聖書のある部分から導いた個人的な考え」かのどちらかです。(「間違った解釈」や「間違った信仰」というのは、自分の派や自分の考えと異なる見解のことです。)


かつて私は、福音派と称する人たちの同士討ちを見たことがあります。
武器を使うとか殴るとかはしませんが、ある「福音派」が、別の「福音派」に、聞くに堪えない憎悪に満ちた言葉を浴びせ、言われた側が真っ赤になって言い返すのを見ました。どちらの言葉も、人の心をぐさりと切る刃物のようでした。(※3)

対立する両者が両方とも「正しい聖書信仰に立つ福音主義のクリスチャン」なのでしょうか? 

聖書は絶対だと信じる信仰は、何せ、絶対ですから、一切の妥協を許さず、ときに近親憎悪のような同士討ちになるのです。人間が認識できるのは、しょせん、認識できる範囲内の人間の側の理解に過ぎないのに、「聖書は絶対であり、自分たちの聖書信仰も絶対だ」になって、自分たちの認識が絶対になってゆくのです。


どうにでも解釈できる一例を挙げましょう。

有名な「豚に真珠」ということわざは聖書に由来します。こう書いてあります。

(7:6聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。「マタイの福音書」新改訳初版)

さて、犬や豚とは誰のことを指しているのでしょうか?

犬や豚というのは、聖書の本当の価値がわかっていないリベラル派のことだろう。
マリア像を拝んでいるカトリックのことだろう。
A教会のことだろう。
いや、A教会と対立しているB教会のことだろう。
聖書の本当の価値がわかっていないのは福音派のほうだから、福音派のことだろう。
福音派はともかく聖霊派のことだろう。
エホバの証人のことだろう。
共産主義者のことだろう。
ファシストのことだろう。
伊藤一滴のことじゃないのか。

何とでも言えます。
聖書は解釈のしようでどうとでも言えますから。
(※4)

(伊藤一滴)


※1: inspired を何と訳すかですが、著者の頭の中には次の聖書の言葉があったのでしょう。

All Scripture is inspired by God and profitable for teaching, for reproof, for correction, for training in righteousness;(2 Timothy 3:16  New American Standard Bible )

「聖書はすべて神の霊感によるものであって、教え、戒め、矯正、義の訓練のために有益です。」(2テモテ3:16)

この inspired を意識した題名と考えられるので、『霊感によるもの』としておくのが妥当な訳かと思いました。
実は、ちょっと考えました。聖書やキリスト教を論じるのに「ひらめき」は変だし、「神によって霊化された」ということなら2テモテ3:16だろうと思っていくつかの訳を開いたら上の訳がありました。それで、著者はこの御言葉を意識して inspired という題にしたのだろうと思ったのです。
(なお、上の聖書の引用は、たまたま私の手元にあった New American Standard Bible からです。エヴァンズ氏がどの訳から引用したのかは未確認です。)


※2:A Year of Biblical Womanhood は「聖書的女性の一年」とも訳せます。


※3:「福音派」対「福音派」は内ゲバのようでした。「内ゲバ」なんて言葉は今の若い人には通じないでしょうが、私が子どもの頃、たくさんの左翼過激派の団体があって、互いに対立し、同士討ちのようなことをしていました。近親憎悪ですかね。


※4:それでも残るものは何でしょう。
これは変えようがないというものは。
それも人によって違うのでしょうか。
キリスト教の中に誰も変えることのできないものがあり、それが真に価値のあるものなら、キリスト教は未来に進んでゆくことでしょう。
それを探すなら、神学論考よりも「イエスが人々に伝えようとしたメッセージ」の中に探すべきでしょう。神学的な色眼鏡を通してイエスの言葉を見るのではなくて。

結び目を解くマリア

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キリスト教のごく初期、まだ新約聖書も成立していなかった時代にイエスを信じた人たちが集まっていた場所の壁に、マリアを讃える言葉が見つかっています。( ガーリヤ・コーンフェルト著 岸田俊子訳『歴史の中のイエス』)
キリスト教徒は古くからイエスの母であるマリアを讃えていました。

当然ですが、マリアは神ではありません。敬い、讃えるのは、神を崇拝するのとは違います。

「カトリックはマリア像を拝んでいるから間違っている」という主張は、大変な誤解です。
像を拝んではいるのではありません。敬愛するマリアに、共に祈ってくださいと願い求めているのです。
像は象徴的なものだそうです。一般の人がわかりやすいように、イエスの像、マリアの像などを置いて、象徴的にあらわしているのだそうです。カトリックの神父さんは「像は象徴であり、像に霊が宿っているといったものではありません」とおっしゃっていました。

カトリック、東方教会、聖公会、ルーテル教会などには、聖人という考え方があります。
聖人は、信仰の範となった人とも言えます。
イエスの母となったマリアは、もちろん人間ですが、聖人の中の聖人のイメージです。
クリスチャンの友人に「~のことで祈ってください」とお願いするように、この世を去った聖人に、「共に祈ってください」とお願いすることを「聖人に対する祈り」と言うのです。神への祈りとは性質が違います。像を拝んでいるのでもありません。「聖人に対し、共に祈ってくださいと願うこと」と言った方がいいのかもしれません。

「結び目を解くマリア」なんて、聖書的でないとおっしゃる人もいるでしょう。
しかし、イエスはキリストであるという信仰もマリアへの崇敬の念も新約聖書の成立より古いのですから、聖書あってのキリスト教というより、イエス信仰やマリア崇敬のほうが先にあったと言うべきでしょう。あとから信仰的な文書がまとめられて新約聖書となったのです。
プロテスタント信仰(聖書中心主義の信仰)の限界の一つがここにあります。
歴史的には信仰が先で、その信仰が表明された文書が聖書です。
何もないところにいきなり聖書が与えられ、その聖書を読んだ人の中に信仰が成立したのではありません。


さて、マリアには、結び目を解く力がおありなのでしょうか?

イエスは十字架で処刑されました。これは歴史的事実です。
なにも悪くない息子を殺害された母マリアは、いったいどんな思いだったのでしょうか。

マリアなら、きっと、軍政下で家族を殺害された人たちの気持ちがおわかりでしょう。

マリアに結び目を解く力があるのかどうか、私にはわかりません。ただ、この世界の各地の複雑な結び目が解かれ、全人類が平和で幸福な未来に向かっていけるよう、「マリア様、私たちと共にお祈りください」とお願いすることができる、という考えは成り立つだろうと思います。

(伊藤一滴)

付記:Amazonで「ローマ法王になる日まで」(DVD)を買った人たちが「よく一緒に購入されている商品」として、「神々と男たち」と「夜明けの祈り」が出てきます。この2つは見てはいませんが、解説を読むと、実話に基づく重いテーマを扱っているようです。

映画「ローマ法王になる日まで」

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映画「ローマ法王になる日まで」をDVDで観ました。
Amazonで日本語字幕付きを買って、正月に自宅で妻と観ました。
現在のローマ教皇(法王)フランシスコ(就任前の名はベルゴリオ)が、教皇になるまでを描いた実話に基づく映画です。

その夜、私は、なかなか眠れず、寝てからも何度も目を覚ましました。
それくらい、衝撃的で、強烈でした。

ネット上のAmazonの「商品の説明」にこうあります。

引用開始

(略)ブエノスアイレス生まれのベルゴリオは20歳でイエズス会に入会し、35歳の若さでアルゼンチン管区長に任命される。ときはビデラ大統領による軍事独裁政権下。反政府の動きをした者は容赦なく殺害された。神学校院長のベルゴリオのもとには問題を抱えた一般市民や彼らを支援する神父たちが次々と相談に訪れるが、神学校にも軍のスパイの神父がおり、軍の圧力がじわじわと迫ってくる。
1985年、暗黒時代は終焉。失意のもと神学を学ぶためドイツに留学したベルゴリオ。ある日、引き寄せられるように足を踏み入れた教会で「結び目を解く聖母マリア」の絵と出会う。「誰もが結んでしまう苦悩の結び目を解いてくれる」というマリア様に、自分の“結び目"を心で唱えたベルゴリオは、涙が止まらなかった。その後アルゼンチンに戻り、田舎の一神父として穏やかな日々を送っていたが法王ヨハネ・パウロ2世の任命を受け補佐司教としてブエノスアイレスに戻り、立ち退きを迫られた貧困地区の住民たちに寄り添うこととなる―。
2013年、枢機卿となっていたベルゴリオは質素な自宅アパートでラジオから法王ベネディクト16世の辞任表明を聴く。そして、コンクラーベに参加するためにバチカンへと向かった。

引用終了

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ネタバレのようなことはここには書きませんが、映画は時代背景の説明なしに進むので、あらかじめ知っておいたほうがいいことがいくつかあります。

教皇フランシスコは南米のアルゼンチン出身であること。
アメリカ大陸(南北アメリカ)出身者が教皇になるのは歴史上初めてであること。
1976~82年、アルゼンチンはビデラ大統領の軍事独裁政権下にあった、ということ。(何の説明もなくペロンという名前が出てきますが、前の大統領の名です。)
ビデラ軍事政権下に、軍による暴行、連行、拷問、超法規の殺害などが多発し、3万人以上の国民が殺されたり行方不明になったりした、ということ。3万人以上ですよ! 3万人以上のアルゼンチン人が、戦前の日本の大杉栄・伊藤野枝夫妻や小林多喜二みたいに公権力によって超法規的に抹殺された!
軍政下のアルゼンチンでは、薬物を注射されて生きたまま飛行機から海に投げ捨てられた人たちもいました。おびただしい遺体が海岸に流れ着いたそうです。
(ネット上の「汚い戦争」、「死の飛行 アルゼンチン」参照。)
「死の飛行」のことはこの映画で初めて知りました。それもささいなことで連行され、二度と帰ることのない「死の飛行」の飛行機に乗せられたのです。

ドイツのヒトラー、ソ連のスターリン、カンボジアのポルポトらは有名ですが、アルゼンチンのビデラ大統領とその部下たちによる拷問や大量殺人は日本ではあまり知られていません。

後に教皇フランシスコとなるベルゴリオ神父はそういう時代を生きたのです。
ベルゴリオ神父は軍政に反対しなかったという批判もありますが、もしはっきりと反対していたら殺されていたことでしょう。自分が殺されるだけではなく、関係者(教会や修道会の人たち)も巻き込まれたかもしれません。
そういう時代に、彼は、難しい舵取りをしながら、良心に従って行動した人だと思います。

(伊藤一滴)